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2006/02/19

アンナ・カレーニナ…幸福な家庭はみな似通っているが

「集英社ギャラリー「世界の文学」」版で今もトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読み続けている。本書を手にして、もう、一ヶ月を経過してしまった。
ロシア〈2〉/集英社ギャラリー「世界の文学」〈14〉』 なる解説などを含めると1400頁余りの大部の本で、ドストエフスキー著の『罪と罰』(小泉 猛・訳)とトルストイ著の『アンナ・カレーニナ』(工藤精一郎・訳)とが所収となっている。
 ドストエフスキー著の『罪と罰』は、これまで少なくとも五度は読んでいるし、今回は『アンナ・カレーニナ』を久々に読み直したかっただけなのだが、生憎、図書館には『アンナ・カレーニナ』だけの本が見当たらない。
 小生の性癖として本を手に取ったなら、最初から最後まで読まないと宙ぶらりんな気分になってしまうので、ま、このところドストエフスキーの本は読んでいないし、行きがかりの駄賃だとばかりに『罪と罰』を一気に読んだ。前にも書いたが、小泉 猛氏の訳はよかった。翻訳で読んでいるという独特な違和感を覚えることなく、ひたすらドストエフスキーの世界に没入することができた。

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→ 健ちゃんさんに戴いた飛騨の白川郷・合掌造りの画像です。「合掌の形が雪落としの役目をはたします」というけれど、人が合掌することによって心の安らぎが得られるのも、合掌の形が一因を為しているのだろうか…なんて、野暮なことを言わず、静謐なる沈黙の世界に祈りを捧げよう、か。

 ドストエフスキーについては感想文も書くつもりはない。これまで少しはドストエフスキー論関係の本を読んだことはあるが、理解に少しでも資するものがあったことはないし、今後も当分(あるいはずっと?)そうした状況に変わりはないのだろう。
 まして自分ごときが何を書けようか。『ペチカ…サモワール…ドストエフスキー』でも、ホントの周辺的な雑事に触れてみただけである。

 トルストイの本を読み直そうと思った動機は、これも前に書いたが、拙稿『ペチカ…サモワール…ドストエフスキー』の中でも言及しているように、ジョージ・スタイナー著の『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)を読んだこと、その前に正宗白鳥の短編集を昨年後半、ずっと読み齧ってきたことだった。
 小生は高校生の頃から、ドストエフスキーやチェーホフ、ガルシン、プーシキン、トルストイ、ゴーゴリ…)と読み漁ってきたが、いかにもロシア的な魂の底の底までぶちまけてしまうようなドストエフスキーの世界こそが性分に合っていると感じてきた。だからこそ全集を二つも揃え、小説に関しては全作品について少なくとも三度は読むに至ったのである。

 一方、トルストイの世界の、芸術性は高いが何処か客観性(第三者の観点からの叙述)に偏する気味(そんな傾向を感じていた)に僅かながら疎遠と言うと大袈裟だが、馴染みきれない、浸りきれないものが昔はあった。
 が、自分なりに小説を書く試みを細々ながらに続けてみると、まあ、馬齢を重ねたこともあるのだろうが、実は、むしろ、そうした装いというのは、トルストイ自身が自らのうちに抱える巨大な矛盾と深淵を何処までも見つめ掘り下げる作家魂、芸術家魂の結果に過ぎないのであり、その表面を垣間見て小生が何処かよそよそしいと感じていたに過ぎないと遅まきながら分かってきたのである。

 トルストイは、拙稿『トルストイ著『生命について』』の中でも書いているが、極めて倫理性が高い。この場合、倫理性が高いとは自分がどう生きるべきかを徹底して追及し、且つ実践せざるを得ない心性に骨の髄まで苦しめられているという意味である。
 世の人の誰よりも知性が高く、感性が鋭く、強烈な自己愛の持ち主であり、宗教的求道心が死ぬ間際まで彼を突き動かし、数百人の農奴を抱える地主であり、一方、肉欲・性欲・情欲が凄まじく彼の心身を責め苛む。まさに心身ともに引き裂かれ続ける生涯でもあった。

 少々長いが、『トルストイ著『生命について』』から一部、転記してみる:

 

