大寒…突っ張って
二十四節気でいう大寒の始まりの日、つまり、20日を狙ったわけじゃなかろうが、20日の夜半過ぎ辺りから、この東京にも雪が降った。その画像は、「光柱…叶わぬ夢?」にも「栗の小径や川沿いの道のこと」にも載せてあるので、ちらっとでも覗いてみて欲しい。
覗けば、ほかにも素敵な画像も載せてあるし。
土日は寒かった。ただ、それにしても、驚いたことが一つ。
我が部屋の冷蔵庫は小生にお似合いの小さい可愛い奴である。夏など、スーパーで買った氷アイスも冷蔵室に入れておいたって一時間もしないうちに溶けてしまう。
それが、である。今朝、起きて冷蔵庫を開けたら、前日に買っておいた魚やメカブが凍り付いていた。冷蔵庫より部屋のほうが寒い(?!)ってことか。
→ 紫苑さんにいただいたこの画像は、中之島薔薇園の薔薇「チャールストン」
東京は午前は曇っていたが、午後の二時前後頃には青空が見えた。
なので、積雪がそんなにあるわけもなく、呆気なく溶け去っているものと、外を見たら、屋根は真っ白。さすがに路面は乾いていたけれど、路肩付近にも雪が残っている。この分だと、夜半には雪が溶けてそのまま凍ってしまうのか、そんなことを思いつつ、夕方、図書館へ。
読了した立川昭二著の『病いの人間学』(筑摩書房)、「過ぎゆこうとする20世紀は、二度の世界大戦をはじめとする大量虐殺と政治暴力の時代だった。世界各地には暴力の傷痕があり、至るところに記憶の場所がある。過去10年、アジアでは、日本軍による戦争被害者たちが、次々と証言を始めた。それに対して、日本の中では、その記憶や証言を隠蔽、否認、歪曲、抹消する「歴史修正主義」が立ち現れている」という徐 京植/高橋 哲哉著の『断絶の世紀 証言の時代―戦争の記憶をめぐる対話』(岩波書店)、田村 明氏著の『まちづくりと景観』 (岩波新書)を返却。
新たに、池内了著の『科学を読む愉しみ』(洋泉社)、「万葉集の英訳で、1982年、アメリカ最高の文学賞である全米図書賞を受賞され」たというリービ英雄著の『英語で読む万葉集』(岩波新書)、「嗅覚を考えることは、ふだんとは別の面からヒトを考えることである」というライアル・ワトソン著の『匂いの記憶』(旦敬介訳、光文社)、藤本 由香里/白藤 花夜子著の『快楽電流―女の、欲望の、かたち』(河出書房新社)を借り出してきた。
「女たちは受動的な客体から能動的な客体の地位を手にいれ、今、女はすべて娼婦になった…。風俗、AV、レディスコミック、売春・援助交際、小説などを題材に、現代の女性のセクシュアリティの深層に迫る」という『快楽電流―女の、欲望の、かたち』だが、小生、著者名を『人麻呂の暗号』や『枕詞の暗号』、『古事記の暗号』の著者として有名な藤村 由加氏と一瞬、勘違いして手に取ったのだった。おお、守備範囲が広い著者だ、こんなテーマも扱うのか…、と思ったら見当外れもいいところだった。
でも、怪我の功名で面白そうな本を見つけたのだから、ま、勘違いもいいものだ。
いずれも寝床や車中で読める薄手の本(中身が薄い、という意味ではない)。今、1400頁ほどの本を読んでいて、とてもじゃないが寝床でも車中でも読めないので、気分転換の意味もあり、齧り読みも可能な本を中心に選んだのだった。
さて、表題に戻る。
二十四節気の一つ「大寒」を扱うので、ついでというわけでもないが、前にも若干、メモしたことがあるが、ここでちょっとだけ二十四節気のおさらいをしておきたい。
といっても、ちゃんと説明してくれるサイトを見つけ出し、リンクを張っておくだけのことだが。
「PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」なるサイトを覗かせてもらう(ホームは、「PLANT A TREE PLANT LOVE」である。別に小生はここの関係者ではないのだが)。
「一年間を二十四等分して、それぞれにふさわしい名称をつけたものを二十四節気という」。その上で「その節気の一つ一つをさらに三等分し最初の五日間を初候(一項)、次の五日間を次候(二候)、最後の五日間を末候(三候)として、一年間を七十二等分したものを七十二候という」そうだが、「七十二候」についてはここでは深入りしない。
大寒は、「寒さが最も厳しくなる頃。毎年1月20日頃。」以外に、「天文学的には、天球上の黄経300度の点を太陽が通過する瞬間。」といった説明も施されることがある。
つまり、「太陽は見かけ上、天球を1年で1周します。このときに太陽が移動していく通り道を天球上にあらわしたものを黄道(こうどう、おうどう)といいます。二十四節季とは、この黄道を24等分して、それぞれに名前を付けました。節季とはその24区分した15日間を指したものです」というのだが、こうなると小生には頭が痛くなる(念のために書き添えておくと、「節季」とは「季節の終わり。時節の終わり。時節」の意であり、二十四節気の場合は節気という表記が正しいようだ)。
