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2006/03/11

引鶴(ひきづる)からサンバへ

季題【季語】紹介 【3月の季題(季語)一例】」を眺めていたら、「引鶴(ひきづる)」という季語が目に付いた。
 春の季語、そして鶴が引くということで、「春が来るとシベリヤなどに鶴は帰って行く」という光景を容易に思い浮かべられることだろう。「鶴帰る」や「鶴引く」、「帰る鶴」、「去る鶴」といった類義語もある。
 思えば、小生は鶴あるいは鶴に関連する季語を採り上げたことがなかったようだ(断言はできない。小生のことだから見落とし、記憶間違いの恐れがかなりある)。
 冬だと、「凍鶴(いてづる)」という、これまた美しい季語がある。
わたしの俳句歳時記<今週の季語・一句抄> 鈴木五鈴」なる頁を覗かせてもらう。
 すると、「凍てついたように動かない鶴のこと。頭を翼に入れ、片足でじっと立っている姿が印象的に思い起こされよう。いかにも寒げだ。タンチョウのダンスのように鶴とは一般的に優雅なイメージに包まれているが、身体からの放熱を防ぐためとはいえ、片足以外は外の寒気にさらさないという徹底した形姿は面白い」というエッセンスの凝縮された評釈が載っている。

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→ 写っているのは、9日、日の出ふ頭で見かけたシンフォニーの後ろ半分、そして東京湾とつながる運河。別に今日の季語随筆で鶴を採り上げるので、鶴をイメージできる画像を予め撮っておいたというわけじゃない!

 ここに掲げられている、「凍鶴や沖の暁雲茜さす  野村喜舟」は有名な句なのだろうか。
石手川公園(野村喜舟)」なる頁を覗くと、喜舟には「囀(さえずり)や天地金泥(きんでい)に塗りつぶし」ようだ。これも鳥に絡む日本画をイメージさせる句である。

 ところで、小生、何ゆえ「引鶴(ひきづる)」という季語に今日は惹かれたのか。妙な話だが、「タンチョウのダンスのように鶴とは一般的に優雅なイメージに包まれているが、身体からの放熱を防ぐためとはいえ、片足以外は外の寒気にさらさないという徹底した形姿は面白い」という一文が起因しているようだ(太字は小生による)。

 タンチョウのダンス…決して、単調なダンスではないし、短調のダンスでもなく、丹頂鶴のダンスであることは言うまでもない。
 引鶴(ひきづる)たって、足が引き攣ってる鶴という意味じゃない。
「身体からの放熱を防ぐためとはいえ、片足以外は外の寒気にさらさないという徹底した形姿」に対し、だったら、卵を抱くように足を折り曲げて、体の形をそれこそ卵のように丸めればいいじゃない、というつまらない突っ込みも控えておく。冷たくなった湿地や雪原で餌を啄ばむ鶴だからこその知恵なのだろうし。

 ああ、また、小生らしい脱線が始まった。
 大急ぎで軌道修正!

 早速、「タンチョウの生態」という頁に飛ぶ。
 ここにはタンチョウの生態を示す見事な画像が幾つも載っている。そんな中、「採食していたつがいが、突然、愛の絆を確かめ合う踊りを、はじめた」という画像、特に「タンチョウの求愛行動・鶴の舞い」という幾つかの画像が素晴らしい。色合いもあるし、姿の優美さもあって、鶴の舞いは鳥たちの中でも一際(ひときわ)優雅・優美だ。

 ここまで書いて、何故、「鶴」だったのか、やっとその訳に思い至った。
Charlie K's Photo & Text」のトップ頁や「茶風log「写真家チャーリーの徒然グサッ!」というブログの「a short samba film」に「或る夜の四谷サッシ・ペレレ」というサンバの画像や動画が載っているのを見たからだったのである。
 動画などを見て、ライブの感覚を蘇らされたからである。

 勝手にシンドバッドならぬ勝手にサンバファンしている小生だが、昨年の11月以来、サンバのダンスも雰囲気からも遠ざかってる。DVD画像などでは折々見ているが、なんといってもライブの感覚は得も言えぬものがある。
 その雰囲気の幾許(いくばく)かを上記の動画などが思い出させてくれたのだ。

