アートレスをアートフルに(承前)
昨日の営業は、夜中になって疲れが出たのか、寝すぎるくらいに寝てしまった。どこかの公園の脇に車を止めて、ちょいと小一時間ばかり仮眠を取ろうと思ったのだが、カーラジオをオフにし、眼を閉じたのは草木も弥一も寝る丑三つ時の二時頃だったのが、目が覚めたらゴ、ゴ、ゴ、松井だ、じゃない、ゴジラ、じゃない、五時だ!
いくら車の中がダンボールや故障した電気製品、古着、そして埃だらけの自室より居心地がいいからって、これだけ寝ちゃ、アカンね。
春爛漫、春爛々弥一の本領躍如といったところか。
さて、気を取り直して、閑話休題
→ 11日の夜、都内某所で撮影。一度くらいこんな場所で野球をやってみたかったなー、なんて思いながらパチリ。
「アートレスをアートフルに(序)」で以下の二つを3月10日に、今日は何の日として紹介した:
3月10日は、第9回冬季トリノパラリンピックの会期が始まる日である(日本時間だと11日だが)。→「トリノ通信、2006年トリノ冬季オリンピック、パラリンピック 」
(覗かれた方はすぐに気づくだろうが、末尾にある「トリノ冬季五輪会場(山岳部)3D衛星写真地図」は壮観だ。)
3月10日は、東京大空襲の日である。→「春の川(はるのかわ)」(March 10, 2005 )「冴返る(さえかえる)」(February 27, 2005 )「花炭…富山大空襲」(August 17, 2005 )
ところが、早速バイアスロン女子12・5㌔視覚障害で小林深雪選手が金メダル、女子12・5㌔立位で日本選手団最年少16歳の太田渉子選手が銅メダルを獲得したなどと報じられた前者のトリノ冬季パラリンピックはともかく、後者の東京大空襲は(ラジオではNHKが少々やっていたが)テレビでは(ほとんど乃至は民放は皆無か)関連番組はなかったようだ。他に事件があったのだとしても、ちょっと情けないような気がする。
アメリカとの関係重視の現われか、単に認識不足なのか。勘ぐり過ぎ?
さて、鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン 』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)にて言及・引用・参照されているアーティスト名を今回も列挙の形でメモしておきたい。
荒川洋治氏著の『忘れられる過去』(みすず書房)の「なかに、粒来哲蔵の「えい・manta」という詩に寄せたこんな言葉があった」として(但し、「えい」は漢字表記。仮名漢字変換できなかった。ネットでも「えい」は平仮名表記のみ。「「魚へん」の漢字」にて漢字の表記を探して欲しい)、以下の文が引用されている:
詩を書くことはそれを選んだところで人生が消えるものである。詩そのものも人生をかげらせるが、それを読む人の少ない国ではなおさらである。土を離れ、空に浮かぶことなのだ。人生はないも同然なのだ。彼らのように詩人の名をもつ人にとってそれはもっとそうなのである。
だが彼らの胸には詩を書く自分を止められないものがあり、それからそのあとのことがきまったのだ。そんな彼らがひとつのかたまりとなって『マンタ』を思い描くとき、それは人生を消すことを選んだ人たちの人生のかたちの表明でもあるのだ。だからこの詩はかなしいのだ。
「国立民族学博物館特別展『ブリコラージュ・アート・ナウ』 05.5.14-15」での体験が熱っぽく語られている。興味のある人は、リンク先へ飛んでみて。
カタログも出ている:『ブリコラージュ・アート・ナウ―日常の冒険者たち』(佐藤 浩司 (編集), 山下 里加 (編集), 国立民族学博物館)
「カタログに書きつけた企画者・佐藤浩司のささやかな言葉に、もういちど耳をかたむけてみよう」として、以下の言葉が引用されている:
ぼくらはあふれるほどたくさんの物にかこまれてくらしている。なのに、いつも何かが足りない気がするのは何故だろう? ぼくらが買った物は、ぼくらの時間を受けとめきれずに使い捨てられていく。物と一緒に、ぼくらの生きた時間も消費されていく。
「「コモン・スケープ 今日の写真における、日常へのまなざし」展」
ここも参考になるかもしれない:「T's NEW FRONTIER web@sendai CONTENTS」
以下は、本展に触発されての鷲田 清一氏のモノローグ風な感想:
あるいはこんなふうにも言えようか。日常の知覚はつねに運動のなかにある。何かをさぐり、さまよっている。が、わたしたちが眼にとめるのは、記号やモノといった、意味の薄膜に覆われた形象ばかりだ。「何」という意味にふれ、見た気になってさっさと通り過ぎる。だが、そのときわたしたちは、表示された、あるいはモノを枠どる意味を見ているだけであって、物を見ているわけではない。ありふれたモノとしてその意味をかすめつつ、物にはふれずに通り過ぎる。わたしたちの日常は、見ているつもりでじつは見えていないものだらけなのだ。いいかえると、日常とは意味によって枠取られ、しかもその意味をすり切らせたもので充満している。そしてそれを主題化しようとすれば、その注視するまなざしからするりと漏れ落ちてゆく。つねに欄外に置かれるもの、この分かりきったもの、ありふれたものの集積が日常なのだ。この集積を総体として縫っているもの、それがストーリーだ。テレビから流れる空語や噂話、空疎な政治談議や仰々しい事件の記憶、人生論や家族・国家・グローバリゼーションといった大ぶりな観念のしこり……。
ホンマタカシ
安村崇
清野賀子
チャールズ・シミック著『コーネルの箱』(柴田 元幸訳、文藝春秋):
レビューによると、「ニューヨークの古本屋や小道具屋を漁って手に入れた小物を木箱に収めて誕生した小さな宇宙。バレリーナやプリンスを忍ばせたコーネルの秘密の小箱。不思議なアートに華麗な小文を加えた大人の絵本」だって。
コーネルとは、「ひとりの織物会社員が未知の芸術に取り組んでいた」、その名はジョゼフ・コーネル。「箱の芸術家」と呼ばれるのだとか。
「この箱の作品集に、詩人のチャールズ・シミックが瀟洒でとても本質的な掌編を寄せている」とし、「宇宙の誕生もバレエの跳躍も石鹸の泡だとしたあと」、以下のチャールズ・シミックの文が引用されている。
はるか彼方のものが、近くのものとつかのま触れあう。世界は美しいが、世界を言葉にはできない。だから芸術が要るのだ。
詩のスロットマシーン――我々の想像力によって作動し、相容れぬ意味たちの大当たりを出す。
ランドル・ケインズ著の『ダーウィンと家族の絆―長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ』(渡辺 政隆/松下 展子訳、白日社)という大著の「著者が祖母マーガレット・エリザベス・ケインズ(「M.E.K.」)に捧げた献呈ページ」の中に(コーネルの日記から)の引用がある!
