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2006/04/20

「ぼくの哲学日記」の周辺

よそにぞ消ゆる春燈(はるともし)」なる記事へのコメントの中で森本哲郎氏の名前が出てきた。
 たまたま図書館の随筆のコーナーで同氏の本を見かけ、借りようかどうしようか迷っていたところだし、二ヶ月来続いている『白鯨』購読の合間に読むのに、エッセイ本なら息抜きになるかと、『ぼくの哲学日記』(集英社)を借り出してきて、今週初め読了した。
 レビューには、「薔薇の木に薔薇の花さく。なにごとの不思議なけれど。(「大悲集」より) 人間を人間たらしめているのは、「なぜ?」という素朴な疑問を持つからで、そこから「哲学」が生まれる。当たり前の日常に一石を投じる人生指南書。 」とあるが、身構えずとも気軽に読めるので、専ら寝床で就寝前に読んできた。

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← 17日夜、東京タワー。照明の加減なのか、ゴールドのタワーのようだ。

 森本哲郎氏の本はほぼ十年ぶりだ。確か拙著『化石の夢』(新風舎)を自費出版して間もない頃、父が小生にこれを読んだらと渡してくれた本が森本哲郎氏の文庫本だった。
 小生の文章のあまりの堅苦しさに、これを読んで少しは文章を勉強しろということで父がさりげなく(?)選んでくれたものだったろうか。けれど、題名を忘れてしまった。日本語(の言葉)についての本だったと思うのだが。
 同氏がフリーアナウンサー・森本毅郎の兄だということを知ったのは、そんなに昔のことではない。弟さんのほうとは見た目の印象がまるで違うので、何かの折に(多分、本の紹介文だった)プロフィールを読むまでトンと思い至らなかった。
 森本哲郎、森本毅郎…。並べたらやっと気づく迂闊さ。
森本哲郎 - Wikipedia」によると、「日本の文明批評の第1人者として知られており」とあるが、小生にはそんな認識はなくて、あくまで評論家の一人という理解に留まっていた。
 まして哲学科(大学院)上がりだとは、未だにちょっと腑に落ちない。
[ 読者からの指摘で、森本哲郎氏は大学院は社会学科だと判明。ご指摘、ありがとう! (06/04/22 注)]

 が、そんなことより、本書を読んで驚いたのは、マスコミ人だったことと関係するのか、森本氏が行動家だということ。興味を持ったら即座に行動に移し、人物ならインタビューするし、場所なら現地を取材する点。

サハリン残留邦人:ウクライナで生存、一時帰国へ」というニュースがマスコミ上を踊った。
「太平洋戦争中に樺太(サハリン)の旧陸軍部隊に所属し、その後消息が分からなくなっていた岩手県出身の上野(うわの)石之助さん(83)が、ウクライナで生存していることが17日分かった」というもので、昨日、帰国されたのはテレビ・ラジオ・新聞などで夙に伝えられている。
 ところで、一九七二年、グアム島で元日本兵、横井庄一さんが発見されたが、当時、朝日新聞の記者だった森本哲郎氏は早速現地に飛び、横井さんが住んでいた穴倉へ。そこは孤独なジャングルの奥ではなく、白い給水塔やアパートが見えて、先入観とは違っていたなどと(天声人語でも)伝えたものだった。
 これは、記者という立場だったから、すんなりそのような行動が取れたのか、それとも本人の強い希望があって実現した取材なのか、その辺りの事情が分からないのが歯がゆい。

 森本哲郎氏には、『サハラ幻想行』(河出書房新社)や「砂漠への旅」(『日本の名随筆 本巻15 旅』所収)といった随筆がある。何も砂漠へ旅したことがあるとか、取材したことがあるというのではなく、ある年、思い立って砂漠へ行きたくなり、以来、毎年、年末年始はサハラ砂漠で過ごすようになったというのだから、彼の砂漠通いは筋金入りなのである。
(ここに面白いエピソードが書いてある。真偽のほどは分からない。ついでながら、「砂漠」と「沙漠」の違いはご存知だろうか。「砂漠」や拙稿「井筒俊彦著『イスラーム生誕』」など参照。)
 彼は有名人だけあって、貰う年賀状の束は分厚い。
 だけど、彼は砂漠で年越しするせいもあってか、もう何年来、一枚も年賀状を出していないのだとか。ここのところの頑固さは好きである。小生など、昨年は二枚、出してしまったし。但し、小生は貰うのも五枚以下だったが。大きな違いだ。

