アートレスをアートフルに(序)
[始めに:こんなことは書きたくないけれど、「【ココログベーシック・プラス・プロ障害のお知らせ】2006年03月09日(木)22:00頃よりログインできない状況が発生しています。鋭意復旧に向けて作業をしております。」とのことで、本ブログにコメントなどを試みた方は、書くだけ書いてもコメントが受理されず、不快に思われたことと思う。ブログを見ても、今現在、トラブル中(メンテナンス中)とは表示されないのだが、まるでコメント(あるいはトラックバック)を拒否されているかのようだからだ。
ココログサイドに問題があるのなら、ブログの何処かにその旨、表示されるよう改善すべきではなかろうか。こちらには、来訪しコメントしようとした方に断りようがないのだし。
念のため、ホームページの掲示板にて説明を試みておいたが。
さて、さすがに今朝、小生が帰宅するまでには解決しているものと思ったが、午前どころか、午後の二時を回っても事態の進展が見えなかった。午後四時過ぎ、今度こそと自分のココログのコントロール画面内に入ろうとしてみたら、なんとか入れた!
トラブル、長かった!]
→ 今度は9日の日中、東京タワーの傍を通ったので、信号待ちの間に急いで窓を開け、根元から天辺までをパチリ。エッフェル塔を模したというタワー、さすが間近だと迫力がある。曇天だったのが惜しい。「正式名称は日本電波塔。建築構造学者・内藤多仲(1886~1970)と日建設計株式会社が共同で設計」だとか。
「世界的に著名な照明デザイナー石井幹子により、日没から深夜0時までの間、美しくライトアップされる。ライトの色は季節によって異なり、夏は白色、春・秋・冬はオレンジ色」だというから、時間帯によって季節によってタワーは装いを変えているのである。
「地上デジタル放送用の送信アンテナをどこに設置するかについては、多摩地区、上野地区、秋葉原地区などから誘致提案が出された。しかしサービスエリアや航空路との関係などの面でいずれも決定的ではなく、最終的に従来アナログ放送を行って来た東京タワーの施設を拡張する形で設置される事になった」という。
良かったね。当分、地位は安泰だ。
そういえば、9日だったか、ワンセグのテレビ放送を携帯電話の受信機で見たが、画像が驚くほど鮮明だった。この電波も東京タワーからのものなのかな。
[ 最近、「第2東京タワー 新東京タワー構想再燃」だとか。巨大地震対策と「地上波デジタル放送の目玉とも言えるワンセグ放送の、電波による直接受信の環境を整える効果」もあって、「600メートル級の高層タワーにすることが望ましいの」だとか。さいたま市か墨田区か。「日本放送協会(NHK)と在京民放5社(日本テレビ、東京放送、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)は17日、地上デジタル放送の電波を発射する第2東京タワーの建設計画と、「新タワー推進プロジェクト」の発足を発表した」というけれど。いずれにしても、「建設地の決定については2006年3月末を期限」であり、「タワーの新設は、地上アナログ放送が終了する2011年7月までに完成していることが絶対条件」であることは間違いない。 (06/03/18 追記)]
3月10日は、第9回冬季トリノパラリンピックの会期が始まる日である(日本時間だと11日だが)。→「トリノ通信、2006年トリノ冬季オリンピック、パラリンピック 」
3月10日は、東京大空襲の日である。→「春の川(はるのかわ)」(March 10, 2005 )「冴返る(さえかえる)」(February 27, 2005 )「花炭…富山大空襲」(August 17, 2005 )
鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン 』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)は、前回紹介したように「読書拾遺…市川浩・坂部恵・三木清」(March 09, 2006 )、出版社のレビューでは、「微かな違和の感覚を掬い取るために、日常の「裂け目」に分け入る。「見る」ことの野性を甦らせるアートの跳躍力とは-。共同通信配信の「夢のざわめき」欄に掲載されたものを中心に編集した「アート」評」ということなので、当然ながらかもしれないが、かなり多くのアーティストが採り上げられている。
今、個々の人の仕事を探索する余裕はないが、アートの世界を広めるためにも、今後、折に触れてアートの話題に言及する際の参考のため、名前くらいはメモしておきたい。
(時間があったら、折に触れてネット検索そのほかで個々の作家のプロフィールなど追記していきたい。)