何故? そのわけは、以下を読むと分かるかも:
「明かされた〈家族誌/家族史〉からダーウィン進化学の起源をたどる」
「本書は,チャールズ・ダーウィンを取り巻くダーウィン一族の〈家族誌〉であり,19世紀のイギリス社会の中で彼らがたどった〈家族史〉でもある.自宅を研究の場としてその生涯を送ったチャールズ・ダーウィンは日常生活と研究生活が深く密着していた.著者は,ダーウィンの家族との関わりが彼の自然淘汰説や進化観・生命観に深い影響を及ぼしていることを明らかにしようとする.読み進んでいくと,ダーウィン妻であるエマをはじめ,彼らの10人の子どもたち,そしてチャールズ側のダーウィン家とエマ側のウェッジウッド家双方の親類縁者が次々に登場する.チャールズ・ダーウィンひとりがこの伝記の対象ではない.家族と親族の全体に光を当てているのが本書のもっとも大きな特徴だ.ダーウィン=ウェッジウッド家の家系図が栞として訳書にはさみ込まれているのは,原書にはない心憎い配慮だと感じる.」という。
この本『ダーウィンと家族の絆』は面白そう。
けど、三中信宏氏のこの書評自体が力作だ。
以下、関連する部分を引用するが、是非、この書評の頁を覗いてみて欲しい。小生としては、この本『ダーウィンと家族の絆』をいつか読んでみたいと思っている。
以下は、引用である:
「第13章以降は,後年のダーウィン家の生活の中でアニーの記憶がどのように受け継がれていったかをたどっている.著者は,人間の由来,心と感情の進化,神と信仰をめぐる問題に関するチャールズの見解を取り上げつつ,亡きアニーや家族が投げかけた光と影を見出そうとしている.チャールズが1882年に死ぬまで,信仰をめぐるダーウィン夫妻の「隔たり」は埋まることがなかったのだろう.しかし,アニーはチャールズだけでなくエマの中にも生き続けた――本書全体を締めくくる末尾でそれは明かされている.1896年に88歳の天寿をまっとうしたエマの遺品の中に【アニーの文箱】が見つかった.それは45年前のアニーの死の直後に,エマが亡き子の想い出の品々を詰めた文箱だった.」【アニーの文箱】に詰まっていたのは「もの」だけではない.ダーウィン夫妻にとっての記憶もそのまま封印されていたということだ.著者が祖母マーガレット・エリザベス・ケインズ(「M.E.K.」)に捧げた献呈ページ(p.18)の下にはこう書かれている――
「小箱を定義するとしたら,“もう誰も覚えていない遊戯”,詩の世界にあるような魔法の“可動部”付きの現実離れした玩具のようなものと言ってもよいかもしれない」――ジョーゼフ・コーネルの日記(1960)より
手元に,詩人チャールズ・シミックの新刊『コーネルの箱』(2003年12月10日刊行,文藝春秋,ISBN: 4-16-322420-3)がある.【箱】の芸術家として知られるジョゼフ・コーネルの作品にシミックがエッセイを付けた本だ.この本にもコーネルの〈日記〉からの引用がある――
「妄執[オブセッション]に形を与えようとする懸命の企て」[p.10]
「すべての些細な物に意味がみなぎる,完璧な幸福な世界に没入していく」[p.52]【箱】に詰めるというのはそれほど象徴的な行為なのだろう.〈家族誌/史〉の問題としていえば,ダーウィン夫妻にとって10歳で身罷ったアニーはある意味で「偏愛・妄執」の対象だっただろうし,ケインズの本は確かにその通りだという確信を強めるものだった.エマが亡き娘の遺髪や遺品を愛用の文箱に納める場面(pp.372-373)は,その【箱】が〈身内〉にとって特別な意味をもつものという印象を読者に刻印する――
小さな箱は子供のころを覚えている
そして切ない切ない願いによって
彼女は再び小さな箱になる.
[『コーネルの箱』p.89:ヴァスコ・ポーパの詩から]そう,【アニーの文箱】は確かに【コーネルの箱】だった.
例によって、ネット検索でヒットした頁「ランドル・ケインズ『ダーウィンと家族の絆―長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ』書評」にはホームページへのリンクボタンがない。ネット検索して探すと、「 このサイトでは,系統学と統計学に関するさまざまな情報,関連する本の書評,私の活動記録と進行企画,アジビラ,日々の研究ライフでの日録と本録を配信します」という、三中信宏氏の「MINAKA Nobuhiros pagina」というサイトのようである。
書評は、「boekbeoordeling」
但し、今年度からはブログの「leeswijzer boeken annex van dagboek」に完全移行とか。
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