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2006/03/13

ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって

 チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)が面白い。
 まだ、読み止しで半分も読んでないけれど、楽しめそう!

 レビューによると、「本書は、史上もっとも危険な概念―ゼロの“伝記”である。バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいたが、その脅威は、科学が進歩を遂げた現代でも変わりはない。ゼロを追放しなければ、一般相対性理論の無限大問題は解決できないように。歴史を通じて排除の対象でありつづけたが、消えることはなかったゼロ。有用でありながら、多くの矛盾や論理の崩壊をもたらすこの概念の全貌を、まったく新しい切り口で描くポピュラー・サイエンス」とある。

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→ やはり11日の夜半過ぎ、都内某所で客待ちしながら、看板の綺麗なお姉さんをぼんやりと。日中のように路上を行く女性を眺める機会もないし。広告のモデルさん、一体、誰に微笑みかけているものやら。

 過日、ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード』 (越前 敏弥訳、角川書店)を読んだけど、確かにキリスト教の秘密に迫るようで、面白くはあったが、そうした凝った意匠を剥ぐと、物語として、というより語り口としてつまらなかった。ほんの数十頁読んだだけで、大方の一般の読者が知らないような、意表を突くかのようなキリスト教や欧米での封印されてきたかのような秘密が満載になっていて、それが好奇心を掻き立ててくれるけれど、文章そのものは殺人ミステリー物としては平凡で、ああ、先行きが読めるようでうんざりだなと予感しつつ、とにかく読み切った。
 魔の数666のことにしても知らないではなかった。「最後の晩餐」というダ・ヴィンチの大作が修復されていて、新鮮な衝撃を与えつつあるとも仄聞していた。
 小生は未読だが、『ダ・ヴィンチ・コード』が出版され話題になる数年前には、マイクル・ドロズニン著の『聖書の暗号』〈麻生 暁訳、アーティストハウスパブリッシャーズ)が話題になっていた。「2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロ―世界中を震撼させた事件は、3000年前から『聖書』に予言されていた。聖書には、さらに驚くべき予言が暗号化されていた。「聖書の暗号」の鍵が、ヨルダンのリサン半島にあるというのだ」云々といった、やはりミステリー調の本。
 古来より聖書の<暗号>を先にあげた666を含め、数字の魔術でひも解く試みは縷々行われてきたし、現在も倦むことなく営々と続けられているようだ。

 例えば、ポール・ホフマン著の『数学の悦楽と罠―アルキメデスから計算機数学まで』 (吉永 良正/河野 至恩/中村 和幸訳、白揚社)などを読むと、何も聖書に限らず高度な数学が現実の世界と想像以上に密接に関係していることを楽しく教えてくれている。
 でも、キリスト教に限らず欧米の、あるいは世界の根底に潜む数字、数学、暗合ということなら、本書を読んだほうがよほど、深いし楽しい。ミステリー本というわけにはいかないし、映画の原作にもならないだろうけれど(「「盗作」と英で提訴」とのことだけど、大丈夫なのかね。小生は、訴えた『レンヌ=ル=シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』を共著したマイケル・ベイジェント氏とリチャード・リー氏のこの本は読んでいないが、彼らの本『死海文書の謎』(マイケル・ペイジェント/リチャード・リー共著、高尾利数訳、柏書房刊)は以前、読んだ。「死海文書の謎」に絡んでいて、結構、嵌ったものだ。けれど、田川建三氏著の『書物としての新約聖書』(勁草書房)で窘められた思いをしたものだ!)。

 念のために断っておくと、小生は理系の頭を持つ人間ではない(といって、文系の頭も持っていない。文武両道に渡って不調法な人間だし)。ここで紹介する大概の本は数式に弱くても読解に支障がないので安心して読める(多分)。

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← 仕事で12日の朝、帰宅。途中、咲き誇る梅を見かけ、思わずカバンからデジカメを取り出してパチリ。でも、やはり撮影が下手で、梅の花に焦点が合わない。カメラのせいじゃないのは確か。小生の老眼、それとも腕前の悪さが原因か。

