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2006/03/09

読書拾遺…市川浩・坂部恵・三木清

 鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)をお茶を飲みながら徒然に読んでいたら、懐かしい名前、懐かしい本の題名が出てきた。
 読者レビューによると、「当代きっての人気哲学者」という方だが、小生が本を手にするのは初めて(のはず)である。
 出版社のレビューでは、「微かな違和の感覚を掬い取るために、日常の「裂け目」に分け入る。「見る」ことの野性を甦らせるアートの跳躍力とは-。共同通信配信の「夢のざわめき」欄に掲載されたものを中心に編集した「アート」評」という。
 が、「まえがき」によると、「いつもほど理詰めな書き方を、ここでわたしはしていない。現象にふれるとき、理に沿わせる、あるいは論理の枠組みを先立たせるという、哲学の修業のなかでついつけてしまった悪癖をあたうかぎり遠ざけたかったからである。他者の感受性にふれておろおろするじぶんをそのまま晒けだしたかったのである。<想像>のレッスン、それはだから何よりもまずわたし自身に課したものであることを、はじめにお断りしておきたい」というのだ、ロッキングチェアに腰を埋めて居眠りの合間に気軽に読んでも構わないだろう。

 実際、哲学プロパーとなると、不勉強な小生も、では専門家が専門領域を離れた時、それがアートであれ現実の事象、風俗、経済、家事、教育現場となると、基本的には対等のはずである。
 テレビで様々な専門家がコメンテーターとして、ワイドショーなどでしたり顔でコメントしているが、専門分野に関わることだと、くちばしを挟むのは憚られるが(テレビ・ラジオに向かっては勝手な突っ込みを入れているが)、さて、少しでも専門を離れると、まさにその人の人間性が、人間として積み重ねてきた経験がモノを言うわけで、なんだい、専門家ってたって、専門を離れたらたいしたことないじゃんと思ってしまう。
 その意味で、世に名高い(小生だって名前くらいは知っている)方の世態風俗を含めたアートへの彼なりの<おろおろぶり>を高みの見物と洒落込んでも構わないはずである。

 ところで、未だ読み止しなので『〈想像〉のレッスン』の感想は控えるが、本書を読んでいて懐かしい名前、懐かしい本の題名が出てきたと冒頭に書いた。
 それは、市川浩氏著の『精神としての身体』(勁草書房)である。学生時代に楽しんで読めた珍しい日本の哲学者の本だった。「1983/03出版」とあるが、最初の出版は1975年である(今は講談社学術文庫に入っている)。
 レビューには、「心身合一の基底から生きた具体的身体を一貫して把握することをめざす。現象学を駆使し,身体の様々な側面の記述から「行動の構造」へ到る。日本人哲学者の初の本格的身体論」とある。
 市川浩氏というと、その頃、第3回「哲学奨励山崎賞」授賞記念シンポジウムの記録である『身体の現象学』(河出書房新社)も読んだ。
 ほかに、『現代芸術の地平』(岩波書店)や『<身>の構造  身体論を超えて』(青土社)などを読んだ。
 最近、彼の名前を目にしないと思っていたら、2002年8月(17日か)に亡くなられていたのだ。哲学(凡そ学問)から遠ざかっているとはいえ、こうした消息も知らないでいたことは、残念だし我ながら情けない。

 小生は大学生になった頃、今では理由は覚えていないのだが(多分、この賞の受賞者たちの著作が清新で当時として新境地へ導いてくれるように感じたのだと思う。同時に、この賞が富山に無縁ではないからでもあったはず)、哲学奨励山崎賞関連の本を出るたびに読んでいたものだった(のちに山崎賞となった。詳しくは「笑説 越中語大辞典」の「山崎賞」の項を参照)。
 記念すべき1973年の第1回哲学奨励山崎賞受賞者は、科学史・科学哲学の村上 陽一郎氏だった。第7回哲学奨励山崎賞は現在、テレビでコメンテーターとしても活躍されている生命環境学・環境倫理学・応用倫理学の加藤 尚武氏。第9回「哲学奨励山崎賞」は足立和浩氏で、『笑いの戦略』(河出書房新社)なる本がある。
 で、第4回哲学奨励山崎賞を受賞されたのは坂部恵氏で、その記録である『仮面の時代』(河出書房新社)は読んだし、『仮面の解釈学』(東京大学出版会)も面白かった

