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2006/01/10

読書拾遺…作家の資質

 年末から年始にかけて、ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード(上・下)』(越前 敏弥訳、角川書店)や村上春樹著の『海辺のカフカ(上・下)』(新潮社)などをメインに読書してきた。
「ダ・ヴィンチ・コード」については特段、書くこともない。キリスト教について多くの謎めいた、あるいは謎そのものの事象が盛り込まれていて、小説としてより雑学的知識を登場人物たちと一緒に渉猟するような楽しさがあった。
 たまたま同時に借り出したジャン‐ピエール・モエン著の『巨石文化の謎』 (蔵持不三也/監修 後藤淳一/訳 南条郁子/訳 、創元社、「知の再発見」双書 91、2000年7月)と相俟って、欧米の思想や宗教、文学、文化一般について瞑想・妄想を逞しくする楽しみも味わえた。
 通俗的な小説に共通するのかもしれないが、人間という謎へは決して迫ることはなく、あくまで文化の周縁を経巡る旅に終始する。結末に至ってさえも。
 まあ、その旅の道程が楽しければ文句はないのである。
 この小説に盛られた意匠や情報の豊富さは、「ダ・ヴィンチ・コード関連情報の探索中心。非日常の象牙の塔でいにしえの叡智への探求を目指す日々。 by alice-room」を標榜される「叡智の禁書図書館」なるサイトに任せるのがいい。
 近々映画が公開されるようだし、ネタばれ的なことは書かないのが無難だろう。

 一方、村上春樹著の『海辺のカフカ』は、当然ながら『ダ・ヴィンチ・コード』とは違って、語り口のうまさで小生を小説の最後まで飽きさせずに引っ張ってくれた。近年の小説では小生には珍しい体験だった。
 ここでは本書について忖度しないが、ただ、ちょっと残念なのは、きっと村上氏は現代文学についても日本に限らず広く読まれ研究されているのだろうけれど、その成果がなんとなく衣の下の鎧(よろい)のように透けて見える気がしたこと。
 そう、『ダ・ヴィンチ・コード』とは違った意味で文学的意匠や西欧的伝統に由来するイコンなどの意匠が少々露過ぎること。そのことがあるいは日本はともかくギリシャ・ローマ文化に淵源する欧米などのキリスト教文化圏の方たちには馴染みの問題(ギリシャ悲劇オイディプス王の物語、シューベルトのソナタやベートーヴェンの『大公』を引き合いに出す…などのメタファーの数々)があって、この作品に普遍性を感じさせたりする可能性は感じる。

 主人公の少年・田村カフカが15歳のはずなのに、あまりに大人びていることも気になってならなかった。
 無論、世の中、小生のような凡庸な少年ばかりではないのだろう。村上春樹氏もその頃にはこの小説の主人公ほどに多感であり感性鋭敏であり読書量豊富であり女性(年上)に好かれ、他の凡百の少年とは違った独自の人生を既に歩み始めてもいたのだろうけれど。
 尤も、この少年の設定自体が文学的メタファーであり現実性を期待すること自体が的外れなのかもしれない。
 むしろ、文学者村上春樹が15歳の少年という意匠を獲て、心と体のメタモルフォーゼの時期を生き直しているのだと思ったほうがいいのかもしれない。

 それはともかく、村上春樹氏は物語を読む楽しみを知り尽くしていると感じた。日常使うような言葉で淡々と叙述し語っているようでいて、実は読み手がすぐに同感し共感してしまうような語り口を知っているし、自ら駆使することができる稀有な作家なのだろう。
 語り口のうまさは、主人公の少年・田村カフカについてよりも、ナカタさんという特異な存在に存分に現れている。彼が登場すると物語の奥行きが一気に広がる。
 小生など、ナカタさんが小説の最後で直接少年・田村カフカと相交える場面があるのだろうと勝手に期待していたのだが…。
 実を言うと、村上春樹作品は、「神の子どもたちはみな踊る」や「村上朝日堂」などは読んできたが、小説作品は初めて。もっと系統立てて読むと、印象はまるで違うものになるのかもしれない。読んで後悔しない作家なので機会を設けて他の作品も読んでみたいものだ。

『海辺のカフカ』についても、「サロン・ド・カフカ  「海辺のカフカ」めぐり」というファンサイトがあって、なかなか興味深かった。

 ちょっと脱線気味なことを書くと(以前、他の雑文でも書いたが)、この『海辺のカフカ』を読みながら、小生は、「村上春樹氏に例の酒鬼薔薇聖斗を扱った小説を書いてもらったなら、彼なら凄いものを書けるのではと思ったりした。酒鬼薔薇も知的に異常なほどに発達している。感受性も並ではない。あの公表された<詩>にはただならぬもの、鬼気迫るものを覚えたものだった。」