 綻びし梅の花みて綻びぬ

 ちなみに、このポール・ホフマンには他に『放浪の天才数学者エルデシュ』(平石 律訳、草思社)なる面白い本がある。小川 洋子氏著の『博士の愛した数式』(新潮社)は、「記憶が80分しか持続しない天才数学者は、通いの家政婦の「私」と阪神タイガースファンの10歳の息子に、世界が驚きと喜びに満ちていることをたった1つの数式で示した」といった本だったが、エルデシュはある意味、「世界が驚きと喜びに満ちていることを」示し続けた一生を送った数学者と言えるかもしれない。
 もっと言うと、「音楽も詩も文学も、否、それら以上に物理学や数学という学問に携わる人は<美>を頻りに強調する。この法則や数式がこれほど美に満ちている以上は、間違いであるはずがないという感覚」を持ち続けた稀有な、羨むべき人物と言うべきか。
 小川 洋子氏著の『博士の愛した数式』では、「記憶が80分しか持続しない天才数学者」という設定にすることで数学にまるで弱い小生らにも、束の間の触れ合いの切なさを効果的に感じさせてくれていたが、数学的感覚の持ち主は、そういった設定など抜きに現実の世界の豊穣さを感じて生きているのだろう。
 この数学的感覚をもっと一般化すると<美>への芸術的感覚ということなのかもしれない。美しい! 美に惑溺するその一瞬こそが全て!
 そのように感じてしまった人は、幸せなのかどうか分からない。もう、ある意味、違う世界に行ってしまったようなものなのだし。至上の美を知ってしまった人は、もう、美に囚われた瞬間から文字通り美の虜(とりこ)なのであり賛嘆者なのであり美に睥睨する人でもあるのだろうし。

 脱線してしまった。軌道修正。
 が、脱線ついでにちょっとだけ。ゼロについての本というと、多くの人が若い頃には読んだだろう、吉田 洋一著の『零の発見―数学の生い立ち』(岩波新書)を逸するわけにはいかない。
 レビューには「インドにおける零の発見は,人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる.その事実および背景から説き起こし,エジプト,ギリシャ,ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫,ソロバンや計算尺の意義にもふれながら,数学と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った,数の世界への楽しい道案内書」とある。
(本書についての書評では、やや詳しくは「吉田洋一著『零 (ゼロ) の発見』(岩波新書)  谷山豊氏による書評」が参考になる。)

 欧米に限らず、、数の詐術や暗合よりもっと根源的な宗教的哲学的問い、そして戦いがあったことを本書『異端の数 ゼロ』で知ることが出来る。
(また、脱線しそうだが、かの結果的には空騒ぎに終わった2000年問題も、根底には欧米で忌み嫌われてきた<ゼロ>の存在と密接に関わっている。思いっきり単純化すると、物事は「0」つまりゼロからは始まるのか、「1」つまり1から始まるのか、という一見するとどうでも良さそうな瑣末そうな点に帰着する。「532年、ローマの修道僧エクシグウス・ディオニシウスは、聖書を基にキリスト誕生の日付を推定し、その年を紀元1年とし、現在にいたっている」のである。→「もう一つの2000年問題」など参照。)
 神は無からこの世を人間を生み出した、が、<無>という観念、数学的には<ゼロ>という概念はヨーロッパの宗教や哲学・文化の大きな淵源の一つである古代ギリシャでは基本的に忌避されていた。かのアリストテレスの哲学では「自然は真空を嫌う」という表現でそのことが示されている。
(あるいは、ルクレティウスの「無からは何も創造できない」も同じ哲学的基盤に立っている。『物の本質について』など参照。)
 知られているように少なくとも中世までは、学問の場である教会ではアリストテレスの哲学が範とされてきた。トマス・アクィナスも、ゼロそして無の概念に関しては同じ姿勢を崩さなかった。
 この世界も、地球を中心に幾重もの天蓋が取り巻いている。世界の根源も、原因の原因を辿っていくと第一動因にぶつかるのであって、決して無やゼロから世界が創造されたわけではない、そのようであっては少なくとも中世までのキリスト教では困るし認められなかったわけである。
 そのゼロの概念が古代バビロニア、古代インド生み出され、やがてはマホメット(ムスリム)のイスラム教世界において洗練されていき、ついには長く不思議な安定を続けてきたヨーロッパ社会にイスラム教の侵入・浸潤と共に根底から揺らぎ始めてしまうのである。
 無、ゼロ、その対概念である無限、長くあってはならない観念として忌避され無視され続けてきた、それらをついに否定しえなくなったその不安と怯えを端的に表現しているのが、パスカルの『パンセ』に見出される「二つの無限の中間に位置する人間」という中間者という象徴的な表現なのではないか。
「無限に対しては無、無に対してはすべて、無とすべてのあいだの中間者で、両極をとらえるには無限に遠く隔てられている。」 といった表現に若い頃に接して一度は魂が震撼する思いを抱いた人も多いのではなかろうか。空虚への怯え。

