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2006/01/01

年頭に当たって…あいも変わらず

 12月は季語・季題が豊富にあり、その中から幾つか一昨年採り上げたものを「12月は季題が豊富にあります」の中で示し、昨年の12月にも幾つか採り上げた

nazuna-nensho

← なずなさんにいただいた年初の挨拶の画像です。共に歩める相棒が居るのは羨ましいね。小生は、どうなんだろう?!

 お世話になっているのはネットで覗くことができる、「俳句歳時記」や「俳句ステーション」「よっちのホームページ」などのサイトで、他に手元(電子ブック)の俳句歳時記(子規)などを参照している。
 さて、「俳句ステーション」を覗かせてもらうと、1月も負けず劣らずに多い
 参考に昨年の正月に採り上げたものを列挙してみる(表題を見て直ちに気づくのは、その頃はまだ表題が季語・季題だけで、実にシンプルだということ。中身はともかく、段々、表題が賑やかになっていく…)。


「蓬莱(ほうらい)と徐福」(January 04, 2005
「寝正月」(January 05, 2005
「鳥総松(とぶさまつ)」(January 06, 2005
「お屠蘇と雑煮」(January 07, 2005
「明珍火箸」(January 08, 2005
「寒稽古」(January 09, 2005
「新年会」(January 10, 2005
「初化粧」(January 11, 2005
「冬籠(ふゆごもり)」(January 12, 2005
「冴ゆる」(January 13, 2005
「冬薔薇(ふゆさうび)」(January 14, 2005
「氷柱」(January 15, 2005

macoron-nensho

← マコロンさんにいただいた年賀状の画像です。ああ、今年も一枚も年賀状を出さなかった。もらって喜ぶ人が居たらいいのだけど…。

「薮入り」(January 16, 2005
「雪女郎」(January 17, 2005
「青木の実」(January 18, 2005
「初金毘羅」(January 19, 2005
「初金毘羅(続)」(January 19, 2005
「風花」(January 20, 2005
「寒月」(January 21, 2005
「月冴ゆる」(January 22, 2005
「悴(かじか)む」(January 23, 2005
「侘助(わびすけ)」(January 24, 2005
「日脚伸ぶ」(January 25, 2005
「(雪)しまき」(January 26, 2005
「懸想文(売)」(January 27, 2005
「10円カレー」(January 28, 2005
「雑炊と粥とカレーと」(January 29, 2005
「春着(はるぎ)」(January 30, 2005
「淑気と春隣と」(January 31, 2005

tanu-nensho

← tanuさんにいただいた年初の画像です。なずなさん共々、小生がファンになって勝手にお邪魔しているサイト。他にもこっそり、でも日参しているサイトが幾つかある。和みと温みを戴く一方で何もかえすものがないのが情けない。

 継続は力なりと言うらしいが、こうして総覧してみると、少しはあれこれ勉強はしようとしていることを感じる。小生は既に三十年以上、日記をつけている。実際にはネットに参入したこの数年は特に(紙の)日記にはその日の天気や買い物の記録、読み始めたり読了した本の著者名と題名、外出先などの項目をメモしているだけになりがちだが、それでも、いずれは自分にとってのかけがえのない資料になることだろう。

 ただ、日記類は年が明けると、紐で括って何かの箱に収めてしまい、やがては部屋の中のダンボール箱の山に埋もれていき、今日の日記を書く際に、あるいは暇の徒然にでも覗いてみて、感懐に耽る、なんてことはまずない。
 つまりは宝(?)の持ち腐れとなっているのだ。
 その点、ネットだと、簡単に過去の記録に接することが出来る(簡便な三年日記などの複数年日記のようなものだ)。

 逆に言うと、自分で削除しない限り、自分で(あるいはそんなことはあまりないと思うけれど、他人様でも)何処かのサイトでデジタル情報として残り続けているということ、その気になれば閲覧できると言うこと、つまり、ネットとは(覗くのに鍵を設定する必要がない限りは)超巨大な一面記事なのである。
 ただ、大概は自分の書いた記事や関わった人たちの記事などにスポットライトが当たり、その記事がネットという巨大なバーチャルの海から浮上し、海面に束の間、顔を見せる、というわけだ。
 ある意味、新聞だって全ての頁が一面でありえる。実際には折りたたまれているし、表紙のいわゆる一面記事だって、展望しつつも、目は一面の何処かに焦点を合わせざるを得ない。
 参照するとは、スポットライトを照射することだし、転載は不可とあっても、閲覧という形で覗くのは自由なのだろうし、小生は鍵で閉ざされていて仲間内にしか見せないサイトは別として、開放されている記事は全て転載可能なのだと考えている。
 但し、言うまでもなく、転載元のアドレス(URL)を示すかリンクさせておくのは礼儀以前の最低限のマナーである。

 さて、一年の始めに当たって、人はそれぞれに何をしただろうか。小生は、何もしない。夜明かしというか年越しも、例によってロッキングチェアーに腰を埋めていて、読書している間に寝入ってしまって、幾度かは夜中や未明に目覚めたが、寝るのが楽しみとばかりに、今日の元旦が休日なのを幸いに、ひたすらのんびりだらりと過ごしてしまった。
 年が改まったからといって、今になって人間性が変わる筈もなく、この十数年続けてきたように、淡々と日々過ごしていく。
 仕事をしつつ、在宅の時には、居眠り(まとまった睡眠は取らないだろう)と読書と執筆の日々を送るに違いない。
 ただ、書くテーマや内容は少しずつ変わっていくのだろう。できれば単純に経年変化するのではなく、内容において熟成させることができればと思うが、こればかりは体験の蓄積を生かすことの極端に苦手な小生には難しい。
 季語随筆においてもそうだが、実際には日々、画面に向かってから何を書くか決めている。予めテーマや題材があると助かるし便利でもあると分かってはいるが、虚構作品を綴る際もそうなのだが、頭の中が真っ白で何を書いたらいいか、さっぱり分からず途方に暮れ、時に呆然自失さえしそうな茫漠感に眩暈しそうな自分を見出すのが嬉しい。
 何を書いたらいいのか、分からない。画面に向かってない知恵を絞る。過去に何を書いたかは、画面に向かっている最中、書いているその都度においては全てきれいさっぱり忘れ去る。
 そうすることでまっさらな自分を見出せるし、日々書くことを新鮮な気分で遂行することができる。
 今年一年も、画面に向かうたび、途方に暮れる自分を見つめ続けることになるのだろう。
 そうして今日までやってきたのだ、そんな自分のやり方を年が変わったからといって改める気には毛頭、なれないのであるし、その気もないのだ。

 変わるものなら世界が変貌を遂げていくように、自然に変わるし、自分という内海へ世界という外の宇宙がいつでも自由に勝手に気ままに浸透し流れ込み、押し流そうとさえする。激流を流れゆく木の葉のように玩ばれる心と体。
 その在りようを描き示すことができるなら、最高だと思う。
 ということで、年頭に当たっての所信など何もなく、あいもかわらぬ自分が居るばかりというわけである。

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