愛国心だってさ
政治向きのことはよく分からないし、まして教育問題など小生に語る知識も経験もない。
一応は大学を卒業したが、間違っても教師にはなるまいと思っていた。人に教える立場など、自分にはありえないと思っていたし。
自分については、勉強するのも嫌いだが、人に教えるのはもっと苦手で面倒くさいと思ってしまう人間なのだと理解している。
とは重々分かっていても、最低限のことはメモしておきたい。
→ 4月17日、都内某所にある公園にて。ボンボンのような八重桜だった。今はもう見る影もない。それにしても、桜が武の象徴の意味合いが篭められた花だという認識が世間では薄い…。
教育の荒廃、人心の荒廃が言われる。本当だろうか。
一部では日教組が悪の元凶のように言われたりもする。
とんでもないことだ。少年犯罪が増加したと言われる。本当だろうか。
実際には少年犯罪の増加はそれほどではなく(戦後の一時期は別としても)、マスコミの採り上げ方が事々しいのではないか(他にワイドショーのネタがないのか、芸がないのか、それとも、裏に教育が荒廃していることを印象付けたい、教育基本法改正を意図する保守やタカ派の意向が働いているのか)。
責任転嫁も甚だしい。
仮に教育の荒廃という実情があるというのなら、国旗・国歌の起立斉唱を強制する頑迷固陋な一部の保守反動の類いにある、そういった連中がテレビなどのワイドショーに恥ずかしげもなく登場する、そんな寒々しい惨状のほうが余程、蓮っ葉で軽薄な言動が良しとされる風潮の元凶であり結果なのではないかと思えたりするが、ま、堂々巡りになるからここらで犯人探しは止めておこう。
(既に早々と、この拙稿に「朝日新聞に「愛国心」を語る資格はない (新聞記事・ニュース批評@ブログ)」といったトラックバックがありがたくも付いている。異見も歓迎なので、参考に削除しないで残しておく。)
「小泉内閣は教育基本法の改正案を国会に提出した」とか。「与党側は連休明けに特別委員会を衆院に設け、審議を急ぐ方針」とも(朝日新聞29日)
「中日新聞」の「教育基本法、前文に「公共の精神尊重」 与党が改正案を正式決定」によると、「自民、公明両党は十三日午後、幹事長、政調会長らでつくる教育基本法改正協議会を開き、与党検討会でまとめた改正案全文を正式に決定した」とかで、これが、いよいよ国会の場で論議されるというわけだ。
「法制定の目的を明記した前文には、現行法が個人の権利尊重に偏りつつあるとの指摘を受け、「公共の精神の尊重」を明記。
「日本国憲法の精神にのっとり」との表現は、そのまま残した。」というが、政府与党(特に自民党)は、「日本国憲法」の改正をも狙っているのだから、改正後の日本国憲法次第ではどんな理念のもとの教育基本法となるか予断を許さないわけで、あくまで気休めに過ぎないようだ。
改正点・追加した点はいろいろあるが、改正の眼目であり小生としても気になるのは、愛国心に関わる事項である。
「「教育の目標」の条文では「我が国と郷土を愛する」などの表現で「愛国心」の理念を盛り込んだほか、知・徳・体の育成、環境保全に寄与する態度なども明記した。」とか。
改正案の骨子は、愛国心に留意して、「教育は、我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うことなどの目標を達成するよう行う」とあるようだ。
「教育基本法」を読めば分かるように、第1条には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあるように、公共心の涵養は謳っているのだが。
そうやら自主的精神が目障りのようだ。自分で物事を考える人間は困るのだろう。
それにしても、なぜ今、愛国心なのだろう。なるほど直接的には愛国心とは謳ってないのだとしても、そこに焦点が合っていることは否めない。
「他国を尊重し」などといいながら、先のイラクへの侵略戦争においては、大量破壊兵器がある云々と言いがかり(ヤクザで言えば因縁、いちゃもん、難癖)をつけてアメリカが引き起こした戦争に追随し、フセイン政権を倒し、軍人や民間人の区別など一切なく殺戮しまくったではないか。
その後、イラク内外で自爆テロが頻発し死傷者が多数見られる、そんな戦争後の実情の報道への日本国内での無関心ぶり。他国の政権を転覆させておいて、あとは知らない…。
これって無責任の極みじゃないのか。
