匂いを体験する
ライアル・ワトソン著の『匂いの記憶―知られざる欲望の起爆装置:ヤコブソン器官』(旦 敬介訳、光文社)を読んで「「匂い」のこと…原始への渇望」(February 03, 2006)を、鈴木 隆氏著の『匂いの身体論―体臭と無臭志向』(八坂書房)を読み始めたことで「犬が地べたを嗅ぎ回る」(February 21, 2006)と、「匂い」(嗅覚)関連の雑文を綴ってきた。
この一週間、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を残り三百頁を切ったということで、アンナに掛かりきりになり、後者の『匂いの身体論』も含め他の読書は頓挫したまま(車内読書は細々やってる)。
今日から再開である(といっても、ぼちぼち、そう来週辺りにはメルヴィルの『白鯨』の再読に取り掛かるけれど)。本書の感想文は書くかどうか分からないが、せっかくなのでここでも雑文を捻っておきたい。
→ 蓮華草さんに戴いた「雨上がりの梅一輪」の画像です。春の足音が聞こえてきたことを梅の花ほど優しく告げてくれるものはない。
匂うほど花の咲いても雨に梅
誰よりも春を恋うのか梅の花
ネット検索していたら、「香り 京都産業大学文化学部 国際文化学科 藤野あさみ」という頁を見つけた。
その冒頭に、「はじめに」として、「今回は五感のひとつである嗅覚によって感じる匂い、香りそのものについて調べようと思う。目で見る芸術としての絵画、耳で聞く芸術としての音楽はあるが、鼻で嗅ぐ芸術というものはないと言える。嗅覚は本能的なものであり、本来食べてはいけない食べ物を嗅ぎわけたり、敵のにおいを感知したりするものであって、五感の中でも低級、原始的な感覚として認識されていた。近代になって人々が匂いに敏感になり、日本でも女性はもちろん男性も香水を使用するようになって、最近では香りブームという言葉さえ聞こえるようになった。」とある。
どんな分野・話題でも疎い小生である。ひたすら納得するばかりである。小生ごときが反論できるわけもない。香りブーム、アロマテラピーブームなのはおぼろげながらも感じないわけではない。
ただ、「鼻で嗅ぐ芸術というものはない」と言われると、おや? と思わざるをえない。「嗅覚は本能的なものであり、本来食べてはいけない食べ物を嗅ぎわけたり、敵のにおいを感知したりするものであって、五感の中でも低級、原始的な感覚として認識されていた」なんて、そんなこと言っていいのと不安になったり。
が、まさに、「香り」という頁は、この話題を縷々、語ってくれる興味深い一文なのである。
さて、小生が上記した引用文にオヤ?と思ったのは、直前にネット検索で見つけたあるサイトに影響されてのことだった(まあ、嗅覚や匂いを廻る瞑想・迷走を続けてきたこともあるが)。
そのサイトとは、「談 editor's note[after] 身体地理学、そして無為の共同体へ」である(「談 Speak, Talk, and Think」がホームページなのだろうか?)。
この頁の冒頭付近に「第二の舌、五感の混合体」という項目がある。
どうやら、『五感』(ミッシェル・セール、米山親能訳、法政大学へ出版局、1991)をネタ本にしてのワイン談義のようだ。
「私たちは、あらためて感覚の重要性に気づくべきであろう。この感覚の問題に哲学の側から切り込んだのがフランスの哲学者ミッシェル・セールである。偶然にもミッシェル・セールは、味覚、しかもその最良の材料としてワインを味わうことから感覚を解き明かしていく。」と、まさしく小生の関心にドンピシャである。
