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2006/03/02

嗅覚の文学

「匂い(臭い)」というと鼻そして嗅覚。哲学に移る前に文学方面で「鼻(あるいは嗅覚)」をテーマにしたもの、乃至は題名の一部に入っているものを幾つか。
 まずは、小生の好きな作家であるゴーゴリが浮かぶ。言うまでもなく、その名も「鼻」である(『外套・鼻』 所収。 平井 肇訳、岩波文庫)。
 ブックレビューによると、「ある日突然顔から抜け出し、歩き廻り出した自分の鼻を追って狂奔する下級役人を描く幻想的な物語」とある。
 コミカルでナンセンス調だが、面白うて、やがて悲しきである。傑作として挙げはしないけど、幾度、読んだかしれない作品だ。

「鼻」というと、芥川龍之介の作品を真っ先に浮かぶという人も多いのでは。
東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した『鼻』を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる」という曰く付きの作品。
 高校だったと思うが教科書に載っていた。
 ソクラテスのような意味合いではなく、歪な形の鼻を持つ小生のようなものには、ゴーゴリもそうだが、芥川のこの「鼻」が授業で扱われている間は針の筵(むしろ)状態だった。喩えが間違っているかもしれないが、焼けたトタン屋根の上のネコ状態だった。
 それこそ、自分のことを教室中で、学校中で、やがては世界であげつらっているような気分だったのだ。 
 あげつらい嘲笑している、それどころか声を出して朗読などさせられようものなら、哄笑されているような…、じゃない、哄笑されていると感じるしかなかった。
(鼻呼吸ができないこともあって、授業が始まって十分もすると、酸欠状態になる。口呼吸しかできないから、口を大きく開けて息をしたいけど、外聞もあるし、授業の邪魔だし、口を薄く開けて息を細く細くして吸ったり吐いたりする。この辺りのことは、掌編「授 業 中」でやんわりと描いてみた。小生の場合、十歳で鼻呼吸ができなくなってからは、授業は酸欠との戦いだった。増して「鼻」に焦点が当たっているとなると!)
 ゴーゴリの「鼻」もユーモラスな感がある、哀愁の感だって漂っているけれど、しかし、自分を「思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ」の意のユーモアで敢えて客観視したい、しないといけない、作品には自分をではなく人間を風刺する高度で深い世界が表現されているのだと思いたいのだけれど、どうやってもそんなユーモアという衣で身を包み隠すのは無理がある。窮屈なのだ。背伸びしすぎなのだ。

 小生は読んだことがないのだが、風見 治氏というハンセン病文学作家がいて、彼には「鼻の周辺」という作品がある。
 ハンセン病文学なんて風に呼称するのは、偏見を同氏に塗りつけるようで、我ながら不躾であり不遜だと思うのだが、世間的にはそのように扱われているようだ。
 ハンセン病文学という限定(それとも桎梏か)を外していいのかどうかは、小生自身、読んでいないので判断が付かない。
 原民喜が『夏の花』などで「被爆体験を作品に刻んだ」のだとして原爆文学作家といった限定を狭く感じさせるのは、個々の事象の個別的な細部を描きつつもそれが普遍性の域に達しているからだろう。
 風見 治氏はどうなのか。
 その風見 治氏の「鼻の周辺」は、「『鼻の周辺』は、造鼻手術を受けた話である。……鼻を顔につけた人間の心理が、ゴーゴリ風の滑稽な書き方ではなく、むしろ、ハンセン病にかかった人の切実な願望の成就として、一直線に描かれている。……小説書きとしての風見治の才能はもっと知られていいと私は思う(加賀乙彦 第2巻解説より)」という(「ハンセン病文学全集 第1期・第2巻(小説二)」より)。

「鼻」という題名の小説は、他にもあるのかもしれないが、見つけられなかった。

 ただ、「鼻」がコンプレックスの種になっている人物が主役の有名な小説はというと、最高の純愛作品とも言われ、映画化もされたエドモン・ロスタン著の『シラノ・ド・ベルジュラック』(辰野 隆, 鈴木 信太郎訳、岩波文庫)で、これを逸するわけにはいかない。

 但し、嗅覚をテーマにしているか、重要な題材になっている小説はそれなりにある(但し、嗅覚というと犬を誰しも連想するが、動物モノはここでは除外しておく。あまりに膨大になりそうだし)。

 以前も紹介したが(「「匂い」のこと…原始への渇望」にて)、「十八世紀のパリ、次々と少女を殺してはその芳香をわがものとし、あらゆる人を陶然とさせる香水を創り出した匂いの魔術師の冒険譚」といった内容のパトリック・ジュースキント著の『香水―ある人殺しの物語』(池内 紀訳、文藝春秋)や「女性のメンスの匂いに異常に敏感」で「メンスで血の滲んでいたり、その処理をし終えたりする女性に離れた場所からでも気付いてしまう」男の物語のアマール・アブダルハミード著『月(Menstruation)』(日向るみ子訳、アーティストハウス・角川書店)など。
 嗅覚というか異臭というべきなのだろうか、原田 宗典氏著に『スメル男』 (講談社文庫)があるらしい。内容はレビューに拠ると「ぼくの体に、何かとんでもない変化が起きている。東京全都を嘔吐させるような異臭がぼくの体から漂い始めた。原因はわからない。気弱なぼくを信じてくれる人はたった1人。コンピュータを自在に操る天才少年たちも仲間だ。八方ふさがりの迷路の中で、今、ぼくのとてつもない青春の冒険が拳をふり上げる」といったものらしいのだが。

