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2006/03/17

春の嵐…勧酒

 昨夜は、「日本列島は17日、低気圧が関東を通過した影響で、太平洋側の広い地域で未明から強い風が吹き、東京・大手町で午前2時ごろに最大瞬間風速32メートル、千葉市で32・8メートルを観測した。」という春の嵐の一日だった(「Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 春の嵐、千葉で風速32・8m…各地で交通機関乱れる」参照)。
 小生もタクシードライバーの端くれとして昨日の午前10時半過ぎから本日の午前6時過ぎまで風雨の中、営業していた。
 風雨の中と書いたが、昨日の午後は小雨が断続的に降っていて、そこに次第に風が加わり、夜半を回ってからは、予想に反して雨が早めに上がったはいいが、風のほうは強まるばかりという天気だった。
 だから、風と雨が相俟って道行く人を、交通機関を、庭や塀や看板を乱しあるいは吹き飛ばしたりしたのは、そんなに長い時間ではなかった。

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→ 激しい風雨の中、都心を目指して…。車中からの撮影。

 強い風が吹くと路上にいろんなものが舞う。しかも雨上がりとなると、多くは傘、デザインの施された布地の傘も散見されるが、大概は(印象かもしれないが)ビニール傘である。不意の雨というわけではないが、それでも用意が間に合わず余儀なく買い物求めた傘だから、用が済めば棄てられるか、置き去りにされるか、意図的ではないのかもしれないが忘れられていくビニール傘。
 他にゴミ捨て場のゴミが風に飛ばされ路上を行き交う。ペットボトル、空き缶(中には自動販売機から、あるいはコンビニなどから回収された多数の空き缶の詰まった大きなビニール袋も)、空っぽのビニール袋、工事用のコーン、コーンから剥がれたのだろうコーンベッド…。不思議に枯れ葉も多く舞っていて、その舞い踊る様だけを車中から眺めると、さながら木枯しに枯れ葉が散り舞い踊るといった風情だった。そして、稀に路上にまで看板が倒れ込んでくることもある。
 ニュースによると、春の嵐がアパート屋根を剥ぎ取ったとも!

 空っぽのビニール袋というのは、実害はあまり考えられないのだが、風に踊る白や黒のビニール袋というのは遠目にはちょっと怖い。特に風の吹く雨の夜ともなると、遠目には蠢きまわる得体の知れないものとしか分からない。猫かカラスかハトが冷たい風雨に叩きつけられて体力が消耗し、こんもりと茂る木の枝葉という巨大な傘の中に篭ることもできずに地上に落ち、そのまま風のなすがままに無数の車の行き交うアスファルトの黒い川を右往左往しているのかもしれない。動かない黒っぽい物体なら屍骸なのかもしれない。
 誰も屍骸など好き好んで踏みたくはない。かといって風雨の中、不意に路上に湧くかのように黒い影が垣間見えてきたからといって無闇に車線変更をするわけにもいかず、とにかくとりあえずは目を凝らして直視して、その正体を探る。屍骸なら車線変更までいかなくとも、可能な限り同一車線の中で右か左かへ車を逸らして走り抜ける。
 ビニールかあるいはその手の走行に無害なものと判断が付いたなら、側方あるいは後方に車がないのなら避けるが、そうでなかったらそのまままっすぐ走り抜ける。
 とにかく瞬時に正体を識別させないといけない。夜の風雨という状況にあっては、しかも、都心を郊外へ向かって帰宅の途につく数多くの車の波の中に自分の車もあるとなると、細心の注意を払う必要がある。

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← 雨が風がフロントガラスを叩きつける。前が見えない!

 それにしてもまさに消耗品、使い捨ての代表というか筆頭に上がりそうなビニール傘。
 小生など、十年以上も昔、大田区に越して間もない頃、雪の夜に帰宅した路上で拾ったビニール傘を数年間、愛用したことがある。
 トボトボと歩いていたら雪に半ば埋もれるようにして透明なビニールの傘が落ちている(まだ雪がちらほらしていたが傘などなくても構わない程度になっていたから、あるいは棄てられていったのか)。
 ただのものなら不幸だって拾う小生のこと、見た目には傘の骨が折れているようにも思えず、思わず拾い上げてしまった。カサッと、じゃない、パサッと開いてみる。やはりだ、全くの無傷品。我が家まではそこから歩いて数分だし雪だって上がりかけているのだが、拾った傘が嬉しくて、せっかく手にしたものだものと、春雨ならぬ小雪の道を傘を差して、風流を気取って歩いてみたのだった。