 市川浩氏(75年)、坂部恵氏(76年)と、学生時代の小生、読める文章の日本語で哲学する人たちが現れてきてるなと僭越ながら思っていたものだった。それまでも、三木清、九鬼周造、和辻哲郎、西田幾太郎、田辺元、高橋里美etc.と独創的な著作を為された方はいたけれど、市川氏、坂部氏の登場で一気に違うレベルに突き抜けたような気がした。
 裃(かみしも)を取って、軽やかに哲学しているという感があったのだ。
(それにしても、上に上げた名前で特に三木清の本は懐かしい。『パスカルにおける人間の研究』や『人生論ノート』『語られざる哲学』などもいいのだが、講談社文庫から71年に出た『哲学と人生』は今から振り返ると青春の書だったような気がする。500頁を越える大部の本だったのだが、硬軟取り混ぜての本で、難解な部分、三木の凄まじい覚悟を感じさせる文章などがあって、齧り付くようにして読んでいた。ま、ちょうど失恋の時期と重なっていたこともあって、自分なりに懸命だったのだと思う。キルケゴールの訳者でもある桝田啓三郎の解説も印象的だったような気がするが、獄中で書いた遺作「親鸞」に宗教的な理解よりもセンチな思い入れをしていたようだった…)

 大所・高所から文化や芸術を論じるのではなく、水平な地平にあって飛び交うアートの切っ先や弾丸をかわしながら、あるいは時に被弾しながら、それこそ<おろおろ>しつつアートを等身大の次元で語ってくれているような気がしたものだ。
 季語随筆の「初化粧」での、「見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。」や、「化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。」といった文章にも、僭越且つ不遜ながら、市川氏、坂部氏らの書(文章)の遠い遠い残響があるのだと思っている。

土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中で小池真理子氏の名前を出しながらも、ほとんど触れていない。車中で『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社刊)を読み始めているのだが、これが期待以上に面白い。彼女が仙台で暮らしたことがあることに親近感を覚えたり。
 今日は、このエッセイ本をタネに小池真理子氏の周辺を廻ってみたかったけど、また別の機会にゆっくり扱いたい。多分、数年前だったか、比較的最近の女性作家を片っ端から読み漁った時期があったので、その話題がメインになるものと思う。

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書評エッセイ」カテゴリの記事

コメント

三度目の正直です、これで書き込めなかったらもうここには書き込まないぞ/笑。
坂部恵さんというと「純粋理性批判」をパースの言語論とのかかわりで論じたり、「中世」という言葉はやめようと講義でいっておられてなつかしい。
さいきん「モデルテ・バロック」という本を出されましたね。
和辻哲郎とヘルダー、岡倉天心とシェリングを比較したり実に面白い。
僕としては京都学派へひとことほしいところです。

投稿: oki | 2006/03/11 12:26

okiさん、掲示板に書いたようにココログは昨日トラブル中でした。コメントありがとう。レスは明日します。

投稿: やいっち | 2006/03/11 19:10

okiさん、小生が本でしか知らない人に直接、講義を受けておられるのですね。世界が違う。本文の中で言及している方で小生が講義を聞けたのは、「テレビで様々な専門家がコメンテーターとして、ワイドショーなどでしたり顔でコメントしている」中の一人、加藤 尚武氏です。ヘーゲルの話だったけど、内容はすっかり忘れました。
彼、テレビでコメンテーターしてますね。初めて見たときはびっくりしました。彼がコメンテーター! 隔世の感です。

坂部恵氏は今では名誉教授ですものね。小生が同氏の本を読んだ時は、氏は三十代の半ば。これまた隔世の感あり、です。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/gyouji/gyouji_k04_sakabe.htm
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0017.html

投稿: やいっち | 2006/03/12 08:09

渡邊二郎なんていう学者もいました。
僕は何かの授業と重なってこの人の講義は受けていないんですよー。
哲学科の大学院の入試は大学院に入るためだけに留年する人もいるという厳しいものだったのですが、渡邊さんが厳しかったのです。
渡邊さんも放送大学に移ってから宗教的になりました、天からの恩寵としての幸福をといたりしてますね。
そもそも東大の哲学は宗教的無関心に特徴がありますが、晩年になると宗教に理解を示す人が多いですね。

投稿: oki | 2006/03/12 12:40

oki さん、羨ましい環境だったのですね。
懐かしいというと、木田元氏の本も(同氏が東北大学の卒業生ということもあってか)結構、学生の頃、フォローしていた。
なのに、肝心の小生の受け持ち教授の細谷貞雄氏、滝浦静雄氏や柏原啓一氏(当時、四十歳前後!)らの本はほとんど読んでいない(既に細谷氏、滝浦氏は物故されている)。

渡邊二郎氏って、渡辺 二郎氏のことですよね(もち、プロボクサーの同姓同名の彼とは違う!)。
小生、彼の本は読んでなくて、ただ、ハイデガーの『存在と時間』は、中央公論社(世界の名著)版で読んでいて、渡辺 二郎氏(原 佑氏と共訳)で読みました。明晰で緻密な理解力を感じました。
今、仮に渡辺 二郎氏の本を読むとしたら、『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫)かな。

西欧の哲学(文学、思想など)を研究される学者の多くが晩年になると先祖がえりするように宗教、それも日本の仏教や神道に関心を持つようになるってのは、定番みたいになってますね。
芸術家(絵画などを含め)でさえも、明治以来の多くの学者がそうでした。先進文化の輸入に汲々するってのは、後発国として仕方ない面があるのでしょうけど。
それでも、ちょっと悲しい。
自分が哲学などを本当に心底から受け止めていない、あくまで欧米の文化を翻訳輸入していただけだということを如実に示しているようにも思われかねないし。
哲学をするなら欧米や東洋やアフリカや日本を問わず、血肉を以て対決・対峙してもらいたいものです。

