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2006/01/06

初鏡…化粧とは鏡の心を持つこと?

「初鏡」などと、冬一月の季語の中でも無骨で野卑な小生には凡そ無縁な季語を選んだ。
 昨年の一月に採り上げた「初化粧」の時も、冒頭で「初化粧だなんて、これまた小生には一番、似つかわしくないような季語(季題)を表題に選んでしまった」などと書いて忸怩たるというか、一応は躊躇いがちに書いているのだという謙遜というより、以後の小文の中身の貧相さを弁解するような口ぶりを示していた。
 化粧は小生は記憶する限り自分では試みたことがない。
 遠い昔、悪戯でお袋の鏡台にあった口紅をちょっと差してみたことがあったような気がするが、何事にも臆病な小生のこと、その紅の先には赤い闇が口を開けて潜んでいそうで、深入りすることもなくさっさと逃げ去ってしまった。
 とはいっても、関心は少なからずあるようで、恐る恐る及び腰でとなるが先月も「鏡に向かいて化粧する」の中でも化粧を扱ったばかりである。

 さて、「初化粧」でも書いているが、「初化粧」と「初鏡」とは(もっと言うと、化粧と鏡とは)切っても切れない関係にある。余程慣れているか、急いでいる時でもない限りは、化粧は鏡を使わざるを得ないはずである。化粧は鏡に映る自分の顔姿を見ながら施されていく。美容院のように他人(専門家)の手に委ねる時でさえ、鏡は必需品のようだ(男の小生は推測・憶測するしかないのだが)。
 そのことを「初化粧」の中では、一言で、「化粧と鏡、鏡と女性、この三角関係の中にだけは男性は立入る術もない」と書いている。
 実際、俳句の世界でも、「初鏡」の類題・傍題が「初化粧」なのである。

 小生は「初化粧」でさらに、以下のようにも書いている:

 

 女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
 薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
 仮面の現象学。

 さらには、「スカートの裾の現象学」をデッサン風に書いた後、以下のようにも書いている:

 

 仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
(中略)
 化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
 きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。
 いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。

 そう、見られるように、化粧を表面的にデッサンしてみるだけでも既に鏡の現象学、それとも仮面の解釈学に足を踏み入れざるを得ないのである。
 化粧とは仮面に過ぎないと言い切るのは簡単だ。
 けれど、仮面舞踏会ではないが、仮面をかぶることによって素顔の自分、生の自分、覆い隠している欲望と野心とが剥き出しになることもある。違う自分を化粧することによって演出しているようでいて、実は案外と素の自分の一部、化粧しなかったならば可能性の海に漂流したままに終わるかもしれないエゴが露呈されているだけなのかもしれない。
 化粧を日々施すと言う営為を通じて、それこそメビウスの輪を辿るようにして、女性は知らず知らずのうちに表情ということ、表現ということ、演技ということ、装うということの秘密の領域に踏み入れてしまうのでもあろう。
 そこには男には窺い知れない深紅の闇の世界が果てしもなく広く広がっていて、男がうっかり覗き見ようものなら底なしの沼に溺れ行くばかりとなるに違いない。
 いずれにしても、化粧はもう一つの鏡なのだ。見る人の目線と偏見をそのままに映し返すものが鏡というのならば。他人の思惑など跳ね返すものが鏡に他ならないというのなら。
 だからこそ、化粧と鏡は一体なのであろう。

 さて、「初鏡」についても、「初化粧」の中で既に説明を与えてあって、「新年に洗面を済ませてから初めて向かう鏡」だとのこと。

「初鏡」なる季語の織り込まれている句をネット検索して探してみると、「髪豊かなるも母似や初鏡    浅田伊賀子」が複数のサイトで引用されているのが分かる。
 他に、「紅させば生きる唇(くち)なり初鏡    金子せん女」が例によって「ikkubak 2004年1月3日」の中で見つかった。
 さらに、「初鏡右手衰えし左利き    山中蛍火」や「初鏡娘のあとに妻坐る    日野草城」など
「いつまでも女でゐたし初鏡」なる句をひねり出した「鈴木真砂女(すずき・まさじょ)」という女(ひと)がいたことも書き添えておきたい。


初鏡覗き見る我睨む君
初鏡見る見るうちの他人顔
化粧して初めて心寛(くつろ)げる
はがれない化粧を素顔と君の言う
初鏡想い描く人誰でしょか
目の奥の瞳さえもが鏡張り

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コメント

:けわい  とは。

自分の声は「骨動刺激」と空気音が交ざって
聞こえている。カセットなどに録音して見ると、
空気音だけが聞こえるので、愕然とする。

男は鏡を見るべきである。
そして、逆的に、パフなどを用い、
ご自分の、一番良い、姿を
演出してみるべきである。

わざとにこっと笑っているのと、
自然に笑っているのと、
違いが理解してきたら、

そう  「けわい」は 男が
意識的に、戦場に出て行くための
儀式である。

★ おはつ、です。

投稿: すちーぶ | 2006/01/07 16:50

すちーぶさん、おはつです。
自分の声は、録音して聞くと誰しも最初は愕然とするらしいですね。小生もそうでした。ここまで発音がひどいのかって。
振動こそが音(声)だということ。骨振動のラジオもできているらしいし。

(初)化粧は俳句の世界では「はつけしやう」乃至は「はつけしょう」と読ませるようです。
調べてみたら、漢字表記で「化粧」とあった場合、江戸時代だと「けしょう」と読ませる場合と「けわい」と読ませる場合があったとか。
「けしょう」は、現代で言うメイクアップで、顔に施すもの。
「けわい」は、『みだしなみ全般』という意味で使われるとか:
 http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/edokesyou01.html

鎌倉時代や戦国時代などでは武士が戦(いくさ)に向かう場合、化粧(けわい)を施すのは自明のことだったとか。そもそも旗指物とか、鎧兜だって化粧(けわい)だったわけですね。
鎌倉時代など、首実験に廻された敵将の首に化粧を施したとか。それほどに身だしなみは武士のたしなみだったということでしょう。
確かに、男性が化粧すると女々しいと言われたりすることがある(女々しいって、差別語なのかな)。けれど、後ろ向きに捉えるのではなく、時代が個性化差別化孤立化敵対化を旨とするようになり、市街地が個性を主張する戦場となりつつあると理解するなら、(昔は男もすなる化粧を女もしたのが)女もすなる化粧(けわい)を男も顔だけではなく全身に施すのは時代の要請であり、これからの時代を生きる男のたしなみとなっていくのでしょうね。
化粧(けわい)は、顔だけではなく、演技でもあり心や表情の発露の方法でもある。
化粧の奥もまた際限もなく深い!
とても勉強になりました。
ありがとう!


投稿: やいっち | 2006/01/07 20:20

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