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2006/03/31

ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ

 上田 一生 氏著の『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ』(岩波書店)を読了した。
『白鯨』の合間にのんびり読もうと思っていたのに、あまりの面白さに一気に最後まで読まされてしまった。
 まだ読み止しだったつい先日、「南極物語…それとも難局物語?」で、本書のことは若干、紹介している。

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→ 3月31日、都内某所にて。走行中に撮ったのでブレてしまった。相変わらず冷たい風が吹いていて、夜桜見物も厳しそう。でも、人の出は凄かった。みんな元気だ。

 そこでも、出版社側の謳い文句として、以下の一文を示している:
「氷原の上をよちよち歩くタキシード姿、好奇心いっぱいの「かわいい」やつ。遠く大航海時代以前から、ペンギンは「未知の海域」「白い大陸」のシンボルとしてさまざまな場面で大活躍してきた。だが、その一方で彼らには食料や燃料などとして大量に殺戮され、利用されてきた受難の歴史もある。二〇世紀以降は、ペンギンは数多の本に登場し、広告のキャラクターとしても絶大な人気を誇ってきた。しかし、ペンギン好きの日本人なればこそ、かわいさばかりでなく、彼らのたくましさ、そしてその生存の危機にも、もっと注目をして良いのではないだろうか。ペンギンから見た、貴重な図版満載の異色の文化史。 」とある。
「欧米(ペンギンの逞しさ)と日本(縫いぐるみなど、愛らしいキャラクター)などではペンギンに対するイメージ、思い入れが随分と違うようだ」が、それも要するに欧米と日本との文化論などで説明されるのかなと勝手ながら予想していた。
 が、まるで違う!

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2006/03/30

バルテュスの優雅な生活(序)

 節子・クロソフスカ・ド・ローラ/夏目 典子著の『バルテュスの優雅な生活 とんぼの本』(芸術新潮編集部編集)を過日、借り出してきた。これもまた『白鯨』を読む傍ら気分転換に目を通そうと選んだ本。画集でもあり写真集であり紀行文のようでもある。
 バルテュス(1908~2001)についての逸話は数多くある。
 絵の内容や彼の絵の特徴を語るというと、ちょっと専門用語が必要になったりしがちだし、なんといっても少しは見る目が必要だが、ちょっとした裏話なら記憶の片隅に留めておいて、必要に応じて小出しに話題にまぶしておけば、気が利いている(かのようだ)。

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→ 29日の夜半も回って30日の丑三つ時頃だったろうか、某公園脇で小憩そして仮眠。そう、小生も桜も。画像を見て松林桂月の「春宵花影」をイメージしていると思った方、さすがです! 初めて本物の「春宵花影」を観た時は感激した。で、模したクロス張りの壁紙を買ったのだけど、実物の気迫と気品に敵うはずもなく、一週間もしないうちに剥がしてしまったっけ。

 春眠やそれぞれの夢貪らん

リルケが序文を書いた猫の画集「ミツ」を出版したのはまだ13歳の頃」だったとか、これは逸話にはならないかもしれないが、「晩年には、ヴォー州の山村ロシニエールの古い農家グランシャレー(当時はホテル)を買い取りアトリエ兼住まいとし、2001年に亡くなるまで創作を続けてい」たとか(この山村の写真が本書に載っているが、実に美しい! それと随分と高齢になるまでご存命だったが、既に亡くなられていることは銘記しておくべきだろう。
 バルテュスが二月二十九日生まれというのも、そんな誕生日に生まれたものならではの感懐を抱いていたに違いない。
 ちなみに小生、ガキの頃、物心付いた直後の頃、自分の誕生日を二月二十九日と思い込んでいて、多分、カレンダーなるものを初めて意識的に見た(多分、日めくり。今も田舎の我が家には日めくりのカレンダーが活躍している)。すると、二月は28日しかない。29日がない! 自分には誕生日がないんだ…。内気な弥一少年は、そのことを誰にも言えず一人、悶々としたことがあった。)。

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2006/03/29

都良香の涙川

「呪術的な響きを聞き分けるハーンの耳を魅了した琵琶法師,大黒舞,門づけの歌….近代日本が捨て去った物語の調べ,冥界と交信する民衆の音楽を再生し,『耳なし芳一』がもつイメージの官能性,濃厚なエロスの所以を掘り下げる」という、西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波ライブラリー)を読んでいたら、遠い昔に聞きかじったことのあるような名前が出てきた。
 それは、都良香(みやこのよしか)という名前。

都良香 - Wikipedia」によると、「都良香(みやこのよしか、承和元年(834年) - 元慶3年2月25日(879年3月25日))は、平安時代前期の漢詩人・文人。父は桑原貞継。本名言通(ことみち)。対策(律令制における官吏採用試験の一種)に合格した後、少内記・掌渤海客使を経て従五位下文章博士兼大内記に至った。文才に秀で、詩歌のみならず多くの詔勅・官符を起草している。「日本文徳天皇実録(略称・文徳実録)」の編纂にも関与したが、完成する前に亡くなっている。家集「都氏文集(としぶんしゅう)」には詔勅や対策の策問などの名文がおさめられている。また「本朝神仙伝」「十訓抄」には良香に関する逸話が収められている。漢詩は「和漢朗詠集」「新撰朗詠集」などに入集している。」とある。

 これでは遺漏がないかもしれないが、堅苦しい。

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→ 29日の午後、冬を思わせる冷たい風の吹く春霞の空を背に桜が咲き綻んでいた。

 咲くならば風に負けじと春の花

 一般には、「貞観12年(870)、道真公が26歳のときに都良香邸において弓を射ると、百発百中の腕前であったといわれます。道真公が学問だけでなく、文武両道であったことがわかります。ちなみに都良香(834~879)は道真公が方略試を受けたときの試験官でした」(「道明寺天満宮・天神縁起絵扇面屏風の解説」)とあるように、菅原道真公との絡みで知られるかもしれない。
 このエピソードについては、「菅原道眞公」なるサイトの「第十話 その⑤文武を磨く」という頁(【後篇】)が読みやすく且つ面白く語ってくれている。

 しかし、都良香というと羅城門の鬼とのエピソードを触れないわけには行かない。大概、高校の古典か国語の授業(恐らくは菅原道真の話をする際)の時の恰好のネタとして先生が語る(今は分からないが)。

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2006/03/28

夕暮れ

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← 土曜日(26日)の夕方、図書館を出ようとしたら、夕景が目に。思わず携帯で撮ってみた。画像が鮮明じゃないのが残念。この日の真夜中過ぎから大変なことになったのだった

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肉体のファンタジア…目と髪と

 小池真理子氏著の『肉体のファンタジア』(集英社)を過日、読了した。
 レビューには、「ふくらみはじめた「乳房」を意識したころ。互いに「目」を見つめあうだけでわかりあえる関係。どこか性的にひかれる「毛」。中年男性の「背中」にただよう倦怠の魅力。受話器のむこうからこぼれる吐息のような「声」。そして女しか持ち得ない「子宮」の秘密とは。肉体のさまざまなパーツに刻まれた官能の風景、記憶が鮮やかに蘇る。五感を刺激するファンタジックなエッセイ集。」とある。
 小池氏のエッセイ集としては、『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社)を先だって読んだばかりである。簡単な感想文も綴っている。
『闇夜の国から二人で舟を出す』を読んだばかりだし、彼女の小説をとも考えたが、今はメルヴィルの小説『白鯨』の世界にどっぷりと浸っているので、他の小説を平行して読むのは閉口だし、息抜きを兼ねて読むにはエッセイ集のほうが気軽だ。
 実は、『肉体のファンタジア』は前々から気になっていた本でもあった。
 図書館で手にとって拾い読みしたことは幾度となくある。だから、いざ、借り出して自宅で読み始めてみたら、最初のうち、もしかして以前、既に読了しているんじゃないかという思いがしたほどだ。
 それに、小池氏は小生より二つほど年が上だし、よほど前向きな方なので、なんとなく勝手ながら姉貴分風に思い入れしている面もある。

 女性が自ら女性の肉体のパーツをめぐってあれこれファンタジー的文章を綴る。興味津々である。そこに誤魔化しや綺麗事が含まれるとうんざりだが。
 扱うパーツは、「骨 指 歯 顔 乳房 唇 毛 目 贅肉 臀 背中 声 皮膚 鼻 爪 舌 臍 子宮 」であり、本来、多くのパーツは男性と共通のはずだが、そこはそれ女性と男性とではまるで違う成り立ちになっているように感じる。男の体を見たいとか、触りたいとか、まして舐めたり弄ったりしたいとは思わないが、魅力的な女性となると違う。全身、それこそ骨の髄までしゃぶってみたくなる(勿論、比ゆ表現だが)。不思議といえば不思議なような気もするが、これが現実である。

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2006/03/27

南極物語…それとも難局物語?

