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2006/04/03

夜間飛行を堪能する

 真夜中の高速道路を一路、都心を目指してタクシーを巡航させる。ほんの一瞬だけれど、ふと、「夜間飛行」という言葉が脳裏を過(よぎ)ることがある。
 この言葉、そして感覚が不意に浮上してくるのは、あくまで帰路である。往路では、まずそんな経験はない。

 他の道府県は地域によって違うようだが、小生が所属している東京の営業エリアのタクシー(といっても、東京の23区と鷹市・蔵野市の、通称で武三23地区に限定されているが)は、夜間、空車の場合、車の上の広告塔(行灯=アンドン)が点灯している。実車(乃至は回送)となると、車のフロント左端にある空車(実車)表示板が実車(あるいは回送)表示に切り替わると同時に、行灯(会社のロゴマークを表示してある)の灯りも消される。
 こうすることによって、少なくとも遠くからもタクシーが実車(か回送か迎車などなど)であるか空車であるかが一目で分かるというものである(まあ、夜間だと空車だということが一目で分かるのであって、実車だと遠目には普通車と見分けが付かないという理屈だが、細かい議論はさて置く。余談だが、風力発電機付き行灯も発明されている)。

 さて、往路だと後部座席にお客さんを乗せている。気持ちは安全・的確・迅速(叶うなら快適)にお客さんを目的地にお届けしたいという一心である。できれば渋滞して欲しくないな。目的地近くになったら気持ちよく寝入っておられるお客さんを起こすけれど、すんなり起きてくれるだろうか、支払いは滞りなく手続きが済むだろうか、云々と結構、頭の中はあれこれ考えている。
 それ以上に、往路は、上記したように、行灯が消えているので、タクシーも普通車も区別がない。少なからぬ車が黒っぽい塊と化して下りの道をひた走っているだけである。
 
 それが、夜半過ぎの帰路となると、様子は一変する。

 そう、一般の車は数えるほどだし、トラックも少ない。時に、高速道路上を走っているのは岐路を急ぐタクシーだけだったりする。そして、そのタクシーのバラけた群れは、それぞれの車の上の行灯に灯りが灯っている。
 まあ、正式には、あるいは真面目な車は営業エリア外でお客さんを下ろしたら(支払い事務が終わったら)、実車が空車に切り替わるのだが、その際、回送ボタンを押して回送表示させてしまう方もいる(下手に営業エリア外でお客さんが手を挙げられても困る。そのたび、すみません、私の車はお乗せするわけにいかないのです、などと断り続けるのも辛い)。
 が、高速道路に乗ってしまえば、路肩にお客さんが立っているはずもなく、空車、つまり行灯が点灯したまま、一目散に都心へ、自分の得意な地域へ車を走らせるだけである。

 夜半を回った高速道路を都心を目指してひた走る。すると、夜の闇の中を朧に光る黒に近い灰色の幅広い帯がまっすぐに走っている。帯には路肩や車線を示す白いラインが描かれている。防音壁がまた夜の川を土手のように闇にどこまでも続いていく。

 車は未明も近い時間帯となると、疎ら。
 そう、そこには点々と散在する光たちが藍色と灰色との闇の海の帯に沿って走っていく。
 夏も近くなれば、尾っぽを光らせる蛍たちの群れが、遠くの餌場を目掛けて、それとも雌の臭いを嗅ぎつけて、無心になって飛び去っていくようでもある。
 中には百キロ余りで走っている凡百のタクシーをあっという間もなく抜き去ってく個人タクシーもある。きっと、余人に増して欲望が強いのか、それとも仕事に打ち込んでいるのか。
 だから、闇の中の光の群れは、秩序だった光の列ではないのだ。間近に見えた光が、あれよという間に高速のゆったりしたカーブの先へ吸い込まれていく。消え去っていく。置き去りにしていくようでもある。光が消滅していくかのようだ。
 無論、自分の車も、その一台なのである。遠目には自分の車も、黒から藍の海へ、鉛色から底光りする灰色の闇へと変幻する無機の空間に明滅する数知れない虫たちのただの一匹に過ぎない。

 ああ、おれも、夜間飛行する一匹の虫なのに違いない。

 この感覚が襲ってきたときには、スピードを無闇に上げたりしない。遅からず早からずというスピードがいい。エンジンの唸り音より道路に削られるタイヤの悲鳴のほうがやや大きいほどがいい。風の唸り声が脅威に感じられない程度がいい。
 うまくスピードを調整すると、まるで道路の上を走っているのではなく、滑っている。
 否、それどころか、ある種、うまく自分を誤魔化せたならば、空を宙を飛んでいるような感覚さえ、覚えることが不可能ではない。
 闇の宇宙を、闇の空を、闇の海の帯を、闇の海のを極めて自然になぞっているだけかのように思えたりする。
 この形而上的感覚!

