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2006/04/08

よそにぞ消ゆる春燈(はるともし)

季題【季語】紹介 【4月の季題(季語)一例】」をぼんやり眺めていた。今日はどの季語を扱おうか。が、どうにも焦点が定まらない。頭が朧月のようになっている。
 そのうち、「春の海」はどうかという気になった。そう、与謝 蕪村の有名な句、「春の海ひねもすのたりのたりかな」が脳裏の片隅に浮かんだ。宮城道雄(1894-1956)が作曲した筝曲の「春の海」もある。小生の初恋の人が琴を奏でる人だったっけ。旧姓が「菅」だというのも、今日(既に昨日となったが)の民主党の代表選挙で敗れた菅直人氏の話題につなげようかとも思ったが、少々無理があるので断念。「春の海」は、イメージ的な広がりもあるし、後日、改めて採り上げたい季語である。
 ついで目に飛び込んできたのが表題にある「春燈(はるともし)」である。
俳句歳時記の部屋」の「春の季語(行事・暮らし編-種類順) 春燈」によると、類義語に「春灯 春の灯 春の燭」があり、「しゅんとう」とも読むという。
 意味合いは、「はんなりとした春の灯火」とか。

Rengesakura

→ 蓮華草さんから戴いた桜の画像です。花冷えとはいえ、関西も桜花爛漫の春を迎えているとか。

 まあ、文字からして想像できる意味である。また、この表現や文字からして、イメージ的に暖かみがあり、どこか艶冶(えんや)な感じも漂ってくる。
 冬の灯火というと、厳しい寒さの雪の原に小さく灯る民家の明かりで、暖かみは勿論あるのだが、自分は外に居るがゆえに橙色の窓灯りが恋しい、人肌が恋しい、ということになる。
 その点、「春燈」は、そこに他の人がいてもいなくても構わない。いなくても、自分の体からほんのり体臭と熱気とが発せられる。男なら男が想像する、あるいは関心を持って覗いているその部屋(空間)にいるのは妙齢の女であり、一人で何をしているのか、床しくてならない。女なら、その逆の構図であるか。

「春燈」はまた、何処か「春眠」と雰囲気的に近いような気がする。決して夜長というわけではないのだが、日中、春の風の温みについ油断して思わず知らずウトウトしてしまい、その結果、夜が更けても眠れないのである。訳もなく身も心も悶々としてくる。啓蟄の春なのだ。体も心も緩む。体の芯から何かが芽生え始めている。疼きだしている。ウズウズしている。
 眠れない!
 そこで、寝床の脇にある本でも読もうかと、一旦は消した部屋の灯りを点けてみるのだが、本を手にしても一向、集中できない。そう、体が求めるのは何かもっと他のものだ。といって、では、何かと改めて問われると、自分でも分からない。
 それだから、また、一層、気鬱めいた息苦しさに滅入るというわけだ。

YS2001のホームページ」の「春燈(しゅんとう)」の項を覗くと、「明るく華やいだ雰囲気のする春の夜の燈火」と説明されている。上での「はんなりとした春の灯火」とは若干、ニュアンスが違うようだ。

優嵐歳時記【秋の燈】」なる頁を覗くと、「秋の燈」を巡ってのことだが、「秋の夜の燈火です。「春の燈」には艶めいた感じ、「秋の燈」には澄んだ感じがあります。春燈には遊びを秋燈には学問のイメージがします」とある。
 ここでも、「春の燈」には「艶めいた感じ」があるとしている。
 春(の灯)は、恐らくは夜桜を照らす灯りという連想も働いてのことだろう、「明るく華やいだ雰囲気」もないではないが、やはり、人気の多い賑やかな感じより、人影も疎らになった春の暮れの桜並木の下を一人の自分が誰かへの思いを秘めながら、それとも、宵闇の何処かの町角でふと見かけた誰かの人影、ほんの一瞬、灯火に姿が過(よ)ぎっただけの、だからこそ尚のこと気になってならない誰かのことが、一体、あの人は誰なのかと慕わしく胸苦しくてならない、そんな艶っぽさを連想させてしまう。