 過日、上田 一生 氏著の『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ』(岩波書店)を借りてきた。図書館の新刊コーナーに立てかけてあって、その表紙が借りてくれ! とあったような気がしたのだ。
 出版社側の謳い文句に拠ると、「氷原の上をよちよち歩くタキシード姿、好奇心いっぱいの「かわいい」やつ。
遠く大航海時代以前から、ペンギンは「未知の海域」「白い大陸」のシンボルとしてさまざまな場面で大活躍してきた。だが、その一方で彼らには食料や燃料などとして大量に殺戮され、利用されてきた受難の歴史もある。二〇世紀以降は、ペンギンは数多の本に登場し、広告のキャラクターとしても絶大な人気を誇ってきた。しかし、ペンギン好きの日本人なればこそ、かわいさばかりでなく、彼らのたくましさ、そしてその生存の危機にも、もっと注目をして良いのではないだろうか。ペンギンから見た、貴重な図版満載の異色の文化史。 」とある。

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→ 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Hichi's Arabic Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。「ベリーダンスは大人でもゼロから挑戦できる、芸術性の高い踊りだと思います。「シュミ」という腰やお腹をぶるぶると振動させる基本の動きも、何気なくやっているように見えて割れるほどの腹筋が必要ですし、指の動きひとつとっても自由に動かせるようになるには血の滲むような努力が必要」だとか。(例によって本文と画像とは関係ありません。以下同様)。

 まだ、読みかけなのだが、プロローグの部分を読んだだけでも、なかなか面白そう。特に欧米(ペンギンの逞しさ)と日本(縫いぐるみなど、愛らしいキャラクター)などではペンギンに対するイメージ、思い入れが随分と違うようだ。
 後日、感想文を書くかもしれない。

 このペンギンの本に関心を持ったのは、ご他聞に漏れず(という表現が相応しいのかどうか分からないが)ペンギンの愛らしさに堅物の小生たりとも惹かれるからだが、どうやら、遠因として、過日、ラジオで映画「南極物語」のことが話題に上っていたことが大きいような気がする。

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← 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Hichi's Arabic Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。ベリーダンスのサイトは美麗な作りのものが多い。「Dance Arabesque ベリーダンスグループ・ダンスアラベスクへようこそ」も、その一つ。

 つまり、『キタキツネ物語』の蔵原惟繕監督がドキュメンタリー・タッチで描いた動物映画、空前の大ヒット作だった83年の邦画である『南極物語』(書籍では、藤原 一生氏著の『タロ・ジロは生きていた―南極・カラフト犬物語』)のディズニー版『南極物語』が今、劇場公開されているが、そのディズニー版(リメイク版?)とオリジナルの映画との対比がラジオで話題になっていたのだ。

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2006/03/26

「異端の数 ゼロ」…あるいは豊穣なる無

 チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)を過日、読了した。本書に付いては、読み始めの頃、「ヨハネによる福音書第一章第一節の冒頭にある有名な言葉、「はじめに言葉ありき」」という有名な文言をめぐって、「本書では、「はじめに比があった。比は神とともにあった。比は神だった。」なる形でヨハネの冒頭の言葉が掲げられている」ことに素朴な驚きを覚えたため、ちょっとした感想文を綴っている:
ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって
 数学や物理学の歴史に関する書であり、いくら数式が省かれているとはいえ、小生が書評を試みるのはおこがましい。ただ、一読して面白かったので、感想をメモしておきたいだけである。

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→ 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。今は更新されていないというサイト「♪ Arabian Dance Night! ♪」だが、なかなか充実している。このまま埋もれさせるのは惜しい!「Costume 」「Tools 」「Movement」「Music」ほかの部屋があって勉強になる。(例によって本文と画像とは関係ありません。以下同様)。

 一応、出版社側のレビューというか謳い文句を示しておくと、重複引用になるが、「本書は、史上もっとも危険な概念―ゼロの“伝記”である。バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいたが、その脅威は、科学が進歩を遂げた現代でも変わりはない。ゼロを追放しなければ、一般相対性理論の無限大問題は解決できないように。歴史を通じて排除の対象でありつづけたが、消えることはなかったゼロ。有用でありながら、多くの矛盾や論理の崩壊をもたらすこの概念の全貌を、まったく新しい切り口で描くポピュラー・サイエンス」とある。

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← 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。今は更新されていないというサイト「♪ Arabian Dance Night! ♪」の中を勝手ながら覗いてみるよう。まずは、 「Movement」なる部屋である。「Belly Danceの舞踊動作」の部屋なのだが、どの舞踏動作も一筋縄では会得できそうにない。また、シュミを始め、それぞれがベリーダンスに特有の動きのようだ。

 本書に付いての書評は余りなされていないようだが、その中では、関心の対象がやや文系らしき方の書評が目立った:
サイフェ-異端の数ゼロ」(ホームは「Rogi073.Room」のようだ。表紙に掲げられている「川に投げ捨てられた一つの水滴。それはやがて大海を漂うのか。それとも気化して雲にでもなるのか。」という文言がなかなか。)

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「白鯨」…酷薄なる自然、それとも人間という悲劇

 あれこれ読み散らしていて、感想文を書く暇もない。チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)や西成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波書店)、小池 真理子氏著の『肉体のファンタジア』(集英社、集英社文庫版あり)のどれについてもメモっておきたいこと、感想など書いておきたいが、返却期限が来ているので、感想文を書くのは諦め気味である。
 土曜日は「明集」で生活のリズムが狂って、いつも以上に寝たきり状態になり、今朝、未明になってやっと起き上がれるようになった。といっても、ベッドからロッキングチェアーに塒(ねぐら)を移動させただけという見方もあるが。
 さて、今日は『白鯨』について若干。

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→ 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Suiren's Arabic Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。「ベリーダンス はエジプト、トルコ等、アラブ全域で踊られる女性による即興のソロダンスとして有名ですが、名の由来腹部や腰をくねらせて踊る為、欧米ではBelly(腹部)Danceと呼ばれているところもあります。アラビア語でのベリーダンスはRaks Sharki(東方の踊り)という呼びかたをします」という。「ニューヨークでベリーダンス ニューヨークへ旅行♪」なんていうブログを発見!(例によって本文と画像とは関係ありません。以下同様)。

 先月末以来読み始めているハーマン・メルヴィルの『白鯨―モービィ・ディック (上・下)』(千石 英世訳、講談社文芸文庫)の世界にますます引き込まれている。読むのが遅い小生のこと、ようやく半分ほどを読んだだけだが、その凄みは、ブロンテの『嵐が丘』並みだと感じている。
 これはあるいは、英語にも弱い小生が言うのもおこがましいが、訳が従前に増して日本語になっているから、翻訳された本を読んでいるという特有の違和感を覚えないから、という側面があるのかもしれない。
 といっても、『白鯨』は学生時代に一度読んだきりで、当時は(前にも書いたが)河出書房新社グリーン版世界文学全集所収の版で、訳者は「冬の宿」の作家・阿部知二氏だったと思う。
 では阿部知二氏の訳がまずかったのかというと、記憶が定かでなく、覚束ない。
 当時の読解力では歯が立たなかったというのが正直なところなのかもしれない。

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← 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Suiren's Arabic Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。「ベリーダンス の起源には古代エジプトでは出産を助ける三人の女神を奉り、繁栄と豊穣を祈って女性により女性のために踊られたことからはじまります。やがて宮廷に入りエンターテイメント性を帯び、ダンサーは王家の指示のもと、高い地位につくようになってきました。オスマントルコ帝国にアラブ諸国が支配され、王宮の奥深いハーレムで踊られたのがベリーダンスの原形とも言われています。七世紀、イスラム教が起こり、その預言者ムハンマドが歌や踊りは魂を惑わすものとして嫌った為、ベリーダンスはストリートやハーレムで踊られるようになっていきました。ハーレムでは男主人の気を引くために踊らなければならない場合もあり、またストリートではダンサーはガワジーと呼ばれる集団となり、顔を隠すベールもつけず金の為に踊らなければならなかったので、忌まわしい職業と見なされ、もはや宗教色はなくなってしまっていきました」という。

『白鯨』という作品全体のトーンとしてある、「その一番奥にあるのは、アメリカ文化の底流に流れるキリスト教、それも厳格なカルヴィニズムに対する懐疑と信仰」の感覚を掴むこともできず、さりとて、「クジラと人をめぐる冒険譚として、捕鯨船についての膨大かつ詳細な記述から19世紀当時の捕鯨のドキュメンタリーとして」読むには、本文には(少なくとも当時の小生には)冗長な鯨学の薀蓄を語る部分が多く、そうした箇所でやたらと退屈してしまったりする。

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2006/03/25

ウィットネス( Witness)のこと

 今朝は会社で明集(あけしゅう)があった。
「明集(あけしゅう)」とは社内だけに通用する言葉なのか、それとも営業所内だけに限定されるのか、あるいはタクシー(その他)業界内部の用語なのか分からないが、「明け番集会」の略語である。
「明け番」とは、前日の午前からの仕事が翌日の朝(早朝)になって終わった、つまり前日から仕事がスタートし20時間とうい拘束時間の終わった(当)番の面々を指している。
 タクシー業務は拘束時間においても働き方においても多様になっていて(多様は大袈裟だが、数通りはある)、一概には言えないのだが、いずれにしろタクシードライバー全員が日中や夕方、夜などに一堂に会するのは難しく、実際には朝の8時半から集会が始まる。
 その時間帯に働く人が少ないからということだが、それでも、営業所やタクシー業務に支障が生じないよう二日に分けて集会が行われる。

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→ 「Charlie K's Photo & Text」の「Asaha's Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。ベリーダンス!サンバやフラメンコ同様、瞬間を切り取った画像からその動きを想像するのは不可能に近い。それでも、食い入るように見入ってしまう。魅入られてしまう(例によって本文と画像とは関係ありません)。

 主催者は会社(月ごとに定期的に行われるのは営業所)である。年に一回は会社主宰の集会(大講習会)が行われる(これも、二日間に分かれて行われる。わが社の場合、運転手は4千人ほど(多分)いるので、一回の大講習会には二千人ほどのドライバーが参集する。
 で、今朝は毎月恒例の(といっても、最近は朝礼が密度濃く行われているので、二ヶ月に一度のこともある)営業所が主催する集会があったのである。
 開始時間は朝の8時半。小生は7時前には業務報告(日報の提出)も含め仕事を終えるので、眠たい目を擦りつつ八時半までを潰す。これがなかなか辛い。小生は仕事が終わったら、さっさと家に帰って、自宅では牛乳を飲みお茶を飲みつつネットを軽くサーフィンして、とにかく寝る。在宅したら布団の中かロッキングチェアーに腰を埋めて終日を過ごす。
 なのに、集会となると起きていないといけないし、仮眠を取って八時半を待つとしても、集会が終わるのは日によって違うが九時半過ぎだったりし、まっすぐ帰宅すると十時を回っている。
 普段なら八時過ぎには寝入っているはずが、十時半頃になってようやく就寝となるのだから、体が参る。
 何より、生活のパターンが崩れるのが辛い。
 

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2006/03/24

蒲公英(タンポポ)の名は何処から

 水曜日だったか、深夜に女性の二人連れのお客さんを乗せた。二人で雑談していたので、こちらは運転に集中していたのだが、そのうち、ある有名な歌(短歌)を二人で思い出そうとしている。
 それは、「風さそふ…」の歌。
 忠臣蔵にゆかりの有名な歌で、浅野長矩が切腹の際に詠んだとされる辞世の歌だが、小生も即座には口から出てこず、二人が懸命に思い出そうとしている様子を見守るばかり。
 念のため、その歌を掲げると、次のようである:
 