 これらも未読なのだが、「危うく殺されそうになりながら、一命を取り留めたミノル。ところが1ヶ月の昏睡から目覚めた彼は異常な能力を手にいれていた。犬並みあるいはそれ以上の嗅覚。人間離れした嗅覚を手に入れた彼の前には全く違った世界が広がっていた」といった設定の、井上夢人氏著『オルファクトグラム』(毎日新聞社)や、「神経内科の女医植田理歩は、大学院生富坂から研究協力を依頼された。富坂の恋人夏海を対象にした研究のテーマは、嗅覚障害。匂いのメカニズムの解析が目的だ。ところが、理歩が研究室を訪ねた夜、実験用のウサギが殺される事件が発生、何者かの尾行に気づいた。やがて夏海も失踪し…。匂いに過敏になりすぎた現代人の陥穽を衝く、気鋭の新感覚ミステリー」という北川歩実氏著の『嗅覚異常』(祥伝社文庫)といった小説もある(らしい)。

 映画や舞台にしばしば採り上げられるガストン・ルルー著の『オペラ座の怪人』(角川文庫)も小生には、恐らくは余人には想像も付かないほどに切ない作品だ。仮面を被る。そのことの持つ魔力。
 仮面を被るとは顔の醜さを覆い隠すという意味に留まるものではなかろう。恐らくは、(女性の)化粧と何処か一抹の共通性があるのかもしれない。仮面(化粧)という武器を得ることで自分を隠せるという側面があるが、同時に内面に潜めていた願望・切望・欲望・情熱・情欲の類いを思いっきり白日の下に晒すことを可能にしたりする。
 世間的な柵(しがらみ)を一切思慮の外に捨て去り、心の奥の奥に眠らせていた愛憎の念がムクムクと湧き上がってくる。
 あるいは棺の中に厳重に安置(それとも封印)されていた本当の<自分>が目覚める。
 それとも、命そのものが蘇るとさえ言っていいかもしれない。

 

 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
 仮面の現象学。

                                   (「初化粧」より)

 容姿も世間的な地位も年齢も男であるか女であるか、大人であるか子どもであるか、伴侶があるかどうか、血縁関係があるのかどうか、その一切を度外視して、剥き出しの心が現れ出でるのは、仮面を被ったその束の間の時にしか人間には許されないのではなかろうか。
 それとも犯罪者になる?!

 鼻や異臭や臭いというわけではないが、ドストエフスキーの、というより世界の最高傑作のひとつ『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物にスメルジャコフ(スメルジャコフ・パーヴェル・フョードロウィチ)がいる。彼はカラマーゾフ家のあるじであるフョードルの私生児と噂されている人物で、カラマーゾフ家の召使で且つ料理人という設定になっている。
 ロシア語の分からない小生だからこその勝手な思い入れに過ぎないのだろうが、小生はスメルジャコフを「スメル」と「ジャコフ」に分け、「匂う」存在、そして「ヤコブ」の両義が混在している人物だと意味もなく色づけていた。
「臭い」のする人物。臭い人物とは、煙たがられる存在という意味を含意しているのだろう。
 一方、ヤコブとは、「ヤコブ - Wikipedia」によると、「ヘブライ語起源の人名ヤアコブの日本での慣用表記」で、「ヤアコブはヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」を意味するとされる。それは旧約聖書のヤコブ(イスラエル)が、兄のかかとをつかんだまま生まれ、兄を出し抜いて長子の祝福を得たことに由来する」という。
 つまり、スメルジャコフという名前からして意味深(というかあからさま!)だということだ。

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コメント

鼻は五感を感じる器官の中で三番目ですか 
目 耳 鼻 人は特に現代は情報を得るのが
目に大きく偏っています。インターネットだと
目耳ぐらいですね。新聞や本だと目だけだし。
犬にはネットなど面白くないでしょう。
 鼻は結構深い意味のある器官です、特に女性の方は 匂いで好き嫌いするようです。
 私は嗅覚は退化しています。時代なのか才能なのか?
 偽メールの騒ぎなどは嗅覚を軽く見た結果などと思えます。 (直接メールの匂いを嗅ぐわけでありませんが、刑事の鼻の意味で)

投稿: 健ちゃん | 2006/03/02 23:38

アリストテレスやトマス・アクィナスなどは五感に序列をつけていて、嗅覚は健ちゃんさんの言うように三番目。ま、扱いかねて宙ぶらりんになったのかな。
鼻は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の「視覚・聴覚」グループと「味覚・触覚」グループを繋ぐという位置付けだったのだろうか。
ギリシャ彫刻での鼻の形は額からへこむことなくまっすぐなのが理想とされたのも、その辺りに関係する(?)。
視覚偏重なのは西欧人や欧米かぶれした日本人に通有の現象なのかも。我々が得る情報の圧倒的部分は視覚なのだし。
嗅覚に優れる犬のように今更なれないし、超音波を聴く耳は持てそうにないし、触角に頼って生きるわけにもいかないし、味覚は大事だけど味覚に生きるわけにもいかない。
ちなみに小生は直感に頼ることが多い。
偽メール。困ります。誰が出したか確かめて欲しい。小生はメールは極端に警戒している。出すのも受け取るのも。そもそもメールアドレスが本物かどうかが分からないのだ。

投稿: やいっち | 2006/03/03 02:12

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