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→ 17日、日中、都内某公園脇にて。八重桜がボンボンのようだ。

 東京砂漠という歌が昔、ヒットしたことがあるが、森本氏はサハラ砂漠で茫漠たる砂漠を見て哲学しているのだろう。一神教の数々、というより、その源泉たる『聖書』(キリスト教の立場だと「旧約聖書」と呼称される)が生まれた砂漠の地。神と人とが相対峙する場。人の人間性が剥き出しになる場。
 生煮えで真綿で首を絞められるような湿気溢れる日本とは事情が根底から違う、のだろう。
 けれど、貧乏人で何処へも行けない小生の負け惜しみではないが、人は何処にあっても哲学はできるのではなかろうか。刑務所の中でも只管打座(しかんだざ)する人はする。出来ない人は、大学という象牙の塔に篭ろうと、万巻の書に囲まれようと、優れた師や友と付き合おうと、由緒正しき寺に篭ろうと、アルプスの山に登ろうと、海で漂流しようと、砂漠で偽のオアシスに幾度も騙されようと、哲学も出来ないし、瞑想もできない。
 そうした場所に行くと、あるいは傑出した人と付き合っていると、その環境が、その環境の与える刺激や雰囲気が何か崇高な、至高の、至純なる、形而上的と表現したくなるような、瞑想的でもあるような、そんな気分に浸ることがあるのだろう。
 けれど、それは素晴らしい音楽を聴いてその世界の愉悦に興奮するようなもので、あるいは名作と呼びたくなる映画や舞台に感動するようなもので、一歩、現地の外へ、映画館の外へ、劇場の外へ、つまりは薬物の効力が薄れた途端、幻想は覚め、幻滅し、外光の眩しさと雑踏の忙しさとあまりの日常性に圧倒され、その日の約束、明日の予定に呼び覚まされ、目覚ましに起こされ、元の木阿弥となってしまう。
 雑駁で雑音に満ち溢れた日本の街中にあろうと、その中から市井の哲学は編み出せるはずだ!
 と言いつつも、でも、旅したいねー。温泉、行きたいねー。世界中、いや、日本国内でいいから、各地を見て回りたいね。

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← 17日、夜、東京夜景。東京タワーから目線を都心に向けて撮ってみた。高層ビルばかりが目立つ。

東京新聞」の「昭和零年 1925年生まれの戦後60年」に森本氏に付いての興味深いエピソードを見つけた。実際、同氏は25年生まれである。
 この頁から(無断)転記する:
 

 森本さんは一九四四年九月に東大に入学し、翌四五年七月に赤紙を受け取った。東京・府中の多摩川べりの小学校に駐屯し、手旗信号やモールス信号などの基礎訓練を受けた。やがて広島にあった本隊に行くはずだった。

 ところが、広島に向かう当日になって、上官から出発延期が告げられた。その翌日も延期…。実は出発予定日は八月六日、広島に原爆が落とされた日だったのだ。

 「もし、部隊の出発がもう一日、早かったら、僕は原爆で死んでいたでしょうね。たった一日が運命の分かれ目でした」

 終戦の日は「やっと終わったか」と安堵(あんど)の気持ちだけだった。

 つまり、ことに因れば、森本氏は二十歳で生涯を終えられていたかもしれないのだ。

(「ナスカに新地上絵 衛星画像分析 100種発見」といったニュースを今朝、見聞きして興奮。「世界遺産に登録されている巨大な地上絵で有名なペルーのナスカ台地で、山形大人文学部の坂井正人助教授(文化人類学)らの研究グループが、約百種類の地上絵を新たに発見した」というもの。今、お隣のチリに関係する本を読み始めている小生、いつか、扱いたい。 
 そう言えば、中臣鎌足に関係する遺跡の発見のニュースも今朝、ラジオで聴いたっけ。これも扱いたいな。)