 数年ぶりでトルストイ著『生命について』(八島雅彦訳、集英社文庫)を読んだ。
 読んだ…、と言い切れるのか、ちょっと危ういかもしれない。実のところ、読むのが辛かったのである。一見すると彼なりに論理的に書いているようで、必ずしもそうではなく、敢えて言えばパセティックな論理に貫かれていると言ったほうがいいだろう。
 読むものからすると(その世界に没頭出来る者には)ある種の共感をもって、波に乗るように読み進められるが、共感できないと、全ての言葉が右の耳から左の耳へ通り抜けていく。
 こうした評論風エッセイを読むと感じるのは、トルストイがやはり天性の小説家だということだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などは、読む者を物語や、あるいは個々の叙述の場面に浸らせてくれる。読んでいるうちに、いつしか滔々(とうとう)と流れる大河に浮かび漂っていていることに気付き、読者はただ作家の筆の導くがままに流れていけばいい。
 作家の世界にのめり込もうと思わなくても、豊穣なる世界、肥沃なる大地をしっかりと、今、歩いているという感じを持つことができる。
 それが、自らが思想家というか宗教的実践者として語りだすと、教条的であり、道徳臭が強く、不毛な意味で理屈っぽい。
 そう、彼は、上掲の大作を書き上げた後、小説家たることを止めて、社会的慈善事業などの実践者たる道を選んだのである:「トルストイ・年譜

 作家魂を捨ててまで、そうした世界に飛び込んだのならば、枯れたとまではいかなくても、何某かの宗教的高見に至るか触れるかしていればいいが、本書の末尾にある「鑑賞 ――ぼくたちの同時代人」の中で中沢新一氏も書いているように、トルストイほどに怪物的なまでの強い自己愛の持ち主はなく、まさに、本書は過剰なまでの自己愛の書であり、高尚な宗教的知恵を語っていながら、その実、トルストイ本人はその知恵から一番遠いことを、最初から最後までつくづくと感じさせられる。
 逆に言うと、その凄まじいエゴイストぶりを感得することに本書を読む(小生には)被虐的楽しみが或ると言えようか。その強烈な自己愛と告白衝動癖は、小説の場合も露骨に表れていたりするのだが、同時に彼の作家魂が、芸術的表現の中に韜晦してくれるので、臭みを感じるよりも感銘が深いのである。

 まだ、『アンナ・カレーニナ』を読んでいる最中だが、本書の中には数知れない珠玉の短編が鏤められている。宗教的実践家、求道的心性を客観的叙述という衣に包んで、一見すると冷静さをあくまで保っているようではあるが、実は衣の下は煮えたぎるような、何故だ、分からない、神は何処にいる、肉に溺れて何が悪い、愛欲に忠実であって何故いけないのだ、といった問いの嵐が吹き荒んでいることを感じる。
 芸術家としての感性が懸命に、抹香臭いような、人生についての悟りきったような説教を垂れたい己の心性と戦っている。しかも、拮抗している。ふと、人生訓を垂れそうな瞬間が来そうな予感を感じると、トルストイは芸術家としての作品の完成度の高みへの強烈な志向に目覚め、作品が濁ることをギリギリのところで回避する。
 決して余裕を持って回避していない。芸術家として美に徹底しようとすると、不意に情愛へ沈潜したいという欲求と社会的関心と己を語りたいという欲求がムクムクと湧き上がり、とぐろを巻いて、細部の細部に至るまで神経を払って時に冷徹なまでに淡々とした(かのような)、大切なのは記述と観察の上の正確さ綿密さに尽きるのだといわんばかりの叙述をせんとする意思を打ち砕こうとする。
 矛盾の極地にあって、ギリギリのバランスが取れているという奇蹟が『アンナ・カレーニナ』では成っているのである。
 
 つまらぬ感想を綴ってしまったが、さすがの松岡正剛氏も、「松岡正剛の千夜千冊 『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ」では、トルストイの前に全くの惨敗を喫しているようだし、今はただ『アンナ・カレーニナ』という無数の宝石が川床を埋めている大河の滔滔たる流れに身を任せておくのがいいのだろう。
 感想など書けないのは、ドストエフスキーにもトルストイにも共通することなのだ。

 

 幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである。

 言うまでもなく、『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一行である。
 一部だけ、「松岡正剛の千夜千冊 『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ」から引用させていただく:

 

 読みはじめて驚いた。いつまでたってもアンナ・カレーニナが出てこない。さきほど手元の文庫本で調べてみたらやはり130ページまで登場しない。
 おそらくこんな小説はほかにはあるまい。ヒロインの動きがふつうの長さの小説なら終わりに近いほどの場面になってやっと始まるわけだから、それだけでも前代未聞である。とくにぼくは奥井センセーの挑発に乗ったわけなので、それこそすぐにアンナ・カレーニナに出会えるものと思っていたのだが、開幕このかたオブロンスキー家の出来事やキチイの愛くるしい姿にばかり付き合わされる。たしかに奥井センセーが言うように、これではうっかりキチイに惑わされてしまう。焦(じ)らされたというのか、裏切られたというのか、ぼくは呆れてしまった。
 ところが、いったんアンナが出現したとたん、物語の舞台はガラリと一変する。青年士官ヴロンスキーの焼きつくような気概と恋情とともに、われわれは漆黒のビロードの、真紅のドレスの、いつも身を反らすように立つ人妻の、知も愛も知り尽くしていながら夫カレーニンだけには厭きているにもかかわらず、男にも子供にも通りすがりの者にも愛される絶世の美女アンナ・カレーニナの魅力の囚人になっていく。

