魔の雪
温泉地などで宿の中から窓越しに、あるいは湯に浸かりながら雪山を眺めたり、ちょっと舞い散ってくる雪の一片(ひとひら)を手に取っている分には、雪はひたすらに美しいしロマンチックでもある。
小生も、そんな優しい雪については、「真冬の明け初めの小さな旅」などで若干のロマン風なエッセイを綴ってみたものだ。
雪の科学というと、なんといっても中谷宇吉郎の『雪』(岩波新書、岩波文庫)であろう。本書は高校生の時愛惜した何冊かの本のうちの一冊だった。
松岡正剛氏は、初めて読んだ時は、「中谷宇吉郎は師匠の寺田寅彦にくらべると名文家でもないし、関心も多様ではないし、文章に機知を飛ばせない」と感じたらしい(その後、見解が変わっている。何ゆえに何を契機に変わったか、リンク先を覗いてみて欲しい)。
小生は中谷宇吉郎の文章や発想法に即座に魅了された。あるいは、『科学の方法』(岩波新書)と共に読んだからでもあろうか。
手元に本書がないのであやふやな記憶で書くが、随分と「かたち」に拘っていたような気がする。レビューでは、「著者は,自然科学の本質と方法を分析し,今日の科学によって解ける問題と解けない問題とを明らかにし,自然の深さと科学の限界を知ってこそ次の新しい分野を開拓できると説く」とあるが、茶碗の割れ方とか、一旦、壊れたら二度と再現できないようなものは科学が扱うには馴染まないというのである。
幸いにして「流木のWebサイト」の中「科学の限界」なる頁に『科学の方法』からの中谷宇吉郎の言葉が幾つか引用されている。
つまり、「もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである」と説くのだ。
さて、では雪の結晶は科学の対象になりえるのか。似たような結晶ではあるが、同じ結晶の再現がなるのか。中谷宇吉郎は雪の結晶はギリギリ科学の研究対象になると考えたわけだ。
確かに人工の雪さえも降らせることが既に可能になっているけれど、本当に同じ結晶が(同じ気象条件下にあったとして)実現されているのだろうか。
(中谷宇吉郎の本を一冊、読むのなら、『雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集』(池内 了編集、岩波少年文庫)が、珠玉の随筆が集められていて、抜群だ。)
「かたち」に拘る科学者というと、上にも出てきたが、中谷宇吉郎の師匠筋に当たる寺田寅彦の名を逸するわけにはいかない。日本の科学者の随筆というと、今に至るも小生には寺田寅彦が筆頭に上がるのである。
寺田寅彦は科学者としても一級の方で、ノーベル物理学賞へあと一歩のところまで行っていた。恩賜賞を受賞した研究である、「結晶を構成する原子の配列をX線を用いて解析しようとする画期的な試みであった」(引用は、小山慶太著『肖像画の中の科学者』(文春新書)からである)。
ところが、「イギリスの俊秀ローレンス・ブラッグが同じテーマの研究において寅彦よりも一歩先行していたのである。このことを知った寅彦はあっさりと、X線の結晶構造解析のという最前線の分野から手を引いてしまった」のだった。「我国の地理的不利や研究設備の相違」の故のノーベル賞獲得競争敗退だったのかもしれない。
科学は、「やがて量子力学が確立され、物理学者の関心は原子核や素粒子といったミクロの世界へと向けられていく。しかし、寅彦はそうした潮流からは距離を置き、身近な現象を観察、分析する古典物理学の世界に一人、沈潜していくのである。」
このように書くと、まるで科学研究における先駆け争いに負け倦んで、身近な現象の研究へと沈潜したかのようだが、実際には、寺田寅彦はもともと今で言う複雑系の科学に関心があったのではないかと思われる。ただ、従前からの要素還元主義的な伝統的研究方法から脱して時流から離れるには、相当程度の切っ掛けがないとできなかったとも考えられる。
つまり、イギリスの俊秀ローレンス・ブラッグに一歩先を越されたことが逆に寺田寅彦が寺田寅彦らしい研究に打ち込める後押しになったとも考えられるというわけである。
