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2006/03/23

清正公信仰とハンセン病

 別頁(窓)で示すが、2年ほど前、表題の題名の「清正公のこと」という雑文を綴ったことがある。
 東京は港区白金にある覚林寺で清正公五月大祭があったことにちなみ、清正公という交差点や祭りの大元である加藤清正公のことを、そして加藤清正公の位牌のある(つまり決して菩提寺ではない!)覚林寺のことなどをあれこれネットで調べてみたのである。
 清正公(覚林寺)からは数分のところに以前、居住していた小生としてはただの雑学的知識以上の関心を抱いていたこともあった。

 記したように、覚林寺は加藤清正公の菩提寺ではなく、加藤清正公が朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役)に連れてきた朝鮮国の王子(のうちの一人)の菩提寺なのである(まだ不明の点が多い)。
 ただ、いずれにしても、覚林寺が(加藤)清正公と深い縁のある寺なので、清正公(せいしょうこう)と呼称されるのだろうと理解し納得して済ませていた。

2006_0322060322sakurasaku0016

→ 22日の午後、間もなく雨が降りそうな空模様の下、都内某所の公園の脇で小憩を取った。開花宣言が東京では21日に出ているので、どうかなと思ってジッと見てみたら、ホントだ、咲いている! 見つけたのは一輪だけだけど。梅がそろそろ終わりそうなこの時期、今度は自分の出番だとばかりに桜が咲き始める。示し合わせたようだ。その日は実際、本降りの雨になったけど、逸早く咲き誇った桜の花びら、明日はどうなっているだろう。

 春の空降りみ降らずみ花時雨

 ところが、「清正公(せいしょうこう)」という言葉について、新たな知見を得た。
 前にも書いたが、車内での待機中に読む本として、「呪術的な響きを聞き分けるハーンの耳を魅了した琵琶法師,大黒舞,門づけの歌….近代日本が捨て去った物語の調べ,冥界と交信する民衆の音楽を再生し,『耳なし芳一』がもつイメージの官能性,濃厚なエロスの所以を掘り下げる」という西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』 (同時代ライブラリー、岩波書店)を持ち込んでいる。
 いろいろ教えられることが多いのだが、昨日読んでいたら、「清正公(せいしょうこう)」には単純に加藤清正公の名前に由来するだけではない事情があることを教えられたのである。
 どうやら、「清正公」信仰なるものがあるらしいのだ。
 一つは、「加藤清正公 御生誕の地 日蓮宗正悦山妙行寺」に見られるように、「清正公は熱心な法華経の信者であった」だったという側面である。彼は「本妙寺を初め妙法蓮華経の五文字を冠した五つの寺を建立した」のだった。

 さらに、「ふるさと寺子屋塾<No.18> 「 肥後と加藤清正 」 講師/本妙寺住職  池田 尊義 氏」によると、「清正公信仰」の項に「清正は土木治水の名手として知られている」とある。戦国時代ファン、歴史ファン、城郭(史)ファンならずともこの事実は知られているようである。
 このサイトでは、「そのためか熊本には昔から清正を「神」として尊崇する「清正公信仰」が根付いている」として、「清正公信仰」について縷々教えてくれる。

 しかし、これは今日の話の本筋ではない。また、『ラフカディオ・ハーンの耳』で知った事実でもない。
 これは、「あっと九州」の「あっと九州 信仰と奉仕に生きた日々―ハンナ・リデル、エダ・ハンナ・ライト ~その1~ 1998年06月」が詳しい。
「桜の下で、患者たちと出会う」の項には、以下の記述がある:
 

 熊本で”セイショコさん“といえば、加藤清正のこと。清正を「郷土の英雄」とする熊本県人にとって、聖地とも言うべき場所がある。清正の菩提寺本妙寺だ。
 一八九一年(明治二十四年)、熊本に赴任し、その後半生をハンセン病患者に捧げたイギリス人女性ハンナ・リデルが見た、当時の本妙寺の風景はこうだ。
 「道路の両側には三、四町も続いて桜の花が今を盛りと咲いて居る。…花の下には何者があるかと見ますれば、それは此の上もない悲惨な光景で、男、女、子供の癩病人が幾十人となく道路の両側に蹲まって居まして、或は眼のなき、鼻の落ちたる、或は手あれども指なく、足あれども指が落ちて居ると申すような次第で…そんな人々が競ってあわれみを乞うて居ました……」 (内田守編『ユーカリの実るを待ちて』)
 宣教師として熊本に赴任したばかりのリデルが、五高(現在の熊本大学)教授らと花見に出掛けた時の出来事だ。
 この衝撃が、リデルをハンセン病患者の救済へと邁進させることになる。

