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2006/01/31

冬の草…枯れ草それとも冬青々?

 今頃の時期に相応しい季語と思っていいのか、「冬の草」という季語がある。
 小生、昨夜、ショックなことがあり気持ちが落ち込んでいるので、真冬の寒さの中で懸命に生き堪えている草に感情移入などしようかという思惑もあって(?)、この季語を選んでみた。
 しばしばお世話になっている、「YS2001のホームページ」の「季語(ふ)」を覗くと、「冬の草(ふゆのくさ) ⇒ 冬草(ふゆくさ)へ」となっている。
 見ると、「冬草(ふゆくさ:冬でも青々としている草) [冬-植物] 別名⇒冬の草(ふゆのくさ)、冬植物(ふゆしょくぶつ)、冬青草(ふゆあおくさ) 関連⇒枯草(かれくさ)、枯野(かれの)」と説明されている。

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→ 30日、温和な昼下がり。とある公園にて。冬枯れの桜。まだ葉っぱが落ちきれずに…。

 なるほど、冬の寒さにあってただ耐えているだけじゃなく、「冬でも青々としている草」なのである。縮こまっているんじゃないってことだ。冬にあっても草らしい清冽な青さを保っているのでないと、季語としての「冬の草」は句に織り込めないわけだ。
「冬青草(ふゆあおくさ)」といった別名があるのも、むべなるかな、である。

 関連する季語として「枯草(かれくさ)、枯野(かれの)」が上で挙げられているが、「冬の草枯る(名草枯る」も関連してそう。

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← よく見ると、蕾だろうか、芽吹き始めている。

 ただ、「俳句練習帳 【俳句と季語の仏訳練習】」なる頁を覗いたら、「2003/11/20 ③【冬草】」の項に、「冬草(ふゆぐさ)枯れたもの、枯れかかっているもの、青々としているものなど冬の草を総称する。」と説明されている。
 となると、また頭が混乱してくる。
 その項には、「呟いて生きるとは何 冬青草   楠本 憲吉」といった句が掲げられている。
 この句だと、青々とした草というより、枯れかかっている、だけどそれでも傍目には仄かにであっても、命が息衝いている意味合いが感じられる。

 一方、ネット(宮原昭夫公式サイト)では、「冬の草剣のごとく光ふり」という句が見つかった。脇には白秋と名前が付されているが、北原白秋かと思ったら別人で、白舟のようだ。
 この句の場合、草が青々と空に向かって屹立しているのだろう。

よっちのホームページ」の「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています。」なる頁、その「1月 冬の草(ふゆのくさ)」という項を参照する。
 そこには、「元来冬草といへば枯れ果てた草、枯れ残つた草、冬尚生育しつゝある草の総称であるべきだが、冬青々としてゐるといふ感じが極めて強い。又さう解すべきであらう。冬草。」と記されている。

 なるほど、小生が「冬の草」で勝手に思い入れしたように、元来は、「冬草といへば枯れ果てた草、枯れ残つた草、冬尚生育しつゝある草の総称であるべきだ」ったのだろうが、俳句の世界では、短歌などでは相手にもされないような世界に目配りするし、しかも、そんな路傍の小さな世界にも豊穣なる命の芽吹く世界を見出し感じ俳句という純粋結晶のような、いわば物質的恍惚たる世界に定着させようとする。
 その意味で、いつしか「冬青々としてゐるといふ感じが極めて強い」そんな冬の草のイメージも句に織り込まれるのも、小生なりに理解できるような気がする。
 ちょっと僭越? 生意気?

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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )の一場面!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

 このサイトには以下の句が掲げられている:

冬艸やはしごかけ置岡の家   乙二
冬草の踏まれながらに青きかな   俳小星
花つけて冬の垣根の小草かな   杉花
鎌倉や冬草青く松緑   虚子

 さて、最後になるが、冬の草の画像を見てみたい。
 ネット検索してみたら、素敵なサイトが見つかった。「俳句のある風景:冬景色」である。
 ここには、「冬の草」を織り込んだ「木洩日のうすうすとして冬の草」という句などと共に、「後1月ほどで立春を迎えるとはいっても、まだまだ辺りは冬景色の様子が濃かった。」ということで(「 2006年01月10日」の記事)、いかにも今の時期を感じさせる画像が載せられている。

冬草の青味眩しき帰り道
冬草やここを先途と首伸ばす
踏まれても反り返るのか冬の草

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2006/01/30

竜の玉探し

 もうすぐ一月も終わりである。早い! ついこの間、新年を迎えたばかりのような気がするのに。一体、小生、この一ヶ月、何をやっていたんだろう。
 一月の季語表を眺めるのも、僅か。改めて、「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例」を一覧してみると、昨年の一月、この一月と、結構、採り上げたつもりだけど、それでも本年も触れずに年越しとなりそうな季語・季題がまだまだ溢れている。

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← 紫苑さんにいただいたこの画像は、29日、最後の新春パーティ会場のあったホテルニューオータニの2階ロビーに活けられたカサブランカだとのこと。

 ただ、自分の狭く貧しい生活圏の中では、日常、いつの日か馴染みになりそうにないような季語も多い。一頃までなら、ちょっと近所の風景を眺めたら、あちこちに見られたものも、今では廃れてしまった風習も多いようである。
 自分が一人暮らしで、一人、怠惰を決め込んだら、何もせずに日々が過ぎ去っていく…。だからかと思っていたら、気が付いたら、それより早く世の中の変化が進んでいて、自分のほうこそが浦島太郎宜しく、昔ながらの風習・慣習に未練がましく拘っているばかりで、あるいは自分の季語随筆も、時代遅れの頓珍漢な仕儀に過ぎないのかと思えたり。

 それでいて、近頃、コンビニなどでは恵方巻きなどに人気が集まったり、節分にちなむ商品やイベントが目白押しだったりする。マスコミの影響か、それともメーカーサイドの宣伝効果なのか、正月らしいものであっても、特定の風習・慣習にばかり焦点が合わさったりする。
 商品化や商売につながるかどうかが、眼目であるようで、その古来よりの意味合いなど、度外視されているようだ。

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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )の一場面!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)
 
 さて、今日は「竜の玉」を採り上げる。小生、この季語のことは全く知らない。
 竜の玉って、何? 目玉のことをメタファーしている? まさか竜の大事な玉ちゃんのことじゃなかろうし。

「竜の玉(りゅうのたま)」とは、「[冬-植物] 別名⇒竜の髯の実(りゅうのひげのみ)、蛇の髯の実(じゃのひげのみ)、弾み玉(はずみだま)」で、「ユリ科の蛇の髭(じゃのひげ)の実のことで、花後の緑の玉は、冬にはコバルト色に変身し、硬くて良く弾むことから「はずみ玉」ともいわれる。」という。

 要するに、竜(蛇)の髯の実ということで、ある植物の玉のような外見を持つ実のことなのだ。
東京大仏TV:WebLog(東京大仏テレビ:ウェブログ) ひねもす俳句:早春へむかう」という頁を覗いたら、その色鮮やかに青い実の画像を見ることが出来た。
日日光進 1月20日 大寒」によると、「葉を竜の髯というので実を「竜の玉」と呼ぶのだが、この実はそのまま種子」なのだとか。
 ここでは「竜の玉」の画像も載っているし、高浜虚子に「龍の玉深く蔵すといふことを」という句、大石悦子氏に「龍の玉地に喝采のあるごとし」という句のあることも教えてくれた。
 大石悦子氏については、同上のサイト(頁)の紹介されている。

「竜の玉」に別名として「弾み玉(はずみだま)」という語のあることは上で示してある。が、何ゆえなのか。
 この点についてのみならず、「名誉院長の季節の小咄 第45号」(「慈啓会病院のホームページ」参照)があれこれ詳しい。
「ジャノヒゲ(蛇の髭、麦門冬(ばくもんとう))」と題されたこの頁には、「果実は、早く果皮を失って、球形の6㎜位の種子を裸出し、濃青紫色に熟す。弾力があり、子供がはじき飛ばして遊ぶので、はずみ玉ともいう。」などと書いてある。
 薬効について縷々教えてくれているが、ここでは「蛇の髭は、竜の髭、はずみ玉、麦門冬の名とともに、夏の季語であるが、実は、一名「竜の玉」とも云われ、冬の季語である」という末尾の一文を転記するにとどめておく。


 さて、「竜の玉」にちなむ句を探してみよう。
インターネット俳句大賞・八木健選・1月の結果」には「竜の玉」の織り込まれた句が幾つも載っている。
e船団ホームページ」の「日刊:この一句 バックナンバー 2005年12月28日」には、「先輩にひょいとわたさる竜の玉   藪ノ内君代」が載っている。
 坪内稔典氏の鑑賞を読むと、「この句を評した池田澄子は、「ひょいと」渡されたときの動揺の些細さが主役になれるのは「俳句ならでは」、と述べている。同感だ」とあったりする。
「弾力があり、子供がはじき飛ばして遊ぶので、はずみ玉ともいう」らしいが、女の子だと細い紐を通して首飾りにする、なんて遊びもあったのだろうか。

 同じく「日刊:この一句 バックナンバー 2001年1月25日」には、「故郷はいつも夕暮れ竜の玉   今城知子」という句が載っている。
 坪内稔典氏は、「故郷はいつも「夕暮れ」という発想に、おやっと思う意外性を感じたのである。この作者は故郷を思うとき、いつも夕暮れの情景として故郷が思い出されるのであろう。その夕暮れの故郷に素朴な竜の玉がよく合っている気がする」と鑑賞されている。
 句の形式について物まね風に小生が句をちょっとひねると、「ふるさとはいつも夕焼け川向こう」となる。
 故郷の家から十数分ほどのところに神通川があり、その土手から対岸に沈む夕陽を見ながら、小生は感傷に耽ったり、散歩したりしたものだが、17歳の夏8月1日にはやはり夕焼けなど眺めつつ、自分にとっては一大事でもあったある決心を固めたのだった。
(余談だが、同じ頁に載っている、「冬座敷ときどき阿蘇へ向ふ汽車    中村汀女」なる句を以前、採り上げたことがあったっけ(「冬座敷に隙間風が吹く」参照)。)

 他にも「病院図書室研究会 Japan Hospital Library Association」内の「草木花 歳時記」を覗いたら、既に上で紹介した「龍の玉深く蔵すといふことを   高濱虚子」 や、「龍の髭に深々とある龍の玉   皿井旭川」「蛇のひげをかくさう庭の雪古りぬ   吉岡禅寺洞」「陸はもと海なり青き龍の玉   中村苑子」などが載っていた。

 緑濃い葉っぱに隠れがちな、瑠璃色とも言えそうな竜の玉の青さの鮮烈さが句を作る衝動を掻き立てるようである。
明日は臘梅探し」で、「明日は都内を車で流しつつ、臘梅探しと洒落ようか」と書いたにも関わらず実現していないのだが、こうなったら、竜の玉探しも楽しみの一つに加えておこう!

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2006/01/29

高塚、高塚、高塚!!!(副題・ジョーンズの練習日記 1/29の巻)

新年会が終わった。

いよいよ06浅草への活動に向けて始動である。

が、新年会で頑張って、がんばりすぎて、ある種の達成感を感じて、何もする気がなくなってしまった、あなた!
あなたの脳は、正しい選択をしている。

以下、青春出版社刊・米山公啓 著「脳は本当に歳をとるのか」から抜粋。

 

……(なにか目標を達成すると)脳の中では、ドーパミンという物質で満たされる。この物質が分泌されると、人は快感を得ることが出来る。また、意欲をもって行動することができる。ところが、このホルモン物質は出続けるということがありえない。一度大きな快感を得ると、人間はある種の解放感と同時に、うつ的になることがあるのだ。つまり、達成感というものは持続しないのだ。これはノーベル賞を受賞するような大きな発見をした人たちも経験していることだ。夢や目標が達成されてしまうと、なかなか次のことをしようという気が起きないものだ。これは、意欲の低下という現象が起こっているからだ。それは、人間を走り続けないようにする脳の『安全装置』でもあるのだ。


身に覚えのある方、上記を心に留めておくだけで、なんとなく今後のことに対処できると思いませんか?

話題を変える。

リベジ(G.R.E.S.LIBERDADE)に入会して不思議に思ったことの一つとして、「お金がかからない」ことが挙げられる。
こんなに楽しくて、新鮮な驚きの連続なのに、お金がかからないのだ。
もうおおやけになっているので、以下列挙するが:

エンサイオ時のスタジオ(労音十条センター)使用料金。500円
②浅草の出場料金。4千円~2万円。
③新年会の参加料金。3千円。

これは驚異的な安さ。公民館もぶっとぶ安さである。

もちろん、お金のかかるアイテムもあるな。
①楽器。特にスルド。  5万円ほど。
バシスタの背負うタンガ。10万円以上。

以上が主要な項目やな。

うーん、そうは言っても、「お小遣」をためれば、充分まかなえる金額やね。

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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )の一場面!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

それにしても、リベジのメンバーは、ふだんは意外と地味。

① ほんとに「コンビニ弁当」が似合う方が多い。
  弁当片手に、楽器に寄り掛かりながら車座になっている姿が実に
  さまになっている。
  そういえば、昨年の馬橋パレードの際、会場近くの99円ショップで
  大勢のリベジ会員がたむろしているのを見たことがあるわな。

② それと、皆、普段着だと、結構地味に見える。
  皆が集まっている姿を見る度に、
 「あ、あの~、パシスタの方々はいつこられるんですか?」と聞きそう
  になってしまう。

  「今、ここにフルメンバーで大勢来てるんだよ!」と返されそう。
  (そー言えば、最新のネピアでも、これに似た爆笑話があったな~)

③ また、エンサイオが終わり、誰かれともなく、
  「和民、行くぞ~!」と言う人がいる。
  セレブなあたしだったら、ちょっと赤面してしまうセリフ。 
  もし、仮に、ここであたしが、
  「いや、たまには、銀座の『エスコフィエ』や『ルパン』に行きませんか?」
   と、映画「会議は踊る」の若いロシア皇帝のように、さりげない紳士口調
   で言ったならどうか?
   みな、「シーン」としてしまうかな?