 誤解して欲しくないのだが、紹介した四谷サッシ・ペレレでのサンバのダンスが丹頂鶴の舞いのように優美だとか、そんな単純な比較・連想をしているわけではない。
 というより、もっと単純にダンス繋がりという素朴な次元での連想だったように思う。

 その素朴には、サンバのダンスの特有な根源性=大地に繋がる感覚というべき要素もある。
 ダンスは日舞からタンゴ、バレー、フラダンス、ジャズダンス、社交ダンスとその多彩さは想像以上のものがある(ようだ)。ようだ、というのは、実際に生だろうが、テレビや映画だろうが、見たことのある種類は小生の場合、非常に限られているからだし、ダンスの世界を本格的に調べてみたわけでもないからだが、それでもサンバに惹かれてからは、ダンスの文字を見ると、箪笥でさえも胸躍ったりするようになったもので、つい、ポスターの中にダンスの文字を見ると、へえ、こんなダンスもあるんだと単純素朴に驚く。
 そんな中、サンバのダンスの独自性は何処にあるのか。
 なんて生意気なことをサンバどころか散歩もしない小生が語るのはおこがましいが、ま、そこはサンバのギャラリーとしてパレードを幾度も見てきた一人のファンとして勝手な妄想的異見を持つのは構わないだろう(ということにさせてもらう)。
 というより、ファンだからこその勝手な思い入れもあるのだろうと思う。
 既にこれまで若干のことは書いてきた。
裸足のダンス
 ここでは、「ダンサーの方が、裸足で踊っている最中、どんなことをイメージしているのか、小生には分からない。アフリカの大地なのか、あるいはブラジルの大地なのかもしれないし、いや、日本の何処かの土の色の見える大地なのかもしれない。
 あるいは、そんなことの一切は、まるで見当違いであって、大地というより、この世界、この宇宙そのものをイメージしているのかもしれない。それとも、大地から宇宙へ至るエネルギーの通路としての自らの体を意識しているのであって、踊るとは、そのエネルギーの充溢と発散のことなのかもしれない。つまりは、自在に動く体への喜びなのかもしれないし、自らの肉体と大地や世界や宇宙との交歓そのものを実現させているのかもしれない。」なんてことを書いている。

サンバのダンスに感じること
 ここでは、「生きているとは、肉体が生きていること、脳味噌の出来とか、社会の中での役割に見合った程度の断片化された身体などに制約されるのではなく、そんな逆立ちした後ろ向きの人間性に縛られるのではなく、まさに丸ごとの人間。頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。
 為政者の思惑、カーニバルやパレードをイベントとして、何かの呼び物として利用しようというマスコミや商店街の思惑、観客として女性の裸体に近い体を眺めて楽しみたいという観客の欲望、踊る男性の弾む肉体を堪能したいという欲望、そうした一切の思惑をはるかに超えて、ひたすら生きる喜び、共に今を共有する歓びを確かめ合いたい、そういう肉体の根源からの歓喜の念こそが、何ものにも優るという発想、それがサンバなのだと感じる。
 踊れる者も、踊れない者も、観る者も、観られる者も、支配したいと思うものも、支配の桎梏を脱したいと思うものも、すべてが肉体の歓喜に蕩け去ってしまう。」なんてことを書いている。