風さそふ花よりも猶我はまた 春の名残をいかにとかせん

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→ 「Charlie K's Photo & Text」の「KEDI's Hindy Belly Dance
- WomenFest 2006-
」から。ベリーダンス! 例によって本文と画像とは関係ありません。

「蒲公英(たんぽぽ)」は春の季語である。「三省堂 「新歳時記」 虚子編」によると、「鼓草(つづみぐさ)」とも言うとか。
 とっくに採り上げてしまっていると思い込んでいたのだが、実際は未だだった。
紫雲英」は昨年の三月に採り上げているというのに、今頃の季節となるとふと思い出す懐かしさの感を呼び起こす「蒲公英」を扱ってこなかったのは、自分にしてはお粗末だ。
 まずはきく科のこの植物を画像で見てみよう。
 いかにもきく科の植物という花びらだが、中でも蒲公英の花は一際地味である。思い出の中では蒲公英は黄色い花のようだが、こうした白い花の種もあるようだ。
 昔から疑問だったのだが、生来の無精ゆえに放置してきたことに、まずは「蒲公英」という漢字表記がある。

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2006/03/23

清正公信仰とハンセン病

 別頁(窓)で示すが、2年ほど前、表題の題名の「清正公のこと」という雑文を綴ったことがある。
 東京は港区白金にある覚林寺で清正公五月大祭があったことにちなみ、清正公という交差点や祭りの大元である加藤清正公のことを、そして加藤清正公の位牌のある(つまり決して菩提寺ではない!)覚林寺のことなどをあれこれネットで調べてみたのである。
 清正公(覚林寺)からは数分のところに以前、居住していた小生としてはただの雑学的知識以上の関心を抱いていたこともあった。

 記したように、覚林寺は加藤清正公の菩提寺ではなく、加藤清正公が朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役)に連れてきた朝鮮国の王子(のうちの一人)の菩提寺なのである(まだ不明の点が多い)。
 ただ、いずれにしても、覚林寺が(加藤)清正公と深い縁のある寺なので、清正公(せいしょうこう)と呼称されるのだろうと理解し納得して済ませていた。

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→ 22日の午後、間もなく雨が降りそうな空模様の下、都内某所の公園の脇で小憩を取った。開花宣言が東京では21日に出ているので、どうかなと思ってジッと見てみたら、ホントだ、咲いている! 見つけたのは一輪だけだけど。梅がそろそろ終わりそうなこの時期、今度は自分の出番だとばかりに桜が咲き始める。示し合わせたようだ。その日は実際、本降りの雨になったけど、逸早く咲き誇った桜の花びら、明日はどうなっているだろう。

 春の空降りみ降らずみ花時雨

 ところが、「清正公(せいしょうこう)」という言葉について、新たな知見を得た。
 前にも書いたが、車内での待機中に読む本として、「呪術的な響きを聞き分けるハーンの耳を魅了した琵琶法師,大黒舞,門づけの歌….近代日本が捨て去った物語の調べ,冥界と交信する民衆の音楽を再生し,『耳なし芳一』がもつイメージの官能性,濃厚なエロスの所以を掘り下げる」という西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』 (同時代ライブラリー、岩波書店)を持ち込んでいる。
 いろいろ教えられることが多いのだが、昨日読んでいたら、「清正公(せいしょうこう)」には単純に加藤清正公の名前に由来するだけではない事情があることを教えられたのである。
 どうやら、「清正公」信仰なるものがあるらしいのだ。
 一つは、「加藤清正公 御生誕の地 日蓮宗正悦山妙行寺」に見られるように、「清正公は熱心な法華経の信者であった」だったという側面である。彼は「本妙寺を初め妙法蓮華経の五文字を冠した五つの寺を建立した」のだった。

 さらに、「ふるさと寺子屋塾<No.18> 「 肥後と加藤清正 」 講師/本妙寺住職  池田 尊義 氏」によると、「清正公信仰」の項に「清正は土木治水の名手として知られている」とある。戦国時代ファン、歴史ファン、城郭(史)ファンならずともこの事実は知られているようである。
 このサイトでは、「そのためか熊本には昔から清正を「神」として尊崇する「清正公信仰」が根付いている」として、「清正公信仰」について縷々教えてくれる。

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2006/03/22

羽根、あるいは栄光と悲惨の歴史

 別窓で掲げる記事は、昨年の夏にサンバパレードの画像を掲載するために(!)書き下ろしたレポート(の一部)である。基本的に書いた当時のまま、ここに記事のみ掲載する。画像を御覧になりたい方は、それぞれの項目の頭をクリックすれば、覗きにいける。
 わがサンバチーム・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)のただの追っかけに過ぎない小生だが、一ファンとしては(質・内容はともかく)書いた文章の量はなかなかのものがあるのではと自負している(誰も褒めてくれないので、自分で自分を褒めておきます)。

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→ 「Charlie K's Photo & Text」の「YASMEEN's Belly Dance  - WomenFest 2006 -」から。ベリーダンス! 例によって本文と画像とは関係ありません。

 サンバは眺めるより自分で体験するものなのは言うまでもないが、ま、理屈を言えば小生は文章で踊っているつもりなのである。文章は体どころか頭の中まで曝け出してしまうものなのは、日々実感しているところだ。
 書くとは、恥を掻くことなのである。
 さて、なかなかサンバについては調べる時間を取れない。ブログ(ネット)を見ても、当然ながら自ら踊っているか、でなかったら、小生のようにギャラリーし、遠巻きに眺めているだけというケースが多い。サンバの音楽も、思いっきり専門的だったりして、初心者が知りたいこと、素朴なことが書いてなくて、隔靴掻痒の感を否めない。
 かくなる上は自分で調べるしかない。
 浅草サンバカーニバルに向けてのテーマを自分なりに考えたいが、本場を見ないうちに語るのもおこがましく、ちょっと表向きは手が出せない(そのうち、恥を忍んで書くことがあるだろう。但し、一般論として)。

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← 「Charlie K's Photo & Text」の「YASMEEN's Belly Dance  - WomenFest 2006 -」から。ベリーダンス! イナバウアーじゃないってば!

 サンバというと、音楽とダンス。今回はダンス、特に羽根に焦点を合わせる。
 サンバを知らないものとしては、紋切り型とはいえ、人が身に纏う羽根というと、インディアンの羽根をまず思い浮かべてしまう。
 別頁ではサンバのタンガでの羽根について若干、書くので、その前置きとして、ほんの少しだけ、北米の先住民族であるインディアン(と呼称される)の栄光と悲惨の歴史を少々。

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2006/03/21

モーツァルトのクラリネット五重奏曲!

 今年はモーツァルト生誕250年ということでモーツァルトの曲を聴く機会が多い。営業中、車中での楽しみというと音楽なので、歌謡曲などポップス系も好きだが、モーツァルトのいろんな曲を聴けるのは嬉しい。
 昨日は、NHK-FMを正午のニュースからずっと聴いていた。
 言うまでもないが、お客さんをお乗せしている間は消すかボリュームを下げるか、お客さんの要望する局に切り替える、などなどの注意事項は当然のことだし、今まで何度も書いてきたので、もう繰り返さない。よって聴いたと書いてあっても、結構、途切れ途切れだったりする。残念だけど、仕方がないよね。
 実際、午後は5・10日で祭日の前日ということもあり、息つく暇もないほどに忙しかったのだ! トイレへ行く暇があるのかと心配したりしていた。

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→ 同じく二十日に撮ったもの。その稲荷神社の脇にある公園の角にたつ巨木。通り過ぎようとしたら、その幹の迫力に思わずパチリ。見ようによってはエロチック?!

 下記するが、四時頃郊外の地に向かったので(平和島)、近くの公園の脇に車を止め、お茶で一服しつつ、たまたま流れてきた「ミュージックプラザ 2部 -ポップス- つのだ☆ひろ」でのキャンディーズ特集を聞いて、やっと人心地付いたのだった。
 逆に、ラジオはそこそこに(断片的にでも)聴けたが、何処かの駅で待機(お客さん待ち)しつつ、その時間を使って本を読むというわけにはいかなかった。せっかく、レビューによると、「呪術的な響きを聞き分けるハーンの耳を魅了した琵琶法師,大黒舞,門づけの歌….近代日本が捨て去った物語の調べ,冥界と交信する民衆の音楽を再生し,『耳なし芳一』がもつイメージの官能性,濃厚なエロスの所以を掘り下げる」という西 成彦氏著の『ラフカディオ・ハーンの耳』 (同時代ライブラリー、岩波書店)なる本を持ち込んだのだけど。

 昨日、嬉しかったのは、「ひるの歌謡曲」(丘 みどりさんのDJ)でキャンディーズのヒット曲の数々を聴けたこと。曲名だけを挙げておくと、「あなたに夢中」「年下の男の子」「ハートのエースが出てこない」「哀愁のシンフォニー」「やさしい悪魔」「春一番」「暑中お見舞い申し上げます」「アン・ドゥ・トロワ」「わ な」「微笑がえし」「つばさ」。どの曲も好きだ。偶然なのだろうけど、他の時間帯(しかも同じ局。4時からのつのだ☆ひろさんDJによる「ミュージックプラザ 2部 -ポップス-」の中で。大体が同じ曲だが、「危い土曜日」が新規だった)でもキャンディーズの特集をやってくれた。
 キャンディーズのヒット曲の数々をこれだけたっぷり聴けるのは嬉しいけど、毎日、一曲は聴けるほうが嬉しい。どうして特集が同じ局の中で重なるのだろう。勿体無い。ビフテキを一日に二度、食べるようなもので、ありがた迷惑ではないが、工夫が欲しい気がする。

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日本、野球、世界一へ!