  ま、
  「そないなこと言うんやったら、ジョーンズ、おまえがおごれや!」
  と返されて、あたしが脱兎のごとく逃げ出すのがオチやね。

  でも、なんか、でもそんなリベジ会員の姿って愛すべきところがあると思うよ。

さ、練習風景、書こう。いつものようにダンスパート限定。

【講師】 森さん。

もうこの日記では何回か紹介している方である。
新年会では、セクシィながらも芸達者なダンスを披露。
笑いもしっかり頂戴した。教え方の丁寧な方である。

【午前の部。】

①ストレッチ

 あたしは体が固いところを、思いきりさらけ出す。

②トランス(恍惚)の練習。

 心を無にして、曲に合わせて、何でもいい振りで踊る。
 一人、ゾンビみたいに踊っている人がいた。
 この人なりに真剣なのであろう。

ガンザを持ってリズムの練習。

  しゃかしゃか振る。左右に歩いたり、前後に移動したり。

④シフトウェィト、ノペの練習。

  今日のメインディッシュとも言うべき練習。
  とにかく、これはサンバステップの基礎の基礎、というべき。
  このノペを、1時間かけてしっかり練習。
  最初、ゆっくり、だんだん早く。
  森さんは、「曲に合わせ、曲をしっかり聞いて~」と、ノペを聞くように指令。

  今まで、あたしはベテランが大勢いる前でサンバノペを踏むことに遠慮を
  感じていたが、今日は特別。
  曲がりなりにも曲の緩急に合わせて、ノペを踏んだ。
  (ちなみに、今日の午前は、ほとんどベテランはいなかった。)

  ずっとノペを踏んでいると、何となく自信が込み上げてくるものである。
  傍目から見ていると、あたしはいかにもサンバステップを習得しているように
  見えるかもしれない。
  ま、内実はボロボロなのだが。

   とにかくノペ、ノペ。

  ノペを踏む時は、「1,2,3…」と数字でとるよりは、
  「タカツカ、タカツカ、タカツカ」ととった方が実はとりやすい。
  「高塚」さんにお世話になるのである。
  これ、本日の発見なり。
  「高塚、高塚、高塚!!!」である。

【今日の講師のひと言。】

 

日常生活から、ダンスモードに切り替えるためには、一度、心を無にすること。心の切り替えがなければ、踊れない。柔道や空手道でも練習前は、必ず瞑想かあるように。

 ウーン、東洋の心、東洋の神秘、である。
 ちょっと感じいってしまった。

 あと、森さんは、「今日来たメンバーで毎日ノペの練習している人、手を上げて!」
 と聞いたところ、およそ15人いる中で上げたのは、たったの一人。
 あたしは、日々、「飲ん兵衛」の特訓。

 はっきり言えば、BBSやMLで威張るだけのオッサンである。


午後の部。

①二班に分かれて、二人ずつパレードの練習。

 お互いに見つめあって、お互いのダンスに合わせながら踊る。
 あたしの動きに合わせてうごいてくれる優しいダンサーさんもいて助かる。
 男性のMたさんが独創的な動きを見せて、思わず見とれてしまった。

その後のミーティングで、KしゅこさんやKなおさんから、
 「ジョーンズさんの振りは、はっきり言ってサンバの振りじゃないんで、
  ベテランの男性ダンサーの真似をしなさい。」とアドバイスを受ける。

 あたしが「いや~、あの動き、真似できませんよ~!」
  と言っても、「真似すること。」と言われた。

  「学ぶ」とは「真似る」ことなり。

②輪になって、二人ずつ真ん中に出て、ステージでのPRの練習。

 あたしはカリオカステップやらノペ(の真似ごと)を盛んに繰り出して踊った。
 相手に合わせるのは本当に難しい。
 自分の番が終わる度に舌打ちするあたしであった。

③お馴染み!楽器ゲーム。

  楽器を輪になって並べ、椅子取りゲームの要領で、テーマ曲が終わった
  時に目の前の楽器を手にする。
  あたしは、今回もスルドを始めとする楽器を手にした。
  新鮮な経験やね。

④バツカーダ(BATUCADA)。

  あたしは今回意識してノペを使った。
  「高塚、高塚、高塚、高松塚古墳(←ハズシてるって!)」である。
  勉強のため、ベテランのステップを見るが、優雅に平然とその場をこなしている。
  あたしは、気合いこそ入ってはいるが、何と言うべきか、
  「サンバじゃない」のである。
  途中、MルMルさんと目があって踊り合うも、あたしは照れに負けてしまった。

  それにしても、バツカーダは本当に楽しい。
  見学にこられた方は、ぜひバツカーダに参加してほしい。


タイトル : 高塚、高塚、高塚!!!(副題・ジョーンズの練習日記 1/29の巻)
投稿日 : 2006/01/29(Sun) 20:19
投稿者 : ジョーンズ博士。

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アクセスいろいろ

 このniftyによる「ココログ」というブログではある程度のアクセス解析ができる。その一つにどの記事へのアクセスが日に何度あったかがカウントされる、というものがある。
 昨日とか今週などに書いた記事へのアクセスが多いのは一応は分かるが、古い記事へのアクセスが多い場合がある。
 検索に懸かるキーワードも日に3回以上、同じキーワードだったら、どんな検索語彙だったのかも示してくれる。
 よって、そのネット検索に使われた語彙(語彙の組み合わせ)から、ああ、だからこの記事がネット検索での網に懸かったのだなと分かる場合もある。

 以下、少なくとも半年以上以前の日付の記事の中で、今週アクセス回数が多かったものを幾つか挙げてみる。カッコ内は書いた日(アップさせた日)であり、その隣の数字は今週アクセスされた回数):

雪祭り」(February 08, 2005、120~)
すいません…すみません」(June 23, 2005、60~)
火鉢」(December 12, 2004、60~)
猫柳(ねこやなぎ)」(February 07, 2005、約40)
鏡と皮膚…思弁」(June 21, 2005、30~40)
川端龍子の世界へ」(August 02, 2005、30~40)
侘助(わびすけ)」(January 24, 2005、30~)
「かんじき」からアイスマンを想う」(December 16, 2005、30~)
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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )の一場面!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

 断るまでもないが、アクセスがあったということが、即、たとえ部分的にでも読まれたということとは等価ではない。

 参考に、 どのような検索フレーズが多いか、上位のものを列挙してみる:

「日々是好日  意味」「サンバ  写真」「手紙  季語  1月」「すいません  すみません」「鏡と皮膚  感想」「菅原道真  短歌」「鏡と皮膚  谷川渥」「ねこやなぎ  木」 「体温計  水銀」「青写真  原理」「一期一会  意味」「 水仙  季語」
 検索ワードだと、「雪祭り」がダントツで、この一週間だけで134回。以下、「季語 80」「写真 54」「鏡と皮膚 45」(カッコ内はアクセス回数)と続く。
 もっと、旬の話題を扱えばアクセスは増えるのだろうけど、ま、マイペースでやるしかないね。無理せず(但し楽しい無理はするけど)淡々と、が小生のモットーだし。

 竹山 徹朗氏編集配信のメールマガジン「PUBLICITY」(No.1296 2006/01/28土)より抜粋。

『「週刊文春」2月2日号(1月26日発売)p29 「総力取材 野口“怪死”と堀江の“闇”」』として、竹山 徹朗氏は、「イチ・エス証券副社長の野口英昭が1月18日に那覇のカプセルホテルで「自殺」した事件について、それは自殺なのか、という根本的な疑問を、強烈な事実に基づいて真っ正面から報道している。」という。
 週刊誌からは、「電車の中づり広告に載っていた文句のもとになってるリード文だけ載せておこう」ということで、以下の文が紹介されている:

沖縄のカプセルホテルで発見された遺体は、手首、頸動脈、腹が切り裂かれ、内臓がはみ出ていた。チェックインは偽名、住所は堀江社長の出身地が乱れた筆跡で書かれていた。しかもホテルのベッドの上には夫人が「主人のものではない」と断言する血のついたサッカーシャツが残されていたのだ。捜査関係者、暴力団幹部、同僚の証言から浮かぶのは、ライブドアと「闇社会」のただならぬ関係なのである。

 「自殺であるとの根拠は、記事の中ですべて簡単に覆されている。一言で言えば、これは「自殺の偽装」である。」とも。


 今回の「PUBLICITY」で興味を引いたのは他にもあった。
 ライブドア問題を生み出した証券業界の土壌、もっというと市場至上主義の孕む構造的問題。
 ブログ「R30マーケティング社会時評 ライブドア死すともデイトレは死なず」からとして、竹山 徹朗氏は、「たとえ今ライブドアを潰しても、日本の証券市場では短期売買の方が儲かるという(個人)投資家の信念を変えない限り、第二、第三のライブドアは生まれてくる。 ライブドアの存在は、資本市場のプレーヤーの信念と持ちつ持たれつなのだから。」との一文を引いている。

 また、「マスコミが指摘するべきだとしたら、六本木ヒルズ族に対する懲罰」とかそういうことではなく、「デイトレ投資家に最適化するような行動を取る企業が出てくる日本の証券市場の構造をどうにかしろよ」ということなんじゃないのか。今の日本では、楽天なんかまさにそうだけど、株式の長期保有にふさわしい「堅気な企業」になろうとした途端に株価が下落し、M&Aなどを使った成長戦略が描けなくなってしまう。資本市場のせいで、堅気になりたくてもなれないというジレンマがあるのだ。」

(デイトレとは、「デイトレ」とはデイトレーダーの略で、「毎日頻繁に株取引などを手がける投資家」のことだそうな)


 ここに示したのはメールマガジンからの抜粋である。全文は以下に示す竹山 徹朗氏のブログで読めます:

 竹山 徹朗氏のブログ: 【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法
 竹山 徹朗氏: メールアドレス

[ 竹山 徹朗氏のメールマガジン「PUBLICITY」(No.1311 2006/02/15水)でライブドア事件で事件が発覚した直後、(警察側に自殺と断定された謎の死を遂げた)野口英昭氏の死を巡って、野口英昭氏の奥さんの胸中や見解を示す「きっこ」さんとの往復書簡が紹介されていた。
 尚、関連の記事に付いては、 竹山 徹朗氏のブログ【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法】で読めます。 (06/02/15 追記)]

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2006/01/28

『知られざる日本 山村の語る歴史世界』感想

 昨日は営業の日だったので折を見てラジオに聴き入っていた。幾つか興味深いニュースがあったが、その中の一つに、「3万2000年前の木片出土」というのがあった。
中日新聞ホームページへようこそ」に拠ると、「東京都杉並区教育委員会は27日、同区の「高井戸東遺跡」から約3万2000年前の旧石器時代の炭化した大型木片(炭化材)を発掘した、と発表した。同教委は「人が生活した遺跡で見つかった木片としては日本最古。同じ地層から出土した磨製石斧(せきふ)などの石器群も同年代で最古級と分かる」としている」というもの。
 さらに、「区教委によると、調査区域では、地表から約2メートルの層に米粒大の炭化物が集中して見つかる場所が5カ所ほぼ直線上に並び、うち3カ所から炭化材を発見。最も大きい木片は土中に斜めに埋まり、長さ約20センチ、太さ約16センチで、外面が黒く焼けていた」とか。

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→ 27日の午後、都内港区の三田通りにて。市街地の中の市街地。別頁では全く対照的な山村の話題を扱っている。

 日本における旧石器時代の遺跡というと、小生に限らないだろうが、つい、アマチュア考古学研究家の藤村新一氏が引き起こした「旧石器捏造事件」を思い起こしてしまう。
 それは、「アマチュア考古学研究家の藤村新一が次々に発掘していた日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、全て捏造だったと発覚した事件である。日本の考古学界最大のスキャンダルとされる」もの。
「縄文時代以降では、明確な遺構が地下を掘削して造られているため、土の性格から直ちに真偽が判断可能なので、捏造は不可能である。火山灰層の年代にのみ頼りがちであったことなど日本の旧石器研究の未熟さが露呈された事件であった」という。
 まあ、今回のものは、「放射線炭素年代測定を行った結果、木材は約3万2000年前のものと判明」というから間違いないのだろう。
 日本のように木材の遺物の残りにくい土壌にあっては、貴重な発見だし、どのような研究がなされるのか興味深い。
 と同時にこの日本という列島の有史以前の長い時の積み重ねを改めて感じる。

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← Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )の一場面!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