この行為の何処に「他国を尊重」する精神が見られるというのか。
それとも、先のイラク戦争に我国政府にはそうした精神がなかったから、反省の意味も篭めて「他国を尊重」という文言を敢えて書き加える事項だというのだろうか。
愛国心。中国への侵略戦争、韓国の植民地支配、その反省もなく、従軍慰安婦問題を実質棚上げにし、強制連行問題はおざなりに対処したままに、一民間人ならともかく国家の指導者がノウノウと靖国神社に参拝する。そうした指導者を是とする国家を国は愛せよという。
水俣病を起こした企業は守っても(金融危機なら銀行は国の血液に当たると言い募って守っても)被害者住民は国家や県などの行政(そこに悲しくも一部住民までが加わって)によってその人権が蹂躙され続けてきた。被害者認定も狭き門のままである。
被害者かどうか怪しいなら、認定基準なる関門を狭き門にして認定の難しい人は除外してしまえ…。疑わしきは罰せずという発想があるが、水俣病の被害者・患者は犯罪者だというのだろうか。
逆ではないか。万が一にも直接間接にチッソ水俣工場の廃棄した有毒物質に汚染されての健康異常でないひとが些少とも含まれてでも、水俣病の可能性のある人は一人たりとも救済の網から漏らさないことこそ大事なのではないか。
疑わしきも漏らさず、が肝要なのではないか。
「[水俣病]「率直におわび」…政府が首相談話を発表」というニュースが小さく報じられた。拉致被害者問題の報道で掻き消された形になったが(こちらも大切な問題の一つではあろうが)、「政府は28日午前、水俣病公式確認から5月1日で50年を迎えることを受け、小泉首相の談話を発表した。04年10月の最高裁判決で国の責任が認められたことを踏まえ、「被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を痛感し、率直におわびを申し上げる」と謝罪した。」ことはもっとマスコミも採り上げていい問題ではないのか。
それにしても小泉首相の木で鼻をくくったような談話。環境問題、人権問題には関心の薄い首相らしいといえばそれまでだが(「国連規約人権委員会で出された日本政府に対する勧告」はどうなったのだろう)。
経済が人権、その前に命や健康、生活の安寧より大事とする国家を愛せよというその不条理。
歴史的には「癩病」とも称されてきたハンセン氏病のこと(「ハンセン病 - Wikipedia」参照)
日本においてハンセン病患者がどのような扱いを受けてきたか。病気(というより古くは宗教的な関連で差別の対象になったから、病気でさえもなかった!)のメカニズムも原因も分からない昔のことはさておく(悲惨な歴史があることは改めて思い起こすまでもないだろう)。
せいぜい、「1907年(明治40年)に放浪患者の救済・取り締まりを目的とする「癩予防ニ関スル件」が制定され、1931年(昭和6年)には「癩予防法」が制定されたことにより全患者を療養所に強制的に隔離するという政策がとられていた。ただし療養所とは名ばかりのものであり、その実態は絶滅収容所と言っても過言では無いものであった。違法な強制人工妊娠中絶が横行し、患者が出産した新生児を職員が殺害したとする証言すら浮上している」にここでは留めておく。
だが、銘記すべきは、「1941(昭和16)年ハンセン病の特効薬プロミンが開発され、完治する病気に」なっていたことだ。
なのに、「1953(昭和28)年に「らい予防法」が、患者の強制隔離や外出制限規定など、それまでの基本原理を引き継いだまま成立」させ、あまつさえ、「1956(昭和31)年、ローマでの国際らい会議で、「すべての差別法は禁止されること」と、非難されたにもかかわらず、1996(平成8)年「らい予防法廃止法」の成立まで人権侵害を放置し続けた国の責任は重い」のではないか。
もともとハンセン病、らい病は、感染力の弱い病気だった。が、病気に罹った人の容貌が恐怖心を掻き立てる面もあるのだろう。
だから、小生は、ここには宗教も関係し、外見に囚われる人間性も関係している根の深い問題だと認識している。
いずれにしても、「1941(昭和16)年ハンセン病の特効薬プロミンが開発され、完治する病気に」なっていたにも関わらず、そのことは政府関係者や医学界、情報通の方なら認識していただろうに、また、宗教界の方であっても勉強熱心な方が多いはずで海外情報に敏感で、隔離する必要など毛頭ないことに早々に気づいてはずなのに放置し続け、「1996(平成8)年「らい予防法廃止法」の成立まで人権侵害を放置し続けた国の責任」、行政当局の責任、宗教界の責任、政治家の責任、医学界の責任、そして世間の責任は重大ではなかろうか。
