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2006/02/27

蝋燭の焔に浮かぶもの

 読書というのは、薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を殺して眺め入るようなものだ。読み浸って、思わず知らず興奮し、息を弾ませた挙げ句、蝋燭の焔を吹き消してはならないのだろう。
 そう、じっと、焔の燃える様を眺め、蝋燭の燃え尽きていくのを看取る。
 それは、まるで自分の命が静謐なる闇の中で密やかに滾っているようでもある。熱く静かに、静かに熱く、命は燃え、息が弾む。メビウスの輪のある面に沿って指をそっと滑らせていく、付かず離れずに。
 すると、いつしかまるで違う世界にいる自分に気が付く。見慣れないはずの、初めての世界。なのに慕わしく懐かしい世界。読書という沈黙の営みを通じて、人は自分の世界を広げ深めていくのだろう。何も殊更に声を上げる必要などないのだ。
 気が付けば蝋燭の火も落ちている。命を燃やし尽くして、無様な姿を晒している。けれど、冷たい闇の海の底にあって、己の涸れた心に真珠にも似た小さな命が生まれていることに気付く。蝋燭の焔の生まれ変わり? 
 そんなことはどうでもいい。大切なのは、読書とは、何時か何処かで生まれた魂の命の焔を静かに何処の誰とも知らない何者かに譲り渡していく営みだということに気付くことだ。読むとは、自分がその絆そのものであることの証明なのではなかろうか。
                              「蝋燭の焔、それとも読書」より

 漆黒の闇の底を流れる深い河。そこに蛍の火のような灯りが舞い浮かぶ。風前の灯火。でも、俺には命の輝きなのだ。あと何日、こんな眩い煌きを堪能することができるだろうか。
 ……
 だから、俺は蝋燭の焔よりもっと儚い、けれど、だからこそ切ない煙草の火を愛でることに集中できるのだ。
 煙草の煙が舞い上がって、木立の透き間に差し込む街灯の光を一瞬、浴びる。
 紫煙の夢幻に変貌する形。
 魂の形。男と女の形。あの人の形。手の届かない夢の形。
 俺は自分が今こそ本物の詩人になったような気がする。
                                「煙草に火を点けて」より

 ……は意識が薄れていった。彼となり、やがて私となっていった。私とは、一個の幼虫に過ぎないのだ。否、空中を飛散する塵か花粉か埃の一粒。この世に偏在する浮遊塵なのだ。
 何かが融けている。訳の分からない何かが、それこそ白蟻に柱が内側から貪られるように、彼の肉体が崩れ去り腐っていく。

 人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。植物だってそうだ。腐って土に還ることもあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になったり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄されるか、あるいは動物の連鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。
 食物連鎖の最終の網である人間に、途中の段階で他の成分に成り代わらない限り、植物も動物も至りつく。が、それにしても、同じことだ。やっぱり火にくべられて、夢と風と煙に化す。そうでなければ、灰となって土中の微生物の恰好の餌になるだけのことだ。

 宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。神の目からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あるいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。

 私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
 蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、分け隔ての無い神には美しいのだろう。

 私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
 そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
                                    「夢 を 憶 す る」より

 焔をじっと見詰めることは原初の夢想を永続させる。そういう行為は私たち人間をこの世界から引き離し、夢想家、つまり詩人の世界を何処までも拡大していく。それだけでも、焔は広く広がる現実の世界であり、しかも、焔の傍に居るなら、人間と言うものは、余りにも存在が遠く離れ、余りにも遠くの方を夢見るようになる。自分を失うと言う人間の態度は、この人間が、往々にして夢を見る行動の内にある。焔は、自分の存在を守り通すために、ある種の戦いを挑み、細々とひ弱なものとしてそこに存在する。一方に於いては、夢追い人としての人間は、あらぬ方向へと夢を誘っていくので、自分の存在を何時しか失い、余りにも大きく、余りにも広い夢の中に存在することになる。……世界に関して何処までも夢を追いつづける。
                             バシュラール「蝋燭の焔」より