 今、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んでいるが、寝床などでは白水智(しろうず・さとし)著の『知られざる日本 山村の語る歴史世界』(NHKブックス、日本放送出版協会)や藤本 由香里/白藤 花夜子著の『快楽電流―女の、欲望の、かたち』(河出書房新社) などを読んでいた(車中では、池内了著の『科学を読む愉しみ』(洋泉社)を読んでいる最中。3年前の本だが、数多くの科学関連の啓蒙書を知ることが出来て楽しいし嬉しい)。
 このうち、白水智著の『知られざる日本 山村の語る歴史世界』は読了したので、簡単な感想文をメモしておきたい。
(余談だが、今日、図書館へ行ったら、リサイクル本のコーナーに、故・源氏鶏太の本が一冊あった。他の著者の本も数冊あったが、それらは図書館の蔵書にある。けれど、肝心の我が郷里の作家である源氏鶏太の本は書架に見当たらない。取り寄せるのも癪だ。ちゃんと蔵書として備えていて欲しい…。ということで、持ち帰ってもいいということなので、ともあれようやく源氏鶏太の本が手に入ったことになる。)

 レビューに拠ると「日本の国土の大半を占めながら、生活文化水準の劣った後進地と見なされてきた"山"。歴史学から軽視されてきた山村の歴史を生業文化や生活文化の観点から積極的に捉え直す。狩猟、採集、焼畑、手工業生産など山村の「労働」に注目し、山の暮らしを支えてきた"循環"の思想に、右肩上がりの「発展」に疲れた現代社会への処方箋を見出す。気鋭の若手による渾身の力作」とある。
 このレビューのうち、前半はともかく、後半の「狩猟、採集、焼畑、手工業生産など山村の「労働」に注目し、山の暮らしを支えてきた"循環"の思想に、右肩上がりの「発展」に疲れた現代社会への処方箋を見出す」というくだりは、関連する記述が本書の末尾にあるだけなので、やや看板倒れかもしれない。
 ただ、著者の意図するものの一部は、そういった狙いなのだろうが。

 ネット検索したら、著者自身が本書の狙いを語ってくれているサイトが見つかった。
asahi.com:現場踏み地域の姿に光 白水智さん - マイタウン千葉
 その中で、以下のように語っておられる:

 

 海辺の村、山の村。平地の稲作・農村至上の見方にとらわれず、山野川海や、そこに暮らす人と「時代」を研究の場に求めれば、多様なもう一つの日本の姿が浮かび上がる――。
 大学院生時代から、昨年2月に亡くなった歴史家の網野善彦さんに長く指導を受けた。日本中世史が専門で、海辺の集落を歩き、山深い村を訪ねた。

 そう、かの網野善彦氏の指導を受けた方なのである。日本の姿を稲作(水田)中心に見るのではなく(それも一部としてあるとして)、もっと多様で豊かな、但し、ともすると埋もれがちな歴史があるという網野善彦氏らの仕事は小生はずっと注目してきた。
 世界の中でも逸早く近代国家として一定の成功を収めた日本だし、市街地に住んでいると開発に告ぐ開発で緑地など見るも無残なように思えてしまうのだが、それでも航空写真などで日本列島を見ると、依然として国土の3分の2は山であり緑に覆われている。では残りの3分の1は平坦地だから住宅街(工場用地その他)を覗いたら田んぼと畑か、というと、さにあらず。
 指摘するまでもなく日本は有史以前から海洋国(国家)だったのである。四囲を海に囲まれていて、海岸線に数知れない漁場をあるいは港(津)を見出す。昔も今も、である。
 稲作史観、みずほ史観というのか、青々と稲穂の実る水田こそが原風景というイメージがあったりするが、それが一つの典型だとは思うが、決して中心的な原型ではなく、実際には山村風景であり、漁村であり、畑などの地の連なる風景が圧倒的だったことをもっと思っていいのではないか。
 

「世間には『山は貧しい』という観念が抜きがたくある。歴史研究者の世界もそれは変わらない。『米を食べられない山村は貧しい』という書き方が行間に透けて見えるものが多い」

 小生にはそれほど山深くというわけではないが、平地とは言いかねる地に親戚の家がある。曲がりくねった山道を里の町から数分ほど走ったところにある地区。山を苦労して切り開いて平坦な地を得、水田を作り、畑を耕している。実りの時ともなると、トウモロコシにしてもサルに食べられたりすると苦笑する(半ば呆れ、半ば怒っていたような)。家は建て替えられ、当然ながら電気も水道もガスもある。テレビだってあるしエアコンもある。それでも四囲が森や林であり、小生は泊まったことがなく(幼い頃は分からない)、夜の雰囲気を味わったことがないのだが、深い闇の中に散在する家々の明かりがポツポツと灯るだけなのだろう。
 それだって、きっと早い就寝の時を迎え、(街灯があったかどうか覚えていない)山の闇に深く沈んでいくのだろう。

 それが、もっともっと山を深く分け入った先の村に住む人もいる。車でも山里の町から一時間以上も走ってようやく辿りつく地域(車で行けるなら御の字だが)。
 何が楽しみなのだろう。豊かな生活は望めるのだろうか。実るものとて限られているだろうし。
 本だって雑誌だって、コンビニで気軽に立ち読みできないし、買い食いもできないし、カラオケもないし。
 小生の想像力なんて、こんなものだ。
 何が楽しくて(きっと交通の便の悪い)山に住むのか?

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← 我が邸宅…じゃありません。丑三つ時も半時も回った刻限、都内某所の公衆便所。我が仕事にはトイレの在り処の知識が不可欠。真っ暗闇の都会の片隅…。森に囲まれた山村だと、漆黒の闇よりも深い静けさがあるだけ…なのか。それとも闇は意外とお喋り?

 一般世間の間のみならず歴史研究者の間でも、「米を食べられない山村は貧しい」という抜きがたい偏見がある。「山間の鄙びた村」という固定観念。
 が、実際には海辺には魚介類が恵まれてきたように、山には山の恵みがたっぷりとあった。木の実などの山の幸だけではなく、そもそも丹精込めて育てた木材そのものが貴重な資源であり、山で刈られた木材なくして民家も武士の家も建たないし、多くの有名な寺は良材の採れる村、あるいは良材を育てるノウハウを持つ人材を確保しておくことが重要な課題であり資産でもあった。

 鄙びたというイメージは、謙遜であったり(そのように平地の人は山村をイメージしているから、そのような風を装って歓待したりする)、税の徴収の重みを減らすには米が食べられず稗・粟などの雑穀が頼りという、貧しいイメージが恰好の道具立てだったりする(つまり村の人が自ら村は貧しいという建前の文書を作ったりした)。

 山間(やまあい)ということで交通が不便という平地の人の思い込みもあるが、当たっている反面、山には山の人のみが知る、山越えのルートがあり、どんな奥地にも村があって、その村のある道なき道を通らないと日本列島の西と東、南と北は人的・資源的交流・交易ができなかったわけで、となるとその要衝にある村というのは、想像を超えて重要な拠点であり、果たした役割に見合う見返りが蓄積されるのだった。

 山の村が不便であり、日々の食べ物に窮するほどに貧しく、文字が読めず、情報に疎く、というイメージは日本が近代国家に生まれ変わる過程で、人材を国家の意図する分野・地域へ集約するために人がドンドン駆り出され、結果として村の存立が危うくなっていったのだった。
 あるいは市街地の電力確保のためダムが作られ村が湖底(ダム湖の底)に次々と沈んでいった。
 その際、山村の人に有無を言わせぬため、そして市街地の人に山村の人への同情を抱かせないため、鄙びた村よりダムを作ったほうがましという考えに疑いを抱かせないためでもあった。
 この点について、本書は力を入れて記述している:

 

 山村の凋落が始まったのは近代になってからである。前章で見たように、意識として山村を見下す風潮はすでに古くからあった。しかし現実に山村の生活自体が成り立たなくなってきたのは、近代以降のことである。それは、あらゆる社会資本が平地、とくに都市部を中心に整備され、交通体系や流通・生産体系を初めとする、あらゆる政治経済の制度が平地中心にシフトしていったためと考えられる。とくに顕著にその変化が進んだ高度経済成長以後は、もはや山村はいずれ滅び去るしかないような状況となった。いわば時代から置き去りにされたのである。

 団塊の世代なら思い至るだろうが、集団就職の列車、上野駅…。

 日本の歴史を大切に思うなら、(漁業の位置付けの大きさ、また稲作も重要度が高いことは否定しないが)、国土の3分の2を占める山と森の有史以前からの重要性に目を見開く必要があるだろう。

 今はネット検索する余裕がないが、本書『知られざる日本 山村の語る歴史世界』を読んでいて、改めて鈴木牧之の果たした役割の大きさを感じさせられた。
 現代の研究者である白水智氏からすれば問題点は様々に指摘されるのだが、それでも江戸時代の山村で聞き取り調査をした実績は白水智氏も高く評価されている。本書では、鈴木牧之の『秋山記行』が随所で参照されているのだ。
 特に平家の落人伝説のある村についての話題は面白かった。

 レビューで、「狩猟、採集、焼畑、手工業生産など山村の「労働」に注目し、山の暮らしを支えてきた"循環"の思想に、右肩上がりの「発展」に疲れた現代社会への処方箋を見出す」という謳い文句があった。
 ここでは深入りできないが、ビジョンを示す一節を本書から抜書きしておく:

 

近現代に至る過程で、都市を中心とする平地は、伝統的な生活文化を捨て去りながら大きく変貌を遂げてきた。古くは平地にも共通に見られた生活文化のさまざまな要素が、現在では山村にしか残されていない場合も非常に多くなっている。このことは、かつては地勢間の対抗関係であった大と平地とが、現代では同時に時代間の対抗関係としての側面をも内包し、現出させていることを意味している。今や二重の意味で、山村はこれからさきの時代に向けて、過去の生活文化や自然との共存の知恵を見直す際の原点と考えるべきものとなった。マイペースで走っていたランナーが周回遅れで先頭に立ち、ハイペースで走りすぎて今や疲労しきった先進ランナーを引っ張っているような時代が訪れたといえるかもしれない。


 関連する拙稿を掲げておく:

黒曜石から古今東西を想う
栃と餅…スローライフ
はなにあらしの…春愁
横井清著『的と胞衣』

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2006/01/27

明日は臘梅探し

 1月の季語例を眺めてみると、「臘梅」という季語のあることに気づく。
 この頃、車中でラジオをぼんやり聴いていると、時折だが、「臘梅」など、春の到来を感じさせる花の話題が流れてくるようになった気がするし、今日は「臘梅(ろうばい)」をテーマに選ぶ。

 臘梅…。今、寒さの真っ只中。そうなったらあとは遅かれ早かれの春の訪れを待つしかないのだが、まあ、期待半分もあっての話題なのかもしれない。
 それにしても、「臘梅」というのは奇妙な名前である。花の名前に「臘」が冠せられるとは。この「臘」とは何なのだろう。5070

→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )一場面!
(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

YS2001のホームページ」の「季語(ろ) 臘梅(ろうばい)」によると、「花が蝋細工に似て、梅と同じ頃に咲くことから名の付いた中国原産の落葉潅木) [冬-植物] 別名⇒蝋梅(ろうばい)、唐梅(からうめ)」とある。
 臘梅の「臘」は「蝋細工」の「蝋」だというのだ。

わたしの俳句歳時記」の「わたしの俳句歳時記<今週の季語・一句抄> 一月の季語 鈴木五鈴」という頁を覗くと、「臘梅は江戸時代の初めに渡来したとされる」と記されたあと、「枯れ一色となった庭に咲く香り高い花はそれだけでも珍重に値するが、臘細工のような黄色い半透明の花が葉に先んじて枝々に咲き盛るのである」とある。
 ここには、「臘梅を透けし日射しの行方なし   後藤比奈夫」という句が載っていた。いかにも臘細工のような花だからこその観察であり句なのだと感じさせてくれる句である。

冬に咲く花木ロウバイ(臘梅・蝋梅) 佐久市立図書館元館長 依田 豊」を覗くと、「臘梅・蝋梅」の画像を見ることが出来る。
 同時に、「「臘梅・蝋梅」の由来」という項目があって、「『信州の花と実』(山崎林治)による」として、「「臘」は、年の暮れ。旧暦12月の異名「臘月」、つまり新暦1~2月に咲く花の意味です。 「蝋」は、文字通り花びらの光沢が、「蝋細工」のような梅の意味です。」と書いてある。
 どうも、この「臘梅・蝋梅」、名前が災い(幸い?)してか、どこまでも「蝋細工」という形容というか修飾というか表現が付きまとうようである。
 このサイトには、「臘梅に雀の来啼く日和かな   内藤鳴雪」や「臘梅や枝のまばらなる時雨ぞら   芥川竜之介」などの句が掲げられている。

秋桜歳時記」の「秋桜歳時記・季語・冬 臘梅(ろうばい)【唐梅】」には、「臘梅の匂ふ襖を開けて入る   本多勝彦」「臘梅の蕾の数が花の数   倉田紘文」などが載せられている。

閑話抄」にはしばしばお世話になっている。その「歳時記」の中の、「<臘梅(ろうばい)>」という頁がやはりエッセイとしての歳時記として傑出している。遺漏なき記述、だけど簡潔で分かりやすい。
(だったら、最初からこのサイトを教えろよ、という叱責の声が聞こえてきそう。小生は、ネット検索しながら淡々と書いているのだ、というのは言い訳にはならないか…。)
「細く乾いた枝に油紙で作ったような薄い 花弁だけがぽちぽちとついているだけなんです。普通の梅の円い柔らかな花弁と 違って先の尖ったぱりぱりした花弁は、植物らしい瑞々しさがまるで感じられませんでした。これが葉のひとつでもついていればまた違った印象があるので しょうがそれもなく、人工的な匂いさえするような花でした」と、「蝋細工のような…」といった紋切り型の表現は採らない。自らの観察眼が生きていると感じさせる。

