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2006/02/28

匂いを哲学する…序

 いきなりローカルな話題となるが、小生には身近な、しかし寂しいニュースがある。
富山港線は、今月28日をもって当社の営業を終了し、富山ライトレール(株)に運行を引き継ぎます」というのだ。
 一昨年来、家庭の事情があり、しばしば帰省しているが、その際、オートバイを使わず列車を利用するように努めている。それは列車内で本を読みたいからという理由もあるが、富山駅から廃線間近い富山港線に乗り換えて郷里の家に向かいたかったからだ。
 田舎に居る間は頻繁に利用したというわけではないが、小生の家から数分の距離にあるし、バスを除けば一番身近な交通機関だったことは間違いない。

富山ライトレール株式会社-富山ライトレール開業70日前イベント」という頁を覗くと、従来の路線を走っていた電車の雄姿と、近く運行開始となる路面電車「ポートラム」のフレッシュな外観の画像を見ることが出来る。
「ポートラム」とは、「港の「ポート」と車両の「トラム」を組み合わせた造語」で、「国内初の本格的LRT(Light Rail Transit)で、全国から注目されている全く新しい路面電車」なのだとか。
富山港線は富山駅と富山市北部の岩瀬浜を結ぶ全長約7.6kmの単線路線。路面電車化にあたり、富山駅から約1.1kmまでの区間には道路上に軌道を新設し、その先から岩瀬浜駅まで約6.5kmの区間は既存の施設を利用する。既存のインフラを活用した取り組みは全国のモデルケースとして注目されている」という。

 ただ、個人的な感想を漏らすと、新しいタイプの電車もいいけど、バス路線がドンドンなくなっていくのが非常に困る。多くのお年寄りが困っている。タクシーは無線でないと呼べないし、バスの運行も減る一方。都内などで運行しているミニバス(マイクロバス)をもっと投入して欲しいものだ。

「「匂い」のこと…原始への渇望」(February 03, 2006)、「犬が地べたを嗅ぎ回る」(February 21, 2006)、「匂いを体験する」(February 26, 2006)と、「匂い」に絡む雑文を綴ってきた。
 せっかくなので、もう少し、拘っておく。今回は「匂い」あるいは(決して同等というわけじゃないが)嗅覚を哲学者はどう扱ってきたのか(扱ってこなかったのか)という観点から(その序に留まるが)。

 小生は未読なのだが、ネット検索したら、アニック・ル・ゲレ(Annick Le Guere)著『匂いの魔力―香りと臭いの文化誌』(今泉 敦子訳、工作舎)という本を見つけた。
 出版社の謳い文句では、「中世ではペストの原因は「臭い」だと信じ芳香で予防していた! 神話、宗教、魔術、セックス、誘惑、心理、階級、薬学、セラピー、超自然……「生命の原理」と分ちがたい芳香物質の歴史をひもときながら、匂いに潜む力の秘密に迫る。」となっている。

 本来はペストに由来する臭いが香水を生んだのは知られている事実だろう。しかも、現代でもパリではその傾向が色濃く残っているそうだが、そもそも入浴の習慣がなかった。その上、体臭自体が強いとなると、臭い消しの技術が研ぎ澄まされるのも当然だったわけだ。
(ペストと香水とパリに付いて語ってくれるサイトはネットで結構、見つかる。例えば、「ヨーロッパの化粧文化  京都産業大学 文化学科 国際文化学科 石村裕香」など。小生自身、化粧について雑文を書いている:「初化粧」や「煽る文化の行く末は」。化粧をめぐるやや重苦しい掌編も書いている:「黒 の 河」)

 パリの街が汚水だらけ。かの宮殿だって事情は同じ。
女性がハイヒールを履き颯爽と歩くのは今では当たり前だが、もとはといえばパリの汚れた道路を歩く必要性から生まれたものだ。着飾った貴婦人たちが馬車から降りて玄関に向かうとき、ドレスの裾が汚れるのぽっくりのようなものを履いた。これが現代のハイヒールの原型になったの」であって、決して、「女王様とお呼び!」という遊びの醍醐味を窮め付くさんとて踵が高く鋭くなってきたわけではない(断言はできないが)。

 宮殿というと、宮殿の「近くに便器がない時廷臣たちは、廊下や部屋の隅、庭の茂みで用を足した。貴婦人たちの傘のように開いたスカートは、このために考案されたといわれている」だって(「ヨーロッパのトイレ事情   京都産業大学文化学部 黄 冠如」より。しばしば参照文献として挙げられる桐生 操氏著『やんごとなき姫君たちのトイレ 西洋かわや物語』(TOTO出版)はとても面白い。というより、桐生 操氏の本は雑学的知識欲、やや下世話な好奇心を掻き立て、且つ楽しませてくれるのだ!)。
Hugo Strikes Back! 東西おしっこ図」に出てくる図も、小生、あちこちの本で見かけた。一昔前はそうだったのだ。下穿きも身に着けていないし、風が吹けば桶屋が儲かるかどうか知らないが、風通しが非常に良かったのは事実のようだ。
 
 かの天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)が従妹などに書き送った手紙に「ウンコ、オナラ、お尻といったお下劣きわまりない言葉が連発され」ていたのは有名な話だ。

