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2006/03/04

俳句からだ感覚…地貌

 毎度のことながら画面に向かっても何を書く宛てもないので、徒然なるままにネット検索していろんなサイトを渡り歩いていた。
 最初は、「匂いを哲学する…序」の続きを書こうかと思っていた。アリストテレスが五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を分析し、その序列を付けてみたり、さらにそうした五感から共通感覚という概念を導き出す辺りを説明するサイトを探していた。
 たとえば、「C アリストテレス② 」では、「【共通感覚 aistherion koinon】 (『デ・アニマ』2,3)」の項に、「視覚に対する色、聴覚に対する音のような個々の感覚器官に応じた個別感覚ではなく、それらのいくつかで共通に把握できる感覚のこと。その座は心臓にある。というのも、我々の感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つに特殊化し、それぞれ特殊な感覚器官を持つが、そのもとは同一のものだからであり、また、このようにしてとらえられる対象は付帯的なものではなく、自体的なものだからである。ただし、これを直接に捕える第六の感覚器官など存在しない」とした上で、「このような共通感覚として」以下を示してくれている:
  

 第1に、運動、静止、数、形、大きさなどの知覚
 第2に、だれだれのものである、のような知覚
 第3に、私は見ている、のような自分の感覚の知覚
 第4に、白いのは苦い、のような異なる感覚にわたる知覚

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→ 三月三日、桃の節句の日の夜半過ぎ、四日の丑三つ時と言うべきか、都内某所の公園にて撮影。トイレに梅というのは取り合わせの妙とは言いがたいだろうが、ちょっと面白くて撮ってしまった。まさに匂うがごとき梅の花である。

触覚、この余計なもの̶̶マクルーハンにおける感覚の修辞学」では、以下の文を見出す:
」アリストテレス『デ・アニマ』しかし、私たちは、白いと甘いの間、そしてその他の感覚対象のそれぞれを比べることで、それらが異なることを判別し知覚しているのであるから、そのための感覚もなければならない。なぜなら、これらの対象は感覚されるものだからである。したがって、肉はこの最終的な感覚器官ではないということも明らかになる。なぜなら、その場合、この区別は触れることによって行われたことになるであろうから。 (Aristotle 426b12-17)」
 この文に対する「トマス・アクィナス『デ・アニマ注釈』」も面白い。

 共通感覚。
 西欧(に限らないのだろうが)は諸感覚に序列を付けてきた。少なくとも「視覚、聴覚」と「嗅覚、味覚、触覚」のグループとの間には歴然たる格差(ヒエラルキー)がある。
C アリストテレス② 」の説明(「2. 共通感覚、感覚の相互作用としての触覚:アリストテレス∼アクィナス」項)にあるように、「「共通感覚」は何世紀もの間、ある感覚におけるある種類の経験をすべての感覚に翻訳し、その結果を統合されたイメージとして絶えず精神に提示する、人間に固有の能力であると考えられてきた」ようである。
 モノに直接触れる「味覚、触覚」とモノには直には触れない「視覚、聴覚」。その間にあって「嗅覚」は宙ぶらりんだった。

 明らかにモノから発するものに触れる(だからこそ臭いを感じる!)のだけれど、その事情は「視覚、聴覚」と同じ、でも、耳や目より鼻は口に近いからとでも言うように、たまたま臭い(香り)を発する物体から離れているだけで実際はモノそのものに触れているんだと、「味覚、触覚」の仲間に追いやられたりする。
 まさに、嗅覚は人の顔における位置付けを象徴しているかのようだ。ワインを嗅ぐ時はことさらに目を閉じ誇らかに芳しく、尾篭なものを嗅ぐ時は密やかにこせこせと。

 共通感覚という概念が考え出されたが、その感覚というのは、無論、五感を前提にして、五感では捉えきれないまさに人間ならではの認識の土台となる感覚であったはずだけど、その実、「味覚、触覚」が、やがては「嗅覚」が遠ざけられ疎まれ忘れ去られ、共通感覚の土台としての感覚は「視覚、聴覚」が、実際には「視覚」だけが土台になってしまった。
 極めて脆弱な土台の上に共通感覚が構築されていってしまった。だけれど、純粋な「視覚」などありえるのだろうか。本来は一番原始的な感覚である触覚、そこから次々に分化した五感なのであって、視覚も一種の触覚であり味覚ではないのか。
 人間はいつしか「視覚」偏重になったというが、触覚から離れた視覚などありえようはずもなく、実際のところは五感を忘れた抽象的な感覚の中で世界を<見聞き>しているだけではないのか。
 脳が見聞きする。
 身体という一番身近な自然。
 要するに、身体=肉体=自然のない感覚認識。

 余談だが、「C アリストテレス② 」にも載っている中で、「自然は真空を嫌う」というテーゼは小生の座右の銘に近い(「地上の星々(1)」というエッセイの中などで決して厳密な意味合いにおいてではないが、使わせてもらっている)。

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← せっかくなので梅に焦点を合わせてパチリ。月のない夜に淡い桃色の梅の咲く木を見ると、一瞬、そこにだけ雪がちらほら舞っているように見える。牡丹雪だ!