 さて、この頁にもあるが、「臘梅がその存在を誇るのは、並ぶものないようなその香りです。梅の芳香とも趣が違う、甘く強い香りですが、決して下卑た甘みではありません。その香りが届けられて初めて、花開いたことに気付かされます」というのである。
 上掲の「臘梅の匂ふ襖を開けて入る」も、まさにその辺りを詠んでいるのだろう。
 その直下の短いが味わい深い記述はリンク先へ飛んでいって読んでもらうとして、【臘梅という名】という項目がまた面白い。
 通説を示した後、「12月の異称に臘月というものがあります。これは古代中国で臘祭という 狩猟祭が行われる月であったことからきた名称(または日。臘日は大晦日の意) だといわれています。臘月または臘日は猟が変化したものです。その臘月に咲く花 だから臘梅だという説もあ」るとしている。
 そして、「歳時記などでは普通「臘」の方を使用していますから、臘月説の方が有力なのでしょうか」とも。

 どうやら、「臘梅」の「臘」がやはりミソのようである。また、「臘月または臘日は猟が変化したものです」という更なる探索をせよと迫るような謎めいた記述も見出される。
 上で示した引用にあるように、臘月は12月の異称だというが、その臘月に咲く花だから臘梅と呼称されるようになったというのは、筋が通っているようでもあり、今ひとつ隔靴掻痒の感が残るようでもある。
 やはり、この花の外見である蝋細工のような感じ、「油紙で作ったような薄い 花弁」の風が「臘梅」という名称の定着を違和感なくさせてきたのかもしれない。

 小生はネット検索して知ったのだが、臘梅というと秩父郡長瀞町にある宝登山なのだとか。ネット検索でも上位に浮上している:
宝登山ロウバイ園

大阪府立食とみどりの総合技術センター 企画部 みどり支援課」の「ロウバイ(臘梅)」という頁も「中国は江西省周辺の産。日本博物史では江戸時代初期に渡来したとされているが、その頃にはかなり広い範囲で栽培されており、もっと古い時代に渡ってきたのではないかともいわれている」などなど、なかなか参考になった。
「臘梅や雪うち透かす枝のたけ   龍之介」「臘梅や薄雪庭を刷きのこす   秋桜子」といった句も載せてある。

熊本大学薬学部」の「熊本大学薬学部-今月の薬用植物 2002年2月」は、さすがに薬学部らしく薬草の観点から蝋梅(臘梅)について説明してくれている。

 明日は都内を車で流しつつ、臘梅探しと洒落ようか。
 それともまだ早い?

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2006/01/26

今日という日…二題

 5年前の今日26日、東京都新宿区の新大久保駅でホームから転落した人を救おうとしてホーム下に下りた韓国人留学生李秀賢さん=当時(26)=と日本人カメラマン関根史郎さん=同(47)の二人が死亡した。
 このニュース聴いた時、小生は仕事中でラジオで情報に接した。当然ながらテレビでの騒然としているだろう駅の模様などは当日は見ることが出来なかったが(この頃には既にテレビは壊れていたかも)、ラジオで伝えられる断片的な情報を聴きながら、あまりに痛ましい事件にどう考えたらいいか分からなかった。

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→ 25日の夜半過ぎ、東京・大田区での火災現場に遭遇。炎の勢いの凄さを改めて実感。(記事末尾の追記を参照のこと)

 とにかく韓国人留学の方の勇気を称えるしかないと、まずは思った。一部、無謀な勇気に過ぎない、救助に赴くならまずは我が身の安全の保障を確保してから、といった批判を後日投げかける向きがあったが、今、目の前に男性が転落しそこへ間もなく列車がやってくるという状況で、そんな悠長なことは言っておられないだろう。
 小生だったら、どうか。恐らく、そういったまことしやかな批判をして、その実、何もしない類の連中と同じで、手を拱いているに過ぎなかったのではなかろうか。
 あの状況じゃ、自分の身だって危ない、どうしようもなかったんだと知れたような言い訳をして助けなかったこと、ただ悲惨な状況を呆然と見ているだけだった自分の行為を理屈で正当化しようと試みるだけだった、のだろう(か)。

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← 同上。火災現場は既に消防車やパトカーなどが一杯だったためか、あとから来た消防車が一方通行路を逆走してきて、そこから現場へ続く一方通行の道に入ろうとするが、狭くて一時立ち往生。その動きを見守っていて、小生の車は身動きが取れなくなった。しばし撮影。

 最初に転落した男性は酔っていて、しかも駅の売店で酒を求め、ふらふらと転落したという。男性はそんな状態だったとあとで分かったのか(つまり、転落した男性の様子を目撃した人が他にもいたということだろうか)、その時点で韓国人留学生の方も脇から見ていて危ないなと思ったのか、その詳しい状況は分からない(小生は知らない)。

 ホームの下には転落した人が緊急避難できる場所があるとか、対処法はありえるのかもしれないが、練習するわけにもいかない。ホームに立った時、ふと、ホームの下を眺めてみたりするが、いざとなったら自分一人なら逃げ込める可能性があるとしても、転落した人を助けて避難するとなると厳しいような気がする。
 いざとなった時、どのような行動が採り得るのだろうか。

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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )画像の一つ!(例によって本文と画像とは関係ありません。一連の新年会の画像を観て頂いているものです。)

「東京都新宿区のJR新大久保駅で2001年1月、ホームから転落した人を救おうとして死亡した韓国人留学生、李秀賢さん=当時(26)=を主人公にした映画が制作される」という情報がネットにも見つけられるし、昨夜、ラジオでも関連の話を聞くことができた。

「映画は日本の「アマナスキネマ東京」と韓国の映画会社の合作で題名は「あなたを忘れない」。国交正常化40周年を記念した交流事業「日韓友情年2005」の記念事業の一つとして認定された」もので、「プロデューサーの野辺忠彦さんは「李さんの生い立ちだけでなく、日韓の若者を取材してその心を浮き彫りにしたい」と意気込んでおり、来春の日韓同時公開を目指し、今秋から撮影に入る予定」という。
 この情報は昨年のもの(ZAKZAK 2005/01/27)なので、映画は順調なら今春にも日韓同時公開のはずだが、残念ながら小生には最新の情報(公開予定など)を見つけることが出来なかった。
 映画を通じて、ホームでの状況が分かるだろう。

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→ 日比谷公園脇にて休憩・仮眠。ほぼ同じ頃、反対側の東京地検には有名人の取調べ…?

 今日になって、テレビは「東京都東大和市の自宅で、女性10人と同居している男から脅されたとして、別の女性が被害を訴えていた事件で、警視庁捜査1課と東大和署は26日未明、脅迫容疑で同市芋窪、無職渋谷博仁容疑者(57)を逮捕した」という一夫多妻男事件や、ライブドア関連の話題が席捲していて、韓国人留学生の話題は全く流れてこない(あるいは、小生が見逃しているだけ?)。

 ホーム転落事故については、国土交通省から「鉄道駅のホームからの転落事故に対する安全対策の整備計画等について」という計画概要が発せられている。
1日も早く全駅にホームドアー設置を」という要望が「福祉ウォッチングの会」などから出ている。つまり、「視覚障害者の方は日々恐怖を感じながら、利用を余儀なくされている。鉄道の駅の多くは、柱や障害物のためつまずいたり、駅員が少ないため転落した人がいても、列車をすぐに止めることができない。現状ではだれもが、死亡することと背中合わせに電車を利用しているが、あってはならないことである。 今回の事故が、利用者の過失としてすまされず、鉄道の駅にはホームドアーがあることが当たり前になり、だれもが安心して電車を利用できる契機になることを願ってやまない」というのだが、ホームドアーの設置の実現は依然として厳しいようである。

 男性がそもそも酒に酔っているのに、さらにホームの売店で酒を求めたという。このことについては、「駅構内における酒類販売自粛等の検討状況」という項目が計画の中に謳われている。高速道路のサービスエリアでの種類販売が問題になっていたが、駅の現状はどうなのか、マスコミ関係の人は今日の日にこういった関連をレポートしてもらいたいものだ。

 小泉首相の靖国参拝で中国や韓国などとの関係が冷却化し、アジアのみならず多くの国での日本の信義が貶めらている中、経済界に限らず民間の間での地道な交流が絆を深めている。
 一部の奇矯なリーダーの言動だけが日本の実情だと思われては日本人として恥である。
 小泉首相の靖国神社参拝を非難しているのは中国や韓国だけだと首相は豪語するが、日本の植民地支配で悲惨な目に遭ったのは両国だけではなく、東南アジアをはじめとする広い地域に及ぶ。中国や韓国は内情もあるのだろうが、敢えて靖国参拝問題を持ち出す傷つけられた誇りの回復への意思があるのだろうし、意思を示す国力もあるのだろう。
 東南アジアなどの政府筋は、日本との関係重視から口にしないだけで、民衆の中に渦巻くものは表に出てこないのではないか。

 今日26日は「文化財防火デー」の日だという。京都市東山区の清水寺や奈良県斑鳩町の法隆寺で消防訓練、防火訓練があったとか。

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← 25日の夜半過ぎ、何処かの学校脇。塀に刳り抜いた丸い穴から何かの樹木の小枝がニョキッと。傍にある怪しい影は小生だ!

 今日26日、宗祖・最澄が天台宗を開いて1200年を迎えた。
開宗1200年祝い法要 天台宗総本山の延暦寺」という記事を覗く。
「雪が舞う中、午前11時すぎ、導師を務める緋色(ひいろ)の法衣を着た渡辺恵進座主ら約60人の僧侶が国宝の根本中堂に入堂。花びらをかたどった5色の紙片を散らして仏を供養する散華に続き、法華経の一部を唱え、開宗1200年を祝った」とか。その画像も今なら見ることが出来る。
「比叡山で修行していた最澄は唐への留学後の806年1月26日、勅許を得て天台宗を開いた。延暦寺は法然、親鸞や日蓮、栄西、道元ら鎌倉仏教の創始者が学んだほか、平家物語など文学にも影響を与えたとされる。」というが、怠慢な小生は、最澄というと、「日本の名著」第3巻の『最澄・空海』(福永光司・責任編集、中央公論社、今は中公バックスに所載)の中で学生時代に触れたきりである。
 しかも、若いときは屹立した天才に魅せられるもので、空海の本を読みたくて入手したような記憶がある。
 そうはいっても、比叡山延暦寺は「天台密教の拠点として、平安時代以後、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など多くの高僧たちを輩出し、今もなお修行道場として厳粛な雰囲気に満ちている」というし、高校時代、親鸞に傾倒した(といっても、最初は倉田百三作の『出家とその弟子』 (岩波文庫)の中の親鸞、ついでは『歎異抄』の親鸞に接し、触れた気分になっていただけだった。『教行信証』を曲がりなりにも読んだのは学生になってから)、その師である法然への関心と併せ、いつかは比叡山に登りたいものと思ってきた。

 その願いが叶ったのは、94年の7月だった。当時、形成の手術のため京都の病院に入院していて、明日にも退院ということで、退院を祝う意味もあって、タクシーに乗って比叡山を上った。
(翌年の95年2月の時は、退院時に銀閣寺や北野天満宮などへ赴いた。退院し会社に復帰した当日に首を申し渡された。誕生日の翌日の格別なプレゼントだった。)
 延暦寺の境内をあちこち歩き回ったはずだが、だからといって思慮深くなるとか、信仰心が深まるというわけでもなかったけれど、物書きに徹するという気持ちだけは自分なりに再確認していたものだった。

 今頃になって認識を新たにしたのだが、「比叡山には延暦寺という名の建物はなく、比叡山そのものが延暦寺を表わしている」という。


 仏教関連の拙稿としては、以下がある:
出発は遂に訪れず…廃仏毀釈
廃仏毀釈補遺


[この記事を書いて間もなく、以下のサイト様よりトラックバックを戴いた;
栃木県のかたすみから
今日は文化財防火デー。世界遺産である日光の社寺では東照宮、輪王寺、二荒山神社が持ち回りで毎年実施しています。そもそもこの文化財防火デーは1949年1月26日に法隆寺で金堂から出火したことに起因します。この火災で国宝である十二面壁の大部分が焼損しました。
ヨーロッパの文化財と異なり、大部分が木造建築物である日本において、火災は命取り。このような日頃からの練習が大切であることを再確認させられました。
」という。(記事上梓当日夕方追記)]

[「住宅など7棟焼け2人がけが 東京・大田区 (朝日新聞) - goo ニュース」(2006年01月26日(木)10時43分)によると、「26日午前0時45分ごろ、東京都大田区中央1丁目の木造2階建て住宅から火が出たと、近くの住民が119番通報した。火は隣接する住宅や店舗などに燃え移り、計7棟約600平方メートルが焼けた。大森署によると、この火事で、出火元とみられる住宅に住んでいた50歳代の女性と孫の男児(7)が煙を吸って手当てを受けている。」とか。

 ちなみに、「火災死者、例年の1・5倍 1月、厳冬の影響か (共同通信) - goo ニュース」(2006年 1月25日 (水) 18:35)によると、「今年に入ってからの住宅火災による死者数は18日現在で157人に上り、過去3年の同時期の平均に比べ1・5倍に急増していることが25日、総務省消防庁の調査で分かった。」 
 また「消防庁は「例年より寒く、大気も乾燥しているため火災が起きやすいのではないか」と分析。火災警報器の設置などの対策を徹底するよう全国の自治体に通知した。」とか。(記事上梓当日夜追記)]

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2006/01/25

ヴィヴァルディの四季と日本の四季(前編)

 クラシック音楽で小生の好きな曲にヴィヴァルディの「四季」がある。本当のクラシックファンなら誰の演奏とか誰の指揮によるものとかという拘りを持つのだろうが、小生はそこまで深入りはしていない。とにかくこの曲が架かると嬉しいのである。
 この曲にはささやかな思い出がある。まあ、学生時代に友人の影響を受けてクラシック好きになったのだが、ブラームスやメンデルスゾーン、チャイコフスキーそしてモーツァルト、バッハ、シベリウス、ワーグナーと聴いていったが、ヴィバルディは敬遠していた。
 恐らくは学生になる前、田舎で暮らしていた頃、ヴィバルディの「四季」は皇室アルバムという番組のテーマ音楽に使われていたのである。小生自身は、この番組には全く興味がなかったが、父が日曜日の朝には好んで見ていたので、番組内容より、とにかくテレビが見たかった小生は、朝食後の間もない時間帯ということもあり、テレビの音声をBGMに漫画の本を読んでいたような記憶がある。
 ヴィバルディの「四季」にも皇室アルバムにも罪はないのだが、ミスマッチな感じがあって、結果的にこの曲に妙な色合いが付いてしまって、とうとうバロック音楽全般まで敬遠するようになってしまった。

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→ Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )画像の一つ!

