ペチカ…サモワール…ドストエフスキー
ひょんなことからドストエフスキーの『罪と罰』を読むことになった。昨年の後半は、正宗白鳥の短編集を週に一つか二つずつ読み進め、ジョージ・スタイナー著の『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)を読んだこともあり、久々にトルストイの大作に挑戦したくなった。
ところが、図書館で探しても、『アンナ・カレーニナ』が単独で一冊(分冊でもいいのだが)になっている本が見当たらない。
仕方なく、集英社ギャラリー版の『ロシア Ⅱ』を借りることした。この本には『アンナ・カレーニナ』が収められている。ただ、一緒にドストエフスキーの『罪と罰』も収まっていて、一冊で二度おいしいのはいいけど、解説も含めるとなんと1400頁!
読書の速さの遅い小生のこと、両者を読了できるのは早くて来月の後半になるのは歴然。ま、今の小生は物語としての文学モードに入っているので、これもよきかなである。
ということで、本書の前半には『罪と罰』が鎮座しているので、少々予定外ではあるが、久しぶりにルイ‐フェルディナン セリーヌ著の『夜の果てへの旅』と共に我が青春の書でもある『罪と罰』を読むことになったのである。
つい先日、村上春樹著の『海辺のカフカ』を読了したばかりである。その余韻も去来する中、今、『罪と罰』を読み始めてみると、やはり比べるのは意味がないとしても、その圧倒的な叙述力や表現力の違いを痛いほど感じさせられる。
今度が少なくとも六度目の挑戦となる小生にとっても(この前、読了してから十年以上が経過しているせいもあろうけれど)、読む文章が新鮮であり、冒頭からその文章力に圧倒され引き込まれていく。若い頃のように体力も気力もないし仕事が控えていることもあって、合間合間に読み進めるしかない現状が情けないけれど、それでも、読んでいる最中はドストエフスキーワールドに耽溺できてしまう。
美は細部に宿る、ではないけれど、主人公のラスコーリニコフが殺人を犯すに至る心理的経緯にしてもじっくり描きこんである(殺人を犯して以降はもっと徹底して描かれてあるのは言うまでもない)。
村上春樹氏の『海辺のカフカ』は、モチーフも手法も違うから上述したように比較は無理としても、時代が違うと言えば安易過ぎるが、しかしあまりにあっさりと殺人が描かれる。
時代。そう、殺人事件が頻繁にマスコミを賑わす。意味があるのか、精神的分析に堪えるのか、愉快犯なのか、実は深い背景があるが、そこまで捜査が及ばないままに有り触れた殺人事件で処理されていくのか、いずれにしても、本来、人の命が奪われる深甚な事件であるはずなのに、隔靴掻痒のままに次から次へと新しい事件が起きて、どの事件も有耶無耶のうちに忘却の彼方へ消え去っていく。
恐らくは誰もがもどかしい思いをしている違いない。
でも、分からない以上は、とにかく犯罪者が捕まればとりあえず一件落着であり当面は安心する。あまりに事件が多いから、逐一の事件に拘泥など論外。
だけど、じっくりと人が人に向き合いたいという思いも誰しもの胸にもあるのではなかろうか。
それを可能にするのは、やはり本格的な文学(作品)にしかないようだ。心理学の本、脳科学の本、物理の本、人類学の本と少しは読み漁っても、科学を銘打っている限りは、まさに科学の俎上からは肝心の何かが漏れ零れる。
科学が科学である限りは、興味深い情報をドンドン提供してくれるし、宇宙論にしても、過去のどんな哲学者や宗教家のビジョンよりも遥かに凄まじい奇想天外のビジョンが示される。
が、ここにいるのは一人の人間に過ぎない。宇宙の広大無辺さと向き合いつつも、同時にその広大無辺さは実は心の中にこそさらに遥かに茫漠とそして混沌として伸び広がっているのだということを痛感させられる。
しかも、その広大さの中には認知症や介護や死の病やといった、徹底して個が向き合うしかない極小の中の底なしの泥沼があったりする。
一人の人間が一人の人間に徹底して向き合うこと。その覚悟のほどが文学作品では歴然と立ち現れてくる。その希薄のようなものが一番、明白となるのは、ストーリー展開や文学手法や登場人物のキャラクター云々より何より、個々の叙述にあるのだ。
