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2006/04/10

硬さと堅さ…翡翠の謎

 ようやく厳しい営業日程も終えて、ホッと一息ついている。丁度、二週間前に体調を崩して、3月27日の営業を4月の2日にずらしたため、この二週間、完全な隔勤になり、体を休めることもできず、アップアップの日々が続いていたのだ。
 日曜日は、久しぶりに翌日が休みという状況。これは二週間ぶりだ。体が喜んでいる。
 日曜日の日中は、ひたすら寝て過ごした。夕方くらいになって、ようやく溜まった疲れが少し抜けた感じがする。「あの日の空の青さは何だったのか。五つの小学校を転々とした少年期、都市が全焼する空襲の夜の美しさ、軍人だった父の晩年、戦後の歌や映画、文学という女人への恋…。『北日本新聞』連載をまとめる」という、久世光彦著の『時を呼ぶ声』(立風書房)を手にしつつ、居眠りする愉悦も味わえた(本書については後日、感想文を書くかも)。

Wasurenagusa1

→ 「勿忘草 ( わすれなぐさ )」さんサイトで見つけた、「花篝(はなかがり)」をイメージさせる、あまりに素敵な画像です。

朧なる春の艶夜(あでよ)に惑ふとも
        たわぶれてみん君が袂に

 また、小林 達雄氏編の『古代翡翠文化の謎を探る』(学生社)を金曜日の夜から読み始めている。
 なんだか、今時、珍しいほどに堅苦しいというか、窮屈な題名で、たまたま「翡翠(ヒスイ)」に関心があったから手を出したけれど、そうでなかったら、題名だけで敬遠したかもしれない。
 また、内容も、「古代日本のヒスイ文化はなぜ消えたか? 翡翠とは何か、縄文時代の玉文化の展開や翡翠をめぐる生産と交易など、姿を消した謎のヒスイ文化の全貌を解き明かす」と、やはり研究者や関係者でなければ、読む人、その以前に手を出す人も限られている、かもしれない。
 編者の小林達雄氏を「ビーケーワン:古代翡翠文化の謎を探る」からの転記の形で紹介しておくと、「1937年新潟県生まれ。国学院大学大学院博士課程修了。文化庁文化財調査官を経て、国学院大学文学部教授、新潟県立歴史博物館館長。浜田青陵賞受賞。著書に「縄文土器の研究」など」とある。

小生が何ゆえ柄にもなく、自分で贔屓目に省みても似合いそうにない翡翠(ヒスイ)に関心を抱いているのか。

 仰々しく言えば、古代史や考古学への関心だが、同時にそうしたこと以上に、我が富山は朝日町の海辺でヒスイが採れるということで、帰省やドライブの折、車やオートバイでその海岸脇を通るたびに、ああ、あの海辺を探り歩けばヒスイに巡り会えるかも、などと毎度のように思う。
 さらに、朝日町のヒスイは、どうやら本場の糸魚川から産出するヒスイが海流などの関係で流れ着いたものと、後日になって知った(あるいは、最初にヒスイというと糸魚川と条件反射ほどに思い込んでいたものが、実は富山は朝日町でも採れることを知って、ちょっと嬉しくなったという順番だったかもしれない)のだった。

 ガキの頃、ドライブで朝日町か糸魚川下流へ行き(原産地は姫川や青海川の上流で大きな原石がゴロゴロしているとか?! 小生はそこまで行ったことがない!)、海辺で目を皿にしてヒスイを探し回ったこともあったような。
 
 ヒスイに限らず、珍しい石や鉱物には男の子ならガキの頃から関心を抱いてしまうものではないか。何も金の塊だけではなく、(銀だったらいいなと思いつつ)鉛の小さな塊、木の化石、水晶(モドキ)…。
 小学生の高学年の頃だったと思うが、何かの折りに貰った一滴ほどの水銀を机の中で弄くっていたことが妙に思い出される。きっと体に悪かったはずだが。
 昨年だったか、オリヴァー・サックス著の『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』(斉藤 隆央訳、早川書房)なるエッセイを図書館で見つけ、愛惜するような思いで読んだことがある。「『レナードの朝』や『火星の人類学者』など、優れた医学エッセイで知られる脳神経科医オリヴァー・サックスが化学に心酔した少年時代を振り返ったエッセイ集」だ。
19世紀半ばにロシアからイギリスに移住したユダヤ人の孫として生まれた著者は、献身的な医者を両親に持ち、化学、物理、生物学に通じる叔父や叔母のいる理系一家で育った。なかでも、とりわけ興味をそそられたのが金属だった。周囲の薫陶を受けつつ、やがて少年は華麗な変化を巻き起こす物質たちの虜(とりこ)になってゆく」という。
 小生など到底、そこまで夢中にはなれなかったし、探求する精神もなかっただけに、ああ、優れた感性と想像力と探究心のある子供はそこまでやるんだと半ば英雄視する思いさえ本書を通じてオリヴァー・サックスに抱いてしまった。彼の本には“センス・オブ・ワンダー”が満ち溢れているのだ。