 春の雪気取って咲くか夜の梅

 ネット検索していて、宮坂静生氏著『俳句からだ感覚』(本阿弥書店)という本があることを見つけた。
 レビューによると、「俳句表現を通して日本語のゆたかな可能性を考えよう。俳句における身体表現に注目した視点が冴える待望の俳論集」とか。
「俳句を作る際に大切なものは何であるのか。現代生活の中で失われつつある五感(原始感覚)をはたらかせ、長い年月に築かれた各々の土地の貌を詠っていきたいのだ。最近書かれた文章を集めた待望の俳論集」といったレビューが気になる同氏による『俳句原始感覚』(本阿弥書店)の姉妹編だとか。
宙  宮坂静生句集 』(角川俳句叢書)という著書もあって、「大滝の全長水を切り落とす」「地面から宙がはじまる福寿草」「むかし死者垂直に埋めさくらどき」などの句が書籍詳細の頁に載っている。

 ネットで宮坂静生氏の句を探すと、「海の見える俳句」という頁(ホームは「WEB 575 Internet Haiku Magazine」)に「海よりも陸荒々し昼寝覚」「桃啜る海へもぐりし昏さ曳き」「海へ出発菓子も水着も袋に透き」「卒業証書いだき寂寞海のごとし」「海へ少女朝を射ち抜く弾丸となつて」「かるい悔恨海より青い帽子と寝て」「正午の海と本の厚さのパン明るし」といった句を見つけた。
 他に、「田の上の春の金星応と見て」もネットで発見(同じ頁に「春星や女性浅間は夜も寝ねず」という前田普羅の句も一緒に載っていた)。

和学事始第6回 五七五で“地貌”をつかむ、“からだ感覚”を詠う - livedoor Blog(ブログ)」を覗くと、講師:宮坂静生氏(俳人・信州大学医学部名誉教授)の紹介として、「長野県松本市を中心に全国に広まる「岳」俳句会を主催」とか「土地の貌(かお)が見えるように詠おうという“地貌(ちぼう)論”や季語を“からだ感覚”を生かして自分のものとして捉えなおすことを提唱されています。全国それぞれの土地にある“貌”をもっとも単純な形で、しかも紙と鉛筆だけで表現していく俳句は様々な場面を切り取っていきます」などと記されている。
 この簡潔な説明で小生がどの程度、宮坂静生氏の仕事を理解できるか覚束ないが、しかし、「その行く先は縄文時代以来の時空を自分の実感としてつかむ“原始感覚”、“虚空における自他の合一”である―という宮坂俳句論」となると、こうした試みこそ、現代の俳句…というより、小生の求める俳句の在り方だと思えて、僭越ながらそして勝手ながら共感してしまう。

「地貌(ちぼう)」という言葉、小生、何処かで聞いたことがある。
 調べると、「前田普羅のこと」という雑文を以前、書いたことがあった、その中でこの言葉を小生には新奇な言葉として言及している。
 この雑稿の中で「読売新聞北陸発「ほくりく文化考133」 -ふるさとの文学風景-  前田普羅の富山地貌句  八木 光昭(洗足学園魚津短大教授) 」という頁を参照させてもらっている。

「少年の頃(ころ)から普羅は自然科学に強い関心を持っていた」とかで、「普羅は「俳句を生む心」と題した放送筆記(『辛夷』、昭6・7)の中で、話をしめくくるにあたって、「科学は、自然に対して驚異の念を常に新らたにせしめる大きな道具であります」「写生とは決して、只(ただ)ボンヤリと自然を見つめて、その単なる動き方や姿や色彩を報告し羅列する事ではないのです。此の驚異の心を以(もつ)て自然に対した時のみ、精神の充実した、自然が写生されるのでございます」と語っている」という。

 宮坂静生氏の“地貌(ちぼう)論”や“からだ感覚”と、前田普羅の「土地にとどまらず、そこに生きる人々の営みの特殊性にまで視野を拡(ひろ)げている」という「地貌観」とを比較対比させてみたいものだ。

 小生が季語随筆日記で散漫ながらも俳句のみに焦点を合わせていない雑文を綴るのも、俳句が和歌などの伝統文化を意識するのみならず、独自の境位を開拓しようとしているのだろうけれど、大切なのは山本健吉氏の言う、「挨拶、即興、滑稽」と同時に身体という<わたし>に一番近い自然をフルに感じること、その直近の自然と遠近の自然との交歓・共感・齟齬・断絶を感じつくし表現せんとすることだと思うからである。
 遠近の自然の中には、花鳥風月のみならず政治・経済・生活・利害打算労苦歓喜退屈の日常も含まれるのは当然のことなのである。俳句は風流や雅の技(わざ)ではなく、少なくともそれだけの技芸には留まらず、低俗も卑近をも5・7・5の形の中に取り込もうとする試みなのだと考えている。

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