 酒鬼薔薇聖斗とは、かの「神戸須磨児童連続殺傷事件」の主役である。
「しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ=ルビ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」と語る少年。
 小生は今日から、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み始めた。もう、少なくともかれこれ六度目となるだろう。この19世紀の大作が今はロマンに感じられる。陰惨な思想性を帯びているかのような殺人事件。が、『罪と罰』では主人公は殺人を犯す前から自分の行いが信じられないし、ある意味、結末に至っても殺人を犯したことの心底からの反省が成されたのかは必ずしも明らかではない。
 それでも、人の営為や人の人への思い(思いやり)が濃厚に漂っている。苦悩するわけである。

 さて、では、酒鬼薔薇聖斗は、「人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」と書いているけれど、本当なのだろうか。人の痛みが自分の痛みを和らげることができると心底確信できるのなら、そもそも人の痛みは想像の中で思うだけで十分なはずだ。
 それが敢えて人に痛みを自らの手で与え、その痛みぶりを眺めてようやくにして痛みを覚えるというのなら、きっとそこには嘘があって、実は、その他人の痛みぶりと手を下した感触に束の間、そうほんの一瞬だけ和らいだような錯覚を覚えただけであって、和らいでなどいないし、もっと言うと、自分の痛み自体が存在しているか判然としないのである。
 現代において21世紀版の『罪と罰』を書くとしたら、それも主人公は酒鬼薔薇聖斗なのだとして、それを描けるのは村上春樹ではないかと思ったのだが、さて、どうだろう。
 尤も、知的には際立つ酒鬼薔薇聖斗なのだから、シベリアへの流刑から戻ってきて、いつの日か自分で描き示すのかもしれないけれど。
 
 最後に上掲のサイトにも載っているが、「懲役13年」と題された一文を掲げておこう(「朝日新聞 1997年9月26日付夕刊より」)。

1.いつの世も・・・、同じことの繰り返しである。
  止めようのないものは止められぬし、
  殺せようのないものは殺せない。
  時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・
  「魔物」である。
  仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして
  深い腐臭漂う心の独房の中・・・
  死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、
  “何”が見えているのであろうか。
  俺には、おおよそ予測することすらままならない。
  「理解」に苦しまざるを得ないのである。

2.魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、
  あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りを
  させているかのように俺を操る。
  それには、自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」
  を感じさせるのである。 
  とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。
  こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に…
  しかし、敗北するわけではない。
  行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。

3.大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物だと
  思いがちであるが、事実は全くそれに反している。
  通常、現実の魔物は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち
  以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。
  彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているか
  の如く人に思わせてしまう…
  ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃
  の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはよ
  り完璧に見え、
  バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと
  俺たちが思い込んでしまうように。

4.今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のよう
  に思える。
  良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうに
  なった敵。
  しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存
  在であることに気づいた。
  そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
  「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

5.魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になるこ
  とがないよう、
  気をつけねばならない。
  深淵をのぞき込むとき、
  その深淵もこちらを見つめているものである。

        「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、
            俺は真っ直ぐな道を見失い、
            暗い森の中に迷い込んでいた。


「魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである」…。脳内宇宙、無限、虚空、死霊、独房、深淵…。このいかにも埴谷雄高的メタファーに満ち満ちた一文。

 酒鬼薔薇聖斗の場合、自らが魔物になり深淵に魅入られ落ちていってしまったのだろう。その意味で作家たるには資質が欠けるのかもしれない。
 作家たるには体験も経験も知識も技術(表現力を含めた)も何もかもが必要だ。
 が、一番、必要なのは自分が経験していない事柄であってさえも、あたかもしていると人には思えてならないように思わせる、そんな現実感たっぷりの想像力なのだと小生は考えるからである。殺人を描くのに殺人を犯すようでは作家にはなれないのだ。
 死ぬほどの経験が必要だが死んではならないし殺してはいけない。死ぬほどの病や恋が必要だが恋に溺れて病に屈して沈んだままでは困る。
 死んだ真似をしてでも最後までペンは握っていないといけない。ナイフではなくて。
 となると、酒鬼薔薇聖斗的存在を描くのも、やはり村上春樹氏に頼むしかないわけだ。うーん、堂々巡りだ。

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