バルテュスの優雅な生活(序)
節子・クロソフスカ・ド・ローラ/夏目 典子著の『バルテュスの優雅な生活 とんぼの本』(芸術新潮編集部編集)を過日、借り出してきた。これもまた『白鯨』を読む傍ら気分転換に目を通そうと選んだ本。画集でもあり写真集であり紀行文のようでもある。
バルテュス(1908~2001)についての逸話は数多くある。
絵の内容や彼の絵の特徴を語るというと、ちょっと専門用語が必要になったりしがちだし、なんといっても少しは見る目が必要だが、ちょっとした裏話なら記憶の片隅に留めておいて、必要に応じて小出しに話題にまぶしておけば、気が利いている(かのようだ)。
→ 29日の夜半も回って30日の丑三つ時頃だったろうか、某公園脇で小憩そして仮眠。そう、小生も桜も。画像を見て松林桂月の「春宵花影」をイメージしていると思った方、さすがです! 初めて本物の「春宵花影」を観た時は感激した。で、模したクロス張りの壁紙を買ったのだけど、実物の気迫と気品に敵うはずもなく、一週間もしないうちに剥がしてしまったっけ。
春眠やそれぞれの夢貪らん
「リルケが序文を書いた猫の画集「ミツ」を出版したのはまだ13歳の頃」だったとか、これは逸話にはならないかもしれないが、「晩年には、ヴォー州の山村ロシニエールの古い農家グランシャレー(当時はホテル)を買い取りアトリエ兼住まいとし、2001年に亡くなるまで創作を続けてい」たとか(この山村の写真が本書に載っているが、実に美しい! それと随分と高齢になるまでご存命だったが、既に亡くなられていることは銘記しておくべきだろう。
バルテュスが二月二十九日生まれというのも、そんな誕生日に生まれたものならではの感懐を抱いていたに違いない。
ちなみに小生、ガキの頃、物心付いた直後の頃、自分の誕生日を二月二十九日と思い込んでいて、多分、カレンダーなるものを初めて意識的に見た(多分、日めくり。今も田舎の我が家には日めくりのカレンダーが活躍している)。すると、二月は28日しかない。29日がない! 自分には誕生日がないんだ…。内気な弥一少年は、そのことを誰にも言えず一人、悶々としたことがあった。)。
(余談だが、どうしてスイスなどの山村の風景はあのように美しいのだろうか。そこには理由があるに違いない。居住する当局の指導、建物の様式の統一乃至調和、村人の意識の高さ。が、もっと散文的な理由も幾つかは考えられる。電柱や電信柱の有無。村人は無論だが、旅行者・通行人がゴミを棄てない。洗濯物は表通りに面しては干さない。どんな豪華なマンションもベランダに布団や洗濯物を干したら、それで一気にスラム街になる。それはそれで善きかな、という発想法もありえるが。他でも書いたが、資材置き場となる小屋などの屋根に青いビニールシートを被せるのは美観上、極めて劣悪である。遠目にもビニールっぽさが目立ち、せっかくの緑の山と土と川と空との風景から浮き上がってしまう、まるで綺麗な人なのににっこり微笑んだら歯が一本抜けていた、という印象だ。必要上、カバーをすることもありえるだろうが、メーカーの方も美観を配慮したデザイン・配色・質感を考えてもらいたいものだ。)
そもそもバルテュスは雅号であり、本名はバルタザール・クロソワスキー・ド・ローラ伯爵である。
バルテュスという名(雅号)のワインがある(名前がたまたま同じというわけではない!)