 が、離郷して二十数年、会社を首になり失業保険で暮らしていた頃、プールと図書館とレンタルショップ通いで日々を過ごしていた(自宅では読書と執筆)。
 レンタルショップではクラシック音楽を借りまくっていた。手元不如意で買うのは躊躇われていた分野もレンタルで借りて、ハイドン、ヘンデル、アルビノーニ、そしてヴィヴァルディとテープをダビングして夜毎日毎聴いていたのだった。
 友もいないし、誰も来ない部屋で、隅っこには引っ越してきた当初購入した鉢植えの観葉樹が未だ露命を繋いでいて、その緑が小生を慰めてくれていた(壁にはアングルの「泉」と、入居した90年頃に入手した杉本彩さんのセミヌードカレンダーの表紙が貼られたまま。当時は未だセミヌードだった。それが今じゃ…)。
 約一年と半年の間に随分とダビングしたが、今も後ろを振り返るとテープたちがもう一度聴いてくれよと待っている(カセットが故障していて聴けないのだ)。
 ヴィバルディはいろんな曲を聴いたが、結局、「四季」で落ち着いた。郷里にいた頃番組で蒙った色合いも薄らいでいた。その「四季」も、イ・ムジチ合奏団などいろんな録音で聴いたものだった。

 この曲はポピュラー過ぎて、クラシックファンだと好きだと公言するのは憚られる向きがあるようだ。「後年20世紀ロシアの大作曲家ストラヴィンスキーが彼を称して、「同じ協奏曲を500曲も書いたもっとも退屈な作曲家」と評したのは有名な話」らしいし。
 その点、何事にも初心者の小生、単純素朴に好きな曲なのである。
 随分とヴィバルディらに慰められたのも紛れもない事実だし。

 クラシックや、ましてバロック音楽に通暁しておられる方なら常識に類することなのだろうが、「四季 (ヴィヴァルディ) - Wikipedia」を参考に、この標題音楽の主に音楽内容(表現が意図されている内容)の構成を見てみよう。

 その前に、「「四季」(イタリア語:Le Quattro Stagioni、英語表記はThe Four Seasons)は、イタリアの作曲家アントニオ・ヴィヴァルディによって作曲された、12曲から成るヴァイオリン協奏曲集《和声と創意への試み》 (Concerti a 4 e 5 "Il cimento dell'armonia e dell'inventzone") 作品8の内、第1曲から第4曲までの4曲「春」「夏」「秋」「冬」に付けられた総称である。ただし、ヴィヴァルディ自身による命名ではない。」(「四季 (ヴィヴァルディ) - Wikipedia」より)といった説明を施しておく必要あるのだろうが、そんな野暮な説明は音楽ファンなら今更の説明だろうし、そうではない方には右の耳から左の耳の事柄なのだろう。
 
 あるいは、「アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)はバロック末期の作曲家。イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのヴィーンで没した。10歳のとき、サン・マルコ大聖堂 (Cappella di San Marco) の オーケストラにバイオリニスト見習いとして入団したのは、理髪師でバイオリニストでもあった父親の影響があったと思われる。15歳より修道院に入り、25歳に彼は司祭に叙階される。そのことと、彼が赤毛であったことから赤毛の司祭と呼ばれるようになる。彼は喘息を煩っており、ほとんどミサをあげることがなかった。司祭になると同時にヴェネツィアの女子修道院ピエタ(Ospedale della Pietá) でバイオリンを教えはじめ、2年後には作曲と合奏を教えるようになる。その後、数多くの作曲をし、各地を演奏旅行して回った。」(「アントニオ・ヴィヴァルディ - Wikipedia」より)というのも、読み飛ばされる事項に過ぎないのだろう。

 ヴィヴァルディは協奏曲集なども売れていて人気があったのに、死んだ時には一文無しだったと言われる。
 埋葬された墓地も貧民墓地(共同墓地)だったという。
 この点については、「バロック時代のイタリアの作曲家、アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741)についてのサイト」だという「赤毛の司祭」というサイトが情報豊富で助かる。
 その「BBS 5 「生涯・人間像」掲示板」の中に、サイト主であるカーザヴェーチャさんの発言として、(トールバットの「改訂版への注」からとして)以下のように書いてある:

「最近の研究で、ヴィヴァルディがアンナ・ジローを伴ってウィーンを訪れようとした一番の動機は、コッラルト伯爵がパトロンの首位にいるケルントナー・トア劇場に、自身が監督を務めて自作のオペラを一本ないしそれ以上かけることにあったらしいということが分かってきた。ヴィヴァルディが滞在したケルントナー通りの宿泊先は、劇場が巨匠(マエストロ)たちのために普段用意してあったものだった。1740年10月20日の皇帝カール6世の予期せぬ死去により、次のカーニヴァルまで服喪期間となり、ウィーン中の劇場が閉鎖となった。この事件がヴィヴァルディの計画を狂わせたことは想像に難くない。そして、収入減がヴィヴァルディの死を早めたとも言える。1742年のカーニヴァル期間中に、ケルントナー・トア劇場はヴィヴァルディのオペラ、『メッセニアの神託』を舞台にかけたが、それは本来なら前の年のスケジュールに組まれているはずのものだった。」


協奏曲第1番 ホ長調、RV.269「春」(La Primavera)

 アレグロ

春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら戻って来て祝っている、水の流れと風に吹かれて雷が響く。小川のざわめき、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立て黒い雲が空を覆う、そして嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。鳥の声をソロヴァイオリンが高らかにそして華やかにうたいあげる。

 ラルゴ
牧草地に花は咲き乱れ、空に伸びた枝の茂った葉はガサガサ音を立てる。ヤギ飼は眠り、忠実な猟犬は(私の)そばにいる。弦楽器の静かな旋律にソロヴァオリンがのどかなメロディを奏でる。ヴィオラの低いCis音が吠える犬を表現している。

 アレグロ(田園曲のダンス)
陽気な田舎のバグパイプがニンフと羊飼いを明るい春の空で踊る。

協奏曲第2番 ト短調、RV.315「夏」(L'Estate)

 アレグロ・ノン・モルト-アレグロ

かんかんと照りつける太陽の絶え間ない暑さで人とヤギの群れはぐったりしている。松の木は枯れた。カッコウの声が聞こえる。そしてキジバトとスズメの囀りが聞える。柔らかい風が空でかき回される。しかし、荒れた北風がそれらを突然脇へ追い払う。乱暴な嵐とつんのめるかも知れない怖さで慄く。原譜には「暑さで疲れたように弾く」と指示がある。ヴァイオリンの一瞬一瞬の”間”に続いての絶え間ない音の連続が荒れる嵐を表現している。

 アレグロ・プレスト・アダージョ
彼の手足は稲妻と雷鳴の轟きで目を覚まし、ブヨやハエが周りにすさまじくブンブン音を立てる。それは甲高い音でソロヴァイオリンによって奏でられる。

 プレスト(夏の嵐)
嗚呼!彼の一番ひどい恐怖は正しかった!上空の雷鳴と巨大な雹(ひょう)が誇らしげに伸びている穀物を打ち倒した。

協奏曲第3番 ヘ長調、RV.293「秋」(L'Autunno)

 アレグロ(小作農のダンスと歌)

小作農たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒が惜しげなく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。

 アダージョ・モルト(よっぱらいの居眠り)
大騒ぎは次第に弱まり、冷たいそよ風が心地良い空気を運んで来てすべての者を無意識のうちに眠りに誘う。チェンバロのアルペジオに支えられてソロヴァイオリンは眠くなるような長音を弾く。

 アレグロ(狩り)
夜明けに、狩猟者が狩猟の準備の為にホルンを携え、犬を伴って叫んで現れる。獲物は彼らが追跡している間逃げる。やがて傷つき獲物は犬と奮闘して息絶える。

協奏曲第4番 ヘ短調、RV.297「冬」(L'Inverno)

 アレグロ・ノン・モルト

身震いして真ん中で凍えている。噛み付くような雪。足の冷たさを振り解くくために歩き回る。辛さから歯が鳴る。ソロヴァイオリンの重音で歯のガチガチを表現している。

 ラルゴ
外は大雨が降っている、中で囲炉裏で満足そうに休息。ゆっくりしたテンポで平和な時間が流れる。

 アレグロ
私たちは、ゆっくりとそして用心深くつまづいて倒れないようにして氷の上を歩く。ソロヴァイオリンは弓を長く使ってここの旋律を弾きゆっくりとそして静かな旋律に続く。しかし突然、滑って氷に叩きつけられた。氷が裂けて割れない様、そこから逃げた。私たちは、粗末な家なのでかんぬきでドアを閉めていても北風で寒く感じる。そんな冬であるがそれもまた、楽しい。


 これも「赤毛の司祭」からの情報だが、「ヴィヴァルディの作品8「和声と創意への試み」の第1~4番は一般に「四季」として知られています。この4曲には、それぞれ14行からなるソネット(Sonetto)が付けられていて、曲はこのソネットを忠実に音楽で描写する方法で書かれています。」とか。
 それら「「四季」のソネット」については、さらに、「このソネットは作者不詳で、一説にはヴィヴァルディ自身が書いたものか?とも言われています」といが、リンク先を覗くと、そのソネットを読めるのでどうぞ、行ってらっしゃい!

 さて、である。ここからが本題なのだが、我が日本は世界的な気象異常が生じつつあると言われ、日本もその例外ではないとも言われつつも、依然として四季のある風光明媚なお国柄であることは誰しも依存のないところだろう。
 で、ヴィバルディの「四季」の顰(ひそ)みに倣うわけではないが、仮に敢えて日本の風景・情景を当てはめたなら、一体、どんな構成内容になるだろうか。ちょっと試してみたくなるじゃありませんか。
 でも、今日はもう疲れた。日を改めてトライしてみたい。

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2006/01/24

稲毛海岸駅はどこにありますか?

 過日のことである。
 その日は小生に限らず営業的には概して暇だった。こんな日は、とにかくコツコツと仕事するのが一番。
 でも、回数を重ねても売り上げが飛躍的に増大するってことはない。どうやっても、基本料金の660円の倍数に留まる。
 ただ、仕事が終わって営業所に戻り、売り上げを計算すると、近場のお客さんをこまめに拾ったことが結果的に大きな差になってくる。たとえ日に一回か二回でもそうしたお客さんを見逃さずに乗せておくと、月に12回の営業として、一万円の営収(営業収入=ここから会社の徴収分が4割ほど引かれていく…)の上乗せがなり、足きり金額を越えるかどうかの瀬戸際の時に大きな意味合いを持ってくる。

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→ 1月23日、内堀通りの交差点。信号待ちを利用して。車内から撮っている。窓ガラスに腕もデジカメも映っている。快晴だ。が、寒い。前日の雪が日光にも溶けない。

 足きり金額というのは、会社としてタクシードライバーに課す最低限の売り上げで、これを越えると営収の6割が運転手の取り分となるのだが、下回ると5割が会社へ。
 足きり金額を越えるかどうかは、1割の差であり、大きい!
 月の締めが近付き、特に最後の日ともなると、越える見込みがあるか、既に越えているか、あるいはまるで見込みがないかで気分が相当に違う。

 余裕で越えているか、全く越える見込みがないなら、いずれにしろ月12回の営業の最後の日は、まあ、通常通りのペースで営業するが、問題は月の12回目の営業が足きり金額達成ギリギリの日である。
 もう、プレッシャーである。具体的には足きり金額は48万円である。11回で45万まで売り上げていたら、最後の日は3万円でいいわけだから、余程、サボったり、トラブルに巻き込まれたりしない限りは、幾らなんでも越えるだろうと判断できる。

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← Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )画像の一つ!

