聴初には何がいいだろう
年末から昨日にかけて、モーツァルト作曲の「フィガロの結婚」をラジオであるいはテレビで繰り返し見聞きした。といっても、ラジオではさすがに序曲だけである。
モーツァルトの序曲の中でも人気の上位に来る曲のようだけど、どうして年末年始に幾度も聞くことになったのか。友人の車に同乗した際に、自宅で画面の映らないテレビで、仕事中ラジオを聴いていてと、シチュエーションは違う。
ベートーベンの第九(合唱)が年末になると、あちこちのイベントで聴かれる(というか歌われる、というべきか)のは恒例みたいになったけど(もしかして、第九は冬12月の季語になっている、もしくはなっていてもおかしくはない。詠み手がその気になって第九の合唱される風景などを句に織り込めば、間違いなく季語になる?!)。
でも、「フィガロの結婚」は、一体、どうしたわけなのだろう。モーツァルトの生誕250周年の年に当たるからって、他にも名曲は一杯あるじゃないか(誰か何故、「フィガロの結婚」が今、頻繁に流れるのか、教えて欲しい。ただの偶然?)。
← hirononさんから拝借した画像です。「妻籠宿」だとか。島崎藤村を想ってしまう。冬の山は音をも雪に変えるのか…。
(先に進む前に、「フィガロの結婚」については、「フィガロの結婚 - Wikipedia」などでネット検索して調べてもほしい。情報はネット上でも豊富に満ち溢れている。ここでは、「フィガロの結婚(Le Nozze di Figaro)は、フランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732年 - 1799年)の書いた風刺的な戯曲、ならびに同戯曲を題材にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したオペラ作品である。(Le Nozze di Figaro, K.492)」だけ、転記しておく。それにしても、『セビリアの理髪師』(伊: Il Barbiere di Siviglia)は、1775年にフランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732年 - 1799年)の書いた風刺的な戯曲」などの原作を読んだ人はどれほどいるのだろうか。まあ、モーツァルトの音楽の世界とは別個の世界なのかもしれないが。)
確かに、今年はサッカーであればワールドカップドイツ大会の年だが、音楽界では「モーツァルト生誕250周年」の年であることは今更口にするのも気恥ずかしいくらいだろう。
音楽にも疎い小生でもモーツァルトの曲を聴くと何か人間業でないものを感じてしまう。そもそも曲を作るということ、メロディを着想するということが小生には驚異だ。
正月には、「野老から倭健命を想う」でも書いたように、「初鶏、初鴉、初雀、初明かり、初日、初空、初富士、初凪、若水、初手水、乗初、初詣…」などのように、「年初ならではの季語が句に織り込まれてきた」。
だったら、「聴き始め」とか「聴初」とは「初聴」といった季語が生まれていてもいいように思う。
敢えて「聴初」とする以上は、何を聴くか、どのような状況で聴くのかが大事なのだろう。音楽好きで、たとえばロックのファンなら一番心酔するロッカーの特定の曲乃至はアルバム(古い? CDか)を好きな酒など傾けながら聴く、クラシックファンならやっと入手した復刻盤を誰も居ない部屋で一人、ワインなどテイスティングしながら聴くとか。
故・武満徹(敢えて敬称は略す)に『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)と題されたがある。ここでは本書を扱わないが、内容については、「松岡正剛の千夜千冊『音、沈黙と測りあえるほどに』」などを参照願いたい。
(その後、武満の著の『樹の鏡、草原の鏡』(新潮社)、対談集『ひとつの音に世界を聴く』(晶文社)や、書簡集川田順造との『音・ことば・人間』(岩波書店)などを読んでいった。レコードを買った記憶はないが、FMラジオなどで武満の音に関わる仕事に注目していった。西欧の音楽とは違う、日本の音を音楽家はどう表現するのかが非常に興味があった。今、俳句に関心を持つ身になってみると、俳句の背景に流れる音は、鉦や尺八、三味線なのか、それとも、あくまで風の音、川の瀬音、草の葉の擦れる音、道を歩く足音、蛇口をひねって流れる水の音、鳥の鳴き声、子供の歓声といった人間の生活を含めた森羅万象の音、つまり計算しつくした論理的に構築的された人工の音ではない等身大の世界、日常の中に見出すことの出来る音、なのだろうか。この点は、機会を設けてもう少し触れてみたいものである。)
小生は大学に入った年だったか、友人の書架でこの本を見つけた。まず、この題名に感じ入った。すぐに入手して読んだが、上掲した松岡正剛氏のサイトで「ぼくは吃りでした。吃りというのは言いたいことがいっぱいあるということで、想像力に発音が追いつかない。発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います。」とあるのは、身に抓まされるようで、自分なりに同感してしまう。