 そう、透明なビニール越しに夜空や遠目が見えるのがビニール傘の、他の高級(?)傘には決して得られない長所を存分に味わってみたかったのだ。
 以前、何かのエッセイで、傘の布地は透明乃至は半透明を、という主旨の雑文を綴ったことがあったっけ。それは傘というのは雨の中を差す(最近は紫外線のこともあり、日傘の使用も結構増えているが)。雨だと、音が弾ける雨滴で近寄る車の音も掻き消されて、たださえ安全の度が下がる中、傘を差して視界が失われがちになるのだから、尚のこと、通行に擦れ違いに支障をきたすことが多くなる。
 その点、ビニール傘だと、生地の部分が透明だから、傘を目深に差しても、前後の様子が布地の傘より見えやすいから視界の確保という点でも、もっとその長所への認識を深めたほうがいいという内容だったと思う。
 尤も、最近は、ビニール傘が安くなる中(消費税込みで105円!)、透明ではないビニールのジャンプ傘も出回っている。ジャンプということで開きやすいのはありがたいが(小生もスーパーで買い求めたが、200円前後だったろうか)、ビニール地は従前通りなのだが、クリーム色で高級感(?)が漂うのは結構なのだが、透明でないのは、やや評価に迷いを生じさせたのだった。

「春の嵐」は、言うまでもなく字義通り春の季語である(但し、サイトによっては「春の嵐」は季語ではないとしている!)。「嵐」だけだと語感などからも想像が付くように夏の季語。「春の嵐」に似た季語に「春雷(しゅんらい)」があるが、幸い、昨夜は雷鳴が轟くことはなかった。
「春の嵐」から連想するといえば、「春雷」以上に「春一番」こそが先だろうか。
日本海に浮かぶ壱岐の漁師に伝わる「春の嵐」ともなる南風をさす気象用語で、日本海低気圧により、海が荒れあるいは東北、北陸でのフェーンなどもこれに伴う現象ということでございますから、気象の急変という漁師にとってはもっとも警戒すべき気象の一つと思われます」とあるように、「春一番」は「キャンディーズの同名の歌」からイメージされるような生易しい嵐ではないようである(余談だが、キャンデーズが結成されたのは1973年。小生が大学に入った翌年。貧乏学生だった小生は、当然、テレビなどなし。たまにキャンデーズの三人の雄姿に見える機会があるとしたら、近所の食堂でテレビを見るときか、帰省の折くらいのもの。その意味で小生とキャンデーズとは擦れ違いだったのだ。ピンクレディーもそうだが、この二つの女性グループの現役の活躍をリアルタイムで楽しむことが出来なかったのは、演歌好き歌謡曲好き女性好きミニスカート好きの小生としては痛恨の極みである。ああ、もっとお世話になりたかった。そうしたら我が青春も青味が春色になっていただろうに。惜しいことをした!)。

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→ 夜半を過ぎて風は吹いているものの、あの雨が夢のような晴れ渡った空。裸の枝の間に月影が。人影のない公園の脇で一息つきつつ撮影。是非、画像を拡大して観て欲しい。

 去り行きし春の嵐も夢と月

 ネット検索したら、『春の嵐』というタイトルの小説があることを知った。一つは、ヘッセ著の『春の嵐―ゲルトルート』(高橋 健二訳、新潮文庫)であり、さらには池波 正太郎著『春の嵐 ―剣客商売』(新潮文庫)である。
 池波氏の本は、好きで何冊となく読んだが、このテレビドラマ化された作品は未読のようだ。
 ヘッセは若い頃に定番の『車輪の下』『デミアン』と読んだが、社会人になっても繰り返し読んだのは、アウトサイダーの魂の苦しみを描いた『荒野のおおかみ』(高橋 健二訳、新潮文庫)だった。ヘッセはこの青春の書を五十歳の折に書いたという。今の自分にこのように矛盾に向き合う情熱があるだろうか。
 小生は、学生になりたての頃、コリン ウィルソン著の『アウトサイダー』(中村 保男訳、集英社文庫)を繰り返し読んだものだったが、この本の中で「サルトル、カミュ、ヘミングウェイ、ヘッセ、T・E・ロレンス、ゴッホ、ニジンスキー、カフカ、T・S・エリオット、ニーチェ、ドストエフスキー、ブレイク、キルケゴール、ラーマクリシュナ、グルジェフ、T・E・ヒューム、バーナード・ショー、等々」が扱われていて、ヘッセについては、『荒野のおおかみ』に焦点が当てられていたこともあって、ヘッセというと『車輪の下』『デミアン』『シッダールタ』止まりだった小生が『荒野のおおかみ』に手を出し、感激し、社会人になってからも、孤立しがちな自分の性癖もあって、この本に手が伸び、癒され励まされたものだった。学生時代の青春の書が『ドストエフスキーの『罪と罰』とセリーヌ の『夜の果てへの旅』(生田 耕作訳、中公文庫)とが大学時代の青春の書ならば(この二冊は今もって我が青春の書でありつづけている)、リルケの『マルテの手記』(大山 定一訳、新潮文庫)、ジェイムズ ジョイスの『若い芸術家の肖像』 (丸谷 才一訳、新潮文庫)とこの『荒野のおおかみ』との三冊が社会人になって文学や哲学から離れ(学生の頃は友人と思想談義を楽しめたし)てしまった小生が、細々ながらでも文学や芸術に縋り続けることを絶望させなかった、心の本だったのである。
 