つまり、小説の紹介では、あるいはストーリーの紹介では端折られる部分だ。美は細部にあり。神は細部に宿る。細部とは瑣末のことではなく、今、ここ、であり、現に向き合っている表現のその都度の本気度だ。
さて、小生は学生の頃からロシア文学に惹かれてきた。アメリカ文学もヨーロッパの文学や哲学も読み齧ってきたけれど、戻るところは日本の文学は別格としてロシア文学のようである。
小生にロシア文学について語る能力は残念ながらないので、表題にあるような19世紀から20世紀の前半のロシア文学作品を読むと登場するウオッカやペチカやサモワールという無言の、だけど欠くべからざる脇役たちを一瞥してみたい。
ペチカは、これはたまたま10日の仕事中、車中で久しぶりに北原白秋が作詞し山田 耕筰が作曲した「詞は北原白秋氏が満州旅行で見た自然風景を思い浮かべ作ったものだそうです。1925年の曲」だという「ペチカ」を聴いたので、懐かしいのでついでに採り上げる(同じ日に「かあさんのうた」(作詞・作曲:窪田 聡)もラジオから流れてきた。季節柄というものか。この曲の中では「いろり」が出てくる)。
「ペチカの歴史」というサイトが見つかった(「Architecture jardin~建築散歩~」参照)。
冒頭に「ペチカはロシアの暖房として有名ですが、元々は北欧地方の暖炉(囲炉裏)から発達したと言われています。
北欧では、17世紀に煉瓦造りのペチカを造る技術が確立し、ロシアへ輸出したことが、ロシアで普及したきっかっけです。 ロシア式ペチカというのは、この後ロシアで改良され、技術が発達したものです」とある。
小生などは勝手にペチカというとロシアという印象を抱いていたけど、必ずしもそうではないわけだ。
旧満州はもとより北海道で一部では普及したようだが、徐々に廃れていった。
それがまた、「ペチカは煙突に逃れる廃熱を利用して複数の部屋を暖める「セントラルヒーティング」。実に省エネ性に富んだ先進的な暖房システム」だということで、見直されつつあるとか。
さて、作家ドストエフスキーもペチカとは無縁ではない。
「ドゥニャンのどたばたモスクワ劇場」の「ドストエフスキーの生家」なる頁を覗かせてもらう。
「ドストエフスキーの生家は今はその名もドストエフスキー通りと名づけられている一画にあ」り、「1983年、ここはドストエフスキーを記念してドストエフスキー博物館とされ、今、文豪の生家として公開されている」という。
「ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間」に尽きるとか。
以下、丁寧な説明が続く:
ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間。この小さな玄関の間は板仕切りで仕切られていて、窓からの光がほとんど入ってこない。当時をしのばせるかのようにろうそくを摸した小さな明かりがつけてある。
玄関の窓は小さなもので中庭からの採光がとても悪い。夏の昼間でも薄暗いのだから、長い冬の暗い時期には終日夜のような暗さだった違いない。ましてや、仕切りで仕切られた小部屋は窓もなくほとんど光りは入り込まない。その小さな信じられないほど暗くしきられた部屋が、作家その人フォードルと兄のミハエルの寝室兼勉強部屋であった。二人はここで話をしたり、一緒に本を読んだり、後の終生変わりない深い兄弟愛を培った場所でもあった。
その奥は乳母の住んでいた部屋がカーテンで仕切られていた。その横には大掛かりなタイル張りのペチカが据えられ、モスクワの寒い冬を容易に乗り越えられるようにしてある。
このペチカを中心に作家の家である3部屋が囲まれるように配置されている。
さらに、「その玄関を抜けると20畳くらいの居間がある。その居間ではテーブルや長椅子がしつらえられ、子どもの遊び道具や本などが床に散らばっている。木馬もペチカの側に置かれている」という。
ドストエフスキーに限らないだろうが、ペチカの傍で生活が営まれ父母の語る話を聞き、あるいは物語が織り成されていったのだろう。
一方、ロシアでは一昔前までは「サモワールが家族の団欒の象徴」だった。
まずは、「Humorous cartoons and drawings by the Sugai family」の「サモワール」なる頁を参照させていただく。