 奇特にも、「海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Ⅲ/白水社/p463-464より」として「ラムの頭に比べたら、ヴェーバーのけちなケツでも、ヴェンドリング氏よりはまだしもましだ。でも、ぼくらはともに役立つ誠実な人間、全部合わせりゃ目玉は八つ、ぼくらがその上にチン座しますタマは別として。
 ‥‥‥(略)‥‥‥月曜日には、黙ってあなたを抱擁し両手にベーゼを贈りましょう。 でもその前に小生はズボンにウンコをたれましょう。  さようならママ  ヴォルムス、1778年1月31日  あなたの誠実な息子  カイセンにかかったトラツォーム
」なんて手紙を載せてくれているサイトがあった。
 こうした文章(発想法)というのは、モーツァルト固有の面があるのだろう。一切の世間的な常識や良識など無縁なところで本能の一番深いところから湧き出るものをそのままに噴出させる。
 無論、時代相もあろう。イギリスから始まった産業革命で農村から都会へと人々がドンドン吸い込まれていった。人手はどれほどあっても足りなかった。産業革命を意地発展させるために費やされた石炭などのエネルギー源以上に人がドンドン注ぎ込まれ、消費され、蕩尽されていった。農村は寂れ、都会は良く言えば活況を呈したわけだが、下水道などの整備が追いつくはずもない。というより、衛生という発想自体がなかったのだ。
 排泄物は窓から下の街路へ捨てるだけ。傘だって雨のためより上から落ちてくる汚物のために生まれたんじゃないかと思いたくなるような(ここは想像)。

「こう書くと近世の都市ではゴミ処理のきちんとした仕組みが出来ていたことが当たり 前に聞こえるかもしれないが、決してそうではなかった。当時のヨーロッパの都市、 例えばパリやロンドンでは、排泄物をみな道に捨てる生活が何世紀も続き、コレラや ペストが蔓延したために、その対処療法として道路の舗装や下水道の整備が行われ た。しかもパリの下水道は、造られてから400年間掃除も点検もされなかった。こ のために大雨が降ると腐敗した下水が道路に逆流して伝染病がさらに増幅したのだ。」(「都市に生きる」より。太字は小生による。ヴィクトル・ユーゴー著の『レ・ミゼラブル』など、パリの地下に縦横に巡る下水道があるからこそ面白みが増しているのかも。パリは地上の街路と地下の迷路とが相俟って想像力を刺激しているようだ。この点は、「パリの下水道  ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」とその周辺」が面白い。)

 って、余談に走っている。

 上掲のク・ル・ゲレ著『匂いの魔力―香りと臭いの文化誌』の目次が参考になる。
 その「第4部 哲学の鼻」の細目を示すと、以下のようである:

7 ギリシア・ラテン哲学における嗅覚と匂いの二面性
8 キリスト教の影響と匂いの凋落
9 モンテーニュの嗅覚
10  17世紀合理主義と匂いの蔑視
11  啓蒙時代における嗅覚の復権
12  カントとヘーゲルの酷評
13  鼻の哲学者──フォイエルバッハとニーチェ
14  嗅覚の抑圧理論──フロイトとマルクーゼ
15  哲学から詩へ──フーリエ、バシュラール、プルースト

 これらの項目を参照に、過去、哲学(者)では、どのように「匂い 臭い 嗅覚」が扱われてきたかを、無論、ネットの力を借りつつ見ていきたい(ようやく本題だ)。
 ただ、鈴木 隆氏著の『匂いの身体論―体臭と無臭志向』(八坂書房)を読んでいて知ったのだが、多少は読んだことのあるモーリス・メルロ=ポンティだが、彼が『知覚の現象学』(中島盛夫 訳、法政大学出版局)や『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄、木田元訳、みすず書房)などを書きながら、嗅覚に付いては一切、語っていないということ(但し、鈴木 隆氏の指摘による。小生は、この教えを受けて以降、確認には至っていない)。
 やはりモーリス・メルロ=ポンティもサルトルやラカンらと同様に、あるいは西欧の哲学者に通有する傾向として「まなざし」偏重の弊を免れていないということか。

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コメント

嗅覚への注目ですか。
話はそれますが、僕は人間の根源的な感覚は触覚だと思う。
美学も触覚からスタートすべきなのに視覚モデルが多すぎる。
カメラモデルの一方向からの展示では画家が何を訴えたかったのかわからない。
東大美学の教官の小田部さんの提唱する「触覚の美学」という考えは面白いと思うのです。
話がそれましてすみません。

投稿: oki | 2006/02/28 22:55

okiさん、全然、話、それてないですよ。
人間に限らず根源的な感覚は小生も触覚だと思ってます。それが様々に分化していったのは明白でしょうね。
あくまで小生の関心事が嗅覚にあるからここに焦点を合わせているのです。また、従来の視覚偏重をもっと根源へ引き寄せるという話の取っ掛かりとして、嗅覚は面白いとも思うし。

それは別として「大美学の教官の小田部さんの提唱する「触覚の美学」という考え」は興味深いですね。

目の不自由な方に彫刻を楽しんでもらうという試み(彫刻家・佐藤忠良さんの話)が以前ありました。目が見える人も目を閉じて試みたら面白いかも。

投稿: やいっち | 2006/03/01 01:41

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