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2006/02/14

俳句と人間…白々と

 季語随筆日記を綴り始めて一年と半年近くになる。日々、季語(季題)の意味合いをその基礎から学ぶことに汲々とするばかりで、一向に俳句そのものについての考察には至らないが、ま、今は地盤固めの時、土壌の地味を豊かにする時期、土の上に芽を出し、まして花を咲かせるのはまだ数年先のことだと自分に言い聞かせている。
 そうはいっても、たまには俳句って何という自問の念が湧かないわけではない。
 自分なりに俳句の周辺について感懐を述べてみたいという気持ちがないわけではない。
 ただ、その前に世の先人がどのようなことを俳句に付いて、あるいは俳句が四季や自然に関係するもの、天気、生活、風習、風土、人情の機微、日常の中のちょっとした発見に関係するものとして、感じ考えてきたのかを見ておきたいと思う。

renge-yukikesiki

→ 蓮華草さんに戴いた丹後路の雪景色です。

誰も皆夢の中かな雪布団

 こんな殊勝な(?)ことを書くのも、今日、ネット検索していたら、「Doblog - 格言日記 - 格言-ブランコは春の季語、いちごは夏の季語なのです。---俳句の季語---」なる頁に遭遇したからである。

「俳句に季語はつきものである。また季語を入れないと俳句にはならないのであるから当然ではある。季語というのは不思議な魅力を持つ。その言葉が入ることによって一挙に情景が浮かんでくるようになる。人のイメージをわきたてる大きな力があるのだ。それだけ、日本人は季節の変化に敏感に対応してきたというわけだ」という一文から始まって、「たぶん稲作農業を中心として生活をしてきたのだから、この季節感がつかめないと生活に直接影響があるからに他ならない」、「人間の体は季節と親戚なのだ。それは食べ物が原因している」、「心は別として、身体の方は自然と素直に向き合っているのだ。「旬」は健康の基本みたいなものだ」、「心の中から、季節感が消えていく。心が「旬」ではなくなっている」といった気になる、気にすべき指摘が続き、最後の「季節は心の栄養素であるはず!なのに」という印象的な言葉で締めくくられている。

 これらの指摘は、もっと脈絡を追って理解すべきだが、今はそのゆとりがない。とりあえず自分が考えるためのヒント乃至は糸口としてメモしておきたい。

 となると、他の方の天気と人間、季節と人間との関わりについての考えを覗いてみたくなる。

 ネット検索していたら、「Association A.R.C.K. 日本人と自然 人間と芸術への視線  マリエル・リック」という頁に遭遇した。
 筆者のマリエル・リック氏は、「東京に3年滞在 ヨガ教師 造形美術家(写真、絵画…) パリ・メニルモンタン在住」とのこと。

 日本人ではない方(多分、フランス人)が日本にやってきて、日本の文化や風土、そして季節、風習に出遭っての戸惑いと彼なりの考察が、当然ながら日本人なら当たり前に思っているものが奇異だったり新奇だったりして、こうした文章を読むことで改めて自分たちの風土の土壌を考える縁(よすが)になる。
 日本人なら今更、体験しない、あるいは避けるような日常もあったりする。知らないからこそ、つい体験する日本。当たり前すぎて見過ごしてしまう日常という名の格別な日々。

 そうした体験は、小泉八雲の諸著など、来日しある程度日本で暮らした外国人の記録を読むたびに覚える新鮮な感動を人によっては思い起こすかもしれない。

日本人と自然 人間と芸術への視線」からアトランダムに幾つか気になった文を拾ってみる。

「私はコンタンポラリー・ダンスの一団に加わってダンスをした。初めて日本の床体験をした時、足がひどくいたかった。この一団の練習場は東京の郊外の真っ只中にあり、軍隊式の訓練が朝8時から、木の床上で、素足で行なわれた。マイナス5度もあって、本当に寒かったのを覚えている。寝る時も、じかに畳の上で寝た。私の先生である舞踏家は、雪の積もった石ころだらけの道を、素足に下駄をはいて学校に通った、秋田地方で過した子どもの頃の思い出などを話してくれた。私は日本の多くのことを、床や地面を通して体験したのである。」

「自然は私の都市生活の周囲に存在していた。農家の行商人が野菜を売りに来たりして、生活には季節感が感じられた。くねくねした裏通り、小さな庭、ちっぽけな田んぼ、捩じくれた木がしがみついているごつごつと切り立った岩で縁取られた坂道、河床が余りにも広いので、自由と空間が勝手に流れこんでいる川など、一歩歩むごとに、都会の真中で田舎にいる感覚を覚えた。そこでは、春の訪れを目で確かめる事ができた。桜の咲くのを待ちかねて、心が高ぶるのを覚えたり、つつじやあやめも見に行った。そして、家中のたんすのものに青カビが生えるじめじめした"ツユ"(雨季)の雨をののしった。巨大都市の蒸し暑い熱帯夜に、窓の隅に吊るされた風鈴を鳴らす微風を求めながら、私は疲れきってしまった。世紀の洪水と家の屋根が吹き飛ばされるのを密かに期待しながら台風が来るのを待ちわびたこともある。ある時、食事の最中にぐらっと来た。私は、真夜中に背中をマッサージする大地の気まぐれをじっと堪えた。」