「サモワールという言葉は、「サモ」と「ワール」から成り、それぞれ「自分で」と「沸かす」という意味が合体している。この言葉は広辞苑にも載っている。「ロシア特有の湯沸し器。中央の上下に通ずる管の中で木炭を焚いて周囲の湯を沸かす装置。今は多く電熱を用いる。」という。
また、「昔使われた木炭式のサモワールは、中央の上下に通ずる管に空気が通るようになっていて、水を入れておく周囲の空間とは完全に仕切られた構造になっていた。中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという発想は、水中で火を焚くようなものだから、熱効率がとても良くなったはずである。凍てつくロシアの冬に、僅かな燃料でもお湯が沸かせるサモワールは、当時のハイテク商品と言える」とも。
昔のサモワールは、「中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという」ものだったが、昨今のものは、「中心部には上下に電熱線が走っていて、電気の力で水を熱する」方式に変わっているらしい。
さて、「ロシアにおける喫茶の歴史は西欧諸国よりも古く、はやくも1638年にモンゴルの汗から贈答されたお茶をツァーリの宮廷でのんだという記録がある。17世紀70年代にはモスクワへの輸入品として市場に出回っていた。喫茶は付随した茶器を生み出し、サモワールが登場する。 第二次世界大戦では金属の供出が強制されて、ロシアでもサモワールが姿を消していき、喫茶の習慣が以前ほどではなくなった。それまでは、サモワールが家族の団欒の象徴であった。」というのだ(1月25日開催・第156回例会 (「ニュースレターNO.58」より転載) ドストエフスキイの喫茶 佐々木照央(埼玉大学)」より)。
「『罪と罰』では対話の場に置かれたサモワールが逆に人々の心の対立を浮き立たせる役目を果たしている。ラスコーリニコフ、その母、ドゥーニャ、そしてルージンがお茶を飲む場面では、ルージンと対話がなりたたない様子がサモワールの存在によって逆に強調されている。さらに、マルメラードフの法要の場ではサモワールを中心に人々が喧嘩を始めるのである。人々を結合させる装置のまわりで人々がいがみあう、という反作用効果をお茶が果たすこととなる」のだ。
さらに上掲のサイトでは、『地下室の手記』、『悪霊』、『死の家の記録』などでのサモワールの果たす役割を教えてくれる。
本稿での「ドストエフスキイのお茶の場面は、バフチンが説く「モノローグ・ディアローグ」論を深めるための材料を提供する。対話のお茶、孤独のお茶、お茶の飲み方にいろいろあるが、孤独といっても「自分の中でもう一人の自分と対話」するのである。お茶を通じて描かれる場面はきわめて深い多層的な意識の働きと対話のあり方を教えてくれるといえよう」という結語はとても味わい深いものがある。
もう十分すぎるほど長くなったので、ウオッカについては触れる余地がない。
小生は18の時、初めて『罪と罰』を読んだし、その後も繰り返し読む機会を得たが、その都度、惹かれる登場人物はマルメラードフという酒で身を持ち崩した男であった(酒には絡まないし、酒に溺れたりもしないのだが、スヴィドリガイロフの名を逸するわけにはいかない)。
呑むのは酒。呑めるものは何でも呑んだのだろうが、ロシアの酒といとウオッカがまず浮かんでくる。
ここでは深入りしないが、「ウオッカ」なる言葉を聴いて最初に感じるのは、その語感から素人的な勝手な想像(連想)に過ぎないのかもしれないが、「ウォーター」つまり「水」である。ロシアの人は酒を水のように呑む(という先入観がある)。
調べてみると、勝手な憶測も満更ではないようで、「NIKKA ウイスキーの仲間 極寒の風土が生んだ火の酒 ウオッカ」によると、「ウオッカの名の起こりは、ロシア語のジーズナヤ・ヴァダー(「生命の水」)のウォーターにあたる「ヴァダー」が、ウォトカに変化した。」という。
まあ、ウオッカが水に当たるというのなら、浴びるように呑むのも無理はないのかもしれない。
ところで、『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは酒に弱い。