 次の項「清正公信仰とハンセン病」が肝心で本稿の眼目でもある(太字は小生による):
 明治時代、ハンセン病医療に大きな役割を果したのが民間の宗教団体だった。中でもキリスト教団体の活躍はめざましく、布教活動という枠を超えた奉仕活動として積極的にすすめられた。
 ハンセン病に対しては、前世の罪に起因する「業病」といった差別感が長くつきまとった。神にも仏にも見放されたかのような無縁の存在。奇跡の対象として聖書の中でも扱われた。リデルが初めて患者たちを見た時、「バイブルにある病が、日本には生きていた!」と、素直な驚きを語っている。
 熊本では近世以来、心身にハンディを負った者たちの守護聖人として清正公があがめられ、無縁の者たちが身を寄せる”アジール“(公権力の及ばない神聖な場所、避難所)として、本妙寺には多くのハンセン病患者が集まってきた。
 清正公信仰が根付く熊本に、リデルは新たな医療観念をもたらす。その活動は、明確な医学的知識に基づくものだった。

 以下、「信仰と奉仕に生きた日々―ハンナ・リデル、エダ・ハンナ・ライト ~その1~」については当該の頁を覗いてみて欲しい。さらには、「信仰と奉仕に生きた日々―ハンナ・リデル、エダ・ハンナ・ライト ~その2~ 1998年06月」へと続いてる。

 西成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』によると、ハーンは本妙寺に赴いたことがあったが、そのときには既に明確な医学的知識に基づくハンナ・リデルらの活動が始まって一年以上を経過していて、あるいは本妙寺でのハンセン病患者らの悲惨な状態は見ていないのかもと、西氏は書いている。
 ただ、西氏は、ハーンは、「無縁の者たちが身を寄せる”アジール“(公権力の及ばない神聖な場所、避難所)」を見ないか無視する傾向があると指摘している。

 小生は、これは憶測で書くのだが、ハーン自ら肉体に業を背負っている(少なくとも当人は自分の容貌を深く自覚している)ので、そうしたアジール乃至はアジール内の人々の姿を直視はできない、少なくとも健常者のようには無自覚でナイーブな形では語ることも意識することも、まして記述することも容易ではないのだろうと思う。結果として無視することになるわけである。
 つまり、自らがハンディを背負っていると、そうした人々を見ると、まるで鏡を見ているような息苦しさを覚えるもので、むしろ、沈黙や無視は内心の衝撃の強さを物語っているようにも小生は密かに揣摩してしまうのである。
 ただ、この点は仮初に、簡単に触れて済むわけのものではないので、「熊本では近世以来、心身にハンディを負った者たちの守護聖人として清正公があがめられ、無縁の者たちが身を寄せる”アジール“(公権力の及ばない神聖な場所、避難所)として、本妙寺には多くのハンセン病患者が集まってきた」(太字は小生による)という点と併せ、機会があったら改めて考えてみたい。
 
 いずれにしろ、「清正公信仰」には、「清正公」信仰、清正公「信仰」など、幾重もの思い入れと歴史が積み重なって織り成された信仰であると思ったほうが良さそうである。

 余談だが、今回、ネット検索していて、「So-net blog♬ なんとかしなくちゃ♪♪水天宮~清正公寺」というブログの頁にて、水天宮の近くの浜町公園に「清正公寺」があることを教えられた。勝手に転記させてもらうと、「加藤清正を祀る清正公堂は、文久元年(1861)に熊本藩主細川斉護が、熊本市日蓮宗本妙寺から勧請し、一般の参拝も許されていました。明治に入り、公園付近は細川公爵邸となり、回遊式庭園が残って現在に至っているようです」という。
 清正公については調べる余地がまだまだありそうである。