投稿: やいっち | 2006/03/12 13:10

こんばんは。
なんとも面白い本を購入、濱田洵子による「近現代日本哲学思想史」、関東学院大出版会。
この本は第二次世界大戦以後の日本哲学を第一世代、第二世代と分け、「理性から感性へ」として「「伝統的哲学の立場」として渡辺二郎や今道友信を「理性から感性へ」として坂部恵や市川浩を論ずるという本格的な本です。
薄っぺらなポストモダンではなく、著者自身が東大の倫理という伝統的哲学に属していたせいもあり久々にスリリングな本です。

投稿: oki | 2006/03/20 23:04

濱田 恂子著『近・現代日本哲学思想史―明治以来、日本人は何をどのように考えて来たか』(関東学院大学出版会)ですね:
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980517816
第1部 明治・大正・昭和前半(第一期・解放と啓蒙―文明開化の流れ;第二期・近代日本哲学の諸様相―観念論の潮流と講壇哲学)
第2部 第二次世界大戦敗戦以後(第一世代・対決と解放;第二世代・理性から感性へ;現在の諸状況―痩せ細る哲学とその復権の可能性)
浜田恂子氏のことは知らないのですが、『歌舞伎随想 歌右衛門とキルケゴール』や『死生論』(『葉っぱのフレディ』を糸口にしている!)などの諸著作、キルケゴールやハイデッガーなどの翻訳などがあるようで、実存思想をメインの倫理学なのでしょうか。
日本の哲学を二期に分けられるかどうかは別にして、とにかく本文でも書いたように、坂部恵や市川浩、加藤 尚武、(科学史・論だけど)村上 陽一郎や柴谷篤弘、廣松渉、中村雄二郎、山口昌男、田川健三、西尾幹二(但し翻訳と解説に限定!)、黒崎宏、長谷川宏らの登場に、そして彼らの著作に時代の変わり目を感じたのは確かです。
他に既に新人ではなかったけれど、大森荘蔵や井筒俊彦、清水幾太郎 『倫理学ノート』や和辻哲郎の『風土』も日本語になっていると感じたものでした。
明治維新前後以降、終戦直後までの日本の思想を敢えて分けるとしたら、漢文(漢詩)を自家薬籠中のもの素養としていてそのベースの上で欧米の思想を輸入したか、それとも既に英語・ドイツ語・フランス語にシフトしてしまっているか(やや表面的に過ぎるけれど)に分けられると思っています。戦後二十年も経つと、かつての日本が漢文・漢詩を素養にしていたことなど、教授にさえ見出せなくなっていたでしょうが。

投稿: やいっち | 2006/03/21 14:05

濱田恂子の「恂」の字を間違えてましたね、すみません。
アマゾン見たらもう中古商品が出ているんですね、はやいはやい。
濱田の著作の難点を挙げれば、東京の哲学思想を専攻した人が中心で京都の哲学の現在に射程が及ばないところでしょうか。
たとえばカント専攻の有福さん、道元の本も書いておられますがこういう人をフォローし切れていない、濱田自身が東大にいたが故の限界とも思えますね。

投稿: oki | 2006/03/22 23:59

哲学や倫理、思想の世界も日進月歩ですね。出版されたら、もう、その時点では旧聞に属するということなのかしら。油断も隙もないね。研究者は大変だ。それだから、専門の中、しかも学閥や系譜の中を遺漏なく踏まえておくのは大変だけど当然としても、そこから一歩はずれた系統の研究論文・情報までは手が回らないのでしょうね。専門家だからこその苦しい台所事情が感じられます。
その点、小生は抓み食いですので、気楽にあちこち覗かせてもらってます。
「濱田恂子」氏については、まだネット上での情報は少ないようですね:
http://blog.livedoor.jp/kotake3451/archives/24226423.html

投稿: やいっち | 2006/03/23 14:03

>渡邊二郎
であってますよ。

投稿: jun | 2006/07/17 20:24

アマゾンで検索すると「渡邉二郎」「渡辺二郎」二つ出てきます、著作によって使い分けていたのかも。
僕はこの人の「現代英米哲学入門」ですか、ちくま学芸文庫を読みたいんです。
もともとドイツが専門の人ですから英米哲学をどう論ずるのかー。
あとこの人はニーチェの永遠回帰説についてドゥルーズの理解は間違っているともいっていますね。

投稿: oki | 2006/07/17 22:31

junさん、okiさん、渡邊二郎って表記が今風じゃないから、出版社の判断で渡辺二郎を使うことがあるのかも。

ところで、小生、渡辺二郎の前に、今、坂部恵さんの「ふれることの哲学」を図書館で予約中です。楽しみ!

投稿: やいっち | 2006/07/18 07:47

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