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2006/04/27

悪魔に仕える牧師

 リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』(垂水 雄二訳、早川書房)を過日、読了した。
 題名がおどろおどろしいようで、何処かトンでも本っぽく、ちょっと手が出しづらかった。原題は、「A Devil's Chaplain」で、直訳すると、「悪魔の礼拝堂牧師(教戒師)」だから、最近の本の題名のようにとにかく人目を惹かんがために出版社側が際もの的に付したわけではなさそう。
 レビューによると、「タイトルの「悪魔に仕える牧師」は、ダーウィンが知人宛に書いた書簡の中でつ かわれた言葉で、進化論という無神論的な、自然のいとなみに「神」は関係ないと いう立場を押しだそうとした自分が、信心深い社会には「悪魔に仕える牧師」のよ うに映るだろう、という思いから記された言葉のよう」とのことで、まあ、「利己的な遺伝子」「ミーム」の唱導者にして、練達の科学啓蒙家でもあるドーキ ンス待望の新作エッセイ集」なのだから、訳の分からない本のわけがないのである。

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→ 26日の夜半過ぎ、丑三つ時も過ぎた頃、都内某所の公園脇にて休憩。これって花水木だろうか。花びらや葉っぱ越しにチラッと見えるのは我が愛車。

 本書において、リチャード・ドーキンスは反宗教の立場を一層、鮮明にしている。場合によってはそこまで反宗教的である必要はないのではと思えたりもする。
 が、たとえば、世界の先進国であり民主主義国の牙城でもあるはずのアメリカにおいては、20世紀初頭以来、過去、「進化論裁判」が幾度も行われてきたお国柄という一面を持つ。
 これは、「アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことを、進化論裁判という」もの。
 背景に、「進化論とキリスト教保守派の対立は、科学と宗教の対立としてしばしば取りあげられる。特にアメリカ合衆国における反進化論運動はその顕著な例として知られている。アメリカは伝統的に聖書を重視するプロテスタントの信者が多いが、なかでも聖書の字句を一字一句正しいものとして扱う福音派の保守派がその活動の中心となっており、アメリカにおけるキリスト教原理主義(キリスト教根本主義)の潮流を形成している。」ことなどがある。
 その頑迷さは比較的温和な宗教的土壌というか気質を持っている今の日本には想像も付かないものがあるようだ。実感を持てないというべきか。
 聖書で禁じられている(?)妊娠中絶を行う産婦人科医が脅されたり殺害されたりする過激な教条主義。
 そういった土壌を持つアメリカで進化論を研究し啓蒙するのは、とてつもなく大変な労苦を伴うのだろうし、当然ながら進化論を是とする立場に立つなら、徹底した研究と理論武装が必要不可欠なわけで、そうした進化論の学者の筆頭の一人がリチャード・ドーキンスなのである。

『利己的な遺伝子』などは題名からして遺伝子至上主義であるかのような印象を読み手に、むしろ(そして多くの人は読まないで評判に流されがちであることを思うと)反遺伝子主義(であるかのような)人間は遺伝子のみにて決定されているわけじゃないよ、という方に、どうだい、DNAに拘ってしまうと「利己的な遺伝子」的な発想の虜になってしまうよと、題名だけが一人歩きさせられてしまいかねない(実際に未だにそのようでもある)。

 頑迷固陋で旧弊な(しかし自分たちは福音的でいい意味で保守的なのだと思い込んでいる)連中を相手にするとき、理屈も理論も通用しない…と、あっさり匙を投げるのが日本的だが、そこは欧米人、一層、理論という武器に磨きをかけるわけである。

進化論裁判」にあるように、「聖書の記述がすべて字義通りに正しいとする立場では、創世記に書かれていることも歴史的事実として扱われる。人はヤハヴェによって創造され、すべての生き物は人間のためにヤハヴェが配剤し、世界は紀元前4004年前に創造されたものなのである(この考え方を創造論といい、これを正しいと主張する人を創造論者という)。したがって、自然界の進化の結果として人が誕生したという結論を導く進化論は、これらの人々にとって言語道断の代物であった」
 ある意味、聖書と戦っているかのような厳しい戦いを強いられるわけである。少なくとも、反進化論、徹底福音的な連中からしたらリチャード・ドーキンスらは聖書の教えに歯向かう不届き千万な奴であるわけだ。
 そして、本書の中においても特に「創造論」という「人はヤハヴェによって創造され、すべての生き物は人間のためにヤハヴェが配剤し、世界は紀元前4004年前に創造されたものなのである」といった考え方を敵として徹底抗戦している。
 思えば、進化論の結果(DNAの解析の結果)、人とサルとは遺伝子的にはほとんど差異がないことが分かってきている。それだけではなく、人と他の哺乳類とも近縁関係にあるし、そもそも聖書で悪者とされている蛇を含めた爬虫類とだって、基本的には同一基盤上にある仲間であることを示している。
 蛇どころかヒルやダーウィンが生涯最後の研究対象にしたミミズにしても、単細胞生物にしても、動物だろうが植物だろうが、仲間である。
 そんなことがあってたまるか。せめて進化の最先端が人間だというのならまだしも、最近の認識ではウイルスも原生動物も人間様も今現在、同じ地球環境上に生きている限りにおいては(それが成層圏だろうが深海の底だろうが六本木ヒルズの上層階に居住していようが)この地球環境に適応しあるいは日々変化する環境に追随せんとする戦友(同じ進化の突端)であるわけである。
 最近の研究だと、人類は数百万年前にサルから分科したという。生物の数十億年の歴史の中の数百万年を長いと見るか短いと見るか。
 さらに、現在地球上を闊歩している人類の直接の先祖は約二十万年前にアフリカで生れたというのはほぼ定説になっている(正確には依然として仮説(ミトコンドリアイブ仮説)のようだ)二十万年
 そしてほぼ十万年前、なんらかの理由で先祖の一部が故郷であるアフリカの地を後にして、世界へと旅立って行った。
 いずれにしても、地球上の現在を共有している人類は、人間は、全てアフリカ人といって過言じゃないわけだ。
 が、十数万年のうちに肌の色や体型が変わり、紙の色や見かけが変わり、風俗習慣が独自の変化を遂げ、あまつさえ宗教が生れた。
 一旦、宗教が生れると、今度はその宗教が人間を縛る。大分類しても世界の四大宗教がそれぞれの立場を主張し固執する。教えを大切にするだけならまだしも、違う教えを敵対視し、実際に敵として圧倒しよう改宗させよう、それがだめなら殲滅してしまおうとする。
 