 無機で沈黙を固く守る鉱物や化石、物質の塊。
 黒曜石に関心を持つのも、古代史(日本に限れば有史以前だが)への関心からだけではなく、石そのものの持つ豊かな神秘性と想像力を掻き立てる何処までも不可思議な輝きにある。
 拙稿:「黒曜石から古今東西を想う」や「堤隆 著『黒曜石 3万年の旅』
 密かに(?)愛惜するサイトとして「黒曜石の世界」がある。

 黒曜石や翡翠を通じて分かるのは、縄文の昔から既に日本列島に居住する人々が大陸へ海へと広範な交易活動を展開していたことだ。
 北海道や東北が文化の尽き果てる最果ての地だというイメージは、古代史を綴った後発の支配者の描いた像に過ぎない。中国や朝鮮由来の文化を至上とする、当時としての先進文化を誇る連中の支配の及ばない地域を鄙びた地として貶めたかったに過ぎない。三内丸山遺跡の凄さは記憶に新しいと思うが、北海道にも想像を超えて数多くの遺跡が発見されている。北海道はオホーツクを始め北の文化圏の中心(少なくとも焦点の一つ)だった。蝦夷地どころの話ではないのである。

 話を翡翠に戻す。糸魚川や海辺である青海の翡翠が有名だけれど、何も翡翠は糸魚川でだけ産出されるわけではない。類似する翡翠に限っても十勝産、長崎産と縄文の世にも見つかっている。
 なのに、古代、遡っては縄文の頃からも既に糸魚川の翡翠が高名であり(今風に言えばブランド力を持ち)、且つ、埋葬される際の副葬品の一部として翡翠の加工品(首飾りや耳飾り、そして特に勾玉など)が見出されるが、それらは必ずのように、糸魚川産の、また、糸魚川近辺で加工された翡翠なのだった。
 では、糸魚川で何ゆえ翡翠を加工する技術が高まったのか、技術は学びえるものだし、他の翡翠を産出しえる地であっても、加工技術を獲得して加工品を交易に供してもいいではないか。
 そうした謎は解き明かされているとは言い難いようで、とにかく糸魚川の翡翠が権威を持っていたという事実が厳然としてある。
 同時に、弥生時代の到来に伴ってヒスイ文化は衰退の一途を辿り、古墳時代は細々と命脈を保ったものの、奈良時代にはほぼ消滅してしまう。大陸渡来の新しい文化を担った勢力・権力により縄文文化も縄文由来の人も劣位のモノとして圧倒され封殺されていったわけである。

 縄文の世において、糸魚川のヒスイが信仰対象かのように珍重された、そうした謎を解く鍵となるかもしれないヒントはある。
 それは表題にも示した翡翠という鉱物の持つ特有の堅さと硬さである。
 上で男の子ならガキの頃に鉱物など石に関心を抱くと書いた。その際の鉱物は、大概、決して宝飾品の原石としての石・鉱物ではない。水晶の原石も磨けば美しくなると思ったりしても、それが市場の価値を持つようになるとか、宝石としての輝きを持つといった方向性へは必ずしも向かわない。
 磨けば宝石になる原石としての石ではなく、もっと石そのものの持つ手触り感、想像と夢想とが凝縮されたような不可思議感そのもの、茫漠たる時間の結晶そのものが今、手中にあるという感覚なのである。
 一方、宝石としての石の魅力も分かる。が、大概の男性は経済面を別にしたらダイヤモンドへの関心はそれほど抱かない(金=ゴールドについては、別儀で、違う角度から所有感を分析する余地がたっぷりある)。女性とはその点でまるで違う感覚が何処かにあるようだ。
 それにしても、ダイヤモンドの輝きは不可思議な永遠性を感じる。微妙な確度の違いで煌き具合も色合いも際限もなく変える。それでいてダイヤモンドはダイヤモンドであり、なんら自らの形を変えることはない。ここには化粧する心理と何処か重なる(ようでいて完全には重ならない)仮象の心理学がありそうだ。