 今までWBCを見ていた。今、終わった。キューバを倒した。勝った。王ジャパンがWBCの初代王座に。王選手の引退でやや野球から引き気味だったけど、今回は見ちゃった。

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→ 紫苑さんに戴いた「アダモコンサートの時おすそ分けでアダモにいただいた花束」の画像です。紫苑さんも優勝決定戦のようすを一喜一憂しつつ見ていたとか。

 野球を見直すいい機会になった。こうした大会を積み重ねたらオリンピックへの復帰も可能だろうな。
 イチロウ、凄いね。頑固者で酒豪で寝相が悪いという人間臭い王監督の采配も凄い。
 金メダルが30人の選手それぞれに。王監督にも金メダル、そしてチャンピオントロフィが。
 MVPは松坂投手だった。
 イチロウ選手は国民栄誉賞を今回は受けるのだろうか。小生は、彼が自分がもうやるだけのことはやった、燃え尽きた、向上する自信がなくなったというとき、つまり、現役を引退した時に受賞してもらいたい気がする(別に受賞しなくてもいいんだけど)。


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2006/03/20

白鯨と蝋とspermと

蝋燭の焔に浮かぶもの」という雑文の中で、バシュラール「蝋燭の焔」を、あるいはジョルジュ・ド・ラ・トゥールの炎を、はるか遠くにはフェルメールを想いつつ、あれこれと瞑想に耽ってみた。
 そこに最近、高島野十郎の蝋燭画が加わって、蝋燭のイメージには似つかわしからぬほどに豊穣なる想像の世界が広まった
 あるいはそこにファラデーのロウソクの科学を加えてもいいかもしれない。

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→ 20日、都内某所の公園脇にある稲荷神社。扁額(?)の文字が読めない!

 さて今日はそこに、ささやかな付け足しをしてみたい。
 先月末以来読み始めているハーマン・メルヴィルの『白鯨―モービィ・ディック (上・下)』(千石 英世訳、講談社文芸文庫)からである。読了できるのは小生のことだから今月中というわけにはいかないし、ちょっと感想文など綴れそうにないだろうから、脇道に逸れたことをメモっておきたいという意味もある。

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← 神社の外観。周りに築山も林もなくて寂しい。

 読書するとは、上記の雑文で示したように、「薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を殺して眺め入るようなものだ。読み浸って、思わず知らず興奮し、息を弾ませた挙げ句、蝋燭の焔を吹き消してはならないのだろう」そんな営みなのに違いないのだし、だとしたら「大切なのは、読書とは、何時か何処かで生まれた魂の命の焔を静かに何処の誰とも知らない何者かに譲り渡していく営みだということに気付くことだ。読むとは、自分がその絆そのものであることの証明なのではなかろうか。」

 ところで『白鯨』を読んでいて、鯨の脂から蝋燭が出来ているという記述を読んだ。
 そういえばそんな話を何処かで聞いたことがある。

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2006/03/19

お知らせ

 小池 真理子氏著『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社)をめぐる書評エッセイを書きました。
 ここ「無精庵万葉記  闇夜の国から二人で舟を出す」だよ。

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ブレスダン…版画と素描と

 ネット散策していたら、懐かしい名前や題名の本に出会った。いずれも版画(銅版画)に関係する名前。それは、ロドルフ・ブレスダン(ブレダン)であり、駒井哲郎であり、『銅版画のマチエール』である。
 出会ったのは、小生が折々覗かせてもらっている「artshore 芸術海岸」というサイトにおいてであり、その記事は、「ロドルフ・ブレスダン 1:魔術的」と「ロドルフ・ブレスダン 2:希望」である。
 ロドルフ・ブレスダンというと、多くはオディロン・ルドンの師として言及されることが多い。まるで傍流扱いである。それだけに、彼に焦点を合わせて向き合ってくれるとなると、ちょっと嬉しくなるのだ。

 別頁に、数年前に書いた関連の雑文「版画からあれこれ想う」を掲げておく(既にメルマガやホームページで公表済み。ついでなので、関連もあるし、「素描からあれこれ連想する」も載せておく)。再掲するのは、当時は有効だったリンク(URL)が今も閲覧可能か確かめる意味もある。
 その上で、若干の追記、主に新規のリンク(閲覧)先の紹介を行っておきたい。
 実際、ネットの世界(も、なのか)ほんの数年前には閲覧・参照できたサイトや頁も削除されてしまう。逆に、この変幻自在・融通無碍(?)なところこそがネットの長所でもあるのだろうけれど。

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2006/03/18

掌編、書きました!

 掌編「夜明け前」を書きました。
 今回は、ボクものです。

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ベックリンの「死の島」と髑髏

 WBCでメキシコがアメリカに勝ってくれたおかげで、日本が準決勝進出! 誤審か確審か分からないけど、きっとアメリカは、自国の審判振りが恥ずかしくて戦意を喪失していたんだろうね。
 今度こそ、日本は雪辱を果たして欲しい。松井さん、オープン戦、ホームラン1号、おめでとう。今からでも遅くないからWBCに応援に来なよ!

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→ アルノルト・ベックリン『死の島』(1883年 ベルリン美術館) (画像は、「アルノルト・ベックリン - Wikipedia」より)

 久世光彦著『怖い絵』(文藝春秋)の中で使われている絵で、小生も好きな絵が幾つもあったが、今回はアーノルド・ベックリンの「死の島」をめぐって若干の感想を。
 まあ、本稿も相変わらず、久世光彦著『怖い絵』の周辺を廻っての「久世光彦著『怖い絵』の周辺(続)」に引き続く、周辺物である。
 小生は、もう、二十年ほどの昔、何処かの展覧会(多分、国立西洋美術館)でベックリンの「死の島」を観る機会を得たことがある。仙台での学生時代には気になる絵の一つだったし、何処か憂愁の念に駆られがちの若い時には誰しもこの絵の世界に魅入られるものだろうけれど、実際、展覧会で実物を見て、死の世界に吸い込まれるような思いがあった。
アルノルト・ベックリン - Wikipedia」によると、「文学、神話、聖書などを題材に、想像の世界を画面に表わそうとする象徴主義の画家たちも同時代に活動していた。ベックリンはこうした象徴主義・世紀末芸術の代表的画家の1人である」ということで、絵を文学や思想、音楽その他と絡めないでは観られない、何処か文学趣味に走りがちでもある鑑賞の技量の未熟な自分だと、こうした象徴主義の絵画やゴッホやムンク、ルドン、モローなどの絵は分かりやすいし入りやすいかのようである(あくまで、かのようであるに過ぎないことは、絵を観る機会を積み重ね、絵をその他の分野と絡めないで観る楽しみを知ると、一筋縄では行かないことを思い知らされるのだが)。

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2006/03/17

春の嵐…勧酒

 昨夜は、「日本列島は17日、低気圧が関東を通過した影響で、太平洋側の広い地域で未明から強い風が吹き、東京・大手町で午前2時ごろに最大瞬間風速32メートル、千葉市で32・8メートルを観測した。」という春の嵐の一日だった(「Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 春の嵐、千葉で風速32・8m…各地で交通機関乱れる」参照)。
 小生もタクシードライバーの端くれとして昨日の午前10時半過ぎから本日の午前6時過ぎまで風雨の中、営業していた。
 風雨の中と書いたが、昨日の午後は小雨が断続的に降っていて、そこに次第に風が加わり、夜半を回ってからは、予想に反して雨が早めに上がったはいいが、風のほうは強まるばかりという天気だった。
 だから、風と雨が相俟って道行く人を、交通機関を、庭や塀や看板を乱しあるいは吹き飛ばしたりしたのは、そんなに長い時間ではなかった。

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→ 激しい風雨の中、都心を目指して…。車中からの撮影。

 強い風が吹くと路上にいろんなものが舞う。しかも雨上がりとなると、多くは傘、デザインの施された布地の傘も散見されるが、大概は(印象かもしれないが)ビニール傘である。不意の雨というわけではないが、それでも用意が間に合わず余儀なく買い物求めた傘だから、用が済めば棄てられるか、置き去りにされるか、意図的ではないのかもしれないが忘れられていくビニール傘。
 他にゴミ捨て場のゴミが風に飛ばされ路上を行き交う。ペットボトル、空き缶(中には自動販売機から、あるいはコンビニなどから回収された多数の空き缶の詰まった大きなビニール袋も)、空っぽのビニール袋、工事用のコーン、コーンから剥がれたのだろうコーンベッド…。不思議に枯れ葉も多く舞っていて、その舞い踊る様だけを車中から眺めると、さながら木枯しに枯れ葉が散り舞い踊るといった風情だった。そして、稀に路上にまで看板が倒れ込んでくることもある。
 ニュースによると、春の嵐がアパート屋根を剥ぎ取ったとも!

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2006/03/16

久世光彦著『怖い絵』の周辺(続)

 相変わらず久世光彦(てるひこ)氏著の『怖い絵』(文藝春秋)を読んでいる。すっかり彼の文章のファンになってしまった。が、小生には彼の文章・文学の評など書けないので、やはりここでも「久世光彦著『怖い絵』の周辺」をもう少々。
(車中で読んでいた小池真理子氏著の『闇夜の国から二人で舟を出す』(新潮社刊)はある意味、意外なほどに楽しみつつ読めたので、読了したことでもあり、感想ぐらいは後日、綴りたい。)
『怖い絵』は大部の本ではないのだが、絵の絡む本となると、どうしても登場する画家や絵画を前にしばし瞑目したり、久しぶりに見る絵(画家)を懐かしんだり、逆に聞き慣れない(見慣れない)名前に戸惑って調べてみたくなり、気になってなかなか先に進めないのである。
 そこはネットのありがたさで、音楽だと曲そのものを聞くというのは、例外的にのみ可能で、せいぜい作曲家らの周辺を廻るだけだが、絵画(画家)となると、大概は関連サイトに絵が掲げられている。小生も許されるなら載せたいし、そのための手間は惜しまないつもりだが、未だ、その手続きが分からないでいる。
 ギュスターヴ・モローやビアズリー(ビアズリー(1872~1898(イギリス)「享年25歳 結核で死去」だとか)らのサロメも採り上げたいが、後日を期す。
 ビアズリーについては、「BERDSLEY  ビアズリー」なるサイトがいい。オスカー・ワイルド著「サロメ」の押絵(岩波文庫)からなど、ビアズリーの数々の絵が載っていて壮観である)、ここでは日本の画家、主に挿し絵画家の周辺を廻ってみたい。

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→ 15日の夕方、外に出たら満月が。でも低い空。なので、密集する住宅に月影が見え隠れする。ほぼ真ん中に位置する月影に気づかれるだろうか。今頃は高い空に上っていることだろう。あとで、外に出て夜空を見上げてみようかな。