 これが11回目までで44万だったらどうか。
 好況の折だと、一日で4万円の売り上げなど軽がると達成できるのだが、依然として構造不況(規制緩和でタクシーの台数が飛躍的に増えてしまった。世の中の景気に敏感に反応してタクシー業界も好調となるという過去にあったかもしれない図式は壊れてしまった。ある元通産省の役人で作家となった、団塊の世代などの流行語を流行らせたことでも有名な人の託宣だと、タクシーは今や年金生活者の小遣い稼ぎの業界となったとか!)の最中にあるタクシー業界にあっては、4万円というのは油断ならない数字なのである。

 そんな日は4万円が高い高いハードルに感じられる。そんな日に限って流しでのお客さんに出会わない。走っても走っても街頭にお客さんの姿はなく、あっても、他のタクシーに先を越され涙を呑む。
 仕方なく駅などに付けて順番待ちとなるが、その空車の行列の長いこと。
 確かに順番待ちしたら確実にお客さんは得られるが、待機している間の時間は、つまりは空白の時間となる。営業時間でありながら、ひたすら待つだけの営業していないかのような時間帯となってしまうのである。
 つまり、みすみす貴重な時間を捨て去っているようなものだ。 
 とはいっても、不況の延長にあっては、流しでダメなら仕方がないのだ。


 ああ、こんなことなら、さっき見逃したお客さんを乗せておけばよかった。そういえば、先日も乗せそこなった。前のタクシーが空車だから、あーあ、また先を越されたかと思い、どうせその前のタクシーが路肩のほうへ車を寄せるだろう、右後方などの安全確認をして、さっさと前へ行ってしまおうと、若干アクセルを強め前へ…。
 すると、なんだ、前のタクシー、客を無視しやがった。お客さん、手を上げてるじゃないか、なのに、なんだよ。だったら、オイラが乗せたのに。悔しい。
 路肩で手を上げているお客さんからしたら、2台(あるいはそれ以上)の空車のタクシーが乗車拒否をして走り去ったふうに見えるだろう。またタクシーの印象が悪くなる。
 
 違うんだ。オイラは乗せたかったんだ。でも、先行している空車があったから避けていっただけなんだ。戻れるならバックして戻りたいけど、もうバックミラーには、数十メートルも後方にお客さんがポツンと映っている。

 そうして午前中から営業を開始して夜半近くになっても目標の金額がはるか彼方だったりする。あーあ、今月もダメか。帰省しちゃったしな。12回全部頑張っても足きりがやっとなのに、1回でも休んだら無理なのは火を見るより明らかなんだけどな。でも、今月は今日、4万行ったら、足きりを越えるんだ…。悔しいな。
 流してもお客さんが見つからず、駅で長い空車の列の最後尾に付く。食事をする時間が惜しくて、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、待機する時間を潰している。持ち込んだ本を読んだりもする。余裕に見えるかもしれないが、待っているだけじゃ、ラジオを聴いているだけじゃ能がないし。
 さてさて、やっとオイラの順番がやってきたよ。バックミラーでは二人組みがふらふらと。お、お酒が入ってるな。この時間だと銀座や新橋には遅すぎる。風体(ふうてい)からして六本木じゃなさそうだし。帰宅だろうな。
 でも、この駅だと近場に決まっている。ま、いいや。このお客さんを何処か近くの目的地にお届けしたら、何処か繁華街近辺を回ってみよう。
 と、乗り込んできたのは一人。相方とさよならしてしまった。そりゃそうだ。帰宅となったら、方角が違うという可能性のほうが大だし。
 すると、そのお客さん「千葉へ行ってくれるか」という。
「(ち、ち、ち)千葉!ですね」と冷静に(正確に言うと冷静を装いつつも嬉しさに飛び上がらんばかり。でも、車内で飛び上がったら頭、ぶつし)応えるオイラ。千葉方面は久しぶりじゃ。そもそもロングが久しぶりだ。
「稲毛海岸だ。分かるか」
 分かるかと訊かれて分かりませんとはプロのドライバーとして言えない。
「大丈夫ですよ」(いいのか、そんなこと言って。)
「えっと、高速を使って。」
「ああ、湾岸でな」
「降りるのは…」(分からないのです。教えて、という意味もあるが、念には念を入れておく。お客さんの都合で通常降りるだろうと思われる出口を使うとは限らないのだ。そもそもロングだからって高速を使うかどうか頭から決めてかかれない。但し、聴くのはいいが、あくまで言外にこっちは分かっちゃいるんだけど、念のため聴くんですよ、という雰囲気を醸し出すのが大切。でないと、知らない新米のドライバーだと思われ、降りられてしまう可能性がある。いずれにしても、分からない場所であろうと、地図を見ながら行っていいですか、という姿勢が肝要なのだ。)
「習志野で頼む。」
「習志野ですね。」

 ここまではよかった。そのあとの一言が不安の念を掻き立てた。

「稲毛海岸駅だ。自転車が置いてあるんでな。自転車で帰るんだよ。駅に着いたら、起こしてくれ。」
「はい、分かりました。」と答える。
 答えたはいいが。稲毛はイメージできても、稲毛海岸駅なんて行ったことない。分かんない。
 ラジオをオフにする。運転に集中するためとお客さんがお休みするのを邪魔しないためである。
 習志野インターで降りたことは何回かある。一日に二度、流しで習志野インターへ向かった事だってある。
 ただ、久々なのが不安。下手すると数年ぶりだ。橋本(竜太郎)不況に97年8月に突入して以来、さらにタクシーの規制緩和(つまりタクシーの車両数増大)がタクシーの構造不況を加速して以来、ロングは週に一回あるかどうかになってしまった。
 習志野出口の風景も思い浮かばない(通常、運転手は、お客さんに目的地を告げられると、そのルートを瞬時に絵に描く。交差点の光景、曲がり角のコンビニ、ガソリンスタンド、ビル等等。
 逆にあまりなじみのない目的地だと脳裏に何も描けず不安である。緊張する。まして、習志野出口で降りるのはともかくとして、稲毛海岸駅が降りてからどの方角にあるか分からないのだ。大概、高速の出口を出ると幹線道路につながっているのだが、右方向と左方向に枝分かれしている。そのどちらかを選んで走る。
 習志野出口の光景はどうだったっけ。ダメだ。全然、光景が浮かんでこない。数年も前のことじゃ、無理だよな、オイラには。
 道は空いている。渋滞には全く嵌らなかった。正直なところ、渋滞したら、地図などを見ることもできるのだが、幸か不幸かスイスイと走ったので、呆気ないほど早く習志野出口に至ってしまった。以前なら料金所で清算する際に料金所の小父さんに尋ねることもできたが、今は文明の利器ETC装置がある。無人の料金所ボックスの脇を二十キロ程度のスピードでさっさと通り抜けていくだけである。
 ETC装置ができて便利になった反面、不便あるいは危険になったこと点が幾つかあるが(特にオートバイに関して)、料金の支払いの際、小父さんにちょっと道を尋ねるなんてことができなくなったのは痛い。

 習志野出口を出た。
 出たのは当然である。出ないことには先に進めない。が、オイラ、稲毛海岸駅が分からないのだ。幸いなことに出口を出て幹線道路に合流しても、道が枝分かれしていないので、右と左のどっちの道を選ぶかという悩みに直面する事態は避けられた。
 が、それも一時しのぎに過ぎない。案の定だ。前方を見ると、幹線道路が立体交差になっている。このまま直進すべきか。立体交差する上の道へ上がるべきか。あるいは可能性として稲毛海岸駅が実は習志野出口を一旦、出てから所定の交差点でUターンしないと行けないということだって考えられる。
 どうする。さあ、どうする。さあ、さあ。
 そんなせかさないでよ。
 お客さんは寝入っている。起こすのはまずい。
 こんな時は、過去の経験からして交差点の手前で車を止め、地図を見る。それしかない。都内の地図なら詳しく記載されているが、他県だと大まかな地図しか載っていない。都内の地図と同じほど詳しい地図を千葉、埼玉、神奈川と所載しておくのも困難である。
 こんな時はカーナビが欲しくなるね。
 老眼鏡を取り出し、地図を見る。車を止めている間も時間料金が嵩む恐れがあるので、できれば数十秒のうちに道を割り出し、さっさと走らせないといけない。
 稲毛海岸駅はと…。
 なるほど、位置は分かった。でも、大まかな地図なので交差点の名前が分からない。どうやら浅間神社交差点があるらしい。交差点のしるしである信号機のマークがないが、きっと信号機のある交差点なのだろうと推察する。
 心臓はドキドキ。おおよその方向は分かったが、曲がる交差点に確信が持てない。あ、信号機のある交差点だ。どうする、曲がるか曲がらないで、もう一つ先の交差点がいいのか。
 でも、数十メートル先の交差点の看板を見ると、浅間神社何とかと書いてあるようだし(近場はともかく遠目は自信がある)、曲がることに決断。
 ああ、でも、この交差点でいいのかと、右折のレーンに入って対向車の行き過ぎるのを待ちながら不安の念で一杯。一箇所でも交差点を間違えると、馴染みのない町だと、住宅街などに迷い込んで北も南も分からなくなる恐れがある。そんな苦い経験がないわけではない。
 あれ、警察署がある。地図には載ってなかったぞ。まずい、不明だと感じたらすぐに車を止める。地図を見る。やはりだ、地図には警察署なんて載ってない。というか、大まかな地図だから、余程大きな建物でないと載せるはずもない(警察署が小さいかどうかは分からないが)。
 と、やや前方にコンビニが見えるではないか。困った時のコンビニである。開いてて良かった、のコンビニではないか。
 車を止めて、コンビニに駆け込んで稲毛海岸駅への道を尋ねる。「二つ目の信号を左へ」と教わり、復唱する。
 二つ目だな、二つ目を左に、と、なんだよ、二つ目の信号はT字路で、右折しか出来ないジャン。
 ああ、右折と左折を聞き間違えた。そんなはずない。じゃ、店員さんが言い間違えた。それは大いにありえる。実際、お客さんを乗せて住宅街を走る際、最後はお客さんの指示を仰ぐことになる。なんたって住宅街のお客さんの家まではいくらなんでも分かるはずもないし。
 そんな時のお客さんの「そこを右へ」という指図はうっかり鵜呑みにすると危ない。右という言葉と実際の右方向が合致しているとは限らないのだ。右と左の言い間違えは経験上からして実に多いのだ。
 だから、小生はお客さんが右と言ったら、かならず「右ですね」と復唱すると同時に手で右を指す。言い間違えがあれば、小生の手の向きを見て、「ああ違う、左でした」となるのだ。

 さて、右を曲がるべきか。でも、小生はコンビニの中で信号を左へと復唱して確認している。それと地図を見た際の方向感覚からして左が正しいと告げている。
 もう、真っ暗闇の中、ヘッドライトが小生の不安さを示すようにやっとのことで道を照らし出している。
 走る。でも、駅が見えない。ああ、やっぱり間違いか…、と思った瞬間だった。スーパーの看板が淡くライトアップされている。某大手スーパーの店舗が見えたってことだ。スーパーがあるってことは駅があるってことだ。
 でも、油断は禁物である。駅を一つ間違えているってことだってありえる。それに目的地はJRの稲毛海岸駅だが、京成の稲毛駅だって事だって最悪、ないわけじゃない。
 車は次第に駅に近付いていく。駅前だってことは間違いないようだ。それまでの団地群の風景とは明らかに違うし。
 問題は駅の名前だ。老眼の目を凝らして(つまり遠目を利かせて)駅名を探すが、改札口はビルの陰になって今いる交差点からは窺い知ることができない。分かるのはまっすぐ進むと駅の裏手の駐輪場の辺りになる。大きなロータリーに行くには右折しないといけないということ。
 右か左かの分岐点。そんな時は無闇に突き進まないこと。
 えーい、あとはお客さんが頼りだ。
 車を路肩に寄せる。
「お客さん、大丈夫ですか。駅ですよ。」
「ん? んん?」
「駅ですよ。えっと、どっちに曲がりましょうか。」
 オイラ、不安である。お客さんがちゃんと起きてくれるかどうかも不安だが、さて、目覚めてくれたとして、ここは何処だとか、駅が違うぞ、などと言われる可能性が未だ残っている。
「ああ、そっちだ。まっすぐやってくれ。」

 おおーである。快哉を叫びたい気持ちだ。間違いなく来たんだ。ここでいいんだ。しかも、どうやらお客さんの自転車が止めてある駐輪場の真ん前に来ることができたではないか!
 カードで支払いを済ませる。
 あとは一路、東京へ。運転手がホッと息を抜ける僅かな貴重な時。お客さんを目的地に無事に下ろし、東京へ戻る回送での走行の時間は、休憩時を除けば、リラックスできる唯一の時間じゃなかろうか。
 それに、この売り上げで、4万円を越える、つまり足きり達成も確実となったし。

 ということで、せっかくなので稲毛海岸関連のサイトを幾つか載せておく:

観光ガイド 稲毛海岸
 ここでは、「稲毛と稲毛海岸 両者は町の区割りとしては隣接していますが、中心地はかなり離れています。稲毛海岸はその名前通り昔は海岸でしたが、現在は埋め立てが進み海岸はずっと先になります。一般に稲毛海岸というと、いなげの浜や海浜公園周辺を指します。」と基本的な大掴みの知識のほか、「いなげの浜」「稲毛民間航空記念館」「千葉市花の美術館」「千葉市稲毛ヨットハーバー」などが紹介されている。

稲毛海岸 ぶらり街さんぽ ホームガイド YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 ここでは、井上理江 (いのうえ・りえ)さんの案内で、「海を望む眺望抜群の穴場スポット 地元マダムご用達の「カフェ・ガッシュ」」(「近所の奥様らしき女性たちが数組、おしゃべりを楽しんでいた」というけど、さぞかし素敵な奥方さまたちがたむろされているんだろう)や、「「神谷バー」創始者の別荘で大正時代の稲毛の浜に思いを馳せる」などを紹介してくれている。
「「神谷バー」創始者の別荘」とは、「旧神谷伝兵衛 稲毛別荘」で、「神谷伝兵衛とは、デンキブランで有名な浅草の神谷バー創始者」だというが、小生、さっぱり分からん。

