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2006/01/09

「魔の雪」…雪国

 車中で立川昭二著の『病いの人間学』(筑摩書房)を読み始めた。「人間学」とあるが、中身は濃くとも堅苦しい本ではない。なんといっても小生が学生時代からファンになって折々に読んできた立川昭二氏の手になるものなのだ。
 レビューには、「宮沢賢治から安部公房まで、病いや死をテーマにした作品をとりあげ、誰もが直面する自分や家族の病いから、私たちは何を学び得るかを探る」とある。
(関連する本に、『病いの人間史―明治・大正・昭和』(文春文庫)があるようだ。
 拙稿では、「立川昭二から翁草へ」や「立川昭二著『江戸病草紙』」などを参照願いたい。)

 宮沢賢治の絶唱とも言えるような詩が紹介されていたり、教えられることが多そう。
 文中、「魔の雪」や「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」で触れた川端康成の『雪国』に関連する記述があったので、ここに若干、示しておきたい。
「死に触れて輝く」という章では結核に冒された堀辰雄が扱われれている。堀辰雄というとすぐに思い浮かぶのは『風立ちぬ』だろう。本書は許婚が肺結核のため入院した「山のサナトリウム」に付き添い彼女が亡くなるまでを看取った、その体験をもとにして書かれている。
 健康な肉体を失い死に向き合う中で逆に「禁断の木の実の味」さえする「生の幸福」に出会う堀辰雄…。本書(本章)の中で立川昭二氏が引用している部分をここに転記する;

 

 小さな月のある晩だった。それは雲のかかった山だの、丘だの、森などの輪廓をかすかにそれと見分けさせているきりだった。そして他の部分は殆どすべて鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。しかし私の見ていたものはそれ等のものではなかった。私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇らせていたのだった。そして私達自身までがその一部になり切ってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のものもいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしえもはや季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時とすると私達には殆ど見えないものになってしまう位であった。……

 さて、ここではこの章に登場する堀辰雄や芥川龍之介、竹久夢二、リルケらのことには深入りしない。
 実は「魔の雪」に関連する記述と言うのは、以下である:
 
 

 じつは、この『風立ちぬ』が世に出た昭和十二年は、日中戦争の始まった年である。そしてこの年、昭和文学の名作といわれる作品が集中して発表・完結・刊行されたのである。川端康成『雪国』、永井荷風『墨(さんずい)東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』という昭和文学の代表作、山本有三『路傍の石』、石坂洋次郎『若い人』のような話題作、横光利一『旅愁』、和田伝(でん)『沃土』のような問題作、また青少年図書の古典といわれる吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、豊田正子『綴方教室』などなど、いずれも名高い作品であり、今日でも文庫本として繰り返し刊行され、多くの日本人に愛され読みつがれている。まさに奇蹟の年といえる。
 しかも、これらのいずれの作品にも戦争や国家の話題はひとかけらも出てこない。むしろ、これらの作品に出てくるのは一人ひとりの人生であり、恋であり、そしてふつうの人びとの生老病死である。どの作品にも病気のことが出てくるが、それらを読むと、当時の日本人はいかに病いとこまやかにつき合っていたかがうかがえる。

 この引用の中にようやく川端康成の『雪国』が登場する。
(何ゆえに昭和十二年が日本の文学史の中で奇蹟の年となったのか、それは盧溝橋事件や第2次上海事変などを端緒に日中戦争が始まったということ、言論の封殺が行き着くところまで行っていたのか、政治的発言や行動は時流に乗るものでない限りは許されず、文学においても心ある人は徹底して内向するしかなかったその結果なのか、あれこれ想像は膨らむがこれもここでは探求を頓挫させておく。)

 本書『病いの人間学』らしく、川端康成の『雪国』を病気をキーワードに読み返している。
『雪国』冒頭の名高い場面。死の病に冒された青年を(青年の許婚である駒子とは別の)恋人が東京から連れ戻す列車に語り手(観察者)である島村が乗り合わせ、青年と恋人とのやりとりを盗み見する。「二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。実際また自分より年上の男をいたわる女の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われ」たのである。
 以下、まさに川端康成の叙述の技の冴える一節が本書の中で引用されている。島村はその二人の様子を夜を背景に鏡となった列車の窓に映して盗み見ている:

 

 このようにして距離というのものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。

 島村は雪国の芸者・駒子にも惹かれつつもあくまで観察者であり客観的な目と心を保ったままである。この、ある意味死の道行きにあるとも言える二人のことも、夢のからくりを眺めているように思えるばかりなのである。
 なるほど、青年の恋人はかいがいしく振舞っている。が、青年には許婚がいることを恋人である若い女は知らないはずがないだろう。かりに青年が生き延びることがあったら、女は青年と添い遂げることは叶わない。むしろ青年が死の病にあるからこそ、故郷へ死にに帰る行程に付き添うという形で短い<夫婦>の時を夢よりも夢のような気分で末期の思いで過ごしているのだろう、そんな二人からは、そして駒子からも遥かに遠い島村。
 それはまた川端の孤独の反映でもあろうか。どこまでも世間や人間に対し他者であり観察者であり、当事者にはなりえないという、物心付く頃には身に(心に)染み付いていた宿痾(しゅくあ)の自覚。
明治32年(1899年)6月14日、大阪で生まれる。2歳の時、父死去。3歳の時、母死去。7歳の時、祖母死去。10歳の時、姉死去。15歳の時、祖父死去し、天涯孤独となる。また、青年期にも知人らの死に多く出会う。)

『雪国』は日本の中での豪雪地帯を舞台にしている。雪の深さと白さが小説を幻想の域にまで高めている。が、雪掻きや雪下ろしに倒れ臥す人の数多いる越後湯沢といった地域も、都会人である人間には、鏡に映る夢のからくりを越えることはありえない(この点では川端康成に限る必要はないだろう)。

 雪の魔、魔の雪。 雪国のことを思うなら、松岡正剛ではないが、「田中角栄や真紀子以来というもの、世の中は新潟の人や動向をどうも片寄って見過ぎているけれど、それはおかしなことなのだ。もし片寄るのなら、『北越雪譜』まで戻って片寄るべきだった」のであり、是非ともせめて「雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。…豪雪地帯で暮らす人々の哀歓を綴り、習俗を記録し、奇談を集めた。出版には馬琴、京伝らが関係し、天下の奇書として圧倒的な人気を博したという随筆集」なる鈴木牧之著の『北越雪譜』を一読してほしいものだ。
鈴木牧之記念館

(『北越雪譜』の中で、鈴木牧之は雪の結晶を観察し細々と記述していて、「虫めがねで「雪の形をつまびらかに見た図」として、何と35種もの雪の結晶の絵を載せているので」ある。
 この頁を読んで思い出したのだが、小生の哲学への関心を決定付けたかのデカルトが、「雪の結晶のスケッチを描いてい」る。『気象学』という著作があるくらいなのである。)

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