 挿し絵画家。多くは世に知られている画家だろう。名前は初耳でも、絵を観ると、ああ、この絵なら観たことがある! と思うに違いないと思う。特に久世氏と近いある年輩以上の方は、きっと。
 小生にとっては年代がやや上だが、それでも歴史小説・時代小説がとりわけ好きな父の書斎や書棚には、時代小説の専門月刊誌や単行本・文庫本が日本文学全集などと共に並んでいた記憶がある。今も並んでいるが、当時は父の書斎といっても、ガキだった小生が勝手に入り込めるような襖の部屋で、家族のいない間にこっそり本を手に取ったものだった。

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2006/03/15

三人のジャン…コンクリート壁の擦り傷

 久世光彦(てるひこ)氏著の『怖い絵』(文藝春秋)を読んでいるのだが、中身に付いて感想もさることながら、それぞれの章で扱われる画家(絵画)や挿画につい関心が向かってしまう。先ほど、読んだ章には、小生が二十代の後半から三十代にかけての頃に、一番、好きだったギュスターヴ・モローの名や絵が話のモチーフになっていて、懐かしくなった。
 小生はその前はムンクやエゴン・シーレ、ルドン、パウル・クレーなどが好きだったが(今も、勿論だ!)、次第にモローの世界に傾いていった。というより、官能的な世界に我が身が浸潤されたというべきか。
 しかし、三十代の後半からは、下記の雑文で示すように、次第に抽象表現主義やアンフォルメルの絵画作品に圧倒されていく。三十代の半ば頃、残業続きの上、友人の仕事の手伝いなどで睡眠時間がただでさえ数時間もなかったのに、朝までの乏しい睡眠時間を削って、ジャクソン・ポロックやジャン・デュビュッフェジャン・フォートリエらの作品(言うまでもないが、展覧会で見てきた印象や買い求めてきた画集の中のいずれかの作品)を前にして、掻き立てられるイメージのままに、まさに抽象表現的な文章、虚構は虚構だが、詩といえば詩であり、友人曰く、まるで文章になっていないものを書いていた。

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→ 紫苑さんから画像掲示板にいただいた薔薇の画像です。アダモはコンサート40曲近くを歌いきったとか。紫苑さん、「コンサート終了後楽屋まで押しかけサインと握手とキッスをいただいてまいりました!」だって。小生もその情熱の欠片でも戴かないとね。

 自分としては他人には支離滅裂なのは最初から承知の上だった。文章を無理につなげようなんて、まるで考えていなかった。なりふりなど構っていられなかった。
 とにかく掻き立てられ、湧き上がるイメージ…、というより、例えば闇の宇宙をあてどなく漂っていて、時に心地よく浮遊していくのだが、時に方向感覚も上下の感覚も失われ、メニエル症という頑固な病に冒されたように(実際、92年から93年の頃は、振り返ってみると、明らかにメニエル症かメニエル症候群の渦中にあったとしか思えない苦しい症状に悩まされるようになった)吐き気と眩暈に苦しまされ、そのまま水平に意識を失うようなことになるのかと思いきや、闇の海の中に目には見えない岩盤か何かがあって、思わず頭から衝突してしまって、悶絶してしまう、その末期の瞬間のオレンジ色の閃光に射抜かれるようにして、言葉の断片を書き綴っていたのだった。
 懸命だった。生きる証というと大袈裟かもしれないが、本人は必死だったのである。肉体的実在感、希薄な存在感からの脱出…。

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満月の夜

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↑ これは昨夜、携帯で撮ったもの。見た目には満月だった。
 日中、冷たい風が吹いて冬に逆戻りした寒さとなり歩くのも辛かった分、空気が綺麗になった。お陰で、目には月影が冴え冴えとして見え、思わず撮りたくなったのだ。
 孤独になりがちな仕事柄、月影を追うのがささやかな楽しみである。
 撮った場所は日比谷公園の中の小さな丘の上。正確には今日、15日が満月である。
 今日は、高層ビルの上層階からは東京タワーは勿論、昼間は遠く富士山もよく見えたとお客さんが言っていたっけ。

 我が心映し返すか眩し君

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2006/03/14

久世光彦著『怖い絵』の周辺

 久世光彦(てるひこ)氏著の『怖い絵』(文藝春秋)をようやく読み始めることができた。
 今日は私事があれこれあって忙しく(郵便局、歯医者、クリーニング、図書館、スーパー、掃除機のクリーニング、風呂場の掃除、その上、思い立って久しぶりにメルマガの配信作業に取り組んだ)、ゆっくり本を読む時間があるのかと危ぶんでいたけれど、さすが休日の威力で、一時間余りは読書に勤しむことができたのである。
 といっても、読むのが遅い小生のこと、半分も読めていない。それにあちこちで引っかかって、ついメモったりして、尚のこと、牛歩となってしまう。
 別に慌てる必要はないのだが、読みたい本、書きたいことが山積みとなると、ちょっと忙しい気分での読書となるのは仕方がない。

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→ 14日の午後だったか、都内某駅のロータリーで謎の生き物を発見遭遇! 

 それにしても、今日、図書館で返却・借り出しをしてきたのだが(「アートレスをアートフルに(承前)」などの文章を綴る参考にしていた、鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン 』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)も期限が来て、仕方なく返却してしまった。なので、志半ばにして、『〈想像〉のレッスン 』にて言及・引用・参照されているアーティスト名を列挙の形でメモする試みは頓挫と相成った。いつか再度、借りてきて続きをとは思っている)、その帰り、リサイクル本のコーナーを見たら、驚いた。
 真新しい全集が十数冊も並んでいる!
『コレクターズ版世界文学全集』(日本ブッククラブ)である。小生が図書館を出ようとしたのは四時過ぎだったので、恐らくは既に相当程度の巻は貰われていったのだろうと思う。
 装丁からして古びたデザイン、懐かしいという雰囲気の漂う、いかにも本はかくあるべきという全集だったが、案の定、72年に初版が刊行されたもので、並んでいた全集は第五刷のもの。でも、ほとんど手付かずといった感を強くする、頁が一切、捲られていないような新鮮さ。

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2006/03/13

送信実験です。

携帯でのメール送信実験です。さて。

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メルマガを配信しました!

 二ヶ月ぶりにメルマガを配信しました。通巻351号で、今回は索引号です。
 内容の大よそは別頁に表示しました。
 メルマガの登録は、ホームページの下段に窓口があります。

[ この記事に「刷りバカ日誌」@にわけんさんよりコメントを戴いている。その文面はコメント欄を覗いてみて欲しい。そのコメントの中に、「心臓移植費用を求めている一人の少女がいます。まなちゃんを応援して下されば幸いかと存じます。」とあるけれど、肝心の当該のサイトは以下:
まなちゃんを救う会
 このブログサイトの冒頭の文面をここに転記させてもらう:

東京都多摩市在住の石榑愛(いしぐれまな)ちゃんは平成17年6月28日に元気な産声をあげました。しかし生後5ヶ月で「拡張型心筋症」であることが分かり、心臓移植をしないと余命半年との宣告を受けました。
現行の日本の臓器移植法では、15歳未満の小児からの臓器提供は認められていません。
そこでご両親は、海外での移植手術を決断し、関係者の尽力によって、米国カリフォルニア州にあるロマリンダ大学病院への受け入れが決まりました。しかし海外での医療費には日本の健康保険は適用されないため、心臓移植手術費、滞在治療費・渡航費などで合計1億3600万円もの費用が必要となります。これは、一般家庭では到底用意することができない金額であるため、まなちゃんを助ける為には多くの皆さんのご支援を必要としています。
まなちゃんが一日も早く渡航できるよう皆様のご協力をお願いいたします。

 詳しくは当該のブログサイト「まなちゃんを救う会」を覗いて確認してください。 (記事作成当日追記)]

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ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって

 チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)が面白い。
 まだ、読み止しで半分も読んでないけれど、楽しめそう!

 レビューによると、「本書は、史上もっとも危険な概念―ゼロの“伝記”である。バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいたが、その脅威は、科学が進歩を遂げた現代でも変わりはない。ゼロを追放しなければ、一般相対性理論の無限大問題は解決できないように。歴史を通じて排除の対象でありつづけたが、消えることはなかったゼロ。有用でありながら、多くの矛盾や論理の崩壊をもたらすこの概念の全貌を、まったく新しい切り口で描くポピュラー・サイエンス」とある。

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→ やはり11日の夜半過ぎ、都内某所で客待ちしながら、看板の綺麗なお姉さんをぼんやりと。日中のように路上を行く女性を眺める機会もないし。広告のモデルさん、一体、誰に微笑みかけているものやら。

 過日、ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード』 (越前 敏弥訳、角川書店)を読んだけど、確かにキリスト教の秘密に迫るようで、面白くはあったが、そうした凝った意匠を剥ぐと、物語として、というより語り口としてつまらなかった。ほんの数十頁読んだだけで、大方の一般の読者が知らないような、意表を突くかのようなキリスト教や欧米での封印されてきたかのような秘密が満載になっていて、それが好奇心を掻き立ててくれるけれど、文章そのものは殺人ミステリー物としては平凡で、ああ、先行きが読めるようでうんざりだなと予感しつつ、とにかく読み切った。
 魔の数666のことにしても知らないではなかった。「最後の晩餐」というダ・ヴィンチの大作が修復されていて、新鮮な衝撃を与えつつあるとも仄聞していた。
 小生は未読だが、『ダ・ヴィンチ・コード』が出版され話題になる数年前には、マイクル・ドロズニン著の『聖書の暗号』〈麻生 暁訳、アーティストハウスパブリッシャーズ)が話題になっていた。「2001年9月11日、米国で起きた同時多発テロ―世界中を震撼させた事件は、3000年前から『聖書』に予言されていた。聖書には、さらに驚くべき予言が暗号化されていた。「聖書の暗号」の鍵が、ヨルダンのリサン半島にあるというのだ」云々といった、やはりミステリー調の本。
 古来より聖書の<暗号>を先にあげた666を含め、数字の魔術でひも解く試みは縷々行われてきたし、現在も倦むことなく営々と続けられているようだ。

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2006/03/12

アートレスをアートフルに(承前)

 昨日の営業は、夜中になって疲れが出たのか、寝すぎるくらいに寝てしまった。どこかの公園の脇に車を止めて、ちょいと小一時間ばかり仮眠を取ろうと思ったのだが、カーラジオをオフにし、眼を閉じたのは草木も弥一も寝る丑三つ時の二時頃だったのが、目が覚めたらゴ、ゴ、ゴ、松井だ、じゃない、ゴジラ、じゃない、五時だ!
 いくら車の中がダンボールや故障した電気製品、古着、そして埃だらけの自室より居心地がいいからって、これだけ寝ちゃ、アカンね。
 春爛漫、春爛々弥一の本領躍如といったところか。
 さて、気を取り直して、閑話休題