 さて、休憩が夜ともなると、運転席側の車内灯を灯して、お八つを食したり、ラジオから流れる音楽に聴き入ったりする。車内灯の明るさは、読書には覚束ないもので、夜の休憩の際には街灯の光を借りて、その両方の恩恵で以って読書したり新聞を読んだりする。が、終いに面倒になり、水銀灯から離れ、多くはボンヤリ窓の外の夜景を眺めるようになってしまうのである。
 見晴らしがいい場所だと、夜空などを仰いで星や月の影を追ってみたりする。日中の仕事は、昼前から始まって夕方で終わり。夕方から明け方と、仕事の大半は夜である。だから、天を仰ぐのが習い性みたいになっているのである。
 車内灯というのは、豆電球である。橙色の弱々しい光が半透明のプラスチックのカバー越しに車内を照らし出す。新品のうちは、それでも結構、明るかったりするが、何故か新品を感じさせる期間は短くて、すぐにショボショボしたような情ない光に変わってしまい、照明というより、容器に溜まっているオレンジ色の光が、我慢がならず、つい滲み出てきたような、なんとも張り合いのない有り様なのである。
 そんな、優しいというより、老い衰えた光に包まれつつ、夜の風景を見るともなしに眺めていると、まるで自然な連想のように蝋燭の焔に照らし出された世界に没入していくのである。
 但し、車内灯と似て非なる光の源である蝋燭の焔としてである。豆電球の灯りも嫌いではない。ただ、時間が経過すると劣化するのか、光さえもが衰滅していく。光源が最初は直視もままならなかったのが、いつしか線香花火の末期の悪足掻き、それとも白鳥の歌と美化して表現してやったほうがいいのか、惨めなほどに小さく且つ弱い光の玉がそこにあることが知れるようになる。
 その点、蝋燭の焔はまるで違う。最後の最後に形が崩れ去って芯が蝋に埋まってしまうまで同じような光を放ち続けるのだ。電球の光も不思議だが、蝋燭の焔の恵んでくれる光も不思議だ。何が不思議といって、別にメカニズムがどうこうということではない。そんなことは大方は説明し尽くされているのだろう。
                            「蝋燭の焔に浮かぶもの(前編)」より

 絵画という視覚芸術に盲者を描き込むという行為はきわめて特異な他者経験である。あらゆる他者経験と同じく、だが独特な形で、そこにはある還元不可能な暴力が含まれている。なぜなら、盲者は描かれたおのれの姿をけっして見ることができず、まったく無防備のまま他者の視線に引渡されるからである。ここには一見どんな対称性もありえず、盲者は絶対的な受動性に固定されているようにみえる。だが、このような暴力を行使しつつ、西洋の多くの画家たちが、とりわけ素描画家が、これほど多くの盲者の姿を描いてきたのはなぜなのか?
          「ジャック・デリダ著『盲者の記憶』(鵜飼 哲訳、みすず書房刊)」より

 蝋燭の焔は真っ暗闇の中で何を浮かび上がらせるのだろうか。そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の影も、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。
 真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。そんな中にあって、夜の深みに直面して、何を思うだろうか。過ぎ越した遠い昔のこと、それともあるかないか分からない行末のこと、もしかしたら信じている振りを装ってきた来世のこと。消え行く魂の象徴としての、吹きもしない風に揺れる小さな焔なのかもしれない。
 焔とは魂の象徴。だとして、それは一体、誰の魂なのか。自分の魂! と叫んでみたいような気がする。不安に慄き、眩暈のするような孤独に打ちのめされ、誰一人をも抱きえず、誰にも抱かれない幼児(おさなご)の自分の魂なのだ! と誰彼なく叫びまわりたい気がする。許されるなら、体の自由が利くのなら、今すぐにもベッドから飛び出して、非常灯からの緑色や橙色の薄明かりに沈む長い長い廊下を駆けて行きたいと思ったりもする。
 できはしないのに。そんなことができるくらいだったら、とっくの昔にやっていることなのだ。胸の内の情熱の焔(ほむら)は誰にも負けないほどに燃え盛っている。なのに、誰に気遣い彼に気兼ねし、気がついたら焔は燻ったままに、肉体の闇からあの世の闇へと流されていく。水子のように。
 一体、何のための人生かと思い惑う。ヘーゲルが言うように、「ミネルヴァの梟は、黄昏がやってきてはじめて飛び立つ」なのか。賢人でさえ、かのように言うのだ。凡愚の徒なら、末期の闇を見詰めるこの期に及んでやっと哲学する重さを感じるのも無理はないのだろう。
 何があるのか。何がないのか。何かがあるとかないとかなどという問い掛けそのものが病的なのか。
 闇の中、懸命に蝋燭の焔を思い浮かべる。そう、魂に命を帯びさせるように。それとも、誰のものでもない、命のそこはかとない揺らめきを、せめて自分だけは見詰めてやりたい、看取ってやりたいという切なる願いだけが確かな思いなのだろうか。
 きっと、魂を見詰め、見守る意志にこそ己の存在の自覚がありえるのかもしれない。風に揺れ、吹きかける息に身を捩り、心の闇の世界の数えるほどの光の微粒子を掻き集める。けれど、手にしたはずの光の粒は、握る手の平から零れ落ち、銀河宇宙の五線譜の水晶のオタマジャクシになって、輝いてくれる。星の煌きは溢れる涙の海に浮かぶ熱い切望の念。
 蝋燭の焔もいつしか燃え尽きる。漆黒の闇に還る。僅かなばかりの名残の微熱も、闇の宇宙に拡散していく。それでも、きっと尽き果てた命の焔の余波は、望むと望まざるとに関わらず、姿を変えてでも生き続けるのだろう。一度、この世に生まれたものは決して消え去ることがない。あったものは、燃え尽きても、掻き消されても、踏み躙られても、押し潰されても、粉微塵に引き千切られても、輪廻し続ける。
 輪廻とは、光の粒子自身には時間がないように、この世自身にも実は時間のないことの何よりの証明なのではなかろうか。だからこそ、来世では誰も彼もが再会すると信じられてきたのだろう。
                           「蝋燭の焔に浮かぶもの(後篇)」より