 神谷伝兵衛も知らないが、デンキブランとは何じゃらほい。電気ブラシのことか?
 幸いネット検索という強い武器がある。「神谷バー デンキブランとは」という小生のためのサイトが浮かび上がってきた。
 冒頭に「神谷バーにデンキブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ百年の歳月が流れています」とある。カクテルの名前だって!
「電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと”電気○○○”などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです」というのだ。
 ある程度、年輩の人なら知っているのかもしれない。

 稲毛海岸については、さらに(既に上でリンクを貼っておいたが)、「京成稲毛~稲毛海岸のウォーキング」が覗いて楽しい。
「千葉市民ギャラリーいなげ・旧神谷伝兵衛別荘」のほか「愛新覚羅溥傑仮寓」などがあるようだが、今となっては「中国の清朝最後の皇帝・溥儀の実弟にあたる愛新覚羅溥傑」と聞いても、ピンと来る人は少ないのかもしれない。
 いつか、「稲岸公園」や「稲毛海浜公園」を散歩してみたいものである。

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2006/01/23

大寒…突っ張って

  二十四節気でいう大寒の始まりの日、つまり、20日を狙ったわけじゃなかろうが、20日の夜半過ぎ辺りから、この東京にも雪が降った。その画像は、「光柱…叶わぬ夢?」にも「栗の小径や川沿いの道のこと」にも載せてあるので、ちらっとでも覗いてみて欲しい。
 覗けば、ほかにも素敵な画像も載せてあるし。

 土日は寒かった。ただ、それにしても、驚いたことが一つ。
 我が部屋の冷蔵庫は小生にお似合いの小さい可愛い奴である。夏など、スーパーで買った氷アイスも冷蔵室に入れておいたって一時間もしないうちに溶けてしまう。
 それが、である。今朝、起きて冷蔵庫を開けたら、前日に買っておいた魚やメカブが凍り付いていた。冷蔵庫より部屋のほうが寒い(?!)ってことか。sion-chalreston

→ 紫苑さんにいただいたこの画像は、中之島薔薇園の薔薇「チャールストン」

 東京は午前は曇っていたが、午後の二時前後頃には青空が見えた。
 なので、積雪がそんなにあるわけもなく、呆気なく溶け去っているものと、外を見たら、屋根は真っ白。さすがに路面は乾いていたけれど、路肩付近にも雪が残っている。この分だと、夜半には雪が溶けてそのまま凍ってしまうのか、そんなことを思いつつ、夕方、図書館へ。
 読了した立川昭二著の『病いの人間学』(筑摩書房)、「過ぎゆこうとする20世紀は、二度の世界大戦をはじめとする大量虐殺と政治暴力の時代だった。世界各地には暴力の傷痕があり、至るところに記憶の場所がある。過去10年、アジアでは、日本軍による戦争被害者たちが、次々と証言を始めた。それに対して、日本の中では、その記憶や証言を隠蔽、否認、歪曲、抹消する「歴史修正主義」が立ち現れている」という徐 京植/高橋 哲哉著の『断絶の世紀 証言の時代―戦争の記憶をめぐる対話』(岩波書店)、田村 明氏著の『まちづくりと景観』 (岩波新書)を返却。

 新たに、池内了著の『科学を読む愉しみ』(洋泉社)、「万葉集の英訳で、1982年、アメリカ最高の文学賞である全米図書賞を受賞され」たというリービ英雄著の『英語で読む万葉集』(岩波新書)、「嗅覚を考えることは、ふだんとは別の面からヒトを考えることである」というライアル・ワトソン著の『匂いの記憶』(旦敬介訳、光文社)、藤本 由香里/白藤 花夜子著の『快楽電流―女の、欲望の、かたち』(河出書房新社)を借り出してきた。

「女たちは受動的な客体から能動的な客体の地位を手にいれ、今、女はすべて娼婦になった…。風俗、AV、レディスコミック、売春・援助交際、小説などを題材に、現代の女性のセクシュアリティの深層に迫る」という『快楽電流―女の、欲望の、かたち』だが、小生、著者名を『人麻呂の暗号』や『枕詞の暗号』、『古事記の暗号』の著者として有名な藤村 由加氏と一瞬、勘違いして手に取ったのだった。おお、守備範囲が広い著者だ、こんなテーマも扱うのか…、と思ったら見当外れもいいところだった。
 でも、怪我の功名で面白そうな本を見つけたのだから、ま、勘違いもいいものだ。

 いずれも寝床や車中で読める薄手の本(中身が薄い、という意味ではない)。今、1400頁ほどの本を読んでいて、とてもじゃないが寝床でも車中でも読めないので、気分転換の意味もあり、齧り読みも可能な本を中心に選んだのだった。

 さて、表題に戻る。
 二十四節気の一つ「大寒」を扱うので、ついでというわけでもないが、前にも若干、メモしたことがあるが、ここでちょっとだけ二十四節気のおさらいをしておきたい。
 といっても、ちゃんと説明してくれるサイトを見つけ出し、リンクを張っておくだけのことだが。
PLANT A TREE PLANT LOVE - 二十四節気」なるサイトを覗かせてもらう(ホームは、「PLANT A TREE PLANT LOVE」である。別に小生はここの関係者ではないのだが)。
「一年間を二十四等分して、それぞれにふさわしい名称をつけたものを二十四節気という」。その上で「その節気の一つ一つをさらに三等分し最初の五日間を初候(一項)、次の五日間を次候(二候)、最後の五日間を末候(三候)として、一年間を七十二等分したものを七十二候という」そうだが、「七十二候」についてはここでは深入りしない。

 大寒は、「寒さが最も厳しくなる頃。毎年1月20日頃。」以外に、「天文学的には、天球上の黄経300度の点を太陽が通過する瞬間。」といった説明も施されることがある。
 つまり、「太陽は見かけ上、天球を1年で1周します。このときに太陽が移動していく通り道を天球上にあらわしたものを黄道(こうどう、おうどう)といいます。二十四節季とは、この黄道を24等分して、それぞれに名前を付けました。節季とはその24区分した15日間を指したものです」というのだが、こうなると小生には頭が痛くなる(念のために書き添えておくと、「節季」とは「季節の終わり。時節の終わり。時節」の意であり、二十四節気の場合は節気という表記が正しいようだ)。

 さらに「JWA Home Page」にて説明を求めると、「二十四節気は農作業の目安として中国で作られたもので、春分を基点に太陽の黄道を15度ずつ24等分し、太陽がそれらの分点を通過していく時を二十四節気とし、その季節にふさわしい名前をつけたものです。暦の日付はずれても、毎年同じ節気が暦に載るようになったものですが、もともとは古代中国の黄河流域の季節に基づいているために、日本に置き換えると多少ずれが感じられます」という。
 どうやら紀元前から既にあったようだ。

 このサイトでも、「大寒(だいかん)」については、「一年中で最も寒い頃。最低気温が観測されるのもこの頃から立春までの間のことが多い」とあり、いずこも厳しい表現に変わりはない。
 今しばらくは、荊棘(うばら。いばら。うまら)の日々が続くわけである。この時期を耐え忍ぶ唯一の道は、大寒が過ぎると次にやってくるのは、2月4日ごろとされる「立春(りっしゅん)」の到来であろうか。
「この日から立夏の前日までが春。九州や太平洋側の暖かい地方では梅が咲き、一進一退を繰り返しながら暖かくなっていく。」というのだから、とにかく辛抱である。

 そんな寒さの厳しい折であっても、あるいはそんな時節であるからこそ、句もひねられる。
 大寒というと、まずこの句を思い浮かべる方も多いかも:

大寒や転びて諸手つく悲しさ     西東三鬼

 足腰が弱って、ちょっとつまずくと呆気なく転んでしまう。これが「大寒や転びて諸手つく恥ずかしさ」だと、人の目を意識しており、仮にこんな句をひねる人がいたとしたら、必ずしも年配ということにはならない。東京だと慣れない路面の凍結で転ぶ人は老若男女を問わないのだし。
 だからこそ、「悲しさ」となると、哀れの感を誘うわけである。

 ネット検索したら、以下の句を見つけた。例によって「e船団ホームページ」の中の「日刊:この一句 最近のバックナンバー  2001年1月16日」でのもの。坪内稔典氏の鑑賞を参考にすると一層、味わい深い:

大寒を突っ張れる塀の突っ張り棒    西村白雲郷

 さらに「大寒」の織り込まれた句を求めると、以下の句が見つかった:

大寒と敵(かたき)のごとく対ひたり    富安風生
(「大寒と敵(かたき)のごとく對ひけり」という表記を採るサイトもあった。)

 この句については多くを語る必要もないだろう。かくありたいと思う。
 やや頭というか気持ちが先走っている感じがあるけれど。
 年を取ると、自分では早く駆けているつもりが、足がまるでついてこなくて、ドタバタと見苦しく走っているのを、街角のガラス窓に映っているのを見て愕然とすることがある。
 気持ちに身体が付いてこないのである。
 それでもいい。気力が充実していることが何よりなのだ。年寄りの冷や水と謂うなかれ、である。


大寒や突っ張った挙句の優勝だ
大寒や転ぶを堪(こら)え筋違え

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2006/01/22

掌編アップ

 あるサイトでたき火の画像を見た。で、なーんとなく「たき火」という題名の掌編を書いてみた。ボクもの。

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光柱…叶わぬ夢?

「氷柱」については、この季語随筆でも「氷柱」にて採り上げたことがある。字面は同じでも「ひょうちゅう」だと氷の柱だし、「つらら」だと軒先などに生じるそれである。
「氷柱(ひょうちゅう)」も「氷柱(つらら)」も、一月の季語である。

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→ 21日夕方、買い物に出かけた際に撮ったもの。東京では久々の雪模様。画像ではしかと見えないが湿っぽい雪が舞っていた。夜中に外に出てみたら、既に大半が溶けてしまっていた。呆気ない夢のような雪だった。未明には溶けた雪水が凍結するのか…。

 冬の日の儚き恋さと雪の降る

 ところで(字面的にのみ)似て非なる言葉、乃至は現象に「光柱」がある。
富山の天気を見よう!!」の「冬の気象」なる頁を覗く。
「冬の夜空を彩る」という項目に、「光柱」現象を示す画像が載っている。
「空にうす雲があるとき富山湾では夜空に光のすじが何本も見えることがあります。これが光柱です。強い漁り火が光源となって、それが雲の中にある氷晶(小さな氷の結晶)に反射され光の柱になる」のだという。

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← Charlie K. さんの手になるリベルダージ新年会(G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" )画像の一つ!

火のごとく命滾(たぎ)れと舞う夜か

 冬の日本海側では珍しくはない現象のようで(といっても一冬に数回、全くない年もあるらしい。悲しいかな北陸生まれの小生だが、一度も見たことはない)、「やまびこネット」の「自然をさぐる(1)」のさらにその名も「光 柱」という頁を覗いても、「海上の夜空に縦に伸びる淡い光のすじが並んでいます。これは光柱と呼ばれる現象で、上空に漂う氷の結晶に漁船の集魚灯の光が反射したもの」という説明と共に「光柱」の画像が載っている。

 さらに詳しくは、ホームページ(表紙)は削除されたのか見つからないのだが、「今月の話題/気象/No.239 光 柱」にて光柱現象のメカニズムが説明されている。
 大事なのは、「冬の晴れた夜」とのことで、「冬の晴れた、そして海のおだやかな夜、富山湾には漁船の漁り火がともります。漁り火はとても明るく、人工衛星から夜の地球を観測すると、よい漁場がある日本海中部は、たくさんの人々が生活する都市の明かりなみに輝いています。 こんな夜、海の方向に体を向け視線を少し上の方に向けてみて下さい」とのこと。
(尤も、にあるように、「空にうす雲があるとき」でないと光が投影される媒体がなく、現象しようがないわけで、冬の晴れた夜で且つ空にうす雲があるとき、ということになるのかも。以下の説明が大事。)
「光柱が日本でも知られるようになったのは1983年長崎県の対馬が最初です。たくさんの漁船が作る何百本もの光柱が夜空に現れ、それを見た人々から報道機関などに問い合わせがさっとうしたそうです。中には「UFO」の襲来だと思った人もいたそうです。 その後、函館、札幌、福井など、おもに日本海沿岸の各地で見たという報告がありました」という。
 確かに、いきなり空に光の柱が幾筋も見えたら、びっくりするだろうことは間違いない。
「光柱の正体」という項目を読むと、「雲はその形や現れる高さなどから10種類に分けられています。そのなかで空の高いところに現れる層状の雲、うす雲(巻層雲)は氷晶とよばれる小さい氷の結晶からできています。 氷晶はまた鉛筆のような形をしたもの(六角柱)と鉛筆をうすく輪切りにした形のもの(六角板)の二つに大きく分けられます。この内、六角板の氷晶からできているうす雲が空にあるとき、漁り火の強い光は氷晶によって反射され陸地にいる人の目に入ります。 ところが人の目には、この光が、まるで空にあるかのように真っすぐやってくるように見えます。 これが光柱の正体です」という(太字は小生による)。

 ところで、「光柱」現象は、「ニューフェース」の現象だとか。
 つまり、 「光柱は太陽や月の周りにできるカサの仲間です。「カサがかかると雨」ということわざからもわかるように、カサは昔から知られた気象現象でした。 光柱を作る雲はほかのカサを作る雲と違う特別のものではありません。 漁り火の明るさが昔にくらべてかなり明るくなったこと,つまり人間の営みが自然の中に、このニューフェースを登場させたといえるでしょう」というのだ。

Y.AYA's Garden - Skyscape Hill - A.O.Museum 天空博物館」なるサイトの「Y.AYA's Garden - ... - A.O.Museum - Sun Pillar, Subsun 太陽柱・映日」という頁を覗く。
「冬から春先にかけての寒い日などに夕日の上に、光の柱が現れることがあり」、それが「太陽柱 (sun pillar) と呼ばれる現象」である。
「映日」は、「雲の上に出た飛行機の窓から眼下を見下ろすと、雲に映った太陽が見えることがあります。映日 (えいじつ) と呼ばれる現象で」、「地上でも、ダイアモンド・ダストが舞うようなときには、建物の上の階や丘や山の上から見下ろすと見えることもあ」るのだとか。

 上記したように、「光柱」現象は、「日本でも知られるようになったのは1983年長崎県の対馬が最初」という「ニューフェース」の現象のようで、季語のうちには未だ入っていないのかもしれない。
 あるいは、それほど頻繁には見られないし、日常的な現象ではないということで、今後とも季語には成り難いのかもしれない。
 ああ、光柱…。いつかはこの目で見てみたい。叶わぬ夢ではないのだし。


光柱を見たしと北の空望む

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2006/01/21

栗の小径や川沿いの道のこと

 今朝、目覚めると、雨垂れの音。雨? 起きてカーテンを開けると雨じゃなく、雪だった。

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→ 今朝の雪風景。我が邸宅(?)の裏庭の金木犀も寒そう!

