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2006/03/05

読書拾遺…忘れられた日本人

 図書館に行くと(実際には「情報館」の「図書コーナー」だが、まあ、便宜上、図書館と呼んでおく)、館内でまず最初に目にするのは新刊コーナーである。尤も、ラックに並ぶ本を手に取ってみると、新刊は新刊なのだろうが、必ずしも出たばかりの本というわけではない。
 中には一昨年の本もあったりする。図書館の方の判断で購入されているから、ピカピカの新刊ばかりではないということなのか(よくは分からない)。
 過日もそうで、中に木村 哲也氏著『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』 (河出書房新社)があった。
 パラパラ捲る。面白そう。借りよう!

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→ 紫苑さんに戴いた画像です。今度、あのサルヴァトーレ・アダモのコンサートに行くのだとか。羨ましい。若い頃、彼の「雪が降る」はどれほど歌ったかしれない。センチだったんだ…、昔は。

 ところが、生憎、そうした日に限って他にも借り出したい本があったりする。その日は、先日来、借り出されているのか、前には目にしていたのに最近はずっと書架に姿のなかったハーマン・メルヴィルの『白鯨―モービィ・ディック 上・下』(千石英世訳、講談社文芸文庫)がたまたまあったので、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の次はこれを読むと決めていたことでもあり、『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』 のほうは、とりあえずは断念することにした。
(ちなみに、『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』は読む機会をいつ作れるか定かではないので、本書や筆者を紹介するサイトを示しておく:「木村哲也著ー「忘れられた日本人」の舞台を旅する」)

 が、書を書架に戻したのには他に理由があった。
 それは、肝心の本家本元の宮本 常一著の『忘れられた日本人』 (ワイド版岩波文庫) を小生、読んでいないのである。
 やはり、順序ってものがある。民俗学は小生の好きな読書分野の一つで折々関連する本を読んできたが、この高名な本を何故か手にしていなかった。名前はしばしば目にするので、もう、読んでしまったような気分になっているのだろうか。
 宮本 常一著の『忘れられた日本人』 を後日、見つけ、土曜日に読了したので、若干のことをメモしておく。

(さらにちなみに、『白鯨』を今月に入ってから読み始めているが、懸念したようには読んでいて退屈することがまるでない。なにゆえ懸念したかというと、当時読んだのは「冬の宿」の作家・阿部知二氏が訳者で、河出書房新社グリーン版世界文学全集所収の版だったと思うが、学生時代には、読んでいてひたすら退屈で読むのが辛かったからである。リヴァイアサンたる白鯨が相手なのだし、嵐だってある海の上の物語なのに、だだっ広い、昨日も今日も変わり映えのしない海を死ぬほど退屈な気分と戦いながら漂っているようで、しかも、読み聞かされるのはクジラなどの薀蓄ばかりで、こんな小説の何処が面白いのか、が正直な感想だった。が、小生の読書の際の性癖として、一旦、手にした本は面白かろうが難解だろうが、とにかく最後まで(あとがきまで)読み通さないと収まらないのである。意地で読み倒していた。マンの『魔の山』も学生時代に初めて読んだ時はひたすらうんざりしていた。『白鯨』もそうした読書に終わった作品の一つで、当時の小生には『白鯨』の世界はまるでピンと来なかったのだ。が、今回はまるで違う。楽しみつつじっくり読んでいるし、最後まで楽しめそう!)

 今更、小生などが『忘れられた日本人』の感想を書いても意味はないだろうが、とにかく語り口の上手さを感じた。その前に話を引き出す上手さというべきか。
「忘れられた日本人」というのは、文字通りなのだが、偉大なことを成し遂げたが無名に終わったとか、日本にはこんな偉い人が居た、忘れられてはいるが、銘記すべきだという意味合いでもなく、まずは、多くは読み書きがままならず、文字で(文章、文書)で記録を残さなかった人々の意味合いが強い(但し、家計簿などの記録を残している人物も多く採り上げられている。「文字を持つ伝承者」という章もわざわざ立ててある!)。
 農作業にしても山の仕事にしても、日常のこと、祭りのこと、男女の交わりのことにしても、体験として身に染み込んでいる。親の代からの伝承にしても頭の中に、つまりは心の中に語りの言葉として刻まれている。
 だから、誰かが話を伺わない限りは、うまく話を引き出さない限りは、その方が亡くなったら、無形の文化(財)は忘れられていくばかりなのである。