「アントナン・アルトー(フランスの演劇人・詩人)、ジャコメッティ(スイス人芸術家)、アルベール・カミュ(フランス人作家)ら」と交流した。
「バルテュス - Wikipedia」にも載っているが、彼はほとんど独学で、「ルーヴル美術館で古典絵画の巨匠たちの作品を模写したが、なかでもピエロ・デラ・フランチェスカの影響が大きいとされる」というのも、バルテュスを語るポイントだろう。
「ピエロ・デラ・フランチェスカの影響が大きいと」あるが、バルテュスはニコラ・プッサンに格別な思いを抱いていたと奥さんは語っておられる。決して冷めることのない初恋のような感情をプッサン(の絵)に抱いていたというのだ。
実際、プッサンの絵の構図をほぼ流用して彼は幾つも主に少女の画像を描いている(彼が描くのは大半が女性像。それも若い。その点もいいし、ヌードの女性が多く描かれているというのもポイントである。自画像も凄みがある!)。
奥さん。そう、本書の著者名の一人に節子・クロソフスカ・ド・ローラとあるが、奥さんの名前であり、彼女は日本人なのである。出会ったのは1962年7月のことで、彼女が20歳バルテュスは54歳。小生のようなロートルには夢のある、でも夢のような話だ。
しかり、バルテュスのようなダンディな男に誘われたら、大概の知的好奇心のある若い女性はイチコロかも。
バルテュスの絵をネットで見るなら、例えば、「━バルテュス<Balthus>」が絵が豊富でいい。
この頁の中に、(「不滅のエロティシズム」生田耕作 美術手帳1984.8より)として、以下の一文が引用されている:
「バルテュスの作品は観る者をして不健全な、歪んだ夢想へと誘い、肉体を惑乱させる。しかしバルテュスのエロティックな絵の中には、奇妙なことに、性行為そのもの、すなわち暴力・侵犯はどこにも描かれていない。あるのはただ行為の<後>か、もしくは<前>の場景だけであり、真の行為者は画面のどこにも登場しない。作者のバルテュスの位置は現場の蔭でそれを覗き見する、もしくは想像するだけで甘んじるVoyeurの域を越えない。そこに感じ取れるのものは罪の意識であり禁忌の感覚である。エロティシズムを永遠ならしめるためには、この二つの要素が必要であるという巧妙な詐術をバルテュスは存外心得ているのではなかろうか?」
真ん中よりやや下にある「『街路』1933/1935」などを見ていると、禁忌の感覚というその一点でだが、どこかポール・デルボー(1897-1994)を想ってしまう。「夢の美術館、絵画」の中のポール・デルボー「鏡の前の女 1948」など参照。
但し、大急ぎで断っておくが、実際は、バルテュスの絵の底には、なにか真っ当なものがある。禁忌の感情は遠い日の決して手の届かぬ在りし日の少女像に対してなのであって、禁忌というより永遠に迫るかのよな愛惜感なのかもしれない。それを思い入れ過多の我々が誤解しているだけなのかもしれない。下に示す松岡正剛氏の頁を参照。
上掲の頁にも恰好の逸話が幾つも載っている。「母のバラディーヌ(Baladine)もまた芸術家であり、一時期、かの有名な詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)の恋人でもあったと」いうのだ。
また、「サド研究家として名高い小説家のピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski 1905-2001) は、3歳年上の実兄」である。
和服が好きで、奥さんにも普段から和服を着るように願っていた。
「バルテュス、節子夫妻には、一人娘・春美さんがいます。春美さんは”Harumi Kiossowska de Rola(ハルミ・クロソフスカ・ド・ローラ)”としてジュエリー制作をスタートし、1996年に初めてのコレクションを発表し、表参道のエスキス内に彼女のブティックがオープンしました」というが、その店は今もあるのだろうか(春美さん、美人!)。
ネットでバルテュスの周辺をもう少し知るなら、たとえば、「松岡正剛の千夜千冊『バルテュス』クロード・ロワ」がいいかも。
上でバルテュスという名の付いたワインを話題にしているが、「第5回 バルテュス夫妻」という頁がこの夫妻のこと、ワインのこと(ムートンの画家に選ばれること)、リルケが大絶賛したデッサン、夫婦の出会いの周辺などが書かれてあって読むと面白い。
(「序」としたが、それは本書をまだ全く読んでいないので、後日、できれば本編としての感想文を書けたらいいなという願望もあって、そのように謳ってみたもの。さて、どうなることやら)
| 固定リンク
「書評エッセイ」カテゴリの記事
- 連休中は薪ストーブ使わず(2023.12.05)
- 思い付きは危ない(2023.12.03)
- 指紋認証は止めた!(2023.11.29)
- その須藤斎の著書なの?(2023.11.27)
- 閉じるとピタッと止まる、その快感!(2023.11.24)
コメント