都良香の涙川
「呪術的な響きを聞き分けるハーンの耳を魅了した琵琶法師,大黒舞,門づけの歌….近代日本が捨て去った物語の調べ,冥界と交信する民衆の音楽を再生し,『耳なし芳一』がもつイメージの官能性,濃厚なエロスの所以を掘り下げる」という、西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波ライブラリー)を読んでいたら、遠い昔に聞きかじったことのあるような名前が出てきた。
それは、都良香(みやこのよしか)という名前。
「都良香 - Wikipedia」によると、「都良香(みやこのよしか、承和元年(834年) - 元慶3年2月25日(879年3月25日))は、平安時代前期の漢詩人・文人。父は桑原貞継。本名言通(ことみち)。対策(律令制における官吏採用試験の一種)に合格した後、少内記・掌渤海客使を経て従五位下文章博士兼大内記に至った。文才に秀で、詩歌のみならず多くの詔勅・官符を起草している。「日本文徳天皇実録(略称・文徳実録)」の編纂にも関与したが、完成する前に亡くなっている。家集「都氏文集(としぶんしゅう)」には詔勅や対策の策問などの名文がおさめられている。また「本朝神仙伝」「十訓抄」には良香に関する逸話が収められている。漢詩は「和漢朗詠集」「新撰朗詠集」などに入集している。」とある。
これでは遺漏がないかもしれないが、堅苦しい。
→ 29日の午後、冬を思わせる冷たい風の吹く春霞の空を背に桜が咲き綻んでいた。
咲くならば風に負けじと春の花
一般には、「貞観12年(870)、道真公が26歳のときに都良香邸において弓を射ると、百発百中の腕前であったといわれます。道真公が学問だけでなく、文武両道であったことがわかります。ちなみに都良香(834~879)は道真公が方略試を受けたときの試験官でした」(「道明寺天満宮・天神縁起絵扇面屏風の解説」)とあるように、菅原道真公との絡みで知られるかもしれない。
このエピソードについては、「菅原道眞公」なるサイトの「第十話 その⑤文武を磨く」という頁(【後篇】)が読みやすく且つ面白く語ってくれている。
しかし、都良香というと羅城門の鬼とのエピソードを触れないわけには行かない。大概、高校の古典か国語の授業(恐らくは菅原道真の話をする際)の時の恰好のネタとして先生が語る(今は分からないが)。
「京都冥所図絵」の「羅城門趾」を参照させてもらう。
「文章博士・都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。良香がこの詩のことを菅原道真に語ると「下句は鬼の詞だ」と言ったという。(『十訓抄』より)
残念ながら「平安京の正門と言うべき羅城門であるが、石碑一つあるのみで全く痕跡がない」という。
「平安京の正門と言うべき羅城門」は、「Yahoo!ブログ - チャチャ姫 羅城門(京都魔界伝説)」によると、「京都を内と外とに分ける境の地」であり、だからこそ、「異界と関わっていて鬼などが住むとされてい」たのだというわけである。
「都良香が羅城門を通った時」は、「ある月夜に騎馬」で通りかかったとか。
「羅城門」をめぐる話題が、「Yahoo!ブログ - チャチャ姫 羅城門(京都魔界伝説)」には満載で読んでいるだけで楽しい。
ただ、「羅城門趾」では、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした」と、鬼が漢詩の後半(続き)を詠んだかのように書いてあるが、「羅城門(京都魔界伝説)」では、都良香が羅城門を通る際に「気霽れて(はれて)風新柳の髪を梳る(くしけずる) 氷消えて波旧苔の髭を洗ふ」と一気に詠み、それを鬼が聞いて感嘆したのであり、後日、都良香が菅原道真に自慢すると、後半のくだりは鬼が詠んだのだと言ったという説明になっている。
いずれにしても、神域に至る出来の漢詩だということなのだろう。