 彼は叫ぶこともなく、声を上げることもなく…。そう、多くの人は、大袈裟なパフォーマンスをするでなく、脚光を浴びるでもなく、決して目立つことなく、それどころか評価の対象にさえならないで、地道に働いたり、家庭や地域で役割を果たしている。そうして、やがて、誰に気付かれることなく、蝋燭の焔の消えるよりも儚く人生の舞台から消えていく(予感を抱いている)。
                             「曽野綾子著『傷ついた葦』」より


 それでも、走っているうちに橙色の灯りを遠くに見つけることがある。あれが目的地だ! なんとなくそんな気になってしまう。いつしか、あの謎の影の奴を見失ってしまって、当てどなく走っていたのが、そこに筋道が出来たような気がした。
 はるかに遠いあの弱々しげな蝋燭の焔に会いに行くのだ。蛍の光にも似た命の、末期のささやかな慄きに触れに行くのだ。そのために生きているような、そんな気さえしてくる。そう感じつつ、夢中になって、今にも絶え入りそうな、朧な光の揺らめきに向かっていった。
 気がついたら、風前の灯火のター坊の家の前に立っていた。ボクより夢の世界への旅に熱中して熱を出し、ついには肺炎になってしまったター坊の家の前に。
                             「真冬の明け初めの小さな旅」より

 影とは、過去であり、ほとんど、その人の生き抜いてきた人生そのものなのかもしれない。
 光は眩しい。直視は不可能だったりする。だからこそ、蝋燭の焔は優しく感じられるのだろう。われわれ…、いや、小生のような気弱な人間は眩しい世界など、ひたすらに遠い。せいぜい、蝋燭の焔のゆらめきを、ゆらめきの産む壁や床や人の表情の翳りを楽しんだり、危ぶんだり、悲しんだり、疑念に苦しんだりするだけなのである。
 子供の頃、影踏みに、あるいは影絵の世界と戯れ興じることで、きっと、われわれは、自分が生きているこの世界が実に豊かな謎と夢とに満ちていることを、胸一杯に感じていたに違いない。遊び。
                                      「影絵の世界」より


蝋燭の焔」をキーワードに幾つかの雑文を串刺ししてみました。

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コメント

 国見さんTBありがとうございます。蝋燭の焔といえば小生にはバシュラールの著作が思い出されます。アカショウビンは学生の頃、ユングの精神分析に興味を持ち勢いでフロイト派のラカンの著作も覗きました。その流れでユングに影響を受けたバシュラールも読みました。ところがそれ以来読み直したことはありません。この20年、というか30年、何度も読み返すのはハイデッガーと道元でしょうか。
 読書好きのご様子、小生もたまに読んだ本の感想を書き込んでいます。忌憚のないご感想をお待ちします。今後ともよろしく。

投稿: アカショウビン | 2006/02/27 05:48

アカショウビンさん、こんにちは。
TBだけして失礼しました。ネット検索して貴サイトに遭遇しました。
「蝋燭の焔」はお察しの通り、本文にもありますが、バシュラールの著作をイメージしています。但し、「蝋燭の焔」は学生時代に読み齧ったもので(しかも、ユングやフロイト、ラカンなどの脈絡とは関係なく読んでいた)内容は忘れていたのですが、印象だけは残っている。そのイメージを自分なりに展開してみたわけです。
ハイデッガーと道元とを何度も読み返すというのは素直に凄いなと思います。小生はこの数年、ドストエフスキーやトルストイ、マン、バルザック、マルケス、ユーゴーと小説の読み直しに取り組んでいます。
哲学関係の本にも関心を持たれているようで、お互い刺激し合えるものと思います。
こちらこそよろしくお願いします。

投稿: やいっち | 2006/02/28 07:31

こんにちは、やいっちさん!

コメントをいただきありがとうございました。
このブログには、深遠なる思想のようなものを感じますね。
著者名がないものは、国見さんの作品ですか?
ここ30年ぐらい、深い読書や思索にふけったことはありませんでしたので、たいへん参考になりました。また、大いなる刺激を受けました。

投稿: elma | 2006/06/24 09:33

elma さん、こんにちは。
署名のないものは拙文です。バシュラールやジョルジュ・ド・ラトゥールらをイメージしている。このたび、高島野十郎という画家の存在を知ったので、彼の世界をも含めて「蝋燭の焔」をキーワードのイメージ文を書いてみたいと思っています。
そう、思索というより瞑想に近い性質の文章だと思っています。

投稿: やいっち | 2006/06/24 14:34

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