「感覚器官は最初からそこに存在するのではないとセールは言う。感覚は誕生するのである。それ以前には存在していなかったものが、接触や交差によって生まれるのである。見たり、聴いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりすることによって、空白であった身体は甦る。虚ろであった体感は、とたんに生気を取り戻す。ミシェル・セールはそれを大胆にも第二の舌と呼ぶ」というが、その前に、「第一の舌とは何か。ミシェル・セールはそれは言説を操る舌のことだという。つまり、理性のことだ」という。
そして「第二の舌は、常に第一の舌に脅かされ、また第二の舌は、その性質どおり謙虚で未発達なため、第一の舌の覚醒の前では眠るほかない。しかし、第二の舌の中でも、その特徴を最も強くもつ味覚と嗅覚は、第一の舌が居眠りを始める頃目を開ける。セールは、このような第二の舌と第一の舌が反転する時があるという。それはまさにワインを口に含んだ瞬間だという」のだ。
小生のアンテナにビビビと来ていたのは、「第二の舌の中でも、その特徴を最も強くもつ味覚と嗅覚は、第一の舌が居眠りを始める頃目を開ける」というくだりだった。
友人が昔、レストランや自宅でワインのボトルを開け(その開ける仕草自体、見物だった)、ボトルから漂う香りを利き、ワイングラスに注いで色合いを見、さらにワインの香りを嗅ぐ仕草を見て、ひたすら感服していたことがある。自分には決して真似のできない仕儀。
味覚は嗅覚あってこそその繊細さも醍醐味も幾重にも増す。
香りというと、香水。
「香水とは、芳香製品(フレグランス)の総称」
香水については、後日、改めて採り上げる機会があるに違いない。
ここでは、香りを、フレグランスを芸術の域に高めたと言われるゲラン(GUERLAIN)のことを想起するだけにとどめておこう。
調香師! 鼻で嗅ぐ芸術家!
以前、何処かで書いたかどうか、昔、匂いに絡む強烈な体験を二度ほどしたことがある。小生は嗅覚が余人に比べ圧倒的に鈍い。このことが災いした<事件>だった。
ただし、「ガス事故余聞」で書いたのとは、別件である。
小生は以前、一部屋のアパートに住んでいたが、珍しくユニットバスが付いている。トイレの臭気が部屋に漂ってくるわけではないが(漂ってきても自分は気づかない。匂いへの馴れもあるが、嗅覚の鈍感さもある。だからこそ、自分で気づかない匂いが漂っているのではないかという懸念がある)、洋式トイレの汚れ防止も兼ねて、汚染防止のための薬剤(曖昧な記憶だが、小林製薬のブルーレットだったと思う)を給水タンクに忍ばせた。
トイレを済ませるたびに青い水が流れ、鈍感な小生の鼻にも刺激臭が漂ってくる。
ただ、トイレには換気扇があるので、トイレを済ませたあとも換気扇は回したままである。
それだけはなく、小生は鼻呼吸ができず、口で息をするしかないので部屋の汚れ・埃をどうしても吸いがちになる。なので、その予防の意味もあって、トイレの換気扇は廻しっ放しにしておく。少しでも部屋の埃がトイレの空間に吸い取られていくことを願ってのことだ。
ところが或る日、電気代をケチったわけでもないが、ワンルーム住まいで換気扇の音が煩かったこともあり、つい、オフにしてしまった。そして、そのまま就寝してしまった。
その日の夢の凄かったこと。夢の内容も凄まじかったが、夢が小生が生まれてこの方経験したことのないほどの鮮明なカラーだったのである。薬剤の色も関係(影響)したのか、特に青色系統の色が濃く且つ鮮やかだったが、とにかく色が立体化したかのように世界が過剰に鮮明に映っている、息衝いているのだった。
そこはまあ、しかし、鈍い小生のこと、朝、起きても、夢の鮮やかさに驚きつつも、最初の時は原因を追究しなかった。トイレから漂う薬剤の匂いが部屋に満ちていることにはさすがに気づいたはずだが。
見る夢がどんな映画でも見ることの叶わぬ総天然色だったことの原因がトイレの給水タンクに入れた薬剤にあると気づいたのは、同じことが起きた二度目のことだった。
