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2006/03/26

「異端の数 ゼロ」…あるいは豊穣なる無

 チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)を過日、読了した。本書に付いては、読み始めの頃、「ヨハネによる福音書第一章第一節の冒頭にある有名な言葉、「はじめに言葉ありき」」という有名な文言をめぐって、「本書では、「はじめに比があった。比は神とともにあった。比は神だった。」なる形でヨハネの冒頭の言葉が掲げられている」ことに素朴な驚きを覚えたため、ちょっとした感想文を綴っている:
ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって
 数学や物理学の歴史に関する書であり、いくら数式が省かれているとはいえ、小生が書評を試みるのはおこがましい。ただ、一読して面白かったので、感想をメモしておきたいだけである。

Sariah-1

→ 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。今は更新されていないというサイト「♪ Arabian Dance Night! ♪」だが、なかなか充実している。このまま埋もれさせるのは惜しい!「Costume 」「Tools 」「Movement」「Music」ほかの部屋があって勉強になる。(例によって本文と画像とは関係ありません。以下同様)。

 一応、出版社側のレビューというか謳い文句を示しておくと、重複引用になるが、「本書は、史上もっとも危険な概念―ゼロの“伝記”である。バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいたが、その脅威は、科学が進歩を遂げた現代でも変わりはない。ゼロを追放しなければ、一般相対性理論の無限大問題は解決できないように。歴史を通じて排除の対象でありつづけたが、消えることはなかったゼロ。有用でありながら、多くの矛盾や論理の崩壊をもたらすこの概念の全貌を、まったく新しい切り口で描くポピュラー・サイエンス」とある。

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← 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。今は更新されていないというサイト「♪ Arabian Dance Night! ♪」の中を勝手ながら覗いてみるよう。まずは、 「Movement」なる部屋である。「Belly Danceの舞踊動作」の部屋なのだが、どの舞踏動作も一筋縄では会得できそうにない。また、シュミを始め、それぞれがベリーダンスに特有の動きのようだ。

 本書に付いての書評は余りなされていないようだが、その中では、関心の対象がやや文系らしき方の書評が目立った:
サイフェ-異端の数ゼロ」(ホームは「Rogi073.Room」のようだ。表紙に掲げられている「川に投げ捨てられた一つの水滴。それはやがて大海を漂うのか。それとも気化して雲にでもなるのか。」という文言がなかなか。)

 24日、金曜日の営業中、ラジオからいろんな興味深いニュースを聞いた。項目だけ列挙すると、
鳥インフル、肺の奥に感染しやすい部位見つかる
(「人の肺の奥に鳥インフルエンザウイルスに感染しやすい部分があることを、河岡義裕・東大医科学研究所教授らの研究チームが突き止めた。 鳥インフルエンザ感染では「個人差がみられ、感染しやすい体質がある」との説もあった。しかし、感染の“端緒”が見つかったことで、だれでも感染する可能性のあることが示された。」というもの)
新東京タワー、墨田に決定 高さ世界一、10年完成へ
(「NHKと在京民放5局は25日までに、地上デジタル放送の電波塔となる「新東京タワー」を東京都の「墨田・台東エリア」に建設することを決めた。月内にも発表する。東京タワー(333メートル)の2倍近くの地上600メートル級で、カナダ・トロントのCNタワー(553メートル)を抜いて世界一の電波塔が誕生することになる。新タワーは2010年の完成を目指す。地上450メートルには展望台の設置が計画されており、東京の新たな観光名所となりそうだ。」というもの)
 これらはいずれも関連する記事の頁に追記したいが、時間がないので、ここにメモだけしておく。
 最後に、ネットでも25日の朝に見つけたのだが、既に削除されているのか、今は読めない記事となっている(?)ニュースに、「銀河の卵」が銀河系の間近といっていい地球から20万光年のところで発見されたというものがあった。
 これは小生などの天文学の門外漢からすると驚くべきニュースに思えた。銀河系の間近に銀河の卵があるなんて、まるで想像もしていなかった。宇宙の深部の何処か(つまり銀河系から百数十億光年の彼方、ということは百数十億年の昔)になら卵が見つかるだろうとは思っていたし、実際、これまでも見つかっているはずだ。
 朝日新聞(25日朝刊)を参考に説明を施しておくと、「銀河系の隣にある大小マゼラン雲の近くで、新しい銀河が生まれつつあるのを名古屋大学などの研究グループが発見した。地球から20万光年という観測しやすい距離で「銀河の卵」が見つかったことで、銀河誕生の謎の解明が進みそうだという。(中略)解析の結果、星の卵である分子雲を7個発見。すでに見つかっていた1個も含め多くの分子雲付近には、分子雲からできたと考えられる星団があり、次々と星ができていることがわかった。宇宙誕生の初期によく似た環境で、20億年後には星が100万個を超えて小さな銀河になると予想されるという。これまで大きな銀河の「種」となった小さな銀河は近くても地球から1千万年光年離れたところで見つかっている。」という。
 と思ったら、ネットでも関連する記事が見つかった。が、新聞のほうが詳しい:「20万光年の距離に銀河の卵 名古屋大が分子雲7個発見

