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2006/03/14

久世光彦著『怖い絵』の周辺

 久世光彦(てるひこ)氏著の『怖い絵』(文藝春秋)をようやく読み始めることができた。
 今日は私事があれこれあって忙しく(郵便局、歯医者、クリーニング、図書館、スーパー、掃除機のクリーニング、風呂場の掃除、その上、思い立って久しぶりにメルマガの配信作業に取り組んだ)、ゆっくり本を読む時間があるのかと危ぶんでいたけれど、さすが休日の威力で、一時間余りは読書に勤しむことができたのである。
 といっても、読むのが遅い小生のこと、半分も読めていない。それにあちこちで引っかかって、ついメモったりして、尚のこと、牛歩となってしまう。
 別に慌てる必要はないのだが、読みたい本、書きたいことが山積みとなると、ちょっと忙しい気分での読書となるのは仕方がない。

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→ 14日の午後だったか、都内某駅のロータリーで謎の生き物を発見遭遇! 

 それにしても、今日、図書館で返却・借り出しをしてきたのだが(「アートレスをアートフルに(承前)」などの文章を綴る参考にしていた、鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン 』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)も期限が来て、仕方なく返却してしまった。なので、志半ばにして、『〈想像〉のレッスン 』にて言及・引用・参照されているアーティスト名を列挙の形でメモする試みは頓挫と相成った。いつか再度、借りてきて続きをとは思っている)、その帰り、リサイクル本のコーナーを見たら、驚いた。
 真新しい全集が十数冊も並んでいる!
『コレクターズ版世界文学全集』(日本ブッククラブ)である。小生が図書館を出ようとしたのは四時過ぎだったので、恐らくは既に相当程度の巻は貰われていったのだろうと思う。
 装丁からして古びたデザイン、懐かしいという雰囲気の漂う、いかにも本はかくあるべきという全集だったが、案の定、72年に初版が刊行されたもので、並んでいた全集は第五刷のもの。でも、ほとんど手付かずといった感を強くする、頁が一切、捲られていないような新鮮さ。

 こんな本を貰っていっていいのかと思いつつも、物色。背表紙の題名を読んでいくと、大半は読んだもので、中にはつい先月まで読んでいたトルストイのアンナ・カレーニナもある。パールバック、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、ドストエフスキーの「罪と罰」(確か、この装丁の本でも小生は「罪と罰」を読んでいる!)、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」…。懐かしい題名が目に眩しい。
 欲しいものが六冊ほどあったが、そこはそれ、気の小さいというか、返却・借り出しの際に持っていくビニール袋に入る分(当然、借り出しの本が二冊あったし)ということで、三冊を選び、手にしながら、カウンターの女性(綺麗だ!)に貰っていいのと訊く。「どうぞ」という声と、頷く素振り。

 選び持って帰ったのは、スタインベック(但し、昔読んだ「怒りの葡萄」ではない。それだったら貰って帰る必要はない)、デュマ・フィスとバルザックの合本、ヘミングウェイだ。中には読んだ作品もあるが、久しぶりに読む、そう、旧友と再会するような気分で読めそうだ。
 