 あの車、この車のどれにも運転手がいる…はずである。防音壁の下、それとも彼方には住宅街があり、森があり、山があり、海があり、あるいは川がある。そのどこにも、人間の、それとも動物の、植物たちの、微生物たちの、ウイルスたちの生活が、命が、犇めき合い、蠢き合っている。タイヤが削れてまでも走っている今、道路の下では何かの生き物の新たな命が生まれようという瞬間に際会しているかもしれない。末期の時を迎えているのかもしれない。ただただ、生きる苦しみに呻吟している人もいよう。肉体の喜びに嗚咽しているかもしれない。飢え飢えているのかもしれない。
 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、匂ってくるもの、味わえるもの、考え感じ思い想像し妄想するその全てを賭けても、人の想像力の遥かに及ばない世界が空に地に宙に広がっている。電波が一点へと収斂せんと幾重もの虚の波を闇の彼方の磯を目掛け打ち寄せ続けている。クォークが飛びぬけ、宇宙線が体を貫き、宇宙塵が漂い、星が煌くことを忘れ直視せんとする者から光を奪おうとしている…。

 夜間飛行の感覚。

「夜間飛行」というのは、「星の王子さま」の作者であるサン=テグジュペリの小説の題名だ。
「星の王子さま」が、冒険飛行家であるサン=テグジュペリがリビア砂漠に墜落した時のエピソードをもとにした小説であるように、「夜間飛行」も「冷厳な態度で郵便飛行事業の完成をめざす支配人リヴィエールと、パタゴニアのサイクロンと格闘する飛行士ファビアン、それぞれの一夜を追いながら、緊迫した雰囲気のなかで夜間の郵便飛行開拓時代の叙事詩的神話」なのである。

 人は、「星の王子さま」にどんな世界を、どんな感覚を感じ読み取り、思い入れするのだろうか。
 どんな理解も好き勝手にできるのが小説の素晴らしさなのだろう。
 ただ、「星の王子さま」は、「夜間飛行」の世界を描いた作家であること、その両者に貫く透明な孤独感とある種の美への形而上的没入感を抜きにしては、彼の世界を味わいつくしたことにならないのでは、などと思ったりもする。
夜間飛行」と命名された香水があることは野暮な小生も知っている。
廃盤となりながらも、今も多くのフレグランスファンに指示され続ける希少フレグランスです。童話「星の王子様」の作家サンテグジュペリ。作家・飛行家という、ふたつの顔を持つ彼の小説「夜間飛行」。親友であるゲランが、そんな彼に対し称賛を込め創作された香り」だというが、どんな香水なのか、嗅ぎ味わう機会もない(多分。叶うなら香水を身につけた状態で嗅ぎたい!)。

クォーク - Wikipedia」によると、「クォーク(quark)とは、ハドロンを構成する素粒子である」という。ハドロンを構成するあらゆる素粒子は、「クォーク2個または3個の組み合わせでしか」見つかっていないという(新発見があるらしいが)。それぞれのクォークを単独の状態にすることは基本的に不可能だとも。
 ちょうどそのように、男と女(男と男、女と女)は、それぞれに目に見えない形で結びついている。くっついているとホットではあるが、鬱陶しかったりする。が、離れていると、束の間、せいせいするが、すぐにやたらと寂しくなったりする。
 地上世界を何処までも離れていくという感覚。それは、肉と心の世界からの離脱のようにも見える。ただ、離れれば離れるほどに、離れた両者は不可視の強烈な接着剤でパートナーに引き寄せられるのを感じる。重力より凄まじい力で。引力と斥力。
 夜間飛行を続けていると、人間の心が肉ほどにモノなのだという感覚を知る。思い知らされる。
 あるいは、その形而上的感覚を誰よりも感じ味わうために夜間飛行という名の星への旅を続けていたのだろうか。