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→ 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。引き続き、「♪ Arabian Dance Night! ♪」の中を覗かせてもらう。「Costume 」「Tools 」の両者に共通するのは、ヴェールだろう。特に顔などを隠すような、さりげなく伺わせるような、逆にヴェール越しに観客を冷静に(?)観察しているような、ベリーダンスやインド舞踏などに特有の小道具であり武器でもあるのだろう。

 さて、新たに我々の銀河から(そして地球から)間近で「銀河の卵」発見というニュースに注目したのは個人的な興味もあるし、本書『異端の数 ゼロ』の内容と無縁ではないからである。
 本書の前半は「バビロニアに生まれたゼロは、そのなかに潜む“無”と“無限”ゆえ、人類の知的営為を揺るがしてきた。ゼロは、古代ギリシアの諸賢によって禁じられ、キリスト教世界では異端視された。パスカル、デカルト、ニュートンらの業績の裏には常にゼロの問題が潜んでいた」云々とあるように、まさに異端の数=ゼロの発見と徐々に西欧社会に受け入れられていく歴史を興味深く描いてくれている。ゼロという異端の概念の受容が、その痛みを伴いつつも、長い中世の眠りから西欧を目覚めさせた…目覚めと相関しているというべきか。
 本書の後半は、レビューにもあるように、ゼロ(つまり無と無限という双子の異端児)の脅威は現代の宇宙論にいおても依然、変わっていない、むしろますます脅威の度合いを増しているとも言えるという主旨の話がメインとなっている。
 一般相対性理論という決定論の構造を持つ宇宙観(世界観)と確率論に根差す量子力学の宇宙論との婚姻は未だに果たせていない(「ひも理論」などの有力な理論は登場して久しいが、物理学さらには科学の基本である実験による理論の検証も実際の観測さえもが基本的に不可能のままに留まっているので、いずれの理論もあくまで理論に留まっている)。この決定論の構造を持つ一般相対性理論と確率論の構造を持つ量子力学の両者は共に大成功を収めているので、共にどちらかを引っ込めるわけにはいかない。
 が、両者を婚姻させるには、ゼロをいかに追放するか、処理するかという問題が行く手を阻んでいる、というのが本書の末尾辺りの眼目になっている。

 小生は以前、ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』(林 一・林 大訳、草思社刊 ←奇しくもかどうか、『異端の数 ゼロ』の訳も林 一氏だ!)やリー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』(野本陽代訳、NHK出版刊)などの本の感想文を書いたことがある:
『エレガントな宇宙』雑感(付:「『宇宙は自ら進化した』の周辺」)

 直接はゼロという厄介モノに焦点が当てられているわけではないが、「エレガントな宇宙」については、小生よりそつなく書評しているサイトがあるので、そこを紹介しておく:「エレガントな宇宙  超ひも理論がすべてを解明する
(文中、「相対性理論と量子力学は20世紀の普通の物理学であるが、この2つは小さいスケールにおいて矛盾を呈する」というくだりがあるが、この辺りに「ゼロをいかに追放するか、処理するかという問題」が伏在しているわけである。)

