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2006/02/18

ぶんぶというて…

 ただの偶然なのか、それとも無意識裡の結果なのか、全く違う脈絡で松平定信の名前が浮上してきた。
 季語随筆「西行忌だったけど」に寄せてくれたコメントへの返事で、小生は、例によって頓珍漢な内容を書いている。
 小生が倫理学は苦手だと書くと、倫理学は哲学の一分野じゃないですか、と来る。

 確かにその通りだが、小生の中には倫理(学)や道徳への苦手意識がある。苦手意識の因って来る所以については入り組んでいるし面倒なのでコメント欄には書いていないし、当面、書くつもりもないが、まあ、その倫理(学)が嫌い乃至苦手だということを書くのに、小生、何故か、以下のように書いている(一部、表記を変えている):
 

ちょっと飛躍した根も葉もない連想だけど、倫理学ということで、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜もねられず」という、松平定信による寛政の改革を皮肉った蜀山人の狂歌を思い出した。
 実は、恥ずかしながら小生、当初、「ぶんぶというて」じゃなくて、「りんりというて」というふうに誤って覚えていた!

 どうしてこんな脈絡もない連想作用が働いたのか自分でも分からない。

2006_02160602160019

→ 16日、雨のそぼ降る日比谷公園脇の舗道。周辺は霞ヶ関の官庁街。文武両道の方々が集う街?!

文武とも縁遠くなりにけり

(蜀山人という人物はこれまた途方もない人物なので、後日、機会があったら触れてみたい。今は、「太田南畝・蜀山人」という頁を挙げておくにとどめる。)

 さて、実は、ロッキングチェアーでの居眠りというか睡眠導入剤代わりに一昨日から手にしている本が小生が勝手に敬愛するところの上田正昭氏著『講学 アジアのなかの日本古代史』(朝日選書)である。
 まだ、読みかけなのだが(内容が充実している。書評など書けないが、メモ書きだけは後日、試みたい)、今日読んでいた本書『講学 アジアのなかの日本古代史』の記述の中でたまたま松平定信という名が登場していたのだった。

 それは江戸時代最後の天皇である孝明天皇の祖父である光格天皇(こうかくてんのう)が偉い天皇で、京都御所が燃えた時、京都御所の再建に幕府がカネを出すかどうかで当時の老中である松平定信と光格天皇が激論し、最後は朝廷側が押し切ってしまう、というくだりでのこと。
 なんといっても、幕府の財政の逼迫している折、倹約を勧め文武についても朱子学のみを推奨するという窮屈極まる寛政の改革の旗手・松平定信が相手なのだ!
(もっと大きな脈絡では、臣下に殺された天皇である崇峻天皇との絡みで孝明天皇も毒殺されたという説がある、その話の延長で孝明天皇の祖父である光格天皇の話題に話が及び、彼が天皇家の歴史の中でも特筆すべき存在として引き合いに出されている。)

 どうも、頭の中に松平定信(と光格天皇)の名前が印象として残っていて、季語随筆「西行忌だったけど」に寄せてくれたコメントへの返事で、小生は、まるで関係のない松平定信を風刺する狂歌を突拍子もなく思い出すという頓珍漢な内容を書いてしまったようなのだ。しかも、狂歌の一番肝心な点を「ぶんぶというて」じゃなくて、「りんりというて」という風に間違えて思い出すというオマケまで付けて。

 さて、せっかくなので、上田正昭氏が褒めている光格天皇(明和8年(1771)8月15日~天保11年(1840)11月19日。御年70歳)のことを若干でも調べておきたい。
光格天皇」という頁が簡潔で全体像を把握しやすくて助かる。
 文中に以下の一節がある:

「光格天皇は、さまざまな朝儀、神事の再興・復古をとおして朝権(朝廷の権威、権力)回復と神聖(性)強化に尽力し、神武天皇以来の皇統という意識、日本国の君主であると言う意識を強く持った天皇であった」 とも評される(『幕末の天皇』藤田覚、講談社選書メチエ)。