 このような印象は誰しも抱くに違いない。肝心の主役でありテーマの眼目である「アンナ・カレーニナ」は一体、いつ現れるのだ。下手な小説のように登場をもったいぶっているだけではないか…。
 が、ここには(ここにも)芸術家トルストイ周到な計算が働いている。キチイ(キティ)とレーヴィンとのドラマが小説の半ば辺りまでの大きなテーマになっている。後半を読むとこれは伏線だと分かるのだが、伏線と言うにはあまりに大きな割合を小説の中で占めている。
 実は、まさにキチイ(キティ)とレーヴィンとは一時は悲恋になりそうだが、結果的には皆に祝福されて幸福な家庭を築く。
(この幸福な家庭がまたミソで、「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」というが、「幸福な家庭はみな似通っているが、その内実を見ると、幸福な家庭にしても不幸の相もさまざまである」とでも言い換えたくなるような、そんなアイロニーを持って彼らの<幸福な家庭>の在り様をトルストイは描く。ここにも芸術家魂が行き渡っている。中途半端にも曖昧にもしておけないのである。)

 そうした幸福な家庭との対比で青年士官ヴロンスキー(ウロンスキー)とアンナとの不倫の恋の、つまりは不幸な様相を示す二人の行く末が描かれるのである。このことで陰影が一層、際立つというわけである。
 よって、アンナの登場が遅いことも、アンナとヴロンスキー(ウロンスキー)との恋が多くの伏線によって見え隠れするのも、トルストイの計算の冷徹さというより芸術家の魂が、そうさせているのである。

 アンナの「夫のカレーニンは政府高官でね、社会の形骸を体じゅう身につけて面子を気にする男だね。君たちもこうなったらおしまいという男だよ。そういう身にありながらアンナはヴロンスキーという貴公子のような青年将校に恋をするんだな…」云々という奥井センセーの挑発的な談話が、「松岡正剛の千夜千冊 『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ」の中で引用されているが、そのカレーニンにしても、トルストイはアンナやヴロンスキー(ウロンスキー)やキチイ(キティ)やレーヴィンらと(作者の目線から)等距離で描かれている。
 夫のカレーニンは、出世の野心に囚われつつも、彼なりに愛の全てを妻のアンナに注いだわけで、面子を気にする反面、胸を割って心のうちを語り合う友もなく、苦悩にひしがれる様を描くことをトルストイは忘れないのだ。その場面も実に感動的だった。そんな勧善懲悪的な、アンナが悲劇の主人公で他の登場人物はただの引き立て役だなんていう半端な叙述は芸術家たるトルストイや潔しとしない、できないのである。

 と、いいつつ、二度目の挑戦となる『アンナ・カレーニナ』を読了できるのは今月末になりそうだ。多分、感想文も書かないだろう。
 
 ああ、今まで書いてきたのは余談だよ。

 で、余談ついでに雑記しておく。大部の小説を次々と読み浸った学生時代。その後のフリーター時代にも読書を生活の焦点に置いていた。
 が、サラリーマンになった時、もう、長編は読めないなと思った。
 それは体力・気力において徹夜での読書に耐えないということもあるが、読むときは一気に読みたいという願望もあった。短編・中編ならともかく、長編に挑戦するのは億劫だ。少し読んで会社、少し読んでまた中断して会社や人付き合いでは、小説の味わいが削がれてしまうと思ってもいた。
 が、今回、『罪と罰』や今、挑戦中の『アンナ・カレーニナ』を、それこそ細切れに読んでいて、そんな懸念など全く意味のないことが分かった。
 徹夜仕事(仕事に出ると、まる一昼夜、あるいはそれ以上、長編を手にすることができない)に汲々とする生活の中であっても、一旦、小説を手にし、叙述を辿っていくと、一気にその世界に没入できるのだ。
 というか、トルストイの筆力がそうさせるのである。長編を読めないというのは、ただの言い訳だと、つくづくと感じている。
 次は、気が早いと思いつつもメルヴィルの『白鯨』をこれまた四半世紀ぶりに読み返そうかな、なんて思っている。

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