「驚くほど豊な緑と様々な樹木が繁茂する自然のままの野生の光景は、庭園において再現されている。人間は近づき難く、また神々の領域でも大自然の中に逗留する事は出来ないため、自分たちのサイズに合わせて自然を造り直す。従って庭園は、瞑想、思索、精神的創造などのために、山、滝、植生、海、島などを配置した野生の自然の隠喩であると言える。」

「文学といえども自然と切り離しては考えられない。その代表的な例が俳句で、一句一句、季節に結びついた感情が盛り込まれている。日記の中でも、季節に触れる。手紙を書くにしても、空の様子とか、暑いとか涼しいという季節の挨拶で書き始めない手紙は考えられないし、誰もが天気について細々とした気遣いを手紙にしたためる。
日本文化を生みだした日本人は、まるで自然そのものをコントロールすることができないがために、態度、身振り、言葉、感情をコントロールすることに専心した。すなわち、社会的な規範や規則によって義務付けるという別の方法で、内面化した野蛮さを手なづけ、生活環境を鮮明にする必要があったのである。こちらの野蛮さは、コントロールすることができる。ここには、内部と外部の間に地滑り現象があったのではなかろうか。」

「私は、日本人と自然との関係がグローバルである事を証明してきた。自己省察に結びついた思想や精神分析的療法などの流れが、ほとんどインパクトを与えないという事を考えた時、年齢、職業、境遇などにかかわらず、すべての日本人に見られるこの特別な関係は、日本人の無意識をオルガナイズする一つの手段なのではないかと考えられる。日本人は、連帯意識で他人と結ばれている。」

 これらの指摘や観察の逐一についてそれぞれに反論も同意も共感も苦笑の念もないわけではないし、特に最後に転記した理解は、ちょっと拘ってみたくなる。
 けれど、それはまた別の機会に。

 ネット検索をさらに続けたら、俳句と季節、そして人間を考える上で止めとなるようなエッセイに遭遇した。やはりこの方に登場願うしかないのか。
 それは、「寺田寅彦  天文と俳句」というエッセイである。
 尚、「このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです」とのこと。

「俳句季題の分類は普通に時候、天文、地理、人事、動物、植物といふ風になつて居る。此等のうちで後の三つは別として、初めの三つの項目中に於ける各季題の分け方は現代の科學知識から見ると、決して合理的であるとは思はれない」から始まるこのエッセイについては、ただただ読んでもらうしかない。
 というか、本日の季語随筆日記は、このサイトを発見したことで書き綴った(ネット検索した)甲斐があったというものだ。

 このエッセイの中で印象的な一文を引いてみる:
「季節の感じは俳句の生命であり第一要素である。此れを除去したものは最早俳句ではなくて、それは川柳であるか一種のエピグラムに過ぎない。俳句の内容としての具體的な世界像の構成に要する「時」の要素を決定するものが、此の季題に含まれた時期の指定である。時に無關係な「不易」な眞の宣明のみでは決して俳諧になり得ないのである。「流行」する時の流の中の一つの點を確實に把握して指示しなければ具象的な映像は現はれ得ないのである。」
 きっと俳句を嗜むものには常識に属する指摘に過ぎないのだろうが、改めて俳句における季節の感じを思う。

日本人と自然 人間と芸術への視線」でも、日本での雨の降り方の多様さ、降る雨の表現の多彩さに驚く記述があったが、「天文と俳句」でも、当然のように指摘されている。雨(を感じ表現する言葉・技術・感性)は、季節感の中の白眉的存在なのだ。

 つまり、「雨の降り方だけ考へて見ても、日本では實に色々な降り方がある。所謂五月雨のやうなものは日本の中でも北海道にはもうない位の特産物である。時雨でも我邦のと同じやうなものが西洋にあるかどうか疑はしい。夕立に似た雨はあつても、「日本の夏」を知らない西洋の驟雨は決して「夕立」の句を生み出し得ないであらうと思はれる。」のであり、「此のやうな自然界の多種多樣な現象の分化は、自ら此れ等の微細な差別のニュアンスに對する日本人の感覺を鋭敏にしたであらうと想像される。芭蕉が「乾坤の變は風雅のたね也」と云つたといふのにも、いくらか此の意味がありはしないかと思はれる。」というのである。

 最後に、寺田寅彦は、「俳句の一般的な理論的考察は他日に讓るとして、茲では與へられた「天文と俳句」の題目の下に若干の作例を取上げて、前述の如き自己流の見地から少しばかり評釋を試み度いと思ふ。例句は何等の系統も順序もなく唯手近な句集を開いて眼に觸るゝままに取上げたのに過ぎないのである。」として、次の句を挙げ、分析している。
 その分析がいかなるものかは、リンク先を覗いてみて欲しい。

あか/\と日はつれなくも秋の風     芭蕉

 引用ばかりの一文になったが、俳句と季節、季語、自然との関わりを考える、などと言うのは簡単だが、いざ考察に取り掛かるとなると如何に難儀な道が待っているかを感じただけでも収穫と思うしかない小生なのである。


白々と夜の明けるとも春浅し

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