肉体のファンタジア…目と髪と
小池真理子氏著の『肉体のファンタジア』(集英社)を過日、読了した。
レビューには、「ふくらみはじめた「乳房」を意識したころ。互いに「目」を見つめあうだけでわかりあえる関係。どこか性的にひかれる「毛」。中年男性の「背中」にただよう倦怠の魅力。受話器のむこうからこぼれる吐息のような「声」。そして女しか持ち得ない「子宮」の秘密とは。肉体のさまざまなパーツに刻まれた官能の風景、記憶が鮮やかに蘇る。五感を刺激するファンタジックなエッセイ集。」とある。
小池氏のエッセイ集としては、『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社)を先だって読んだばかりである。簡単な感想文も綴っている。
『闇夜の国から二人で舟を出す』を読んだばかりだし、彼女の小説をとも考えたが、今はメルヴィルの小説『白鯨』の世界にどっぷりと浸っているので、他の小説を平行して読むのは閉口だし、息抜きを兼ねて読むにはエッセイ集のほうが気軽だ。
実は、『肉体のファンタジア』は前々から気になっていた本でもあった。
図書館で手にとって拾い読みしたことは幾度となくある。だから、いざ、借り出して自宅で読み始めてみたら、最初のうち、もしかして以前、既に読了しているんじゃないかという思いがしたほどだ。
それに、小池氏は小生より二つほど年が上だし、よほど前向きな方なので、なんとなく勝手ながら姉貴分風に思い入れしている面もある。
女性が自ら女性の肉体のパーツをめぐってあれこれファンタジー的文章を綴る。興味津々である。そこに誤魔化しや綺麗事が含まれるとうんざりだが。
扱うパーツは、「骨 指 歯 顔 乳房 唇 毛 目 贅肉 臀 背中 声 皮膚 鼻 爪 舌 臍 子宮 」であり、本来、多くのパーツは男性と共通のはずだが、そこはそれ女性と男性とではまるで違う成り立ちになっているように感じる。男の体を見たいとか、触りたいとか、まして舐めたり弄ったりしたいとは思わないが、魅力的な女性となると違う。全身、それこそ骨の髄までしゃぶってみたくなる(勿論、比ゆ表現だが)。不思議といえば不思議なような気もするが、これが現実である。
男性が女性の体をあれこれ斟酌・忖度・詮索する本は数知れずある。それなりに興味深くもあるが、所詮は男性同士で、多くは似たり寄ったりの感想、小生だってそれくらは自覚できるぜ、というに留まる。せいぜい、自分などよりエンジョイされている方がいるな、という程度か(それも正直、羨ましいが)。
他のレビューを見てみよう。「BOOK REVIEW 『肉体のファンタジア』 著:小池真理子」(日刊ゲンダイに掲載された書評)を覗くと、「骨、歯、臍など体の各パーツをテーマに独自の美学をつづったエッセー集。映画「あの胸にもういちど」で大学教授を演じたアラン・ドロンの官能的な「親指」、官能の扉にかかっている鍵を開ける道具としての「唇」、男が想像する以上に女が魅力を感じているという男の「背中」など、肉体が喚起する官能の気配を映画のワンシーンや自身の記憶からすくい取った18編。」とある。
映画「あの胸にもういちど」は、あまり映画館では映画を観ない小生も、学生時代に観たもので、未だに印象が鮮やかである。官能的という紋切り型の表現を使うしかない。原作の小説(A.ピエール・ド・マンディアルグ著『オートバイ 白水Uブックス (54) 』生田 耕作訳)も後日、読んだが、映画の印象が強くて楽しめなかったというオチも付いている。
出版社のレビューには、「早朝の大気を切り裂いて、若い女の乗ったオートバイが疾走する。夫を棄てて愛人の許へ愛車を駆り立てて行くレベッカ。愛の幻想に錯乱しながら、彼女は破滅に向かって驀進する。現代人の日常の奥に潜む狂気のエネルギーを詩的幻想に包んで作品化した、マンディアルグの大衆小説第1作」とある。
思えば、当時、小生はオートバイの免許を取得し、即座に中古のオートバイを買って駆っていた。夢中だった頃だ。夢見がちな二十歳頃だったから、映画の出来など分からなくて、勝手な思い入れ、ほとんど妄想を抱きつつ映画を観ていた。
オートバイの出てくる映画にターゲットを絞って映画を選んでいたような気もする。
オートバイに長く乗っていると、ランナーズハイの状態に陥ることがある。マラソンランナーがランナーズハイという状態に入るという話を聞くが(小生も長距離走は好き。アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』は映画は観ていない(はずだ)が、小説は、ただただそのタイトルに惹かれて読んだものだった)、ライダーにも似たような感覚を味わうことがある。