 リチャード・ドーキンスは科学的思考を至上とする。それはそれでいい。科学者が内心において宗教(的信念)を大事にするだけならともかく、科学より宗教的原理や教条を旗印にされたら困り者である。
 が、彼ドーキンスは科学的思考至上主義とも映りかねないのである。
 けれど、科学の戦士たるもの、仕方がないのかもしれない。まあまあ穏便に、という穏当な立場を是とできるのも、科学の最先端に立って研究していないし、まして創造論や宗教的原理主義者の猛烈な反発に直面していないものの気楽さに過ぎないのだろう。

 カール・セーガンという日本でも著名だった科学者を思い出す。
「人はなぜ似非科学(=トンデモ話)に騙されるのか。超能力、火星人、心霊術…ロズウェル事件やカルロス事件など数々の実例を挙げ、エセ科学の「闇」を徹底的に撃つ」という彼の最後のメッセージ本である『科学と悪霊を語る』(青木 薫訳、新潮社)において懸命に科学的態度の大切さを唱えていた。
 知的に誠実たらんとする科学者の悲痛な使命というべきか。

 創造論を是とする連中は似非科学が好きである。人間の弱さは、ついそういった神秘的傾向に走り勝ちなのだ。人間がそこらのウイルスと同じ基盤に立っているなどとは毫も信じられないのだ。
 神秘思想、神秘思考は、あらゆる現象(自然現象であれ社会現象であれ、政治上の出来事であれ)の背後に目には見えない力の作用(要するに企み、策謀…)を想定してしまう。
 その上であらゆる現象を(自分だけが気づいている説明原理で)説明し尽くしてしまう。自分に分からないことがあるということ、自分の能力では理解不能なことがありえるということを認めたくないという心理が厳然として巣食っている。
 分かりたい、且つ、現に分かっていると思いたいのだ。分かっていると思っているその根拠のない根拠を失ってしまうと自分のアイデンティティが失われると思い込んでいるわけである。
 が、真の(多分…小生が単純にそう思っているだけなのかもしれないが)科学的思考や態度というのは自然に対する謙虚さと、しかし論理と実証とが齎す結果や結論は受け入れる率直と、自分がそうした立場にあることを蛮人の前で認め且つ主張できる勇気だろうと思っている。
 自然を探求する。その自然研究と探求の成果が万巻の書に記されている。あるいは自然の完全なる解明はあと一歩のところまで来ているかのようでもある。
 が、恐らくは探求の道は遥かであって、無限ではないとしても際限がないのではなかろうか。自然の懐はどこまでも深く広いようでもある。

 人間がサルや蛇や原生動物と一緒の土壌にあり同じ生命原理の基盤上に並列して現に生きている。生命の神秘もあるいは解き明かされる可能性がある。
 けれど、「利己的な遺伝子」にも関わらず人間の心の世界の広さはどうだろう(ミームのことにも触れたいが後日する)。遺伝子に制御されつつその基盤上に文化と精神の花を咲かせている。
 ダニエル・デネット著の『解明される意識』(山口泰司訳、青土社)や、特に『ダーウィンの危険な思想』(石川幹人・大崎博・久保田俊彦・斎藤孝訳、青土社)などを読むと、ダーウィン思想の根幹にある「アルゴリズムのプロセス」「デザイン形成の論理」、ダーウィンの思想の実は今もって十分には理解されていない危険性(可能性)を痛感させられる。
 アルゴリズムのプロセスが解明されたからといって、人間の尊厳が脅かされるわけではなく、逆にリアルに人間や動植物や自然を見極めることで、創造論や神秘主義に惑わされることのない違った可能性を予感させられるから不思議だ。

 堅苦しい話になったが、本書『悪魔に仕える牧師』(垂水 雄二訳、早川書房)は、親しい友人 への惜別の辞などがあって、実に親しみやすい面もある。
 世上、リチャード・ドーキンスとスティーヴン・ジェイ グールド(彼の本も小生は愛読してきた)とは不倶戴天の敵とされているが、あくまで論敵であり長年のライバルなのであって、実は「節度ある交友関係」があったことが示されて興味深い。
 とはいえ、必ずしも読みやすいとは言えないかもしれない。歯ごたえが十分(以上)にある。
 けれど、進化論を論じるのなら、一度は目を通してもらいたい(特に『はだかの起原  不適者は生きのびる』(木楽舎)の著者である島 泰三氏には是非!)


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