なのに、こんな怠慢な、人権など微塵も省みない国家を愛せよという。
今も問題であり続けている「耐震強度偽装」問題。ようやくにして関係者が逮捕され当局による本格的な解明へ向かう(ことを期待している)。とはいっても、現段階は別件逮捕での逮捕に過ぎず、全容解明への道のりは遥かのようだが。
建築会社、不動産会社、経営コンサルタント、検査会社、建築士、そして未だに元利を含めた返済を被害者に強い続けている銀行など金融界、そのいずれもが責任を担うべきだろう。
被害住民への救済は微々たるもので、マンションなどの建て替えも見通しが立たないでいる。
小生は思うに、上記した金融界を含めた関係者・業界がそれぞれに責任を痛感し、このたびの事件に鑑み、一時金の形で弁済金を拠出し(それぞれの業界が規模に応じ数億程度)、集まった額で建て替えや二重になるローン負担の軽減に資するのが<常識>なのではなかろうか。
ん? 誰か書き忘れていないかって。そう、政治家や行政当局の怠慢が大きいのだから(性善説を前提に法を作っているから、肝心な時には役に立たない法律しかないと、ノウノウと語って恥じない政治家は辞職すべきだ)、そういった連中も弁済金積み立ての当事者になるべきだ。
いずれにしても、こんなマンションを平気で作る業者も困ったものだけれど、それを平気で許してきた政治家や国家も情けない限りではないか。
こんな国家を愛せよというのか。
他にも、 既に十分すぎるほど長くなったので、ここでは書かないが、アスベスト問題を放置してきたのはどこの政府や行政当局だったことか。関心のある方は、拙稿である「石綿…火浣布」や「「煤払」…末期の一服」を参照のこと。
それでも国家を愛せよというのか。こうした関係者が教育を受けたのは戦後の教育なのか。それとも戦前の教育で鍛えられたはずの親たちに薫陶を受けた結果なのではないか。あれほどの戦争を引き起こし、日本だけでも数百万の犠牲を生み、しかも、当事者たちは大多数が責任を負わず、戦後は経済復興・経済成長に邁進するばかりだった。
経済成長に猪突猛進したお陰で経済的には豊かになったようだけれど、地方や山村の荒廃という惨状をも招いている。若い有為の人材が市街地や都会に流出し、山の世話をする人材が極端に減ったその結果ではなかったろうか。
あれだけのことであってさえも役人は(軍部の偉い人は軍部の官僚だったのだから役人さんだね)責任を取らなくていいのだったら、大概のことでは役人は責任を感じることも、責任を取ることもない! と先輩方から直々に日本の美しい伝統として引き継いできたのだろうということが嫌になるほどほど分かる。
なのに、この数年は自己責任ばかりが喧伝される。
そうか、自己責任で何事も事に当たらねばならないのは情報を持たない民間人であって(毎年三万人の自殺者!)、そんな弱者のことは面倒見切れないし、自己責任でやってもらって、役人だけは他人(弱い立場の民間人)の責任でいいってことなのだね。
国を愛せというのなら、愛される国になってみるのが先決なのではないか。
愛される人になりたいというのなら、愛される人になるのが先決なように。
まず、愛せよ、目を瞑って、なんて、そんなこと、怖くてできるはずがないじゃないか。
それでも、愛国心を顕揚しようというのは、これまでの歴史を思うと、愛される国家、愛される国には到底なれなから、いっそのこと近道だとばかりに、まず国民に向かって愛せよと強要するほうが楽だと達観しているってことなのだろう。
一旦、愛国心が法に明記されたなら、あとは国(つまりは一部の関係者)のやり放題、好き勝手のし放題なのだしね。国家が国の政策の基本方針を間違えても非難など論外となる…。この御真影が目に入らぬか、というわけだし。
ある意味、どんな人間や国家でも愛せよということだから、ものすごく高邁な精神(野心)が伏在しているとも言えそう。もしかして、教育基本法の改正の眼目は反対論を押しての愛国心の涵養だというのも、時に無責任で怠惰になりがちな国家をも愛する、その不毛なる不条理をしみじみみんなで考えようという高等戦術ってことかな。
だったら、分かる?!
