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2006/02/11

春望…英語でよむ万葉集

 リービ英雄著『英語でよむ万葉集』(岩波新書)を先週末より車中で読んできて、本日、読了した。
 著者のリービ英雄(りーび・ひでお)氏は「西洋出身者としてはじめての日本文学作家」だという。その意味がいまひとつ理解できない。最近の風潮だと、一冊でも本を出したら作家と呼ばれる(自称なのか誇大広告なのか)ので、日本語で書いた本を出せば外国人であろうと作家であることは言うまでもないことなのに、何故、「西洋出身者としてはじめての日本文学作家」なのだろう。
 ライシャワーサイデンステッカーキーンマーク・ピーターセン…、日本語も日本語の文章も達者な外国人は数多いるのに。

[ ある読者に小泉八雲のことを指摘された。ハーンのファンである小生なのに、咄嗟の時には思い出せないなんて、恥ずかしい限りです。指摘してくれた方、ありがとう。 (06/02/13am 追記)]

 となると、「日本文学作家」に解く鍵があるのだろう。
 さて、「日本文学の作家となる前は、アメリカで日本文学の研究に携わっておられ」たという、そのリービ英雄氏が「強く惹きつけられたのが万葉集。氏の目に映ったのは、ホメロス杜甫に匹敵する大きなスケールをもった、「新しい世界文学」としての万葉集でした」という。

 小生は十数年前から古事記や万葉集に惹かれて関連の本を読んできた。当初は、徐々に古今集、新古今集その他に移っていくはずが、未だに古事記や万葉集の引力圏内を脱することができないでいる。他の古典を読んでも、すぐに塒(ねぐら)というか古巣というかベースはここだとばかりに、古事記や万葉集に戻ってしまう。
 柿本人麻呂(柿本人麿)、山上憶良、大伴家持、 大伴旅人、額田王…という万葉群像。

 本書『英語でよむ万葉集』は万葉集関係文献の中でもユニークであり、印象的な読書体験となった。英語の文章は読めても、さて詩文となると、その含蓄まで味わえるかというと、心もとない小生だが、敢えて英語に訳された古歌を詠んで、柿本人麻呂らの表現世界の凄さを改めて実感させられた。
 本書を読んで、「ホメロスや杜甫に匹敵する大きなスケールをもった、「新しい世界文学」としての万葉集」というのは、決して贔屓の引き倒しではないのだと確信させてくれたのである。

 日本語(原文)だと曖昧なままに味わいや雰囲気、迫力、情景の雄渾さに感動しつつも、必ずしも意味合いを丁寧に解きほぐして理解しているわけではない。日本語での意訳(解釈)を読めば意味合いは明瞭化するものの、表現の氷の塊に結晶化されたような断固たる表現世界が、陽気で蕩け去ってしまう。
 それを英語という他国語に翻訳されるその過程や意図をリービ英雄氏にレクチャーされる中で、表現の論理構造やその構造の堅固さが諭されるようでもある。
 ただし、そうはいっても、英語の単語やフレーズの数々を読んでも、英語をオリジナル言語とする人のようには味読などできはしない。無論、枕詞に限らず、古語の言葉や言い回しが英語に(など)訳されるはずがないじゃないかという思いは依然としてある。

 その逆、つまり英語の文学作品や詩を読んで、あるいは歌を聴いて、一つ一つの単語や文章の背後に、あるいはその単語そのものに数十年、数百年、古代ギリシャ・ローマや旧約聖書の世界に淵源する言葉もあるとしたら、数千年の重みが圧し掛かっていることを熟読しても玩味し尽くすことなどできない話なのだろう。
 その上で、しかし、日本が世界の島国で鎖国しているのでない限り、万葉集に限らず日本語の文学作品が英語などの外国語で読まれる可能性が高まっているし、現に翻訳されつつある。
 思えば、小生自身にしても古典の素養など貧相なものである。むしろ日本(語)に関心を持つ外国人に日本の古典について教えられることが多かったりする。
 あるいは現代の若い人には古典の世界など、英語より遠い世界だったりするのかもしれない。英語の訳で万葉集を理解したほうが親しめるという可能性だって十分にありえる。
 それでもしかし、である。
 あの万葉集の世界が翻訳などできるものかという思い…と同時に、英語に限らず外国語にもその単語の端々に至るまで歴史の重みと思い入れの数々と且つ現に現在進行形で使われつつあり表現の上での苦悩の渦中にあるという厳粛なる現実との遭遇。
 日本語、特に詩文を中心とする文学作品が外国語に訳される、一体、それはどんな言語宇宙の位相において足場を持ち新しい命を持って育っていくのか。
 自分なりに興味本位でやってみることがあるのだが、外国語に翻訳された日本の古典=短歌(和歌)や詩や俳句の類を、敢えて訳される元の日本語の原文を知らないものとして、その外国語となった訳文から日本語に再翻訳したら、一体、どんなふうな日本語の詩文(俳句・短歌)に生まれ変わるのかという試みほどドラマチックなことはないような気がする。
 
 本書『英語でよむ万葉集』については、こうした一般論ではなく、もっと具体的に言及したい項目がいろいろある。例えば、「「真白にそ」は、はたして英訳できるのか」や「枕詞は、翻訳ができるのか」などなど。
 とにかく万葉集を新鮮な思いで読むことが出来たのは嬉しかったし楽しかった。
 こうなると、全米図書賞を受賞したという『The Ten Thousand Leaves: A Translation of the Man Yoshu, Japan's Premier Anthology of Classical Poetry 』(Princeton Library of Asian Translations) (Princeton Univ Press, 1987) を読まないといけないのかな。

 それにしても、立春の日が過ぎて余寒の寒さを今、迎えているのだろうか。東風が吹いて、草木深き季節の到来が望まれる。
 そして、志貴皇子(しきのみこ)の詠った、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」の世界を実感したいものである。

 尚、柿本人麻呂や大伴家持については、拙稿に「稲岡耕二著『人麻呂の表現世界』」や「夜長…深き淵見る」などがある。

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書評エッセイ」カテゴリの記事

コメント

Thanks for TB. Your blog site is wonderful. I also made the reverse TB of your article at mine. You seem to live in Toyama Prefecture. I come from Ishikawa Prefecture and now live in Sakai, Osaka.
I wrote this in English, because I found "mojibake" writing in English in this comment column with my Mac.