 それにしても、「春灯」のもとであの人は何をしているのか。そうだ、きっと手紙をしたためているのに違いないのだ。
 自分宛の手紙…ではないのだろう。あの人が思いを寄せているのは一体、誰なのか。
 春の夜の夢は、夏の夜の燃え盛る焔のようには激しくはないかもしれないが、表は灰のように見えても、その実、熾火(おきび)のように燃え立つ情念の塊が胸の痞(つか)えとなって、命を次第次第に擦り減らさせ消耗させていく。
 そろそろ「春灯」なる季語の織り込まれた句を幾つか掲げておこう:
春の灯や女は持たぬのどぼとけ   日野草城
春燈や笠の上の闇深からず   米澤吾亦紅
春燈にひとりの奈落ありて坐す   野澤節子
 
 句ではないが、ネットで以下の和歌を見つけた:

深き夜を花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春の釭(ともしび)   藤原定家

 この歌の鑑賞は、「山頭火つれづれ 深き夜を花と月とにあかしつつ‥‥」を覗いてみて欲しい。
「まことに技巧的な作品群中、唯美的な眺めの際立つ一首。要は「よそにぞ」、この世の外、異次元に消える春燈を、作者は宴の席から眼を閉じたまま透視する。この世はよそ、うつつにしてまた非在の境」という。技巧もここまでくると凄まじいと思わせられるではないか。


春の灯の映す影さえ恋しかり
春灯に浮かぶ人影重ならん
春の灯に君を慕いて夜を明かす
春の灯に白き手紙の眩しかり
春灯に突っ伏して見る君影か
春の灯や海かとばかり涎かな

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コメント

我が家の近くの桜はほとんど散り、代わりに芽を出した葉にその命を託すかのように、最後の力を振り絞って咲いている残花が名残惜しそう。
春燈に照らされたそんな花も想像すると、名残の花もまた美しく思われます。
我が花篝の記事にそんな写真も付け加えてみました。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/08 07:37

花篝の記事の写真、観させていただきました。まさに春の朧なる雰囲気が漂っていますね。画像を拝借して我がサイトでも飾ってみたくなります。
今日辺り、ホントに最後の花散らしの雨になりそう。仕事しながら、見納めしてきますね。

投稿: やいっち | 2006/04/08 09:35

僕の画像は全くの素人写真です。
それでもよろしければどうぞお使いください。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/08 23:19

与謝蕪村と聞いてとたんに森本哲郎さんの大著を思い出しました。
僕は高校時代森本さんの「そして文明は歩む」にはまって哲学を志したのです。
森本さんは哲学科ですが守備範囲はものすごく広いですね。
蕪村の本があれば、世界中を旅して紀行論というか文明論も著す。
さいきんのスケールの小さな学者さんも見習うといい。

投稿: oki | 2006/04/09 12:32

勿忘草さん、昨日はソメイヨシノについては最後の花見をしつつの仕事となりました。といっても、桜見物に出かける人の姿は少なく、暇すぎて疲れてしまった。
その代わり、八重桜がこれから楽しみ。小生は八重桜のほうが色合いも良くて好きなのです。

画像、どれも素敵だったり楽しかったりしますね。六義園(りくぎえん)の庭園の夜景は、絶品でした:
http://blog.goo.ne.jp/dance-fuji/e/e78e27788b3435c21b99570a81bab47e

投稿: やいっち | 2006/04/09 15:25

oki さん、小生も森本哲郎氏のしなやかな感性を感じさせる文章は好きです。
蕪村というと、『詩人 与謝蕪村の世界』(講談社学術文庫)か『月は東に―蕪村の夢 漱石の幻』(新潮文庫)が比較的最近のものかな。他にも『詩人与謝蕪村の世界』も書いている。oki さんが読まれ哲学を志す切っ掛けとなったという『そして文明は歩む』は、「多・一・二・ゼロ・三・万と、地球上に生れた様々な文明は、その神の数によつて六つに分類できる。世界文明の根源を改めて掘り起す新文明論」とあって、面白そう。こんな本を若くして読んでおられたのですね。

十年ほど前だったか、小生が処女出版した時、小生の文章の拙さに辟易したものか、森本哲郎氏の(題名は忘れた)文章読本ともいうべき本をさりげなく(?)読まされたものです。
確かに『化石の夢』(新風社)は、自分としては敢えて哲学詩風に表現した部分が多いから、読むほうとしては辛かったのも分かるような。

投稿: やいっち | 2006/04/09 15:42

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