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→ 11日の夜、都内某所で撮影。一度くらいこんな場所で野球をやってみたかったなー、なんて思いながらパチリ。

アートレスをアートフルに(序)」で以下の二つを3月10日に、今日は何の日として紹介した:

  3月10日は、第9回冬季トリノパラリンピックの会期が始まる日である(日本時間だと11日だが)。→「トリノ通信、2006年トリノ冬季オリンピック、パラリンピック
(覗かれた方はすぐに気づくだろうが、末尾にある「トリノ冬季五輪会場(山岳部)3D衛星写真地図」は壮観だ。)

 3月10日は、東京大空襲の日である。→「春の川(はるのかわ)」(March 10, 2005 )「冴返る(さえかえる)」(February 27, 2005 )「花炭…富山大空襲」(August 17, 2005

 ところが、早速バイアスロン女子12・5㌔視覚障害で小林深雪選手が金メダル、女子12・5㌔立位で日本選手団最年少16歳の太田渉子選手が銅メダルを獲得したなどと報じられた前者のトリノ冬季パラリンピックはともかく、後者の東京大空襲は(ラジオではNHKが少々やっていたが)テレビでは(ほとんど乃至は民放は皆無か)関連番組はなかったようだ。他に事件があったのだとしても、ちょっと情けないような気がする。
 アメリカとの関係重視の現われか、単に認識不足なのか。勘ぐり過ぎ?

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2006/03/11

引鶴(ひきづる)からサンバへ

季題【季語】紹介 【3月の季題(季語)一例】」を眺めていたら、「引鶴(ひきづる)」という季語が目に付いた。
 春の季語、そして鶴が引くということで、「春が来るとシベリヤなどに鶴は帰って行く」という光景を容易に思い浮かべられることだろう。「鶴帰る」や「鶴引く」、「帰る鶴」、「去る鶴」といった類義語もある。
 思えば、小生は鶴あるいは鶴に関連する季語を採り上げたことがなかったようだ(断言はできない。小生のことだから見落とし、記憶間違いの恐れがかなりある)。
 冬だと、「凍鶴(いてづる)」という、これまた美しい季語がある。
わたしの俳句歳時記<今週の季語・一句抄> 鈴木五鈴」なる頁を覗かせてもらう。
 すると、「凍てついたように動かない鶴のこと。頭を翼に入れ、片足でじっと立っている姿が印象的に思い起こされよう。いかにも寒げだ。タンチョウのダンスのように鶴とは一般的に優雅なイメージに包まれているが、身体からの放熱を防ぐためとはいえ、片足以外は外の寒気にさらさないという徹底した形姿は面白い」というエッセンスの凝縮された評釈が載っている。

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→ 写っているのは、9日、日の出ふ頭で見かけたシンフォニーの後ろ半分、そして東京湾とつながる運河。別に今日の季語随筆で鶴を採り上げるので、鶴をイメージできる画像を予め撮っておいたというわけじゃない!

 ここに掲げられている、「凍鶴や沖の暁雲茜さす  野村喜舟」は有名な句なのだろうか。
石手川公園(野村喜舟)」なる頁を覗くと、喜舟には「囀(さえずり)や天地金泥(きんでい)に塗りつぶし」ようだ。これも鳥に絡む日本画をイメージさせる句である。

 ところで、小生、何ゆえ「引鶴(ひきづる)」という季語に今日は惹かれたのか。妙な話だが、「タンチョウのダンスのように鶴とは一般的に優雅なイメージに包まれているが、身体からの放熱を防ぐためとはいえ、片足以外は外の寒気にさらさないという徹底した形姿は面白い」という一文が起因しているようだ(太字は小生による)。

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2006/03/10

アートレスをアートフルに(序)

[始めに:こんなことは書きたくないけれど、「【ココログベーシック・プラス・プロ障害のお知らせ】2006年03月09日(木)22:00頃よりログインできない状況が発生しています。鋭意復旧に向けて作業をしております。」とのことで、本ブログにコメントなどを試みた方は、書くだけ書いてもコメントが受理されず、不快に思われたことと思う。ブログを見ても、今現在、トラブル中(メンテナンス中)とは表示されないのだが、まるでコメント(あるいはトラックバック)を拒否されているかのようだからだ。
 ココログサイドに問題があるのなら、ブログの何処かにその旨、表示されるよう改善すべきではなかろうか。こちらには、来訪しコメントしようとした方に断りようがないのだし。
 念のため、ホームページの掲示板にて説明を試みておいたが。
 さて、さすがに今朝、小生が帰宅するまでには解決しているものと思ったが、午前どころか、午後の二時を回っても事態の進展が見えなかった。午後四時過ぎ、今度こそと自分のココログのコントロール画面内に入ろうとしてみたら、なんとか入れた!
 トラブル、長かった!]

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→ 今度は9日の日中、東京タワーの傍を通ったので、信号待ちの間に急いで窓を開け、根元から天辺までをパチリ。エッフェル塔を模したというタワー、さすが間近だと迫力がある。曇天だったのが惜しい。「正式名称は日本電波塔。建築構造学者・内藤多仲(1886~1970)と日建設計株式会社が共同で設計」だとか。
「世界的に著名な照明デザイナー石井幹子により、日没から深夜0時までの間、美しくライトアップされる。ライトの色は季節によって異なり、夏は白色、春・秋・冬はオレンジ色」だというから、時間帯によって季節によってタワーは装いを変えているのである。
「地上デジタル放送用の送信アンテナをどこに設置するかについては、多摩地区、上野地区、秋葉原地区などから誘致提案が出された。しかしサービスエリアや航空路との関係などの面でいずれも決定的ではなく、最終的に従来アナログ放送を行って来た東京タワーの施設を拡張する形で設置される事になった」という。
 良かったね。当分、地位は安泰だ。
 そういえば、9日だったか、ワンセグのテレビ放送を携帯電話の受信機で見たが、画像が驚くほど鮮明だった。この電波も東京タワーからのものなのかな。

[ 最近、「第2東京タワー 新東京タワー構想再燃」だとか。巨大地震対策と「地上波デジタル放送の目玉とも言えるワンセグ放送の、電波による直接受信の環境を整える効果」もあって、「600メートル級の高層タワーにすることが望ましいの」だとか。さいたま市か墨田区か。「日本放送協会(NHK)と在京民放5社(日本テレビ、東京放送、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)は17日、地上デジタル放送の電波を発射する第2東京タワーの建設計画と、「新タワー推進プロジェクト」の発足を発表した」というけれど。いずれにしても、「建設地の決定については2006年3月末を期限」であり、「タワーの新設は、地上アナログ放送が終了する2011年7月までに完成していることが絶対条件」であることは間違いない。 (06/03/18 追記)]

  3月10日は、第9回冬季トリノパラリンピックの会期が始まる日である(日本時間だと11日だが)。→「トリノ通信、2006年トリノ冬季オリンピック、パラリンピック

 3月10日は、東京大空襲の日である。→「春の川(はるのかわ)」(March 10, 2005 )「冴返る(さえかえる)」(February 27, 2005 )「花炭…富山大空襲」(August 17, 2005

 鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン 』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)は、前回紹介したように「読書拾遺…市川浩・坂部恵・三木清」(March 09, 2006 )、出版社のレビューでは、「微かな違和の感覚を掬い取るために、日常の「裂け目」に分け入る。「見る」ことの野性を甦らせるアートの跳躍力とは-。共同通信配信の「夢のざわめき」欄に掲載されたものを中心に編集した「アート」評」ということなので、当然ながらかもしれないが、かなり多くのアーティストが採り上げられている。

 今、個々の人の仕事を探索する余裕はないが、アートの世界を広めるためにも、今後、折に触れてアートの話題に言及する際の参考のため、名前くらいはメモしておきたい。
(時間があったら、折に触れてネット検索そのほかで個々の作家のプロフィールなど追記していきたい。) 

 といって、本書『〈想像〉のレッスン 』に登場する人物を漏れなくメモするわけではない。目立ったところだけにさせてもらう(漏れている作家の方、御免なさい。悪意はないのです。遺漏のない仕事ができない小生なのです)。且つ、順不同でもある。

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2006/03/09

読書拾遺…市川浩・坂部恵・三木清

 鷲田 清一氏著の『〈想像〉のレッスン』(NTT出版ライブラリーレゾナント015)をお茶を飲みながら徒然に読んでいたら、懐かしい名前、懐かしい本の題名が出てきた。
 読者レビューによると、「当代きっての人気哲学者」という方だが、小生が本を手にするのは初めて(のはず)である。
 出版社のレビューでは、「微かな違和の感覚を掬い取るために、日常の「裂け目」に分け入る。「見る」ことの野性を甦らせるアートの跳躍力とは-。共同通信配信の「夢のざわめき」欄に掲載されたものを中心に編集した「アート」評」という。
 が、「まえがき」によると、「いつもほど理詰めな書き方を、ここでわたしはしていない。現象にふれるとき、理に沿わせる、あるいは論理の枠組みを先立たせるという、哲学の修業のなかでついつけてしまった悪癖をあたうかぎり遠ざけたかったからである。他者の感受性にふれておろおろするじぶんをそのまま晒けだしたかったのである。<想像>のレッスン、それはだから何よりもまずわたし自身に課したものであることを、はじめにお断りしておきたい」というのだ、ロッキングチェアに腰を埋めて居眠りの合間に気軽に読んでも構わないだろう。

 実際、哲学プロパーとなると、不勉強な小生も、では専門家が専門領域を離れた時、それがアートであれ現実の事象、風俗、経済、家事、教育現場となると、基本的には対等のはずである。
 テレビで様々な専門家がコメンテーターとして、ワイドショーなどでしたり顔でコメントしているが、専門分野に関わることだと、くちばしを挟むのは憚られるが(テレビ・ラジオに向かっては勝手な突っ込みを入れているが)、さて、少しでも専門を離れると、まさにその人の人間性が、人間として積み重ねてきた経験がモノを言うわけで、なんだい、専門家ってたって、専門を離れたらたいしたことないじゃんと思ってしまう。
 その意味で、世に名高い(小生だって名前くらいは知っている)方の世態風俗を含めたアートへの彼なりの<おろおろぶり>を高みの見物と洒落込んでも構わないはずである。