さて、以下、小生らしい的外れな雑文を、しかも、恐らく本文に直接関係のないことを順不同で綴っていく。
なので、小池真理子氏についての読書案内ということで、下記のサイトを紹介しておく:
「小池 真理子の巻 青春の熱き恋と情念の海に浸る コラム 本よみうり堂 YOMIURI ONLINE(読売新聞)」
毛(hair)の章を読んでいたら、水上勉氏の短編小説『案山子』が引き合いに出されていた。これは以前、他のところで紹介したことがある小説である。ネットでも読める云々とか(→拙稿「案山子のこと」参照)。
当該部分を抜き出してみる:
髪の毛のもつ、どこかエロチックな生命力ということで言えば、すぐに思い出すのが水上勉氏の短編小説『案山子』である。北陸の貧しい山村を舞台に、性的魅力に富む妻が不貞を働いたのではないか、と誤解した夫の悲劇を描いた作品で、そのラストシーンの、淡々と描写された数行は、おぞましくも美しい。「それは人間の髪の毛であった。髪は海苔を敷いたように薄氷の上に浮いていた」
(水上勉『案山子』より)凍てつく風が吹きわたる真冬の水田の、薄く氷の張った中、黒い糸屑のようなものがそこにへばりついている。人々が案山子だとばかり思っていた大きな人形が、朽ち果て、首だけ出して氷の中に埋もれている。
豊かな乳房と白いつややかな肌をもった妻は、また髪の毛も黒く豊かであった。死してなお、生命を誇るかのように、"海苔のごとく"、薄氷の上にへばりつく黒髪……女の豊かな黒髪は確かに、不死の生命を思わせて妖しいのである。
ちなみに、上掲した拙稿「案山子のこと」では、水上勉『案山子』より、「稲の刈り入れも終わった田圃に案山子がポツンと立っている」とした上で、以下の一文を引用している:
案山子は古び、ところどころくさりかけている。秋の暮れの案山子ほど、みじめなものはなかった。冬に、おこもりに出かけた村人が、庄左の田圃にはった薄氷に何か見つけた。海苔のような黒い糸屑は、人間の黒髪であった。髪は海苔を敷いたように薄氷の上に浮いていた。髪の根元には、埋もれた案山子があった。首だけの案山子であった。髪はその案山子の頭から生き物のように黒々と浮いて見えた。
案山子がキーワードになっている掌編として、「案山子とボクと」とか「曼珠沙華と案山子」などを書いたことがある。
目(eye)の章を読んでいたら、「子供の頃から成人するまで、私はずっと一重瞼のままでいた」(途中、思いっ切り略)「ちなみに私は、二十代も後半になる頃から不思議と一重だったはずの目が自然に二重になり、今では完全な二重瞼で、しかも目が奥まって見えるようになった」という記述があった。
この章の中では、小池氏は、「同年代の女友達に言わせると、女は誰しも年を重ねるとそうなるらしく、それは顔の皮膚がたるむせいだろう」「何が原因であるにせよ、細い目、一重瞼にコンプレックスを抱いていた人間にとってみれば、老いと共にやってくる皮膚のたるみは、その意味でむしろありがたいものと化している」と、一重瞼が二重瞼になったのは、年齢と皮膚のたるみに帰して片付けている。
この一重瞼が二重瞼にある年代(年頃)において(多くは二十歳ごろ)変貌することが間々あるということについては、以前、書いたことがある→「二重まぶたと弥生人」
ここでこっそりと(?)打ち明けているが、実は小生も二十歳の頃までは一重瞼だったものが、ある日、不意に二重瞼に変わった、当の体験者の一人なのである。
そんなこと、ありえるはずがないと思っていたので、家族を含め誰にもその珍事については語らなかった。変わったといっても片方のほうだし(もう片方は以前から二重だった)、奥二重なので、ちょっと見た分には一重としか見えなかったので、奇異に思われることもなかったし。
が、上掲の一文の中で書いているが、日本人には間々、起こりえることだし、実際にそうした事例は関係するお医者さんなら知っていることだという。
詳しくは上掲の一文を読んでもらいたいが、要は日本人はベースは縄文人でそこに弥生人が渡来し混血したため、そうしたこともあったりするというのだ。
疲れた。他にも触れたい点はあるけど、まだ体調が悪いので、気力が湧かない。
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