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タクシーエッセイ」カテゴリの記事

コメント

この記事を書いたとき、深夜ラジオにお世話になった小生だが、城達也の名調子でおなじみの「ジェットストリーム」という番組名が思い出せず、この番組の中で流れる朗読文を紹介することができなかった。
そう、朗読文の中に「夜間飛行」という言葉が登場する。この番組の元祖(第一回放送)は1967年7月3日だという:
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~FAVORITE/index10_jet_stream_main.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/JET_STREAM
「コラム6 「ジェットストリームを懐かしむ」」から朗読文を紹介:
http://www.ne.jp/asahi/nemuri/engetudou/column6jetstream.html
遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休めるとき、
遥か雲海の上を音も無く流れ去る気流は、
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく果てしない光の海を
豊かに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる、
夜のしじまの何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていった遥かな地平線も瞼に浮かんで参ります…
夜間飛行の、ジェット機の翼に点滅するランプも
遠ざかるにつれて次第に星の瞬きと
区別がつかなくなって参りました。
お送りしておりますこの音楽が、
美しく貴方の夢に溶け込んでゆきますように…

余談だが、小生のこの「夜間飛行を堪能する」なる一文、機会を設けて、一つの虚構風エッセイとして仕立て直してみたい。

投稿: やいっち | 2006/04/05 20:10

若い頃、深夜のラジオから流れるジェットストリームは
僕にとって子守唄代わりでした。
城達也氏が亡くなって、その番組は終わったと思っていましたが、
続いているそうですね。

僕も過去にこの番組をテーマにしたブログを書いています。
よろしかったらご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/dance-fuji/e/d225b19753db837364bfcbee42644f7e

同じような感性を感じて嬉しくなりました。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/06 10:51

こんにちは~
はじめまして!!
勿忘草さんの所からきました
ぐう^^です
どうぞよろしくお願い致します

昨夜来てずっと読んでいました
勿忘草さんの所で読んだ記事もあり
またまた、詳しく書かれているので
見入ってしましました

また、来させて頂きたいと
おもいます

投稿: ぐう^^ | 2006/04/06 14:03

> 勿忘草さん
 ジェットストリームは、勿忘草さんに紹介していただいた日記へのコメントにあったように、代替わりして続いている。けど、やはり城達也氏の印象があまりに強いので、あとを継ぐ人たちも苦労しているみたい。誰か、朗読文を作り直せばいいのに。
「訪れては去り、去ってはまた訪れる。芽生えはじめた恋のように頼りない秋は、やっと手の届くところまでやってきた。
昨日まで乾いた喉を潤した冷茶より、今日は熱い緑茶が旨い」とありましたね。9月15日だから、気持ちは分かる。
小生も、何年か前に秋口にそんな経験をしてからは、夏の間さえも、自室では牛乳はともかく、お茶はホットで飲んでいます。そのほうが胃もホッとするみたいだし(夏場、仕事で外を走る時は冷たいものを飲むけど)。

> ぐう^^さん
 ここでははじめまして!  来訪、コメント、ありがとう!
勿忘草さんは、ダンスのインストラクターでありつつ、気持ちの篭った覗いて癒されるサイトを運営されてますね。ファンが多いのも頷ける。
ぐう^^さんは、「3行主婦をめざしている」とか。小生もそのようでありたいと思いつつ、ついあれこれ書き足してしまって、来訪される方に辟易させてしまいます。性分だから仕方ないと諦めてるけど。
あとで一休みしてから(まだ徹夜仕事の疲れが抜けていない)ゆっくりお邪魔しますね。

投稿: やいっち | 2006/04/07 14:25

「訪れては去り、去ってはまた訪れる。芽生えはじめた恋のように頼りない秋は、やっと手の届くところまでやってきた。
昨日まで乾いた喉を潤した冷茶より、今日は熱い緑茶が旨い」
この台詞は、番組の中ほどで語られる台詞なんですよ。
CDの中から引用したものです。
最後の台詞も番組の終りの台詞です。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/08 00:59

なるほど。CDを持っておられるのですから、いつでも聴けるわけですね。こんな大人の台詞が聴ける番組は減ってしまった。小生は、仕事柄、ラジオは貴重。夜から夜半過ぎは若者(学生)相手の番組が多く、おじさんとしては辛いものがあります。