これから本当に自分が殺人を犯すのか自分でも信じられないでいる冒頭付近で、ラスコーリニコフは酒場でウオッカを一杯だけ飲んで、それで道端でぶっ倒れてしまう。そして「気絶したラスコーリニコフは、このとき有名な「痩せ馬の夢」、つまりは村人が痩せ馬を斧で惨殺する幼年時代の思い出を夢に見る」のである。
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コメント
村上春樹をドストエフスキーと比べちゃ、かわいそうでしょう。
比較文学の授業で『罪と罰』のラスコーリニコフの原型としてハムレットをあげていました。
『ハムレット』と比較しながら『罪と罰』を読むのもいいかもしれませんね。
投稿: 滝野 | 2006/01/12 04:05
文中のジョージ・スタイナー著の『トルストイかドストエフスキーか』にしても、シェークスピアやドン・キホーテとの対比はされている。同時に同時代の通俗文学作品やロシアに伝承される民話との対比も近年されているみたい。
ただ、そうした比較文学的分析は、それはそれに留まるね。
やはり、野暮かもしれないけど、文学に留まらないだろうけど、作品世界に浸り溺れるのがいつも原点だと、一昨日から『罪と罰』を読み始めて感じていること。
投稿: やいっち | 2006/01/12 09:26
>やはり、野暮かもしれないけど、文学に留まらないだろうけど、作品世界に浸り溺れるのがいつも原点だと、一昨日から『罪と罰』を読み始めて感じていること。
一心に作品世界に浸り、それを原点としながら、それでもなお他の文学作品とクロスオーバーする。
小説を読みながら、他の小説が想い浮かぶ。
バルト的に言えば、恋人といっしょにいながら、ちがうことを考える快楽。
このテクスト相互関連性こそ文学の美味だと思うのですが、どうでしょうか。
投稿: 滝野 | 2006/01/16 00:40
滝野さん、こんにちは。
『罪と罰』、半ば近くまで読んできたところです。ラスコーリニコフが彼の論文(持説)についてポルフィーリィとジャブめいた議論を戦わせる部分。
「バルト的に言えば、恋人といっしょにいながら、ちがうことを考える快楽」…一粒で二度美味しい…愉悦でしょうね。そうでなくっちゃね!
ただ、思えば、小生はドストエフスキーほどに繰り返し読んだ作家は少ない。
テクスト相互関連性はある意味、作家たるもの、同時代、あるいは過去の作家の作品に耽溺して育ってきたわけだし(ドストならゴーゴリ、プーシキン、民話、その他)、またそうでないと作家として育つことはまず不可能だと思う。
けれど、ドストエフスキー作品を読んでいる場合に限っては、他の作家や作品(但し、ドスト自身のほかの作品は別儀)を連想することはない。シェークスピアさえ、ドストの小説を読んでいて、まるで脳裏に浮かんでこない。
もしかして、ドストエフスキーに限ってはその世界に浸ることに満足している…あるいはまだまだ溺れる余地があると感じているからかもしれない。
投稿: やいっち | 2006/01/16 04:14
ご存知のようにレヴィナスのことを調べていますと、偶々ジョージ・シュタイナーの「想像の文法」の書評が出てきました。なかなか難しそうな本ですが、文化批評となると気になります。
どうも察するところ、自然科学に関する捉え方が違っていて、些か創造信仰のようなものを想像しています。
投稿: pfaelzerwein | 2006/01/17 06:35
ジョージ・スタイナー著の『言葉への情熱 (叢書・ウニベルシタス) 』に寄せての感想文で小生は以下の引用をしています:
神の不在しかわれわれには与えられていないのかもしれない。その不在が完全に感じられ、生きられる時、それはひとつの力であり、恐ろしい神秘である(それがなければ、ラシーヌ、ドストエフスキー、カフカの作品などは、本当に無意味であり、脱構築批評の餌食である)。
(引用終わり)
17世紀頃からの科学の発達は西欧の思想に根底からの影響を与えている。古代ギリシャ以来の<悲劇>が過度の科学信仰により欠落していったのではないか。科学的認識という諸刃の剣が人間精神を真正面から問いかける意思や伝統を背後に追いやってしまっているのかも。
スタイナーの場合、古代ギリシャ以来の<悲劇>と聖書が根本にあるようで、神の不在というユダヤ的認識が常に批評の根底にあるようです。
投稿: やいっち | 2006/01/18 08:12