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← 画像は、「Charlie K's Photo & Text」の「Sariah's Hindy Belly Dance - WomenFest 2006 -」から。「♪ Arabian Dance Night! ♪」の中の「Travel パリのいろいろ」を興味深く読んだ。文中、「日本ではトライバルに近いように思われがちなジプシー・ダンスについては」云々というくだりがあった。そうだ、どこかジプシー・ダンスとの親近性を思っていたのだが、やはり、少なくとも素人目にはそういった誤解の余地がないわけではないのだ。「ヨーロッパという土地は地理的にも中近東諸国と近いし、歴史的にも中近東諸国を植民地にしていた時代があり、また現在でも移民が多く、中近東の文化には非常に近いんですよね。ジプシーの文化だって、わりと身近なところにあるわけだし。パリで会ったダンサー達の多くが、とても雰囲気たっぷりのアラブ・テイストの踊りや、あるいは非常に生命力にあふれたジプシーっぽい踊りを見せてくれたのは、そのせいなのかもしれないなぁ……などと思います」とあるのも、生意気ながら納得したりして?! やはり、どの世界も奥が深い!

「自然は真空を嫌う」というアリストテレス哲学が長く西欧の思想・宗教の根幹にあった。が、ついに「トリチェリの真空」実験で人工的に真空が作り出せることを示し、そのことが近代科学の勝利でもあったのだが、20世紀になって偽の真空という概念が考え出されてきた。真空は実は真空ではない、そこではハイゼンベルクの不確定性理論の許容する範囲の中で素粒子が生成消滅を繰り返している。真空は実は揺らいでいる。無から有が瞬間的に生じることも理論的に可能だし、実際、そうだということが理解されてもいる。
 小生自身は、物理学は別にして、また、アリストテレスの哲学も度外視して、「自然は真空を嫌う」という原理は長く生きながらえる観念(であり現実)なのだと直感している。
 無風の領域など宇宙論の場にも現実の日常の瑣末な場にあってもありえないのだと単純に思っている。
 仮に一瞬、エアポケットのように無風の状態が生まれても、そこには即座に隙を、空きを狙う何かが流れ込み占有してしまう。その結果、宇宙も現実も常に渦動の状態にあるのだ。だからこそ、生命も生じるし、と理屈を運んでいきたいが、本稿からは離れすぎるので別の機会に。

目の前の木々の緑や空の青や、水のせせらぎや、そよぐ風が、誰にも平等に与えられているように宇宙も、その姿を誰にも均しく垣間見せてくれる。その宇宙の姿の片鱗を通して何を感じ何を思うかは、まさにその見詰め見詰められる人間の想像力と感性次第なのだと思う。心の揺らぎを覚える人であれば、どんな思想家や物理学者より豊かな何かを宇宙に、この世界に感じとっているに違いないのだ。いざ、それを言葉にすると拙くなるとしても」とは小生の言葉である。
 目も耳も鼻も塞がれていても、それでも人は何かを感受し想念する。上で、「川に投げ捨てられた一つの水滴。それはやがて大海を漂うのか。それとも気化して雲にでもなるのか」という文言が面白いと思って転記したのも、何か同じ感性を感じたからなのでもあろう。
 ロウソクの焔に魅入られるのも、闇の中、それも部屋の中にあってさえ、焔は揺れて止まない、形を変幻させてやまないからのように思える。命は消える。が、生きている間はろうそくの焔のように萌えている。命の波間に絶え入りそうに、けれど不思議に息を継いでいる、ちょうどそのように命はある。
 その命は偏在していると小生は勝手に思っているのだ。

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コメント

「一瞬、エアポケットのように無風の状態」-
「人は何かを感受し想念する」-

物理としても良いですし、認知学としても、宗教としても、哲学としても、数学としても、ただただどの様にを定義するしかないようです。

投稿: pfaelzerwein | 2006/03/27 04:38

小生など半端な知識しかないので、逆に物理学だろうと数学の本だろうと、哲学や宗教の本だろうと、一種の想像力と創造力との冒険に満ちた人間の営みとして読みます。
これじゃ、身も蓋もない…。かもしれないけれど、素人、門外漢の特権なのではないかとも思う。
ただ、想像力の可能性をギリギリと広げるためには、可能な限りその学問領域の方法に追随しつつ探求し、その上で、やや身勝手な想像の空間に遊ぶわけです。

投稿: やいっち | 2006/03/28 00:03

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