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2006/02/24

悪足掻きする末黒の芒(すぐろのすすき)

 いつものことながら、うかうかしている間に二月も残すところ数日となってしまった。
「集英社ギャラリー「世界の文学」」版で今もトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読み続けている。本書『ロシア〈2〉/集英社ギャラリー「世界の文学」〈14〉 』を最初に手にしたのは昨年(師走)の二十日ごろ。
 ドストエフスキー著の『罪と罰』(小泉 猛・訳)とトルストイ著の『アンナ・カレーニナ』(工藤精一郎・訳)とが所収となっているが、『罪と罰』は一気に読めたが、『アンナ・カレーニナ』は、読み始めて二ヶ月余りになっている。
 ゆっくりじっくり読んできたのである。それもいよいよ悲劇的な結末部分に、恐らくは今週末には至ってしまう。
 長編というのは、読み応えがあり、その世界の中にどっぷりと浸らせてくれるが、それだけにその世界から抜け出すとなると一抹の寂しさの感さえ湧いてくる。
 所詮は虚構作品であり物語であり、身も蓋もない言い方をすると、白い紙面の活字の世界を目が追っているだけなのである。タクシーの仕事に自分の精力の大半を捧げ、残った僅かな気力の欠片で本を読み、由無し言を綴っている。
 なのに、本を繙くと、一気にその世界に没入させてくれる長編の魔力。というか作家の魔力なのだろうか。

 こんなに断片的に、途切れ途切れに読んでいるのに、栞(しおり)を頼りに前回読み終わった頁を覗き込み、前の章の終わりの一節を斜め読みし、気分も新たに次の章の冒頭部分から活字を追い始める。
 世事で中断していた間に、本の間に栞ではなく、雑事が、雑念が、怠惰が、失念が挟まっているはずなのに、そう、まるでメビウスの輪のように、俗事という夾雑物、つまりは障害物などするりと乗り越え、あるいは回避させてくれて、前の章と次の章とを繋ぎ合わせてくれる、作家の筆力。

 手元の電気スタンドが小生の周辺を明るく照らし出してくれる。頭や肩や背中と共に、明かりは本を浮かび上がらせる。やがて本の存在も忘れ果て、活字を追っていることも忘れ、馴染み深くなった登場人物群の饒舌や寡黙や言葉や感情の齟齬、野心、情愛、嫉妬、妄想、打算、愉楽を我がことのように感情移入する。
 読んでいるというのは、一体、どういう作業なのだろう。作業という言葉は不適切か。読んでいる最中、読み手は一体、何をしているのか。
 アンナは、どうしてそこまで追い詰められていくのか。作家の不倫への願望が裏にあるのか。やむをえざる情念の必然に過ぎないのだろうか。愛し合うとは憎しみと裏腹でなければ持続などしないのか。愛と憎悪とが螺旋を描いてしまって、つい生真面目に情念に忠実なる僕(しもべ)となったものは、かくあるしかないということなのか。
 アンナの運命を知っていて読む自分。愛という名の奈落の坂を駆け落ちていくアンナ。
 それでいて、あんな華麗にな! なんて駄洒落を思いつく小生。

 語りえないことについては、沈黙しなければならない!
 が、だからこそ、人間は語るのだ。書くのだ。話すのだ。
 言葉、沈黙という深淵への怯え、喚き。
 だって、神の前に「聖書」だって捧げる人間なんだもの。
 人間とは不遜なる動物ってことなのかもね。

今日も冷たい雨が降る(索引)」や今月の季語随筆日記の題名を眺めてもらえれば分かるように、「季題【季語】紹介 【2月の季題(季語)一例】」の中で採り上げていない季語が幾つかある。
「寒明、初午、針供養、奈良の山焼、麦踏、二月礼者、ニの替、獺の祭…」
「麦踏」に限らずどの季語も勉強してみたいが、今日の題材に採り上げた「末黒の芒(すぐろのすすき) 」も関心ある題材の一つ。

よっちのホームページ」の「2月の季語  三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています。」という頁を覗くと、「草を焼いた後の黒くなつた、所謂末黒の野に角組み或は萌え出でた芒をいふのである。万葉以来歌などに多く詠まれてゐる。焼野の芒。末黒野(すぐろの)。」とある。
 その上で、「暁の雨やすぐろの薄はら」(蕪村)「すぐろなる遠賀の萱路をただひとり」(久女)「末黒野や笠縫邑と道しるべ」(子丑)などの句を掲げてくれている。

 他にも、「秋桜歳時記」にて、「末黒野に春りんだうの真先に」(杉 千代志) 「末黒野の一つの山は硫黄噴く」(友成 ゆりこ)を見つけた。

鴎座俳句会」の「鴎 2001年3月」にて、「髪切って末黒の芒に逢いに行く」(堀越 鈴子)を見つける。

 こうなると、末黒野なる光景を見てみたくなる。今は、野焼きという春の到来を告げる営みもあるとしても、身近にそうした光景に恵まれるというわけにはいかない、とは重々分かってはいるのだが。
 そうした末黒野という風景を目にする機会が稀になった、だから、末黒の芒という季語を織り込んだ句が生じにくくなった、というのは分かり安すぎて寂しい気がする。

北信州の道草図鑑 ススキ」の頁を覗くと、「秋の七草の一つ尾花」の画像などを見ることが出来る。
「季語」の項には、「秋。「末黒の芒(すぐろのすすき)」「焼野の芒」「黒生の芒」は春。「青芒(あおすすき)」「青萱」「萱茂る」「芒茂る」は夏」とあるが、さすがに「草を焼いた後の黒くなつた、所謂末黒の野に角組み或は萌え出でた芒」の画像などは載っていない。

 頼みの綱の、「閑話抄」さんサイト(文責:たいらさん)の中の<末黒(すぐろ)の芒>という頁を覗いても、例によって教えられることが多いのだが、画像は見出せない。
 誰か、こんな風だよ、という情報(画像)の提供、お願いします。

「地面には芽生えを待つ植物が顔を出そうとしており、それらにとっては焼いた後の灰はよい肥料になる」という記述を読んで、ふと、昔読んだジッドの小説の題名を連想した。つまり、「一粒の麦もし死なずば」(新潮文庫)である。
 要するに人は、あるいは生き物は誰しも末黒(すぐろ)の芒なのであり、一粒の麦なのである。ただ、それでも、悪足掻きする芒であり麦なのだけれど。


 すぐろなる旅路の末の膝頭
 夢追うてやがて一人の末黒野か
 すぐろなるわが部屋に居て夢拾う
 末黒野の果て無きを見る空と海

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