 本書『古代翡翠文化の謎を探る』から引用する。
「石をめでるという、そのめでる基準といいましょうか、根拠は、どういうところにあるのだるうか。見た目が美しい、人の目を引くということ、それから、簡単には壊れないぞというその安定感といいましょうか、それが要求される。さらに、そう簡単にやすやすと手に入るものではないのだということ、入手するためには、相当の困難を伴うのだというその珍しさ加減」、つまり、装飾品(の原石)としての石(翡翠)の魅力とは要約すると「美・珍・硬」であるという。
 このうち、「美・珍」は容易に理解できるだろう。が、「珍」とも無縁ではないが、「硬」なる点についてはどうか。

 再び、本書から引用する:
 

ヒスイはですね、堅いけれども硬くない、そういったものです。禅問答みたいですけども、堅いけれども硬くないのがヒスイの特徴なんですね。日本語の「かたい」というのは、「硬さ」ですね。モース硬度でいうと、六・五から七です。この硬度は、宝石としては最低クラスです。たとえば石英は七なんですね。長石は六です。石英と長石は、どこにでもあるような鉱物ですから、それと同じぐらいの硬さしかないということは、傷がつきやすいということです。それでは、どうして宝石になれたのかということですが、それはもう一つの「かたさ」なんです。
 それは、「堅さ」ですね。これは、いい換えると壊れにくさ、加工しにくさなんです。こちらのほうは、じつはダイヤモンドをしのぐくらいの堅さがあるのです。ですからヒスイは堅いけれども硬くない、そういったものです。

 この辺りの硬さと堅さ、加工は難しいが特殊な技術を使えば古代においても不可能ではない微妙な硬度に(糸魚川近辺の)翡翠が珍重された秘密を解く鍵がありそうだ。糸魚川の辺りにて、誰かがそれまでは困難だった翡翠の加工技術を発見し体得したのだ。
 あるいは秘儀に類するほどの技(わざ)であったのか。
 この点について、本書では更に掘り下げてある。興味のある方は本書を繙いてみて欲しい。

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コメント

翡翠の薀蓄、読ませていただきました。
硬くて堅くない、そんな宝石の魅力を知るにつけ、
我が身のなんと脆弱で、意思薄弱である事を恥じるばかりです。
輝く宝石のようになりたいと思いつつ、
磨いても光らないただの石で終わってしまうだろうこの人生。
それも自身の力であり、素材が素材だから仕方のないことで、
容認せざるをえませんが・・・。

花篝の画像を、素敵な歌を添えて紹介していただき、ありがとうございます。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/10 08:15

勿忘草さん、コメント、ありがとう。画像を使わせていただいたこと、感謝の言葉もありません。活字で一杯で敬遠されがちの小生のサイト、せめて素敵な画像を見ていただくことで、サイトを覗いた甲斐があったと思ってくれたら幸いです。

小生は宝石どころか原石でもない。路傍の石ころです。
勿忘草さんはダンスのインストラクターとして人を磨き輝かせる手助けをされている。その一方、素敵なサイトまで運営されていて、来訪者も多い。凄いと思います。
拙いサイトですが、これからもよろしくお願いします。

投稿: やいっち | 2006/04/10 13:57

子供の頃。砂利から見付けた、ナンでも無い小さな石。集めてた事を思い出しました♪宝石も大好きですが。。意外にも光物は好き(笑)
硬さと堅さですか~翡翠は加工しやすいのかと思ってました!珍重されたわけですね。

投稿: ちゃり | 2006/04/10 23:01

ちゃりさん、浜辺などで素敵な石を拾って、大事にすることってありましたよね。貝殻とか。
ジャン・コクトー(堀口大学訳)の「私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」を思い出したりして。

翡翠は、古代(縄文時代中期から後期)の人々にとっては、加工が難しかったようです。それを糸魚川近辺の誰かが加工に成功した。特に難しかったのは穿孔です。穴を上手く開けるのが至難の業だったわけです。できたのが勾玉など。
技術ですね。当時としては最先端の技術力を糸魚川の職人(今風に言えば技術者)が獲得したわけです。
が、弥生時代以降、大陸の先進文化(技術)を持つ人々が渡来して縄文人を圧倒してしまってヒスイ文化は衰退の一途を辿ったのです。

投稿: やいっち | 2006/04/11 03:09

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