要素還元主義的な手法から現在では「複雑系の科学」の典型例とみなされる「気象や地震などの広く地球物理的な研究」への移行については、「教授 松下貢 「フラクタルの物理(Ⅱ)応用編」 コラムより 「寺田寅彦(1878-1935)と複雑系の物理」 2004年」が素人にも分かりやすく簡潔に説明してくれている。
「彼の興味の範囲は非常に広く、日常的な現象にかかわるものだけを取り上げても、線香花火、リヒテンベルク図形のような沿面放電、金平糖の角(つの)のでき方、雪などの樹枝状結晶の成長、椿など花弁の落ち方、藤の実など乾燥した種の散らばり方、砂の流れ、河川の分岐、固体の割れ目、貝の模様や動物の縞模様など、枚挙に暇がない」という。
そして、「寺田寅彦が注目していたのはまさしく「複雑系」そのものであることがわかるであろう」し、「彼の思索の産物である随筆には、カオス・フラクタル・非線形物理やそれらの発展・延長線上にある「複雑系の物理」の視点からは、汲めども尽きない魅力が秘められている」というのだ。
俳句と雪との関わりで言えば、「伊吹山の句について 寺田寅彦」が興味深い。千川亭(せんせんてい)の「おりおりに伊吹(いぶき)を見てや冬ごもり」について、自らの体験と観察を交え、分析している。
さすが科学者ならではの観察眼がこの句の理解を深めてくれるようである。
(小山 慶太著の『消像画の中の科学者』(文春新書)については、季語随筆の「読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)」で既に多少のことを書いている。)
美しいばかりのような雪。この世を一色に染めていく雪。穢れを知らない、それとも穢れを埋めていく雪。
その雪も時には牙を剥くことがある。
現に今、雪が北陸地方を中心に猛威を揮っている。
そういえば、「天災は、わすれたころにやってくる。」ということわざは、寺田寅彦が作ったものと言われているらしい(実際は違っていて中谷宇吉郎が寺田寅彦の言として広めたらしいが。ちなみに、「返済は、忘れずにやってくる。」とは、小生の弁である)。
トーマス・マンに『魔の山』という大作がある。数年前、二度目となる挑戦をして深い感銘を受けた。
さて、この本の中に、あるいは短編小説として独立させたなら人気を呼ぶこと間違いないと思える箇所がある。 例によって松岡正剛氏によると、以下のようである:
「これは「雪」と題された第7節にあたる場面で、3年目の冬を迎えたハンス・カストルプがバルコニーから永遠に連なるかに見える雪山を眺めているうちに、この巨大な厳冬の自然に包まれてしまいたいとおもう場面である。
ハンスはそのまま病院側の忠告を無視して純白の雪山に入っていく。そこはあまりも美しく、そして底無しの沈黙で完成されている。自然は危険もあるが、責任もとらない。超絶の美があるものの、何も言葉にもしてくれない。それが自然というものである。ハンス・カストルプはそこに没入し、そんな冷徹な荘厳に一人立っている自分に感動をおぼえていく。
かくしてハンス・カストルプは雪中にホワイト・アウトしてしまう(と、ぼくは読んだ)。」
「マン『魔の山』雑感」の中で小生は、二度目の購読の際には、以下のように吹雪の箇所に圧倒されたと書いている:
「主人公であるカストルプが、無謀にもスキー板を履いて吹雪の山に向い、遭難しかけるのだ。その豪雪の中での主人公のカストルプの雪の無間地獄に溺れ込もうとする場面は凄まじい。また、美しい。死の誘惑。
恐らくマンは意図的に美しく描いている。小説としての必然性があるのだ。
が、読者たる小生は、一個の独立した何か象徴性に満ちた短編として読み浸ってしまったのである。そんな誘惑を仕掛けるマンは、罪な作家だ。ドイツ的な神秘性が骨の髄まで浸透しているということなのだろう。
長い小説だが、分量的に中腹付近にあるその場面を楽しみに読むのもいいのではないか。そこを読み終えると、もう、あとは天辺も見えるかのようだから。」
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