投稿: Ted | 2006/02/11 08:45

日本語を英語で読むのも面白いですね。
僕はドイツの文献を日本語訳するときの限界についてふと思いました。
特にハイデガー、ドイツ語が読めなければハイデガーは理解できないといってよい。
「哲学とは何か」をWas ist das,die Philosophieとハイデガーは記しますが、istにアクセントが置かれる、存在、Seinが強調されるーしかしこれを日本語訳するのは至難の技です。

投稿: oki | 2006/02/11 12:28

Tedさん、TBだけして失礼しました。逆TB、ありがとうございます。
内容の濃いブログですね。多くの人が覗きに来ているのも当然なのでしょう。

隣県の出身なのですね。小生の親戚にも石川の人がいます。
高校時代の交換日記が載ってますね。内容もさることながら、当時の日記を読むと眩しい思いがするのでは。
小生も高校入学の年から日記を書き始めたけど、高校卒業の3月末に全て焼き捨てました。若気の至りです。今となっては何を書いたか覚えていない。惜しい。

投稿: やいっち | 2006/02/12 07:50

oki さん、不勉強の小生ですが、学生時代、シェークスピアのマクベスを英文学の講義で原文で読みました。訳書では読んだことがあっても、いまひとつピンと来なかったのが、英文で読んで感動・感激。あと一年、英語の広義で原文を読んだら哲学から英文学に転籍したかも。
ハイデガーはさすがに「存在と時間」は訳書で二回読んだものの原文には手が出なかった。
読んだのは、Die Frage nach dem Ding 『
物への問い』だけ。
思うに仮に誤読であってもニーチェやショーペンハウアー、カント、カフカ、などは日本語でも読めるし、一定の理解はできる。
ヘーゲル、は微妙かな。ある種の陶酔的没入。ナポレオンを英雄視する心情告白的側面がある。宗教書を読むような覚悟が必要かも。
でも、 長谷川宏さんが頑張ってるね。
小生は長谷川宏訳のヘーゲルは『哲学史講義』はスラスラ読んだけど、『精神現象学』は、中断したまま。何故か読んでいて波に乗れなかった。
精神現象学に関しては樫山欽四郎氏が訳された『精神現象学 世界の大思想12 』 (河出書房新社)を読んだ印象が今も鮮明です。
ハイデガーは日本語では理解は無理に近いかも。黒い森(シュバルツバルト)に迷い込み、出て来れなくなった気分。雰囲気を味わうしかない。原文だと、明瞭なのか。それとも芸術的表現だと思うしかないのか。oki さんのレクチャーが欲しいところです。

投稿: やいっち | 2006/02/12 08:24

今日「「星の王子さま」を哲学する」という本を購入しました、甲田純生、気鋭の哲学者ですね。
第二十一章に何度も出てくるapprivoiserという単語、普通は「飼いならす」と訳されている単語に著者は「サン=デグジュペリはこの単語に人間関係の本質を新たな意味を与えた」と173ページに著者は言います。
単語一つでこれなのですから、原文を理解するとはまことに難しい。
弥一さんおっしゃるヘーゲルもそもそもヨハネの福音書の影響のあることは明らかで、原文の背景を考えていくと「広く浅く」なる理解が皮相千万であると思います。
カント一つ研究するのに一生かかるかもしれない。
学者は専門領域なんて狭くて当然です。
カントもヘーゲルもレヴィナスも論じる学者というのは信用が置けません。

投稿: oki | 2006/02/12 23:09

甲田純生氏の本はユニークな哲学入門書のようですね。
ネットで調べてみると、星の王子さまの「apprivoiser」はいろんな人が問題にしているようです。内藤氏は「飼いならす」と訳されているけど、「仲よくなる(creer des liens)」の意味でいいのかどうか。
この点は、倉橋由美子訳『新訳 星の王子さま』を読んでみると興味深いみたい:
http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-06-27
小生は、自分が語学をやっても所詮、中途半端な読解しかできないと思い、断念しました。日本語の理解さえ覚束ないのに、半端な語学力で文献を漁ってもモノにはならない。だったら、外国語の文献は訳されたものだけを参照し、日本語の本(日本語に訳された本を含めて)を徹底して読むことに決めたのです。
その日本語も、あまりに奥が深くて広くて、途方に暮れてます。
ヘーゲルはナポレオンに夢を独立して間もないアメリカに未来を見たとか。今のアメリカを見たら、どう思うものか、訊いてみたいものです。

投稿: やいっち | 2006/02/13 04:08

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 表記の本 [1] の著者・リービ英雄は、1950年生まれのユダヤ系アメリカ人である。父親が外交官だったため、子ども時代から青年期にかけて、台湾、香港、アメリカ、日本で過ごし、プリンストン大学において日本文学で学位を取った。その後、同大学とスタンフォード大学で...... [続きを読む]

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