 さて、この藤田覚氏著の『幕末の天皇』(講談社選書メチエ)がとても面白いらしい。
 本書に付いては、やはりというかさすがというか、「松岡正剛の千夜千冊」の中で既に扱われている。
 その「松岡正剛の千夜千冊『幕末の天皇』藤田覚」の項がまたすこぶる面白い。
「江戸時代の天皇は家康・秀忠・家光以来ずっと為政者に抑えられていたわけですが、だから後水尾のように拗ねた風流天皇も出てきたわけですが、幕末近くになって光格天皇が登場してきて、ついに天皇の力を誇示した。古代以来の王権を発揮しようとしたわけですね。その孫の孝明天皇もこれをうけて、黒船による外圧に抵抗して、頑固なまでに通商条約に反対した。尊王攘夷のイデオロギーはこの二人の天皇がいたから一挙に波及したのではないかというのが、大筋の話です」と松岡氏は<端的に>本書を纏めておられる(が、これでは松岡氏も語るように身も蓋もないことになる…。是非にも本書を読んでみないと!)。

 話の中に、「不思議なことがおこったんですね。天明7年に御所を囲む築地塀のまわりを毎日たくさんの人が取り巻いて、「御所千度参り」というのを始めた。これはぼくも本書を読むまで知らなかったんですが、それが1万人、3万人、7万人と膨れあがった。」という松岡氏の話が出てくる。
 これは、「おかげまいり」や「ええじゃないか」の先駆的な現象で、前触れなく起きたという。
 前提として天明というと江戸時代の四大飢饉(寛永・享保・天明・天保)の一つである天明の大飢饉が当時、幕府も世も苦しめていたことを思い起こすべきだろう。
地球旅行研究所」の「天明の大飢饉」を参照願いたい。
「飢饉の直接的な原因は,連年の冷害・多雨による凶作であるが,藩の財政事情による過重な年貢負担や,商品経済の浸透に伴う商人資本の収奪等の社会的要因」や「同年7月信濃国の浅間山が大爆発し,上野・信濃両国には多数の被災者を生じさせ,降灰も広範囲にわたって農作物に被害を与えた。浅間山の爆発による微細な灰が大気圏に拡散し,日照量を減少させ,以後1~2年の冷害の要因となったこと」など数々の要因が重なった結果のようである。

 江戸時代というのは、江戸という当時世界有数の都市へ農山村から人材が吸収され集中する時代でもあった。都市は人を必要とする。都会に来た人は使い捨てにされていく。足りなくなった人材はまた山間部から吸い上げられていく。
 当然、山村が寂れていく。山に人が減ってしまって、山が荒れてしまうからだ。日本は現在でも3分の2が山(森)の国だが、その状況は時代を遡ればもっと森の存在意義は大きかった(木材などの山の幸が米より圧倒的に大きかったことを理解すべきだろう)。
 大都会が生まれ育ち繁栄するためには結果として地方の人材が衰亡し山間部が荒れ果てていくという現実と同時並行する。
 江戸時代に限らず、古代より都会が人を呼び人の移動が激しくなり、地方が荒れ、飢饉が危機的になるという悪循環が幾度となく続いてきたわけである。
(このあたりの事情については、季語随筆「 『知られざる日本 山村の語る歴史世界』感想」の中で紹介した表題にある本を是非とも読んでもらいたい。)
 
 話を元に戻すと、光格天皇というのは、「新嘗祭や大嘗祭を古式に則(のっと)った姿に復した」方であり、久しく使われなかった天皇という称号を<復活>させ、「光格」と「天皇」という二つの新しい称号を本人の死後に幕府に認めさせた方でもある。
 そもそも「歴代天皇を「天皇」で通してあらわすようになったのは大正14年に政府が決めてからのことなんです。それまでは大半が「院」です」というのも、素養のある方には今更ながらの知識に過ぎないのだろうが。

 さて、「松岡正剛の千夜千冊『幕末の天皇』藤田覚」は、後半に至って一層、話が面白くなる(ということは、藤田覚氏著の『幕末の天皇』が面白くなっていくということと同義だろうが)。
 どうぞ、リンク先を覗いてみて欲しい。

(余談だが、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜もねられず」の「ぶんぶ」を誤って「こうぶ」に置き換えてみたくなる。「こうぶ」の表記は…分かるよね。)

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