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コメント

『化石の夢』(新風舎)の紹介は初めてですね?お父様もなんか素晴らしい。いくらか哲学的な内容と想像しますが、紹介記事などに今まで気が付きませんでした。十年ほど前の執筆なので、考え方の変化もあるのでしょうか。具体的な環境の変化は何回か伺っているのですが、その辺りのロッキングチェアーに揺られての内面的な変化も伺いたいものです。

投稿: pfaelzerwein | 2006/04/20 19:11

pfaelzerwein さん、コメント、ありがとう。
『化石の夢』(新風舎)については本格的な形での紹介(自己紹介?)は未だです。ただ、題名を出さないままに本書を書いた背景などについては折々触れていて、結構、突っ込んだことも書いています。多分、「化石の夢」でネット検索しても、その箇所は見つからないと思う。
ポロックの「ラベンダーミスト」やフォートリエ、ムンクらの絵を前にアヴァンギャルド的瞑想を断片的に綴り、数十個の断片を組み合わせて物語にならない話につなげたもので、読む方には不親切な内容だったかも。
この数年、掌編を書く形で話を綴る技術の鍛錬を少しはやってきたので、そろそろ長編に挑戦する頃合かなとは思っている。
そのうち、心境などその周辺のこと、書いてみたいですね。腰が重くてロッキングチェアに沈んだ体を何処まで起こせるか、覚束ないですが。

投稿: やいっち | 2006/04/20 19:57

「ジャクソン ポロック ポロック絵画の流れ」なる頁に「ラベンダーミスト」の画像があります。あまり画質が良くない:
http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/02artist/polo_2_page/polo2-nagare.html
それより、ポロックの生涯での試みが気になる。
小生は、虚構作品を書く際、いきなり「原感情の表現」、それも壁に頭をぶつける衝撃感に頼るような、ぶっつけの手法に頼ったものでした。頭でっかちだったわけです。
ポロックはその後、行き詰まったのか、彼なりの展開には恵まれなかったようです。

投稿: やいっち | 2006/04/20 20:07

森本さんは学部は哲学、大学院は社会学なのに著作を見ると社会学関係の記述が少ない気がします。
ウェーバーとかデュルケムとかでてこないでしょ。
むしろ哲学と日本古典の記述が実に多い。
森本さんがどこで日本文学を習得されたのか興味あります。
社会学の大学院では何を学ばれたのかな。

投稿: oki | 2006/04/22 13:17

okiさん、森本さんは大学院は社会学科だったのですね。本書の奥付けにちゃんと書いてありました。迂闊です。
ご指摘、ありがとう。
社会学関係の著作ですが、彼は(本文にも書きましたが)「日本の文明批評の第1人者として知られて」いるとかで、でも、この経歴がのちのマスコミ(新聞社の記者やテレビのキャスター)関係の仕事に繋がるのでしょうし、世界各地への取材と幅広い分野の著作に結実したのでしょう。
日本文学については、日本人なら研究者のレベルとはとはいかなくても、ある程度は素養として身に着けていくのではないかと思います。

投稿: やいっち | 2006/04/22 22:25

TB恐縮です。こちらに並んでいる書籍や上の文で言及されている書籍も非常におもしろそうで、ぜひ手に入れて読んでみたいと思います。また寄らせて下さい。

投稿: VIVA | 2006/04/23 14:48

VIVA さん、こんにちは。
サイトの名前が「本を読もう!!VIVA読書!」なのですね。小生は読書の量はあまりない…けど、ぼちぼち楽しんでいます。
読書の分野・傾向が違いますね。特に『算数オリンピック問題集』(算数オリンピック委員会)なんて、小生、手が出そうにない!
お互い、刺激し合って楽しくブログできたらいいですね。

投稿: やいっち | 2006/04/23 19:40

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