 さて久世光彦氏の本を読み始めた。レビューによると、「ビアズリーの〈サロメ〉、乱歩の〈陰獣〉の挿し絵を画いた竹中英太郎、ベックリンの〈死の島〉、生涯〈蝋燭〉を描きつづけた高島野十郎―。テレビ界の鬼才が、数々の絵との出逢いと、〈ヰタ・セクスアリス〉を綾糸のように織りなした妖かしの世界」とある。
 小生、「久世光彦氏が死去」で書いたような事情もあって、同氏については、一冊も読んではいないのに、勝手に親近感を抱いている。
 だからだろうか、ある意味、プレッシャーもある。
 それは、知人の書いた小説を読んでくれ、その上で感想を呉れないか、と頼まれたような、そんな憂鬱さに近い。面白ければいいが、身の回りにそんなに都合よく抜群の書き手がいるという幸運があるなんてことは、めったにあるものではない。 
 つまらなかったら、つまらないと言えればいいが、今後の付き合いもあるし、あたらずとも遠からず、あるいは当たり障りのない感想でお茶を濁すしかないのが通常だろう。
 無論、相手は天下の山本周五郎賞である。「時間ですよ」など、数々の名ドラマを演出されてきた方である。作詞家の阿久悠氏や作曲家の小林亜星と同輩の方である、「市川睦月(いちかわ・むつき)というペンネームで1993年の日本レコード大賞受賞曲である香西かおり「無言坂」、天地真理「ひとりじゃないの」、沢田研二「コバルトの季節の中で」、浅田美代子「ひとりっ子 甘えっ子」、郷ひろみ・樹木希林「林檎殺人事件」、堺正章「涙から明日へ」などを作詞」された方である。
 しかし、である。小説なんてものは、書き手と読み手の波長が合わないと、どうにもならない面がある。それは資質もあるし、好みや育ちもあるし、年代もある、素養も結構、左右する。
 では、さて、少しは読んでどうだったか。最初の「姉は血を吐く、妹は火吐く」を読み出したときは、お見合いで言えば、様子見の気分がどうしても先にあった。警戒心があると、互いに妙に客観的というか他人行儀になってしまう。趣味は何ですか、いい天気ですねとか、話題を探すのに汲々としてしまう。
 で、第一印象次第ですれ違いに終わったりする(なんて、お見合いしたことはあまりないのですが)。

 少しは我が郷里に縁のある人、しかも、高校も同じ、だからとって小説を読んで面白いとは限らない、ま、つまらないと感じたら、何も書かないで、すっ呆けておくのが無難だろうと思っていたのが、案外と面白い。とにかく頁を切らせてくれる。
 最初の作品を読み終わる頃には、久世氏の文章世界の流れや波に素直に乗っかっていけばいいと、本を手にするのも楽しみになってきた(雑用と居眠りで何度も中断しつつ読むので、一つの作品を読むたびに本を手放す習いなのである)。

 それにしても、本書『怖い絵』の編集は極めて不親切である。さすがに目次は載っているし(「姉は血を吐く、妹は火吐く」「「死の島」からの帰還」「蝋燭劇場」「「二人道成寺」の彼方へ」「陰獣に追われ追われて」「誰かサロメを想わざる」「去年の雪いまいずこ」「豹の眼に射抜かれて」「ブリュージュへの誘い」)、各作品に挿入されている画の数々の題名ほかも明記してある。
 が、肝心の作品の書かれた日や初出の冊子がまるで書いてない。
 小説を読むのに余計という考えもあるだろうが、参考にするかどうかは、読み手の選択の問題であって、短編集を仕立てる以上は、最低限、初出雑誌名や執筆あるいは掲載年月くらいは明記すべきではないだろうか。
 なんといっても、「まえがき」も「あとがき」もないのだ。目次だけ。潔いといえばそうなのだが、しかし、これは作家たる久世氏の考えが反映されているのだろうか。その辺りも含めて、久世氏の世界には門外漢の小生は知りたいのである。

 本来なら作品の感想を書くべきだろうが、ま、これは読了してから改めて、その気になったら書くつもり。
 ただ、どう見ても久世氏が若き日々を過ごした彼の父の郷里でもある富山(富山市)のことなのに、「北国」とか裏日本という表現があった。ま、物語の中だから目くじら立てるのも野暮だとは思うし、東京生まれ、東京育ちで戦火を避けるため疎開で富山という地に流れてきたという気分があるのだろうとも理解はできるのだけれど、気にはなる。
 彼には富山は仮住まいの地という意識があったのだろうか。
 その点、富山市に住んでいたこともある(といっても、幼少時に)宮本輝氏の芥川賞受賞作品である『螢川』は、結構、富山の地に向き合っているという感があった。以前、感想を書いたこともあるし
 尤も、まだ百頁も読んだわけではないので、今のところは気になる、というだけにとどめておく。

 前置きが長くなった。今日は、感想は書くつもりはなくて、本書の中に登場する作家・画家、たとえば「江戸川乱歩を指導した推理作家」という小酒井不木(こざかいふぼく)(こんな凄い推理作家がいた!)などをを採り上げるつもりだったが、また、後日に譲る。

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