清正公のこと

 5月4日そして5日と、港区白金にある覚林寺で清正公五月大祭があった。たまたま人だかりのする祭りの脇を通りかかったので、そういえば祭りの季節なのだと気付かされた:
清正公(せいしょうこう)大祭
 4日の夜、白金を地元する方をお客さんとして乗せた。話が祭りのことに及び、いろいろ教えていただいた。たとえば、清正公というと、加藤清正であることくらいは小生は知っていたが、覚林寺に祀られているのは、加藤清正ではなく、朝鮮出兵した時に捉えてきた王族の誰かなのだということ、あるいは、八方園が大久保彦左衛門の別邸だったということ、などは初耳だった。
 さすがに四代目として地元に暮らす方だけのことはある。
 小生、実は、清正公覚林寺から徒歩数分、大久保彦左衛門の菩提寺・立行寺(一心太助の墓もある)からは一分余りのところに9年ほど住んでいたことがある。なのに、その頃はそれらの存在に気が付いていながら、折をみて訪ねてみるような酔狂な気持を起こすことはなかった。
 実に、怠慢だし勿体無いことをしたと今更ながらに悔いている。
 さて、上掲のサイトには、清正公五月大祭は、「加藤清正公を祀る大祭」とされている。実際はどうなのだろう。あるいは、物語では一心太助との関わりでも有名な大久保彦左衛門(1560-1639)は、立行寺の近くに住んでいたのだろうか。
 大久保彦左衛門(1560-1639)
 今では天下のご意見番というと、水戸黄門ということになっているが、元祖は大久保彦左衛門ということに(物語では)なっていた。彼自身が子孫のために書いたと言われる『三河物語』は有名:
古典文学編 三河物語

 ところで、ネットで調べると、大久保彦左衛門は岡崎市(三河)にある長福寺に葬られたとある:
大久保彦左衛門の紹介
 
 下記のサイトによると、「寛永十六年(一六三九)、八十 歳でこの世を去った彦左衛門の墓は、岡崎市の長福寺と東京芝白金(しろがね)の立行寺(りゅうぎょうじ)にあ」るという:
「大久保彦左衛門のページ
 
 八方園は、大久保彦左衛門が余生を送った地といわれ、明治の頃は洪沢栄一が所有していたという:
高輪・白金

 さて、加藤清正である:
清正公さん
 清正公ゆかりの覚林寺は、工事中だということは、その前をよく来るまで通りかかるので、知っている:
覚林寺で「清正公堂」の曳家工事を実施

 この文中にもあるように、覚林寺は、「1631年(寛永8年)に日延上人が開いた由緒ある寺で、熊本藩主であった加藤清正がまつられています」と、微妙な表現がされている。他のサイトでは、「加藤清正の位牌」が置いてあると書かれている。やはり、菩提寺ではないということのようだ。

 どうも、今一つ、加藤清正と覚林寺との関連がはっきりしないと思っていたら、下記のサイトを発見。「清正公は、朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に、朝鮮国の王子を連れ帰り養育した。清正公は熱心な法華経の信者で、その影響を受け成長した王子は、やがて出家し、小湊の誕生寺住職となった。この日延上人が、後に覚林寺を開き、清正公を祀った。」と書いてある:
 http://www1.big.or.jp/~temple21/teramode/13/2kakurinji.htm(←残念ながら削除されたようだ。06/03/23 記)

 さらに下記サイトによると、「加藤清正公は、朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役) に、朝鮮国の王子を連れ帰り養育した。清正公は熱心な法華経の信者で、その影響を受け成長した王子は、やがて出家し、小湊の日蓮宗誕生寺に入門し,やがて最高位の十八代貫主の可観院日延上人となりました。貫主を退きのいた後,寛永8年(1631)、熊本藩の中屋敷だった現在地に、清正公の随身仏である釈迦牟尼仏を本尊にして覚林寺を開き、寺の境内を花畑にしたりして、静かに30年ほどの余生を過ごしていた言われています。」とある:
熊本藩中屋敷 現・清正公(覚林寺)

 つまり、加藤清正により朝鮮国から連れてこられた王子が、貫主を退いたのち、清正公の随身仏である釈迦牟尼仏を本尊にして熊本藩の中屋敷だった現在地に覚林寺を開いたということなのだ。
 もっとも、加藤清正上屋敷跡は、憲政記念館内にあるという:
東京の中の熊本
憲政記念館について

 江戸城に近い場所に加藤清正が屋敷を持ったというのも、下記サイトにあるように、「関が原においては家康を支持して東軍に属し、九州にあって西軍の将、小西行長の各城を落す。戦功により、肥後51万5千石。従五位上、肥後守に就任」ということがあるからだろうか。
 それにしても、何か物足りない。そう、朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役)に連れてこられた朝鮮国の王子のことだ。
 いろいろネット検索してみると、朝鮮国の王子二人を捕らえたという記述に出会う:
加藤清正

 下記のサイトを読むと、「去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す」「朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする」とある。この後者が加藤清正により朝鮮国から連れてこられた王子なのだろうか。はっきりしない:
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)

 またまた中途半端な探索に終わった。いずれにしても、由緒あるお寺などの近くに住んでいたのだから、その時に、もう少し、詳しく調べておけばよかったと、つくづく思ったものである。
                            (04/05/06 記)

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