小生自身は吃りではないが、言語障害がある。武満徹と比べられると気が引けるし、「言いたいことがいっぱいあるという」わけではないが、それでも、「想像力に発音が追いつかない」という体験についてはありあまるほどある。「発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います」というのが武満徹ならば、小生は書くという表現に向かっていったという面は間違いなくある。
議論をしても、あるいはしようと思っても、頭の回転が追いつかないし、同時に呂律が回らない。あるいは発音が自分で聴いてさえも覚束ない。
そういう障害を持つと、たとえ小生のように貧相な想像力や知性しか有していなくとも、物言わざるは腹膨るる…モノ言えざるは脳みそがひたすら熱を内向させて発熱していくばかりなのである。
(この辺については、「駄洒落研究についての予備的観察」や「石橋睦美「朝の森」に寄せて」「誰もいない森の音」などを参照。)
音、言葉、沈黙、自然。
上掲の「石橋睦美「朝の森」に寄せて」から、一部を再引用しておきたい:
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。
きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。
それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
音楽を音を楽しむと敷衍して考えていいのなら(あるいはそれならもう音楽ではないよというのなら、別に音楽に拘るつもりもないのだが)、音の不可思議を思わずにはいられない。小生などメカ音痴なので、携帯電話どころかラジオでさえ驚異の存在である。理屈は一応は分かっても不思議なのは不思議なのである。
ラジオを通じて周波数さえ合えば一定の音(番組)が聴こえる。
だとしたら、人の耳に自然や宇宙や、海の底や地の底、遠い遥かな森の中の木の枝を伝い落ちる雫の気配、冬眠する熊の寝息、際限もなく存在しているのだろう微生物の生命活動する蠢きとざわめきの反響を聴くような、そういった未知の周波数に合うような聴覚があってもいいような気がする。
尤も、聴覚がそういった始原の域まで遡られるのなら、もう聴覚とも視覚とも嗅覚とも明確には分かつことのできない原始の感覚領域が脳みそにあると想うしかないのだろう。
沈黙という時に耳に痛いほどの無音の叫び。
音楽が好き。それは小生には音が好き、音を楽しむということを意味する。もっと言うと、音というのは、在るという不可思議からの賜物であるに違いない。停止する光子の塊としての物質、沈黙せる音の凝縮としての物質というのは、実は等価なものなのではないかと想ったりする。
喋ることが困難であり聴くことも叶わず、動くことも許されないとして、そうして寝たきりになって一切の外界の刺激にも反応しなくなっても、むしろそうした状態の時にこそ、一層、宇宙や自然や生命の豊穣さをつくづくと感じているのではないか。
モノを言えない人の想像力は、きっと、感じる想いが際限もなく膨らんで、宇宙大に伸び広がっているに違いないのだ。だからこそ、人は時に無口になるしかないのだ。
今日も音を楽しむ。音を楽しむのに機械など要らない。機械にはそもそも馴染まない音の宇宙がそこにある。
言葉とは、沈黙の音をまっさらな時空上で奏でるために人に与えられた武器なのではなかろうか。
さて、では、「聴初」には何を聴いたらいいのか。
小生は、とりあえずは今は人の心音を聴いてみたい。
生きている音の響きの懐かしき
音と音重ねる時の終わりなく
| 固定リンク
「季語随筆」カテゴリの記事
- 陽に耐えてじっと雨待つホタルブクロ(2015.06.13)
- 夏の雨(2014.08.19)
- 苧環や風に清楚の花紡ぐ(2014.04.29)
- 鈴虫の終の宿(2012.09.27)
- 我が家の庭も秋模様(2012.09.25)
コメント
こんばんは~
すごい遅コメントですけど・・・いいかな?
「聴初」、ほんと、季語になるといいですね!
私は聴初、友人の弾いた、やはりモーツァルトの「ハレルヤ」でした。
「フィガロの結婚」、多いですね~。どうしてかな・・・。やっぱりモーツァルトのオペラの中で最も有名で、人気が高い、それに何と言っても華やかだからかな?
日本の楽器・音楽もいいですね。
「日本音楽集団」という、日本の鼓や笙の笛なんかで西洋のクラシック音楽を演奏する集団がありましたけど、これで演奏したラヴェルの「ボレロ」、絶品!面白いです♪
投稿: hironon | 2006/01/15 23:37
hironon さん、こんにちは!
コメント、嬉しいです。「妻籠宿」の画像、ありがとう。また、おねだりに行くかも。
聴初が「友人の弾いた、やはりモーツァルトの「ハレルヤ」」だというのは、羨ましいです。思えば小生の身近には楽器を弾く人は一人も居ない。類は友を呼ぶなのか、小生が凡庸すぎるのか…。
「日本音楽集団」って、これ↓?:
http://www.promusica.or.jp/index.html
「ボレロ」絶品とか。聴いてみたい!
投稿: やいっち | 2006/01/16 04:00