 ところで、本書を読み始めて(実は日曜から読み始めたばかり)驚いたことがあった。驚くのは小生が無知だということに過ぎないのかもしれないが。
 それは、ヨハネによる福音書第一章第一節の冒頭にある有名な言葉、「はじめに言葉ありき」に関する。
 本書では、「はじめに比があった。比は神とともにあった。比は神だった。」なる形でヨハネの冒頭の言葉が掲げられている。

 ギリシャ語だと、「En  arche^   e^n   ho  logos」で、この「logos(ロゴス)」が多くは「言葉」(言語)と訳されている(「arche^」は起源などと訳される)。
 あるいは理性とか論理とか法則といった訳(解釈)が与えられる場合が多い。少なくとも小生はそのように思い込んできた。
(「2002年、ヨハネによる福音書勉強(その1)  この方に命があった」だと、やや福音的に「光」と介されるようだが。)
 で、本書『異端の数 ゼロ』を読んで驚いたというのは、「logos(ロゴス)というギリシャ語には、"言葉"という意味もあるが、比、英語で言えばratioという意味もある。むしろ、この訳のほうが伝統的な訳より合理的、まさにrational である」という注のあること。
 ここからピュタゴラスの無理数の発見という(豆の話が面白い!)話題に移っていくのだが、小生は、このlogos(ロゴス)の訳にratio、つまり比(あるいは尺度の尺)の意を与えるほうが妥当という考えを引きずって読む羽目になった。
 けれど、引きずっていたのは、小生などよりヨーロッパ(キリスト教世界)であって、上掲の吉田 洋一著の『零の発見―数学の生い立ち』でも、計算尺の意義に紙面が割かれている。
 合理的とは尺度で測れること、ということのようだ。が、無理数の発見、その存在がゼロ(無と無限の対概念と相俟って)やがてボディブローのように効いてくる。
 なんて、この先、『異端の数 ゼロ』にどんなことが書いてあるか、楽しみだ。
 でも、もう、寝なくっちゃ!
(著者のチャールズ=サイフェ氏って、Charles Seifeと表記するけど、この「Seife」と「cipher(暗号)」と、何処か音韻的に繋がっているように感じるけど、これもこじつけだよね。「cipher(暗号)」の語源も本書に書いてあるんだけど…。 )

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コメント

面白いですね。
哲学史的に言えばロゴスはレゲイン、集めるという動詞に基づくと習いましたね。
「はじめに行為ありき」とした人もいますね。
ヘブライ動詞は生成、ハーヤーを基本としますからヘブライの伝統を受け継ぐとすれば、この訳も間違いとはいえない。
メルマガのリンクから来ています、メルマガからこられる方もいるのかな。

投稿: oki | 2006/03/13 16:18

okiさん、さすがですね。
「はじめに行為ありき」とした人って、言われて思い出しました。ゲーテの「ファウスト」での科白ですね。ゲーテ(戯曲)らしい?!
さて、本文では「尺」が最後になっているけど、実はここからが本書では面白い。
けど、後半を読むのは来週になりそう(図書の返却期限の関係で)。
メルマガ、久しぶりです。
せめて月に二度は出したい!
小生の携帯にも配信しました。携帯で読むメルマガも乙なものです。

投稿: やいっち | 2006/03/13 19:14

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