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2006/02/16

西行忌だったけど

今日は何の日」を覗いていたら、今日、2月16日(但し旧暦)が西行の忌日だという。
 あれ? いつも覗いているサイトに西行忌が載っていない、そうか、だって西行って歌人だもの、俳句の世界に直接関係していないから…かなと思ったら、違うサイトでは西行忌は立派な春の季語とされている。
 それはともかく、小生のような粗忽・粗雑なものにも西行は気になる存在であり続けてくれている。人麻呂と西行と芭蕉と。
 念のために断っておくと、西行の忌日は上記したように2月16日(但し旧暦)だが、西行忌は2月15日である。
 これは何も旧暦との齟齬などが関係しているのではなく、彼の有名な歌に由縁する。
 つまり、西行の有名な歌、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」の故なのである。

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→ 画像は2月14日の夜半過ぎ、都内某所の公園にて枝越しに月影を撮ってみたもの。小生の腕前では、ほぼ満月の月影も、ただの光の煌きに過ぎなくなってしまう。桜の入り組んだ枝もほとんど見えない。そのように、小生の感性では西行の歌の世界も焦点の定まらぬものになっている…のかもしれない。残念なことだ。

 西行の思いに届く日も遠く

 季語随筆では、「利休忌・西行忌」で若干、西行忌に言及している。
 その冒頭付近で、この歌に付いて、以下のように記している:

 

知る人は知るだが、「西行の享年は73才であるが、この歌は60才代中ごろの作といわれているから死に臨んで詠まれたものではない。然し如月(2月)、望月(15日)と所望した通り2月16日になくなった」のであり、しかも、「2月15日は釈迦の入滅の日であり」、「平安時代から涅槃会として釈迦の遺徳を偲ぶ習慣があった。これらの関連は単なる偶然の一致とはいえないものを感じる」のは、当時の人々なら、今の我々より遥かにそうだったのかもしれない(引用は、「渡部陽のホームページ」の中の「桜と西行」より)。

 この時は、西行忌についてはこれだけで、すぐに利休忌の記述に移行し、ほとんど素通りしている。なので、今日は、幾分、西行忌の周辺を丁寧に巡ってみたい。

 しばしばお世話になっている、たいらさんの「閑話抄」(御案内の頁に留意!)にて当該の頁<西行忌>を覗いてみよう。

 冒頭に歌を掲げた上で、西行に付いての以下のような記述からこの頁は始まっている:

「このあまりにも有名な歌の作者、西行は平安時代末期に生きた人です。  

 僧になる前の俗名は佐藤義清(のりきよ)といいました。佐藤家の祖は 藤原房前から出た名門の家柄でありますが、この姓を名乗った祖父公清の 頃には中枢から外れた国司であったといいます。位は低い乍ら経済面では 恵まれた、富裕な地方豪族であったのでしょう。」

 さらに、この歌を再度掲げた上で、以下のように書いている:

「念願叶い、西行は文治6年(1190)2月16日、河内の国の弘川寺 (ぐせんじ)にて73歳の大往生を遂げました。  

 花を愛し、仏の道に入った西行の願いが表れた歌です。それは望月、 すなわち釈迦入滅の日に自分も殉じたいという願望であります。実際には 望に一日遅れましたが、西行を偲ぶ心からでしょう、一般には15日を 忌日としています。」

 異名として「圓位忌」(あるいは「円位忌」)とも言う。

 文中、「釈迦入滅の日」とある。これについては、「仏教の豆知識-まみうだ石材」の「Vol.4 涅槃会 」なる項を覗かせてもらう。
「大勢の弟子たちに見守られ、横たわる釈迦の図が涅槃図。これは自分の死期を悟った釈迦が、最期の説法の場となったクシナガラに弟子たちを呼び静かに涅槃に入ったときの様子を描いたもの。釈迦は、二本の沙羅樹の間に床をき、枕を北にし、西を向いて横たわっています。嘆き悲しむ弟子たちを諭しながら、入滅のときを迎える釈迦の安らかな姿は、見る人の心をも穏やかにしてくれます」とある。
 仏教、特に「仏の道に入った」ものには理想的な入滅(入寂)の光景ということなのだろう。

3月・季寄せ」にもあるが、2月15日は、「兼好忌(けんこうき)」でもある(「俳句誌・甘藍」がホームページ)。
 ここには「けんこう【兼好】鎌倉末期の歌人。俗名、卜部兼好(ウラベノカネヨシ)。先祖が京都吉田神社の社家であったから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩後、出家・遁世。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一とされた。「徒然草」のほか自撰家集がある。(1283頃~1352以後)」とある。
 尤も、多くのサイトに似たような但し書きが付せられている。つまり、「1350(正平5)年の忌日。ただし、1352年にはまだ存命だったとの説もある」というのだ。

西行忌>なる頁に「後に北面 の武士として鳥羽上皇の御所に勤仕するに至ったのも、歌に造形の 深い徳大寺の当主、実能の引き立てがあったこそだったのでしょう」という気になる記述がある(その前後の脈絡は当該の頁を覗いてみて欲しい)。

(北面 の武士としての)西行については、「西行の研究」の中の「西行の生涯とその歌:第一期」を参照させていただく。
「北面 の武士」とは、「院の御所の北面を詰所として、上皇の警備や御幸の供奉などにあたった武士のこと」で、「西行(義清)は,出家するまでその一員として、若き日を過ごしたの」だという。
  西行というと、関わる人物は多彩で、上掲の頁にもあるように、平清盛を初め、藤原頼長、藤原俊成、崇徳天皇…と歴史的も有名な人物がいる。