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2006/03/08

できちゃった婚増加だって

 このところ、また、失敗が増えている。
 つい最近、某所に野暮用でバイクで出かけた。で、歩道の隅っこの邪魔にならないところを探してバイクを止めたまではよかった。
 用事を済ませ、意気揚々、バイクの駐車場所へ向かう。
 すると、バイクがない! じゃなくて、キーがない! いくら探ってもポケットにキーがないのだ。あり、店で落としてしまったのか、あるいは歩行中に? 店に戻るか、どうするか。
 とりあえず、バイクが無事、あるかどうか確かめるのが先決だと、バイクのほうへ急ぐ。
 すると、なんのことはない、バイクのトランクの鍵穴にキーの束がぶら下がっているではないか。遠目にも陽光にキラキラ光る鍵の束が眩しい!
 トランクをキーで開けてトランクにヘルメットを納めた際に、トランクを閉めたのはよかったが、鍵穴からキー束を抜き取るのを忘れていたのだ!
 バイクから離れ、用事を済ませ、バイクに戻るまで一時間以上は経っていた!
 その間、よくぞバイクが無事だったものだ。キーがぶらぶらしていて、さも、どうぞ盗んでくださいと言っているような状態だったのに。
 日本の治安もまだまだ大丈夫だ。
 小生自身の認知症については危ういけれど。ホント、同じ失敗を何度繰り返せば気が済むのか…。

 閑話休題。さて、本題である。

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→ 7日の夜、芝公園にある東京タワーの傍を通りかかったので、タワーを根元からパチリ。さすが迫力が違う。車の窓からカメラを出して勘で撮ったので、タワーの天頂部分が切れている!

 過日、テレビ・ラジオなどで「できちゃった婚」増加の話題があった。
中日新聞ホームページへようこそ」の「『30歳まで子なし』半数 第2次ベビーブーム女性」と題されたニュースによると、「一九七一-七四年の第二次ベビーブーム期に生まれた現在三十代前半の女性の半数以上が、三十歳までに赤ちゃんを産んでいないことが出生状況をテーマにまとめた厚生労働省の人口動態統計特殊報告で分かった」という。
 よって「出産できるとされる十五-四十九歳の女性の人口は今後十数年にわたって減り続けることが分かっており、厚労省は「人数の多い第二次ベビーブーム世代の女性に子供が少ないことで、少子化が加速度的に進み、人口減少に拍車がかかる恐れがある」と分析している」のだとか。
 詳しくは、「厚生労働省:平成17年度 出生に関する統計の概況」をどうぞ。

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2006/03/07

川田順造の中のエレクトラ&エディプス

 川田 順造氏著の『母の声、川の匂い   ある幼時と未生以前をめぐる断想』(筑摩書房刊)をたった今、読了した。宮本 常一著の『忘れられた日本人』 (ワイド版岩波文庫) とほぼ平衡するようにして読んでいた(他に、メルヴィルの『白鯨』は言うまでもなく)。
 この『母の声、川の匂い』だが、例によって図書館の新刊本のコーナーにあったから手に取ったのだが、さて、著者名の川田 順造氏が小生を惹きつけたのか、それとも、題名の『母の声、川の匂い』なのか、定かではない。
 そう、このところ、 「匂い」に拘る雑文を綴ってきた小生なのだ、その小生の鼻先にこんな題名の本が現れたら、手に取るしかないのである。
 まあ、冗談はさておき(まんざら冗談でもないのだが)、川田 順造氏の名、それゆえ本はある種の懐かしさの感で手にしたのは事実である。
 レビューにもあるが、「東京下町の地霊が呼び覚ます心の軌跡。灼熱のアフリカドラムが甦らせた江戸木遣り、姉に長唄をさらう母の声、寡黙な父の後ろ姿…。江戸東京の地下水脈のうちにたどる文化人類学者の自分史。」といった内容も小生のお気に入りである。

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→ 7日、都内某所の公園にて。「春になると…spring has come!」で撮ったのと同じ場所。もう、満開全開である。でも、焦点が花びらに合ってない!

 なんといっても、世界の名著シリーズの一冊であったレヴィ=ストロース著の『悲しき熱帯』(中央公論社1977刊)は川田順造氏訳だったのだ(ちなみに小生は高校時代から大学にかけてこの「世界の名著」及び「日本の名著」シリーズに随分と(?)お世話になった。『悲しき熱帯』については松岡正剛氏の例のサイトが参考になる。小生はというと、『ブラジル不思議・探検』の中で若干、触れているだけ。尚、『悲しき熱帯』は、現在は中公クラシックス版が出ている)。
 当然ながら、本を読む際はバカみたいに最初から最後まで(表紙から裏表紙まで)読まないと読んだことにならないという杓子定規な小生なので、本文(訳文)は勿論、川田 順造氏の解説文も読んでいるはずである(川田 順造氏には「レヴィ=ストロースの名著「悲しき熱帯」の舞台ブラジルを、半世紀後に訪れた文化人類学者の見たものは。家父長制と母性憧憬、雄性誇示と去勢願望。精神分析用語が似合う幻惑の熱帯をレポートする」という『ブラジルの記憶 (気球の本)  「悲しき熱帯」は今 』(NTT出版)なる本があるようだ)。

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2006/03/06

土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…

 昨日、日曜日は夕方、図書館へ。日中、天気が良かったようで(タクシーの仕事でグロッキーで日中、ずっと寝ていた!)、そろそろ冷え始める刻限だったにも関わらず、日頃のようには喉を守るためのマスクをする必要も感じなかった。
 例によって本を三冊返却し、その足で新刊本のコーナーへ。
 脳科学(前頭葉)に関する本、哲学の本、犬の本、それから世界各地のその地特有の建物を見開き二頁で当然、画像を掲げつつ紹介する本があった。これを借りるか。
 でも、目は画集のほうへ。それは小生には聞きなれない画家の画集。
 タイトルは、『土屋輝雄作品集』(求龍堂)で、「土屋 禮一【監修】・平光 明彦【解説】(著者紹介)」となっている。「2006-02-28出版」だから出たばかりの湯気が出ているような本だ。パラパラ捲る。いい。絵がいい。一見すると日本画に組するような。でも、そうでもないような。
 日本画を描かれる多くの人は、題材に鳥を選ぶことが多い。何故なのか分からない。多くは鶏、つまりニワトリだったりするので、あるいは身近な題材だったからなのかもしれない。
 画集の中に、鳥の剥製の居並ぶ棚の白黒写真があって、記憶ではその剥製の多くは土屋輝雄氏自らが剥製にしたとあったような。

土屋輝雄作品集
土屋 輝雄著 / 土屋 礼一監修 / 平光 明彦解説
求竜堂 (2006.2)
通常24時間以内に発送します。

 迷った挙句、他に借りたい本があったので今回は断念。でも、図書館の隅っこで本画集を眺める束の間のひと時だけれど、「長い闘病生活の傍ら描き続け、青龍社展にも出品した日本画家」であり、「描くことがそのまま生きることであった」土屋輝雄の世界をじっくり楽しめた。

 ちなみに、「土屋輝雄・禮一父子展」が間もなく奈良県立万葉文化館にて始まるようである(開催日は、2006年3月16日 10:00~2006年5月21日 17:30)。

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2006/03/05

掌編、書きました!

 掌編「とうせんぼ」を書きました。
 ボクものだけど、オレもののような、つまりはボケものです。ナンセンス小説に近いかな。


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読書拾遺…忘れられた日本人

 図書館に行くと(実際には「情報館」の「図書コーナー」だが、まあ、便宜上、図書館と呼んでおく)、館内でまず最初に目にするのは新刊コーナーである。尤も、ラックに並ぶ本を手に取ってみると、新刊は新刊なのだろうが、必ずしも出たばかりの本というわけではない。
 中には一昨年の本もあったりする。図書館の方の判断で購入されているから、ピカピカの新刊ばかりではないということなのか(よくは分からない)。
 過日もそうで、中に木村 哲也氏著『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』 (河出書房新社)があった。
 パラパラ捲る。面白そう。借りよう!

sion-adamo

→ 紫苑さんに戴いた画像です。今度、あのサルヴァトーレ・アダモのコンサートに行くのだとか。羨ましい。若い頃、彼の「雪が降る」はどれほど歌ったかしれない。センチだったんだ…、昔は。

 ところが、生憎、そうした日に限って他にも借り出したい本があったりする。その日は、先日来、借り出されているのか、前には目にしていたのに最近はずっと書架に姿のなかったハーマン・メルヴィルの『白鯨―モービィ・ディック 上・下』(千石英世訳、講談社文芸文庫)がたまたまあったので、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の次はこれを読むと決めていたことでもあり、『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』 のほうは、とりあえずは断念することにした。
(ちなみに、『『忘れられた日本人』の舞台を旅する  宮本常一の軌跡』は読む機会をいつ作れるか定かではないので、本書や筆者を紹介するサイトを示しておく:「木村哲也著ー「忘れられた日本人」の舞台を旅する」)

 が、書を書架に戻したのには他に理由があった。
 それは、肝心の本家本元の宮本 常一著の『忘れられた日本人』 (ワイド版岩波文庫) を小生、読んでいないのである。
 やはり、順序ってものがある。民俗学は小生の好きな読書分野の一つで折々関連する本を読んできたが、この高名な本を何故か手にしていなかった。名前はしばしば目にするので、もう、読んでしまったような気分になっているのだろうか。
 宮本 常一著の『忘れられた日本人』 を後日、見つけ、土曜日に読了したので、若干のことをメモしておく。