といって、本書『〈想像〉のレッスン 』に登場する人物を漏れなくメモするわけではない。目立ったところだけにさせてもらう(漏れている作家の方、御免なさい。悪意はないのです。遺漏のない仕事ができない小生なのです)。且つ、順不同でもある。
一九七〇年代、「パンクの女王」として衝撃的なデビューをとげて以来、ずっと最前線で活躍してきているヴィヴィアン・ウエストウッド。
(彼女は鷲田氏によると、「想像力がこれほど貧しくなった時代はかつてない」と言っていたそうな。どんな脈絡で語っているかは本書に当たって欲しい(実に無責任で申し訳ないです)。→「 ファショコン通信 ヴィヴィアンウエストウッド: Vivienne Westwood 」)
モード界の最前線にいるもうひとりのデザイナー、山本耀司(ようじ)はこうつぶやく。「世界がイマジネーションを超しやがった」と。
(援助交際、ピアシングといった十代の若者の風俗や身体・性意識が背景にあるようだが。)→「ファッション通信 ヨウジヤマモト:Yohji Yamamoto 」
ガラスや網で遮断されたその残光が内部からこぼれてくるルイ・ヴィトン・ビルの設計で知られる建築家の青木淳が、『原っぱと遊園地』で、とてもシンプルに、とても大切な区別について書いている。遊園地とは、そこで行われることがあらかじめ分かっている建造物である。これに対し、原っぱでは、そこで行われることが空間の中身を作るという。
→「10+1-美術館研究――5[奈良美智+青木淳]」
世界の開口部であるはずのアートが、それじたい閉じた「世界」を形成してしまい、あらゆるアートが内輪事になっている現状に、いらだちを隠さないアーティストがいる。そのひと川俣正の、『アートレス――マイノリティとしての現代美術 』という著書からぽんぽん飛び出してくる、「アートレス」という観念に託したそのいらだちの言葉を幾つか引いてみる。
(ここでは短いのを一つだけ転記する:弥一注)
アートフルな人たちの、気の利いた生活のための教養主義的アートの類いからどのくらい距離を持てるかということ。無自覚な文化教養主義の飾りとしてしかアートが存在しない、アートフルな世界に対する苛立ちなのかもしれない。
→「川俣正インタビュー」
束芋(たばいも) という、風変わりな名前の美術作家がいる。
手描きのアニメーションをコンピュータで映像化し、さらにそれを障子などの立体と組み合わせたインスタレーション「にっぽんの台所」や「にっぽんの湯屋(男湯)」でいきなり大きな注目を浴び、その後も横浜トリエンナーレを皮切りにベルギー、ブラジル、ハンガリーなど海外での映像フェスティバルや展覧会にも出品してきた、一九七五年生まれの作家である。
その束芋が、「できやよい 」という、これまた不思議な名前をもった年下の作家と、「にっぽんの、ななかむら」という展覧会を開いているというので、道頓堀のKPOキリンプラザ大阪に出かけた。性格も作品のトーンも対照的なふたりの女性作家によるコラボレーションである。
→「asahi.com:現代美術家 束 芋さん - マイタウン京都 」
→「KPO -束芋×できやよい展「にっぽんの、ななかむら」- 」
このバンドのヘンさは、デビューしたての頃、突出していた。言葉遊びが魅力のようなのに、歌詞が聞き取れない。突っ張るでもなく、絶唱するわけでもなく、四畳半的につぶやくわけでもなく、軽薄が売り。ふてくされやとまどい、鬱屈した怒りや小さな(あるいは、小さぶった)哀しみを歌う曲が多かったあの時代、メッセージ性が高く、ときにその反抗が求道的にすら映るような時代に、「勝手にシンドバッド」とか「C調言葉に御用心」といったお調子者のポップソングは、ほぼ同時にデビューしたツイストの、あの腰の入った歌い方のほぼ対極に立っていた。
(冒頭の一行か二行でバンド名は分かる人には分かるだろう。サザンオールスターズである。小生もファンだ!)→「サザンオールスターズ★STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!! 」
転記やネット検索で疲れた! 続き(を書くかどうか分からないが)は後日、また(多分)?!
| 固定リンク
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- 連休中は薪ストーブ使わず(2023.12.05)
- 思い付きは危ない(2023.12.03)
- 指紋認証は止めた!(2023.11.29)
- その須藤斎の著書なの?(2023.11.27)
- 閉じるとピタッと止まる、その快感!(2023.11.24)
コメント
新東京タワー構想再燃なる情報を追記した。
投稿: やいっち | 2006/03/18 22:42