 レビューには、「柳田国男・渋沢敬三の指導下に,生涯旅する人として」「日本全国をくまなく歩き,各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907-81)が,辺境の地で黙々と生きてきた古老たちの存在を生き生きと描き,歴史の舞台に浮かび上がらせた宮本民俗学の代表作.(解説=網野善彦) 」とあるが、本書はまるで珠玉の短編集のような感さえ漂う。
「対馬にて」「私の祖父」「名倉談義」「女の世間」「土佐寺川夜話」「世間師」といずれも面白いが、中でも土佐の何処かの橋の下の小屋に住む盲目の元博労(ばくろう)だという老人の「土佐源氏」は秀逸!
 ここでは「土佐源氏」の内容は紹介しないが、名前だけは聴いたことのある人も多いのでは(せっかくなので、「文-体・読本 「土佐源氏」オリジナル版」なるブログの頁を参照してみたら如何)。

「世間師」というのは、題名からして変わっている。
「世間師(一)」の冒頭部分を抜書きすると、「日本の村々をあるいて見てみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向が強く出ていたようであるが、明治に入ってはさらにはなはだしくなったのではないだろうか。村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。」とある。
 これで、掴みはOKである。このような話の発端で、一気に宮本ワールドに引き込まれていくのである。

 上記したように、本書の解説は故・網野善彦氏である。
 小生は未読だが、同氏には『『忘れられた日本人』を読む』(岩波セミナ-ブックス)があるようだ。
 レビューには、「既存の日本像に鋭く切りこんでいる日本中世史家が,宮本常一の『忘れられた日本人』を読みぬき,歴史の中の老人・女性・子ども・遍歴民の役割や東日本と西日本との間の大きな差異に着目したその先駆性を明らかにする」とある。本書『忘れられた日本人』への解説でも、宮本常一が注目していた「歴史の中の老人・女性・子ども・遍歴民の役割や東日本と西日本との間の大きな差異」に評価を与えている。
 日本を特定の史観に拘って窮屈に受け止めるのではなく、海に囲まれ森や山が圧倒的な部分を占めている島国である日本の、想像をはるかに超える豊穣な世界をもっともっと思い知っていいのではないかと改めて痛感させてくれる本である。
 
 ところで、「忘れられた日本人」については、もう一言。
 というより、締めの一言を網野善彦氏から。

 本書『忘れられた日本人』への解説で網野善彦氏が書いている:「たしかに「無文字社会」は日本では、いまや極小の状態になりつつある。だが「忘れられた日本人」「忘れられた人間」は現代の真只中にも、また歴史の中にも、なおきわめて多いのである。宮本氏以上の力をもって、われわれはその「伝承者」となり、その存在を問いつづけていかなければなるまい。」

 パソコンもあるメールもある。鉛筆もボールペンもある。紙だって棄てるほどに溢れている。文字を書く機会にはありあまるほど恵まれている。が、口に出来ない、言葉にならない体験・経験も多い。それどころか一生、心に蓋をして秘め通してしまわねばならないこともあったりする。
 家事や子育てで言うに言えない労苦を重ねた人も多いのだろう。病気に苦しみ通した(通している)人も数百万もいるに違いない。
 そうした声なき声に耳を傾ける…。言うは易く行うは難き、である。
 聞けるものなら聞いて見たい。が、こればかりは相手のあることである。聞き手の度量や理解力も肝要だし。

 小生など、やたらと書きまくっているけれど、一番肝心な部分な情念の部分はエッセイやレポートでは表現できず、虚構作品の形を採ることが多い。
 虚構ということで心の重石が取れて日の目を見るはずのなかった闇の世界に沈み込んでいた何かが、束の間、浮かび上がってくるのである。
 虚構とは、心の闇に蜘蛛の糸を垂らすこと、なのだろうか。


 虚構とは蜘蛛の糸繰(く)る心かも

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