路上アーティスト
 ここでは、少々長いが、しかも、うっかり読まれると誤解される恐れがあるのだが、「ストリートライブの特徴には、生身ということと同時に芸の未熟さの持つ魅力があると思う。
 この未熟さには、意味があって、過剰には芸が洗練されていないということだ。芸が洗練されているということは、つまりはそうした芸が披露されている場というのは、既に何処かの(屋内の)舞台など、決まりきった場所での営業になり、とてもじゃないが、せいぜい路上で気持ちばかりの木戸銭で、通りすがりの人間が楽しむというわけにはいかないことを実質上、意味する。少なくとも数千円の入場料などが要求されるのだろう。また、芸もその対価に値するのでもあるのだろう。
 が、サンバのパレードの熱気に煽られながら見物していると、今、その場で彼ら彼女等が懸命に踊りの技術を習得しようとする意欲を感じることができる。拾得した技術を見てもらいたい一心でいるのだと感じる。その意欲で周りを熱気の渦に巻き込みたいと心底願っているのだと感じる。
 さらに言うと、サンバの音楽の持つ、いい意味での原始性が魅力なのだと思う。誰もがすぐに入れるかのような雰囲気がある。奥行きは深くて、究めるなど、サンバについても安易に望めるはずもないが、その魅力の世界に誰もが気楽に入れる、参加できる、リズムやビートを理解しているとかしていないということに関係なく、とにかく感じることができるという敷居の低さがある。
 それが例えば音楽的に洗練されればボサノバなどになり、とてもストリートでの喧騒の中では聞き入るのが勿体無いというか、ワインかウイスキーグラスを片手に、小奇麗な格好で、洒落た店の雰囲気の中で聞くことになる。
 それはそれで魅力なのだが、しかし、既に高い敷居を越える必要が生じている。路上で、通りすがりにというわけには到底、いかない。
 洗練はどんな芸にも必要だろう。また、演奏にしろ踊りにしろ、芸を究めようとすると、そこに単なる情熱を越えた円熟だったり、洗練された様式だったり、鑑賞する側にも理解する上での少なからぬ素養が求められたりする。それはそれでいい。
 が、落語にしろ歌舞伎にしろ、能にしろ、楽器の演奏にしろ、全てとはいはないが、多くは大道での芸だったのではないのか。それがいつか様式化されて、教養のない人間、素養のない人間にはやや遠い世界のものに、つまり<至芸>の世界のものに成り果ててしまったのだ。
 もっと泥臭くて、汗っぽくて、等身大で、視線が低くて、同じ大地に立つ者同士であることの共感を、一切構えることなく、気軽に味わえる、その素朴さにこそ、サンバに限らずストリートのライブにはあるのだと思う。
 その素朴さが失われた時、芸人にとっては芸の完成・熟成ということになるのだろうし、芸人・アーティストとして大成したということになるのだろうが、同時に、一歩、凡人の気軽に立ち寄れる素朴さの喪失をも意味する。」なんてことを書いている。

 まさにサンバの特色とは、大地に触れ素人と接触する素朴さと時に私生活をも犠牲にしても磨きぬかれた洗練された技とのギリギリの融合があるのだと言いたかったのだが、さてこの文章で伝わっているかどうか。

サンバの写真を観て思うこと
 ここでは、「ただ、感じるのは、ある種の夢幻の感覚である。汗まみれになり、時には炎天下で熱中症に脅かされながらも踊るダンサーたち。
 日頃、体調の維持や管理に神経を払い、ただでさえ忙しい家庭のこと、家族のこと、仕事のこと、あれこれを乗り越え、遣り繰りして、数十分という短い、しかし当人達にとっては濃すぎるほどに濃密な時間を生き、そして、踊りまくった、自分がやりたいことをやり通した、観客と悦楽の時を共に過ごした、サンバチームのメンバーが息を合わせて、一つのステージをやり遂げたという満足感に、浸る。
 その当人たちにしても、当日は興奮醒めやらないままに過ごすとして、一夜明けた朝には、前日の興奮は夢だったのか、という感覚を持つことがあるという。
 燃えた時は、夢だったのか、まさか幻ではなかったのか。そんな感覚にしばし襲われることがあると言うのだ。だからこそ、みんなの前で踊る喜び、楽器を鳴らす喜び、最高の音楽に目一杯浸る快感を、もう一度味わいたいと思うのだろう。
 そのもう一度楽しみたいという欲求は、観たいというギャラリーの欲求などの比ではないはずだろう。」なんてことを書いている。
 あるいは、「全ては過ぎ去る。だからこそ、人は、生きて、新たな手応えを求める。過去の充実は、熱い。その熱さに感懐深く浸るのも時には構わないのだろう。しかし、自分に多少でも新たな舞台への挑戦の意欲があるのならば、一層、痛切な過ぎ去り行く時間の残酷を予感しながらも、現実のステージで新たに何かを成し遂げたいという欲求を呼び覚ます。
 恐らくは、ダンサーに限らず、何かを成し遂げたいと思う人は、誰よりも栄光の時の充実の素晴らしさと共に、ある種の空しさを覚えるのではなかろうか。過去は過去。求めるのは、今であり、今に続く近い将来の感激と興奮なのだ。
 生きることを欲し、今以上に生きることに渇望する人は、写真を見れば見るほどに、次へ先へという欲求に駆られるのではないか。」なんてことも。