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2006/03/04

俳句からだ感覚…地貌

 毎度のことながら画面に向かっても何を書く宛てもないので、徒然なるままにネット検索していろんなサイトを渡り歩いていた。
 最初は、「匂いを哲学する…序」の続きを書こうかと思っていた。アリストテレスが五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を分析し、その序列を付けてみたり、さらにそうした五感から共通感覚という概念を導き出す辺りを説明するサイトを探していた。
 たとえば、「C アリストテレス② 」では、「【共通感覚 aistherion koinon】 (『デ・アニマ』2,3)」の項に、「視覚に対する色、聴覚に対する音のような個々の感覚器官に応じた個別感覚ではなく、それらのいくつかで共通に把握できる感覚のこと。その座は心臓にある。というのも、我々の感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つに特殊化し、それぞれ特殊な感覚器官を持つが、そのもとは同一のものだからであり、また、このようにしてとらえられる対象は付帯的なものではなく、自体的なものだからである。ただし、これを直接に捕える第六の感覚器官など存在しない」とした上で、「このような共通感覚として」以下を示してくれている:
  

 第1に、運動、静止、数、形、大きさなどの知覚
 第2に、だれだれのものである、のような知覚
 第3に、私は見ている、のような自分の感覚の知覚
 第4に、白いのは苦い、のような異なる感覚にわたる知覚

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→ 三月三日、桃の節句の日の夜半過ぎ、四日の丑三つ時と言うべきか、都内某所の公園にて撮影。トイレに梅というのは取り合わせの妙とは言いがたいだろうが、ちょっと面白くて撮ってしまった。まさに匂うがごとき梅の花である。

触覚、この余計なもの̶̶マクルーハンにおける感覚の修辞学」では、以下の文を見出す:
」アリストテレス『デ・アニマ』しかし、私たちは、白いと甘いの間、そしてその他の感覚対象のそれぞれを比べることで、それらが異なることを判別し知覚しているのであるから、そのための感覚もなければならない。なぜなら、これらの対象は感覚されるものだからである。したがって、肉はこの最終的な感覚器官ではないということも明らかになる。なぜなら、その場合、この区別は触れることによって行われたことになるであろうから。 (Aristotle 426b12-17)」
 この文に対する「トマス・アクィナス『デ・アニマ注釈』」も面白い。

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2006/03/03

桃の節句…雛流し…曲水の宴

(書き忘れていたが、「2005年03月の索引」の中で示したように、昨年3月に拙稿「桃の節句」を書いている。無論、日付は「March 03, 2005」である。同じ季語を話のネタ乃至はとば口にしながら、いかに話が違う風に展開するか、両者を読み比べると面白いかも…つまらないかもしれないけどね。)
 ここ数日、季語随筆日記らしいことを書いていないので、今日は表題にあるごとく「季題【季語】紹介 【3月の季題(季語)一例】」のうちにある「桃の節句」を採り上げたい。
 何たって今日は三月三日、桃の節句を祝う日なのである。
 小生には、こんな華やかなというか、若やいだような季語は無縁の世界なのだが、それだけにせめてここにおいて雰囲気だけでも味わってみたい。

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→ 三月三日の夜、日中の一時は激しかった雨も峠を越し、都内某所の公園脇で枯れ木などをパチリ。桜。あと二週間余りで開花が始まるとか。その日を今か今かと待っているのは人だけじゃなく、むしろ花のほうなのかもしれない。ああ、写真など撮ってせっかくの安眠の時を邪魔しちゃいけないね。

 咲く日待つ思いを秘めて深く寝ん

 例によって、季語のことは何も知らないので、ネットの力を借りる。
俳句歳時記の部屋」の「春の季語(行事・暮らし編-種類順) 桃の節句(もものせっく)」によると、「桃の日 雛の節句」などの類義語があり、「三月三日、女の子の節句」という。
 関連して、「雛市、雛祭、菱餅、白酒、雛あられ、雛流し」といった季語がある。類義語もそれぞれの季語にある。

さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 月1日~31日(陰暦1月16日~2月16日)」、その「◆雛祭り(ひなまつり)」の項によると、「古来、人々は草や紙で「ひとがた」という人の形をつくって自分の身代わりとし、川や海に流すことで、災厄を払っていました。この儀式が宮中のお人形遊びとが結びつき「雛祭り」の原型になった、と言われています」とある。
「雛流し」という季語は「けがれを祓うため三月三日の夕、川へ流す行事」ということのようだが、何処かしら 「平安貴族の宴に行った遊び 」だという「曲水(きょくすい)」 (類義語に「曲水の宴 盃流し」)を想わせるような。

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2006/03/02

久世光彦氏が死去

「人気テレビドラマ「時間ですよ」の演出や小説やエッセーなど文筆でも活躍した演出家で作家の久世光彦(くぜ・てるひこ)氏が2日午前、東京都世田谷区の自宅で死去した。70歳。東京都出身」とか:
中日新聞ホームページへようこそ

 同上の記事に拠ると、「東京大文学部美術史学科卒業。1960(昭和35)年、現TBSに入社。脚本家の向田邦子さんとともにドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などを手掛けた。斬新な演出で高視聴率を稼ぎ、名物プロデューサーと呼ばれた。79年に独立しテレビ番組制作会社「カノックス」を設立。テレビだけでなく舞台演出にも活動を広げた」ともある。

 富山出身ではないが(?)富山高校卒ということで、小生にとっては先輩ということになる。
 彼に付いては何とか採り上げたいと思っていたが、果たせないで来た:
シャラワジ風日記
(尚、富校の在校生が作る「富校の杜~県立富山高校~」は覗いて楽しいサイトになっている。)

 源氏鶏太氏も含め久世光彦氏の本を読み、いずれ彼を特集したい。

 謹んで久世光彦氏のご冥福を祈ります。


[ 「livedoor ニュース - 久世さん遺影 荒木氏が1月に撮影」という情報を得た。関係する情報なので一部、転記させていただく。
「胡蝶(こちょう)蘭やかすみ草など、白い花の祭壇に飾られた久世さんの遺影は、写真家の荒木経惟氏が1月下旬に撮影したもの。久世さんが、大好きなたばこをくゆらせているワンカットで、月刊誌「ダ・ヴィンチ」のグラビア用だった」とか。
 これは、「久世さんは撮影時、荒木氏に「遺影は荒木さんに撮ってもらおうかな」と冗談っぽく話していたといい、この会話を覚えていた編集者が遺族に届けた。久世さんの死後、自宅から裏に「葬儀用」と書かれた別の写真も見つかったという」のだ。
 また、「棺には、久世さんが思い入れの深い作家や作品への思いをつづった「美の死」(ちくま文庫)が納められる予定。筑摩書房から発行された単行本の文庫化で、10日発売。亡くなった2日に届き、久世さんが目にすることはなかった」のだとも。
 さらに、「長男の烈さん(28)が贈ったマグカップ、原稿の続きを書いてほしいとの願いを込めた原稿用紙や鉛筆、万年筆に加え、愛用の眼鏡、腕時計、トレードマークだったたばこのピース缶も納められる」という。(06/03/08 追記)]

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嗅覚の文学

「匂い(臭い)」というと鼻そして嗅覚。哲学に移る前に文学方面で「鼻(あるいは嗅覚)」をテーマにしたもの、乃至は題名の一部に入っているものを幾つか。
 まずは、小生の好きな作家であるゴーゴリが浮かぶ。言うまでもなく、その名も「鼻」である(『外套・鼻』 所収。 平井 肇訳、岩波文庫)。
 ブックレビューによると、「ある日突然顔から抜け出し、歩き廻り出した自分の鼻を追って狂奔する下級役人を描く幻想的な物語」とある。
 コミカルでナンセンス調だが、面白うて、やがて悲しきである。傑作として挙げはしないけど、幾度、読んだかしれない作品だ。

「鼻」というと、芥川龍之介の作品を真っ先に浮かぶという人も多いのでは。
東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した『鼻』を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる」という曰く付きの作品。
 高校だったと思うが教科書に載っていた。
 ソクラテスのような意味合いではなく、歪な形の鼻を持つ小生のようなものには、ゴーゴリもそうだが、芥川のこの「鼻」が授業で扱われている間は針の筵(むしろ)状態だった。喩えが間違っているかもしれないが、焼けたトタン屋根の上のネコ状態だった。
 それこそ、自分のことを教室中で、学校中で、やがては世界であげつらっているような気分だったのだ。 
 あげつらい嘲笑している、それどころか声を出して朗読などさせられようものなら、哄笑されているような…、じゃない、哄笑されていると感じるしかなかった。
(鼻呼吸ができないこともあって、授業が始まって十分もすると、酸欠状態になる。口呼吸しかできないから、口を大きく開けて息をしたいけど、外聞もあるし、授業の邪魔だし、口を薄く開けて息を細く細くして吸ったり吐いたりする。この辺りのことは、掌編「授 業 中」でやんわりと描いてみた。小生の場合、十歳で鼻呼吸ができなくなってからは、授業は酸欠との戦いだった。増して「鼻」に焦点が当たっているとなると!)
 ゴーゴリの「鼻」もユーモラスな感がある、哀愁の感だって漂っているけれど、しかし、自分を「思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ」の意のユーモアで敢えて客観視したい、しないといけない、作品には自分をではなく人間を風刺する高度で深い世界が表現されているのだと思いたいのだけれど、どうやってもそんなユーモアという衣で身を包み隠すのは無理がある。窮屈なのだ。背伸びしすぎなのだ。

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2006/03/01

2005年03月の索引

 何だか恒例になりつつあるが、月初めということで、昨年の三月にこの季語随筆(日記)でどんな記事を採り上げたのか、リストアップし一覧表にしてみる。読者のため、それともやはり自分のため。

 前にも書いたと思うが、これは小生が折々覗いて刺激を受けているpfaelzerweinさんのブログ「Wein, Weib und Gesang」に影響されてのことである。
 pfaelzerweinさんは二月末にも恒例に従って、「索引 2006年02月」を作っておられる。見比べられたら中身の濃厚(質)の差が歴然で恥ずかしくなってしまうが、我流でやっていくんだと開き直るしかないね。

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→ 都内某所に出来た新しい橋の袂に植えられた色とりどりの花。信号待ちで確かめる暇はなかったが、パンジーだろうか。パンジーは、フランス語の「パンセ(考える)」に由来しているのだとか。「パンジー」「三色菫」は春の季語。写せなかったが、橋も負けずに華麗な形を誇っている。

 できれば、月末には総括の意味合いも込め、その月に書いた記事のリストアップ表も作っておきたいのだが、書きたいこともあって、手が出ない。今後の課題の一つである。
 例によって、「記事の題名」(主なテーマ、書いた日付)である。日付には当該頁へのリンクを張ってある(番外の記事は除外している)。

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