 北面 の武士として院に使えていた頃、平清盛とも何処かですれ違ったかもしれない。
 が、それより文学的にも権力者の、あるいは人間の業の深さを感じさせる逸話というと、崇徳天皇の逸話に尽きる。また、西行も関わりを持っている。その詳細は、「西行の生涯とその歌:第二期」を是非、覗いて確かめて欲しい。
 より簡明には、「悲運の崇徳上皇」なる頁が読みやすくて助かる。

 怨みを残して死んだ悲運の崇徳上皇。
「上皇の死後数年たって、生前から親しかった西行法師が訪れた時には、上皇の御陵はまだ土を小高く盛り上げただけのそまつなものであった。一晩中お経をあげ、霊をなぐさめていると突然稲妻が光り、怨霊となった上皇が現れ、怨みをのべられた。西行が「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」(意訳:天皇の身分はこの世だけのことです。死んでしまえば、人はみな同じです。昔の身分や、怨みを忘れて、おだやかにお眠りください)と歌でおなぐさめしたところ、上皇の霊も表情をやわらげ、その姿を消したという。」

 小生自身、上田秋成作『雨月物語』の感想文を書いた際に、「西行が墓にて怨念の塊と成っている崇徳上皇と<対話>したという話」などに言及している。
 関連して、「秋成の「雨と月」をめぐって」というエッセイも書いている。

 西行については「山家集」は勿論だが、高橋英夫著『西行』(岩波新書)、白洲 正子著『西行』(新潮文庫)、辻 邦生著『西行花伝』(新潮文庫)、吉本隆明著『西行論』(講談社文芸文庫)などを読んできた。
 参考文献は小林秀雄の「西行」ほか、数知れずあると思うが、ま、小生が読んだのはこれくらいなのである。

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コメント

西行ですか、大学時代に日本思想史を論じていた佐藤正英さんに「隠遁の思想ー西行をめぐって」があります。どこかの文庫になっているはずです。
この人は親鸞の「歎異抄」の分厚い注釈書を書かれていますね、阿弥陀=絶対知とヘーゲル的な概念を持ち込んで面白いです。
今は日本倫理学会の会長ですか。

投稿: oki | 2006/02/17 13:25

佐藤正英さんの本「隠遁の思想ー西行をめぐって」のこと、確か昨年、青梗菜さんのBBSで引き合いに出してましたね。
okiさんの造詣の深さに圧倒されてました。
夏目漱石と西行とをどのように絡めるのか興味がありますが、今のところ手が出そうにない。
ちくま学芸文庫にあるようなので、高嶺(高値)の花ではなくなっているようだけど。

「歎異抄」の分厚い注釈書とは「歎異抄論釈」かな。恥ずかしながらこの二十年来、「歎異抄」を読んでいない。読み直さないとね。若い頃とは違う理解ができると思うんだけど、さて。
ただ、倫理学と聞くと、怖れひれ伏してしまう小生です。何が怖い(弱い)って倫理学が一番の軟弱な小生です。

投稿: やいっち | 2006/02/17 18:14

倫理学なんていっても哲学の一分野じゃないですか。
普通は哲学科のなかに倫理学の講座もありますよね。
哲学科と倫理学科が分かれているのはきわめて特殊で、逆に言えば倫理学科は哲学科とは違う存在理由を示す必要がある。
しかし東大の倫理学はドイツ観念論の傾きが重く、存在理由を充分に示せていませんね。
哲学科に入るのをびびって倫理にした僕のような人が多いことが特徴です/笑。
何しろ主任教授が「哲学科に入るのはカントの三批判書を読んでいることが条件」とか説明会で聞かされて、ああこれはダメだ「倫理では何をやってもよろしいです」といった金子武蔵さんに惹かれて倫理にきたという実績がありますからー。

投稿: oki | 2006/02/17 23:04

ちょっと飛躍した根も葉もない連想だけど、倫理学ということで、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜もねられず」という松平定信による寛政の改革を皮肉った蜀山人の狂歌を思い出した。
実は、恥ずかしながら小生、当初、「ぶんぶというて」じゃなくて、りんりというて」というふうに誤って覚えていた!
倫理学じゃないけど、高校時代だったか(多分二年に成り立ての頃)、クラスの当番を決めるのに、オイラは風紀委員に選ばれてしまった。一番似合わないはずなのに…と内心では
不満タラタラ。でも、人はオイラをそう見ている。
そう思われてしまうのに、それなりの必然性を同時に内心、感じてもいた。心の中がグジャグジャで確固たるものがないから、表面を糊塗する習性が根性にまで染み込んでいる。
(その習性が染み付いた理由については長くなるから書かない)。
小生に付いては、先のことを考えない無謀さで哲学科に進みました。思い込みが激しいんだね。

金子武蔵さんというと、ヘーゲルの「精神現象学」。長谷川さんの訳が出ているけど、若い頃に懸命になって訳書に取り組んだ印象が今も鮮明で懐かしいって、何処かに書いたね。

そうそう小生について言えば、(埴谷雄高の言葉をもじって)哲学って何をやってもいい学問だと思っていた節がある。
但し、倫理学を覗いて、です。
どうも、倫理とか道徳に偏見があるみたい。
okiさん、小生を矯正して!


投稿: やいっち | 2006/02/18 03:44

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