そのときも、やはり通常なら在宅の時は換気扇を入れっぱなしするのが(外出中はスイッチをオフにする。なので帰宅直後は部屋の中には薬剤の匂いが充満する。言うまでもないけど、普段はトイレのドアは閉めている!)、面倒で換気扇をオンにしなかったのか、それとも寝入る時についオフにしてしまったのかは覚えていないが、とにかく凄まじく色鮮やかな夢を、しかも確かその時は何故かB29に我が郷里である富山が空襲されるという光景をまざまざと見たのである。漆黒の、それとも匂うほどに濃く鮮やかな藍色の闇を背景にサーチライトに、あるいは投下された焼夷弾に焼け焦げつつある街の業火に照らし出されたB29の巨大で不気味な銀色の機影が何十機も目に見えた。
明滅する光との対比のせいなのか、あんな凄まじい青は見たことがない。きっとこれからも見ることはないだろう。
小生の味噌同然の脳みそだと起きた瞬間に夢を見ていたという印象は仮にあっても、夢の内容は呆気なく忘れ去ってしまう(多分、轟音だろうイビキのせいで掻き消される?)のが常なのに、そんな印象鮮明な夢で目覚めた瞬間、さすがの小生も、「ああ、給水タンクの薬剤のせいだ!」と気付いたのだった。
漂う刺激臭が普段なら働きようのない嗅覚という感覚器官を刺激し、嗅覚中枢をも刺激して幾度もただならぬ夢を見させたのだった。
嗅覚、そして広くは感覚、さらには身体について改めて自覚的たらざるをえなくなった体験だったのである。
少々長くなった。この項の続きは後日に。
ただならぬ匂いと知りしあの夜かな
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コメント
流石にフランスでは、ワインで哲学している人が居ますね。私などは言語に秀出ていないので、「第一の舌が理性」とは納得出来ないのです。哲学音痴と言うか。
ただワインが臭覚の出会いと五感の覚醒を促進させて、認知に至ると言うのは通常経験する事です。普段試みているその認識が言語化される時に、つまり「第二の舌と第一の舌が反転する時」として、言語が臭覚を覚醒させるというのは、明らかに「言語に縛られた哲学者の感性」かなと感じました。
投稿: pfaelzerwein | 2006/02/26 19:48
pfaelzerweinさん、こんにちは。
第一の舌、第二の舌というミッシェル・セールの表現には、やや遠いところでイギリス経験論と大陸合理論の匂いがしますね。
でもその前にデカルトとパスカルとの対立かな。大雑把に言うと、理性より感性の重視。とはいっても考える葦と喝破するパスカルも根底に精神、つまりは神への信頼(信仰)があった、その意味で似た次元にあるようなものだけど。
ただ、二つの無限の間をゆらぐ中間者という認識は結構、フランスの哲学の伝統のように思える。
まあ、要はフランスの哲学者流の持って回った言い方(表現)であって、ワインを目にし口にすると理性(第一の舌と言い条、哲学談義を上品?に言っている)など吹き飛び、感覚(第二の舌と言いながら、その実、飲み食いする楽しみってことでしょう)が、この世のどんんな理屈に勝ってしまうってことでしょう。
端的に言うと、ワインを、あるいはワインと共にキャビアや舌平目などを飲み食いする(ワインの色合いを見る、ボトルのコルク栓を抜く音、ワインを注ぐあの独特の音、ボトルを開けた瞬間に漂い始めるワイン独特の匂い、その前にボトルのラベルなどをつらつら眺めつつ、ワインについての薀蓄を傾ける談義、この談義は哲学談義とは全く楽しみのレベルが違う!などなど)楽しみは何物にも勝る愉悦だと言っているのだと理解してます。
つまり、ワインを前にした途端、言語や理性に縛られている日頃の己がワインの香りに蕩け去ってしまうってことを遠まわしに表現しているわけですね。
フランス人(フランスの評論家)って、他人事ながら、もっと素直に為れないのかなって思いますが、それが彼らの流儀なのでしょう。
投稿: やいっち | 2006/02/27 01:24