 さて、一層、誤解される余地のありそうな雑文が「サンバの発想」である。
 中途半端に読めば、顰蹙モノだろう。実際、書いたのは、サンバの世界の事情がまるで分かっていない(今でも理解手の程度は低いままだが)、サンバファンに成り立ての頃のことで、サンバチームでの練習振りもまるで知らないでいたのだ。
 それでも、大地に根ざした泥臭さと高度な技とのギリギリの融合がサンバの魅力の根本にあるのではという主張は、全体として分かってもらえるのではなかろうか。


求愛の思い引鶴遠い影
去る鶴に思い千切れる高き空
春を待つ思いを他所の帰る鶴
雪白の姿も雲に帰る鶴

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コメント

求愛の思い引鶴遠い影
去る鶴に思い千切れる高き空

上の句の「思い引きずる」の語呂が良いですね。「引鶴想い」は駄目かな。「引き攣る思い」は、冗談。下の句もツル・チギレルが良く響きますが。高き空は、秋のような感じも?失礼は、講評と言うことでお許し下さい。

文化人類学者の対談集、今も手元にあります。作曲家よりも学者に興味あって買った記憶があります。コンプレックスの本も面白そうですね。

モシ族の文化もなかなか理解しようとすれば難しいような。そして素朴が洗練と背中合わせと言うのは解ります。中南米の人は、音楽が鳴れば自然と体が動くというのは、知的よりも血的と言う前者にあたるのでしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2006/03/12 04:21

pfaelzerwein さん、コメント、講評、ありがとう!
「求愛の思い引鶴遠い影」で「引鶴」を真ん中に置いたのは、「求愛の思い引きずる」と、かすみがちの空に波間に舟の航跡が消えていくように影が段々細くなり「遠い影」となっていく、その両方を真ん中の「引鶴」で接着してみたわけです。
でも、「引鶴想い」も、表記の「想」の選択も含め、ありだと思います。

「去る鶴に思い千切れる高き空」の「高き空」は確かに秋を思わせますね。「春の空」では平凡すぎるし、「去る鶴に思い千切れて霞む空」(あるいは「空霞む」という案もありえるかな。

文化人類学者の対談集って『音・ことば・人間』(岩波書店刊、同時代ライブラリー 128)のことかな。帰省すると居住する部屋の書棚(学生時代に使っていたスチールラック)に今も安置してあります。当時、友人の影響で武満徹の音楽や本に関心を持ったのです。
川田 順造氏には「レヴィ=ストロース」の本の訳者という認識と関心しかなかったようです。

邪道かもしれないけれど、川田 順造氏の『母の声、川の匂い』(筑摩書房刊)を読んで逆に川田氏の仕事(「モシ王国」の研究)に興味を持った次第です。特にサンバのルーツの一つである(ブラジルはもとより)アフリカへの関心もあるし。

ラテン系の方は、ホント、音に敏感に反応する。しかも、体が最初に反応するようですね。多くの日本人のナイーブというかシャイな感性・感覚とは違うようです。
それでも、サンバの世界を少しだけ覗いて、日本にも(無論、ラテン系の国々以外にも)知的の前に肉体でまず反応し表現するのが大好きな人たちがいること、それを多少なりとも身近に感じて、ちょっとしたカルチャーショックでした(今更ながら、でしょうが)。
この本文に引用した雑文類は、サンバの世界に触れた直後の頃のもの。これから少しはサンバの世界にライブほかで没入したかったけど、ますます自分とは異質だと感じて、がっかりしているところ。もち、自分にガッカリですが。

投稿: やいっち | 2006/03/12 12:43

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