 脱線が過ぎた。疑問がある。春の嵐って、一体、どのようなことを指すのか、である。
 そもそも春の嵐といった場合、風と雨の両方なのか、それとも強い風が吹き荒れることを指す、その際、雨が降っていては定義から外れるのか、あるいは雨が伴うかどうかは慮外であって、降っていても降っていなくてもいいのか。
 否、その前に、「嵐」って何?
嵐 - Wikipedia」によると、「(あらし)は、強い雨を伴う暴風のことである。正式な気象学の用語ではない」とある。となると、「春の嵐」「秋の嵐」には風雨で荒れるということか(「冬に北海道沖で発達する低気圧による物は「冬の嵐」と呼んでいる」というから、「冬の嵐」は個別な意味合いが篭められているようだ。上記したように、夏の嵐は「嵐」だけで含意している)。
 とにかく、みんなが口々に「嵐」と呼べば、もうそれで春なら春の嵐、秋なら秋の嵐ということになるのだろう(か)。
「嵐」というと、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』(鴻巣 友季子訳、新潮文庫)をつい連想してしまう。映画化もされているが観ていない(見る気もしないが)。 そしてヒース

「嵐」で映画というと、何故か嵐の場面があったかどうかさえ記憶に定かではないのだが、石原裕次郎の主演第1作である『狂った果実』を連想してしまう。石原裕次郎の魅力にのっ掛かるだけの映画が多かった中で、この映画は際立っているからなのだろうか。
 石原裕次郎は紛れもなくスターだったと思うが、彼を本物のスターにする映画もドラマもなかったのは不幸だった(「黒部の太陽」が唯一の例外?)。ただ彼を消耗してしまっただけに終わっている。彼の歌が好きなのも、そのスター性と裏腹の娯楽にしか走れなかった、走らせてくれなかった不毛な映画人生とは違って、歌の世界にはひたすらこちらが勝手な思い入れができるからという一面もあるような気がする。

 長々綴ってきた。昨日は袴姿の女性をしばしば見かけた。卒業式のシーズン酣(たけなわ)のようだ。そんなお子さんの卒業式に立ち会っての帰りというお母さんを乗せる機会があった。お子さんは二次会へ行かれたとかで、ご自身はハイヒールで歩くのに疲れたのでタクシーで帰宅の途に。
 車中であれこれ喋ったが、小生は雨は未だだったが、やや風が吹き始めてきた中、お喋りをしながら、もう既に就職口も決まっていて、精神的にも経済的にもお子さんが独立して、お母さんにご苦労様と言いつつ、心中では作家の井伏鱒二の「はなにあらしの」とか「さよならだけが人生だ」という文句で有名な詩を想っていた。

 全文を示すと、以下のようである:
 

勧 酒      酒を勧む  于武陵
勧君金屈巵    君に勧む 金屈巵
満酌不須辞    満酌辞するを須ひず
花発多風雨    花発いて風雨多し
人生足別離    人生 別離足る

 この漢詩の意味合いはネットで確かめることが出来る。例えば、「お薦め漢詩のコーナーです
 訳は有名だが、敢えて示すと、次のようだ:
  
  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトエモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 春の嵐の風雨は季節の変わり目を示し、何事かの終わりを告げ、何事かの始まりを告げる。風景も一変する。名残の雪が残っていたって、むしろ侘しいくらいのものである。心の中でも何かが死に絶え、何かが芽生える、はずである。さよならが言えるうちが花なのかもしれない。
 とにかく、去り行く人にも、見送る人にも、ご苦労様と言いたい!

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