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コメント
「愛される人になりたいというのなら、愛される人になるのが先決なように。」-良いですね。「我が国と郷土を愛する」は当然だとする向きもある訳ですが、こういう明文化の必要と云うのは為政者の都合以外のものでは無いでしょう。
この素朴な疑問から「侵略戦争」などへのパティフィスト的な反論も生じるのも理解出来ます。
ドイツでの基本文化の明文化も難しい問題で、議論されていますので一度纏めたいとは思っています。これらは現状認識の問題であると同時に、言葉のレトリックの問題でもあると思っています。
それにしても、日本語に於いてこのような「愛国」などの定義に絡む微妙なレトリックを使う事は少ないと思うのですが、これを付きつめて行くと仰るように「高等戦術」になりますね。しかし、大衆はそのような事を考えるで無く、良かろうが悪かろうが現状を仕方なく肯定的に生きているのでしょう。
グローバル化が進んでいるからこそ得られる視点ですか。教育が必要あるとすればそこそのものですよね。
投稿: pfaelzerwein | 2006/04/29 21:44
「週刊新潮」はひどいですよ。
朝日新聞は反日デマゴーグの新聞だが、南京大虐殺を「捏造」した毎日新聞は「日本人の読む新聞ではない」とまで言い切っている。
卒業式での国旗国歌が問題になっています、おそらく戸山高校の卒業生が昨年「先生をいじめないでください」と卒業の答辞で述べたことがすべてだと思う。
賢い子どもは何が問題なのかもうわかっていると思う。
上からの強制で決して愛国心など育たないということを。
投稿: oki | 2006/04/29 23:22
pfaelzerwein さん、「グローバル化が進んでいるからこそ得られる視点」というのは、図星でしょうね。明治維新前後も国の形に深刻に悩んだように、終戦直後にも同じく。
そして今、世界がグローバリゼーション(巨大金融の寡占化)の動きが激しい。
為政者ならずとも国の形を今、懸命に考える。その一番、安易なやり方が愛国心の強制ですね。手っ取り早い。論議をしなくても済むし(考えなくても済む。米軍基地の再編を国民や地域住民の考えを全く抜きに日本の政府(外務省や防衛当局)とアメリカの当局だけで勝手に決めていく。
この了見の狭いやり方は戦前と同じ。焦っているのかな。
いずれにしても、国民を真正面から説得する自信がないことのの裏返しなのでしょう。
悲しい現実です。
投稿: やいっち | 2006/04/30 01:55
oki さん、「賢い子どもは何が問題なのかもうわかっていると思う。上からの強制で決して愛国心など育たないということを」を小生なりに裏返すと、「愚かな為政者はもう分かっている(諦めている)のだと思う。自らが姿勢を正し襟を正すことなどできっこないし、まして自然と国民が国を、今の為政者たちを愛することなどありえないことを」となります。
思慮に欠けた為政者らは都知事も首相も同じで強制と論議なしの決定しか方法がないわけです。説得力がないことを自覚しているから。
投稿: やいっち | 2006/04/30 01:59