上掲の「都良香 - Wikipedia」によると、「本朝神仙伝」には良香に関する逸話が収められている」という。詳しくは調べられなかったが、「『物語要素事典』2006年版」の、「血」なる頁には、「『本朝神仙伝』「都良香の事」第24 都良香は菅原道真に官位を追い抜かれ、怒って辞職し、山に入って消息を絶った。百余年の後、ある人が山の窟で都良香に会ったが、顔色は昔と変わらず、壮年のごとくだった」とあった。
山というと、「富士登山の歴史」という頁に、、「都 良香(みやこのよしか)「富士山記」記載文」なる一文が載っていて興味深い。
「長良天神ページ」の「天神さま物語 宮司 木村 照」は、文字通り菅原道真公の物語なのだが、幼年時代の道真公が都良香と絡む逸話が載っている(「十八才で文書生に合格」という項)。
「五才で和歌を詠んで、神童ぶりを発揮きれた菅公は、八才の時碩学都良香に師事して、学問を修められたのでありますが、その学識は先天的なものがあ」ったということで、「十一才の春、父是善卿が菅公をためさんと、今宵の状景を詩作せよと命ぜられると、菅公は筆を執て即座に」秀逸な漢詩を作詩し周囲を驚かせ、「これを聞いた師の都良香卿は、その英才を歎じて「我が才到底菅公に教える力が無い」と師範を辞退し、その後は学友の交りをされたと伝えられてい」るという。
しかし、漢詩となると味読するのも難しい。和歌を探してみる。
「ミロール倶楽部」の「古今和歌集の部屋 巻十」にて、以下の歌を見つけた。「古今和歌集にはこの歌しか残されていない」とか。やはり、漢詩に本領を発揮していたということか。
466 流れいづる 方だに見えぬ 涙川 おきひむ時や 底は知られむ
歌の鑑賞は、当該の頁を見て欲しいが、「「オキヒむときや」という部分に 「おきび(熾火)」が含まれている。 「おきび(熾火)」とは赤く燃える炭火のこと。 "おきひむ時" は 「沖干む時」である」という点だけ、メモさせてもらう。
「沖干む時」などあるのかどうか。涙のわけなど分かるはずがない、という意と受けとめると、当たり前すぎるか。
ところで、「日本語学通信 第3号」(「みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」補説)には、「流れ出づる方だに見えぬ涙川 おきひむ時や底は知られむ」が採り上げられている。
「日本語学通信 第2号」の「みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」項と絡めて読むと面白い。『土佐日記』中の「ある人の子」(貫之の子?)の詠む「行く人もとまるも袖の涙川 みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」をどう理解するか、なのだが。
とにかく「日本語学通信 第2号」の「みぎはのみこそ ぬれまさりけれ」項を読んで欲しいと思うしかないが、ここまで古典や歌を読み込めたら古典の研究も楽しくてならないだろう。
日本語の表現の洗練と技巧の積み重ねの凄さを思うばかりだ。
尚、西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』の中で、どういう流れで都良香が出てきたのかを書くはずだったのだが、今回は都良香の紹介(というか、個人的にはおさらい)に終始してしまった。
それだけの人物だということか。
なのに、その弟子の菅原道真公の陰にすっかり隠れてしまっているような。上で、「都良香は菅原道真に官位を追い抜かれ、怒って辞職し、山に入って消息を絶った。百余年の後、ある人が山の窟で都良香に会ったが、顔色は昔と変わらず、壮年のごとくだった」という一文を示しているが、才能や実績からしたら道真公より余程……と、あるいは墓場の陰で思っているかもしれない。
といいつつも、さて、都良香の墓は何処にあるのだろう? あるとして墓銘碑にはなんて刻まれている?
都良香については、漢詩は別にしても、『都良香の立合』という「昔から伝わる立合の曲」など、幾分でも触れておくべきことが他にもありそうだが、今日はもう疲れた!
よしかなる名前の裏の影深き
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