投稿: やいっち | 2006/04/08 02:05

こんばんは。

さて、夜のドライヴで偶さか起こる夜間飛行的かつ「形而上的」感覚、
よく判ります。
トンネル走行中に同種の感覚を覚えたこともあるけれど、
心地よい酩酊感があるとともに、
闇と速度に魂が吸い込まれそうな恐怖感もあり、、、という感じ。

「ジェットストリーム」、
中学生から高校生の頃には毎夜聴いてましたね。
しかし最近の中高生、
ラジオなんて聴くのかな。

投稿: 石清水ゲイリー | 2007/03/16 22:49

石清水ゲイリーさん、コメント、ありがとう。
「夜のドライヴで偶さか起こる夜間飛行的かつ「形而上的」感覚」、分かってくれると嬉しい。
やはり、そんな感覚をもたれる方が居られるのですね。
なるほど、酩酊感とともに恐怖感も!

最近の子は深夜番組を聴くのかどうか。今更、ラジオでもないのかな。携帯できる音楽媒体は増えていますからね。
それでも、ラジオという空間は、格別なものが今もあるように思えます。


投稿: やいっち | 2007/03/17 01:23

はじめまして。ツィッターからきました。

10年前くらいにタクシーが夜更けにスピードをあげて走っていくのを流星のようだ…!と思ったことがあります。とても綺麗でした。運転している方もそんな感じを持つことがあるんですね。何か感動しました。
また、ジェットストリームのお話も懐かしく読みました。中学生の頃聴きながら眠りました。今は若者むけの番組が多くラジオがつまらないですね。
ラジオのおかげで名曲にもたくさん出会えたのですがね、今は聴く機会がなかなかないです。

投稿: ちょここ | 2010/05/08 18:42

ちょここさん

ツイッターつながり、ですね。
これを縁に、どうぞよろしくおねがいします。

タクシーの行灯(ボディの上に乗っている表示灯)は、往路はともかく帰路は消す建前ですが、大概の運転手さんは点灯したままのようです。
深夜、それも一般車の走行が少なくなった頃、郊外からの高速を使っての帰路は、タクシーだけになってしまう。
そのタクシーは、今が稼ぎ時とばかりに、急いで都心へ戻ろうとする。
小生は、蛍の群れと感じましたが、流星のようとは、一層、詩的で素敵です。

ラジオ、確かに若者向けが多いのは事実。特に民放は。
その点、NHKは、年配者を意識しての内容ですし、アンカーの語り口も、よく聞き取れるよう、ゆっくりはっきりと工夫されているようです。
折を見て、NHKのラジオ深夜便を聴いてみたらいかがでしょう。
ある程度以上の年配者を配慮した、時間を忘れる放送を楽しめるかもしれないですよ。

投稿: やいっち | 2010/05/08 21:14

こちらこそ宜しくお願いします
夜間飛行ではあまりに自分の記憶と重なりコメントせずにはいられませんでした。確かにそのタクシーは東京に向かってましたね。

ラジオですが中学生の私は聴く機会が多くあり自然と聴くようになりました。名曲を知ることができ良かったと思います。今の子供達はそんな機会も少なくなってしまったのでしょうかね。
ちなみにうちの子はお笑い系の番組に投稿したりラジオに出たりしてますよ夜更かしで困りますが、楽しいみたいです。
私もまたラジオをきいてみたくなりました。


投稿: ちょここ | 2010/05/09 08:00

ちょここさん

「10年前くらいにタクシーが夜更けにスピードをあげて走っていくのを流星のようだ…!と思ったことがあ」るってのは、やはり東京(都心)方向へ、だったのですね。
その頃はまだ、タクシー(に限らず)も景気が良かったのかな。


今は、便利なツールが増えて、若い人も時間をつぶす手段は様々で、ラジオに頼る人は少なくなったのかもしれない。
それでも、ちょここさんのご子息のように、ラジオ(番組)を介して仲間と交流を楽しんでおられる、そんな若者もいるのは、なんとなく嬉しい。

台所とか洗濯とか、草むしりとか、外出の際とか、ちょっとラジオを聴くってのも、結構、楽しいかも。
なんたって、テレビのように、耳も目も(時間も)奪うんじゃなく、ながら族で、聴けるってのがラジオのいいところかも、なんて。

投稿: やいっち | 2010/05/10 20:34

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» 蛍を見た! [壺中方丈庵]
[下記の小文は、7月2日に書いたモノローグを元に、説明のための加筆、さらには若干 [続きを読む]

受信: 2008/08/01 23:17

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