さらに「JWA Home Page」にて説明を求めると、「二十四節気は農作業の目安として中国で作られたもので、春分を基点に太陽の黄道を15度ずつ24等分し、太陽がそれらの分点を通過していく時を二十四節気とし、その季節にふさわしい名前をつけたものです。暦の日付はずれても、毎年同じ節気が暦に載るようになったものですが、もともとは古代中国の黄河流域の季節に基づいているために、日本に置き換えると多少ずれが感じられます」という。
どうやら紀元前から既にあったようだ。
このサイトでも、「大寒(だいかん)」については、「一年中で最も寒い頃。最低気温が観測されるのもこの頃から立春までの間のことが多い」とあり、いずこも厳しい表現に変わりはない。
今しばらくは、荊棘(うばら。いばら。うまら)の日々が続くわけである。この時期を耐え忍ぶ唯一の道は、大寒が過ぎると次にやってくるのは、2月4日ごろとされる「立春(りっしゅん)」の到来であろうか。
「この日から立夏の前日までが春。九州や太平洋側の暖かい地方では梅が咲き、一進一退を繰り返しながら暖かくなっていく。」というのだから、とにかく辛抱である。
そんな寒さの厳しい折であっても、あるいはそんな時節であるからこそ、句もひねられる。
大寒というと、まずこの句を思い浮かべる方も多いかも:
大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼
足腰が弱って、ちょっとつまずくと呆気なく転んでしまう。これが「大寒や転びて諸手つく恥ずかしさ」だと、人の目を意識しており、仮にこんな句をひねる人がいたとしたら、必ずしも年配ということにはならない。東京だと慣れない路面の凍結で転ぶ人は老若男女を問わないのだし。
だからこそ、「悲しさ」となると、哀れの感を誘うわけである。
ネット検索したら、以下の句を見つけた。例によって「e船団ホームページ」の中の「日刊:この一句 最近のバックナンバー 2001年1月16日」でのもの。坪内稔典氏の鑑賞を参考にすると一層、味わい深い:
大寒を突っ張れる塀の突っ張り棒 西村白雲郷
さらに「大寒」の織り込まれた句を求めると、以下の句が見つかった:
大寒と敵(かたき)のごとく対ひたり 富安風生
(「大寒と敵(かたき)のごとく對ひけり」という表記を採るサイトもあった。)
この句については多くを語る必要もないだろう。かくありたいと思う。
やや頭というか気持ちが先走っている感じがあるけれど。
年を取ると、自分では早く駆けているつもりが、足がまるでついてこなくて、ドタバタと見苦しく走っているのを、街角のガラス窓に映っているのを見て愕然とすることがある。
気持ちに身体が付いてこないのである。
それでもいい。気力が充実していることが何よりなのだ。年寄りの冷や水と謂うなかれ、である。
大寒や突っ張った挙句の優勝だ
大寒や転ぶを堪(こら)え筋違え
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コメント
大寒や転ぶを堪(こら)え筋違え
に、つい吹き出してしまいました。
そうそう!下手に止めようとせず、コロンといった方が怪我が無い。。というお年頃(笑)
もっとお年を召すと、骨を折るので笑い事ではありませんけどね(^_^;)
投稿: ちゃり | 2006/01/23 14:29
ちゃりさん、「大寒や転ぶを堪(こら)え筋違え」って、川柳ですよね。
もう、転びそうになるのを堪えるのも大変なら、転んでも大変。どうしたもんでしょう。
仕事中、ラジオで肩こりなどには体操が効果的って、やってたけど、まあ、筋を違えないためにも、体操くらいはやっといたほうがいいかなと思いました(思っただけですが)。
投稿: やいっち | 2006/01/24 08:07
「サンデー毎日」で鴨下信一さんが、新暦より旧暦のほうがいろいろと物事に便利がいいと書いておられました。
たとえば七夕、新暦だと梅雨の真っ最中で空をおがめない、旧暦の暦のほうが空をみるのには良い、なるほどと思いましたね。
投稿: oki | 2006/01/24 12:59
okiさん、そうですね。小生、学生時代は仙台暮らしでしたが、仙台の七夕は八月。
ただ、悲しいことに小生は七月末になると帰省してしまったので、一度も仙台の有名な七夕を経験していない。
どんと祭りは仙台で経験したけど。
旧暦とか二十四節気って、ある意味アバウトなところがある。だけど、それだけにアナログ感があるし、人の生活感にマッチしている気がする。多少のズレがあったって、それもまた許せるし。
投稿: やいっち | 2006/01/24 17:07