 今日は休日なので、いつものようにロッキングチェアーに腰を沈め、読書三昧。
 昨夜、わざと三十頁ほど読み残してあったドストエフスキーの『罪と罰』を読了させた。これで六回目だろうか。不覚にも涙が溢れてしまった。参っちゃったので感想文など書かない。
 『罪と罰』とトルストイの『アンナ・カレーニナ』とが一冊に収まっている本(『集英社ギャラリー 世界の文学 (14)   ロシア2 罪と罰/アンナ・カレーニナ 』で、小生は『アンナ・カレーニナ』を久々に読むつもり(今度で二度目になる)で本書を借り出したのだが、最初に『罪と罰』が収まっているので、まずはこれからと読み出したのだった。

 感想は書かない。書けない。本物は違う! それだけ。

 ただ一つだけ。ドストエフスキーの「罪と罰」は、小泉 猛氏の手になる翻訳だが、実に読みやすかった。訳という違和感を覚えることがなかった。
 昔、ガルシンの『赤い花』を読んでガルシンのファンとなった。間もなくして、一冊本のガルシン全集が出た…ので、学生の分際ではあるが、アルバイトして購入したのだが、訳に辟易して小説の世界に没入できなかったっけ。
 さて、一呼吸置いて、次は『アンナ・カレーニナ』だ。

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← 「茶風log「写真家チャーリーの徒然グサッ!」 カメ爺からカメアシへ」で見つけたFANTASIA de SAMBA。ん? FANTASIA de SAMBAって…、FANTASIA de SAMBA Feather & Plumes Craftのことね。

 午前、気分転換の意味もあって、先週来、車中や寝床などで読み続けていた田村 明氏著の『まちづくりと景観』も読了した。

 論より証拠ではないが、田村 明氏著の『まちづくりと景観』 (岩波新書)について、小生の下手な感想文を書くよりも、本書で扱われている優れた景観の例をネットで見つけた画像サイトを紹介することで、本書の読書感想文に代えようと思う。
(本書『まちづくりと景観』の小生の手になる感想(?)をどうしても読みたいという殊勝というか物好きな方には、季語随筆「まちづくり…景観…光害」をどうぞ。ほとんど、参考にならないことを予め断っておくが。)

 さて、ネットで画像を見つけるのは(小生に画像検索のノウハウがないこともあって)なかなか大変。
 本書での著者の切り口に相応しい画像など、そうそう都合よくあるはずもないし。
 それでも、まず、以下のサイトが見つかった:
小布施 北斎館 -信州の旅.com-
 ここでは、「北斎館」や「岩松院 葛飾北斎画「八方睨み鳳凰図」」「豪商の館、田中本家博物館・須坂」「高井鴻山記念館」などの画像に注目するのではなく(これらもいい!)、「「栗の小径」道が栗の木を使ったブロックで敷き詰められている、散策コース。」などの画像に関心を持ってもらいたい。
 なんといっても、「景観」であり、「まちづくり」が本書のテーマなのだから。
「小布施へ北斎を招くなど幕末維新期にかけて活躍した文人、経世家の鴻山の記念館」だという「高井鴻山記念館」についても、実は、表通りからやや奥まったところに作られている。通りに面しては、「幟(のぼり)の広場」があり、北斎館へ続く狭い小径の入り口の角には小布施堂(栗菓子屋さんの工場でもある! けれど建っているのは、ともてお菓子の工場とは思えない外観を呈している!)という店(工場)がある。

 ネット検索は根気良く試みるものである。小布施堂という店のホームページにリンクさせようと、サイトを探したのだが、ついでだから中も覗いちゃえと覗き見してみたら、表紙に暖簾の画像が。
 そこを暖簾に腕押しとばかりにクリックすると、「小布施へおいでください」の挨拶の次に「味わい空間」というキャッチコピーとその趣旨、そして、本書『まちづくりと景観』でもそこまでは描かれていない「味わい空間」の俯瞰図が掲げられている。
 できれば、どこが表通りなのかを示してあればとも思うが、欲張りすぎか。再開発で味気ない、どこにもあるような町並みになっていただろうことを思うと、随分と違う個性的で落ち着いた空間が実現されているものと感心する。

 さらに、「高井鴻山記念館と北斎館を結ぶ」「栗の小径」についてもネットでは画像が幾つも見つかった。
 この栗の小径は、「小布施の名産・栗にちなみ、栗の木煉瓦を敷き並べた舗道」なのである。雰囲気もいいし、踏む足裏の感触を味わうためにも歩いてみたくなる小径(こみち)ではないか!
 冬になると、さすがに雪に埋まってしまいそうになるが、それはそれで風情がある。
栗の小径・冬1」(「小布施ぶらり旅」参照。春夏秋冬の画像が載っている!)


 ネットでは画像を見つけられなかったが、本書に載っている山形県金山町の川沿いの道の写真がこれまたいい。
東北再発見 小さな美しい町 山形県金山町」なる頁が参考になるかも。
「旅人をもてなす心」なる項には、「金山町には、不快な広告看板やこれ見よがしの建物などがありません。その代わり旅人がゆっくりと休める、無料の休憩所が沢山あります。街中を散策する旅人に、気軽に挨拶の言葉がかけられます。さりげなく旅人をもてなす心がうれしい」とある。
 また、「金山町の美しい景観作りは、昭和30年代から始められています。日本のあちこちでは、高度経済成長の中で街並みなど見向きもされず、次々に美しい景観が失われていきました。商業的な打算が当たり前となり、資本のあるものが競うように景観を壊してきました。その延長で語られている現在の「観光街づくり」のいかがわしさにうんざりします。インターネットで東北の観光振興の役に立ちたいと考え、私自身が「観光街づくり」への関心を高めていますが、それだけに一層、金山町が輝いて見えます」というのである。

 金山町には「街並み(景観)づくり100年運動」があるそうだ。
「これは100年をかけて自然(風景)と調和した美しい街並みをつくっていこうというものであり、あわせて林業等の地場産業の振興や人と自然の共生を図るというも」ののようだが、特色の一つに「金山型住宅」があるという。
「白壁と切り妻屋根をもつ、在来工法で建てられた住宅です。金山で育った木材や伝統的な材料を使うことによって、気候風土にあった建物になります。また、年数が経過しても「美しく古びる」素材であり、地球にやさしい住宅です。金山型住宅の家並みこそ「もうひとつ先の金山」の姿であり次代に継承する美しい共有財産です」というが、このことを知った上で、「東北再発見 小さな美しい町 山形県金山町」の中の画像を見直してみると、一層、興味深いかも。


 二つを紹介(ネット探索)しただけで紙面は一杯になった(小生も検索に疲れた)!

 本書(田村 明氏著の『まちづくりと景観』 )には、日本国内の事例より、海外の事例が豊富に紹介されている。景観を意識し、アーバンデザインを企図するという点では、欧米に限らず海外に先進的な試みが数多く見出されるのだ。
 機会があったら、その例を示してみるかもしれない。

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2006/01/20

リベルダージの新年会画像……追加!

 今朝、徹夜仕事から帰宅して、いつもどおり郵便受けの郵便物を取って、さて部屋に向かおうとしたら、郵便物などの中に、佐川物流サービスによる配達物が混じっていた。
 その差出人は、なんと病院!

 ありゃ、まさかこの小生に不動産物件の紹介? 病院…? ってことは、もしや秘密にしていた(?)小生の体の不都合がバレタのかと思ったが、さりとて、近々健康診断の予定が会社であるが、前回昨年八月の健康診断以降、お医者さんに受診したのは歯医者さんだけ。
 もしかして宛名が違うか、あるいは投函する部屋番号を間違えたのか。
 違う、ちゃんと小生の本名になっている(余談だけど、先週末のあるドラマで小生の本名と同じ名前の人が殺人の被害者になっていた。これでドラマで同姓同名の人が登場するのは二回目だ)。

 宛名は小生なので、開封してみると、中には病院のパンフレットが。
 文面には、「障害者やお年寄りに優しい病院を目ざします」とか、「目まぐるしい現代生活の中で心と身体を病んだ方々の為の医療を目ざします」などといったコピーが謳われている。
 精神科・内科の病院なのだ!

 ああ、小生の不具合、それも、心と身体を共に病んでいることが世間にバレテしまったのか…。
 なるほど、小生も小生に相応しい優しい病院に入らないといけないのかな…。
 などと、暗示に掛かりやすい小生、つい、真に受けてしまいそうになった。
 
 が、パンフレットと共に同封されていた案内書を読んで疑問・疑惑が氷解した。
 小生の学校(高校)の二十年ほど先輩の方が(面識は全くなし。医学部の助教授を辞めて以降、主に老健施設や介護施設を数々開設されてきたが)、この度、某所の病院が開院四〇周年を迎え、社会的ニーズに応える意味もあり、新しい医療理念に基づき八階建免震構造の新病棟を建設した、という案内だったのである。

 あー、どきどきした。
 まあ、でも、他人事ではないのだがね。

 その病院とは「稲城台病院」である。
 お節介ながら、調べてみたら、関連する記事に「戸田建設株式会社:ニュース:2005年分:柱にプレカラムを使用、高品質化と躯体コストを低減」があって、その建築工事中の物件こそが「(仮称)稲城台病院新病棟新築工事」なのだった!

 なんて、こんなことを書いたからって、病院の宣伝をしているわけでもないし(確かにしてしまったけれど)、小生が近い将来、ここでお世話になるという予定も無い!

 このサイトは日記をも兼ねているので、たまに変なことも書くけれど、ま、読み流してね。
 さて、日記はお終い。気分一新。

 気になることもあれば、嬉しいこともある、ということで…。5103

 本題である!

→ Charlie K. さんの手になる新年会画像の一つ!


「リベルダージの新年会画像!」にて紹介した我がリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の新年会の様子を映したすばらしい画像に追加が:
FELIZ ANO NOVO 2006 (1/15)

 Charlie K. さんの「Charlie K's Photo & Text」なるサイトへ行けば、「リベルダージの新年会画像!」でも紹介した頁など、いろいろ拝見することができます。

 末尾ながら…、「無精庵徒然草」が本日(恐らく午前中)、10万ヒットとなった。

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水仙…ナルシスの花の香

「水仙」が「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」(「俳句ステーション」の「季語」へどうぞ)の一例にあるのは気づいていた。
 でも、花に(も)疎い小生、いまひとつ水仙と冬とが結びつかない。
 困った時は、きっとここならちゃんとした説明を期待できると、たいらさんの「閑話抄」を覗かせていただく(たいらさんのメールアドレス)。
 さすが、期待にたがわず、<水仙>という頁がある。
「水仙は冬(歳時記によっては新春でも用いています)に位置する季語ですが、 この水仙は古くからある白い水仙のことです。所謂黄水仙というものは南欧原産のものです。白いものと比べ開花が遅くなりますので、春の季語になっています」という。
 先に進む前に「おしゃべりな部屋 (プラネタリウム,星,植物,熱帯魚,統計学)」の「スイセン(水仙)」という頁で水仙の様子を画像で見てみたい。
 花が黄色の水仙に、「ギリシア神話で,美少年ナルシッサスが水面に映る我が姿に見とれ,そのまま花になってしまったのが水仙だということです。そこで,英名は narsissus です。また,自分の美貌に酔いしれる人をナルシストと呼ぶのもここから来ているわけです。」といったコメントが付せられている。

 たいらさんの<水仙>に戻ると、【ギリシア神話と水仙】という項目に、「水仙というとギリシア神話のナルキッソス(ナルシス)の話が有名ですね。この 語源はギリシア語で昏睡を意味するナルケとされています。水仙にはアルカロイド 系(麻酔系)の物質が含まれているそうです。そういえば水仙は曼珠沙華と同じく ヒガンバナ科の植物です。増え方(結実せず燐茎で増える)や葉の出方などに どことなく共通点があるような気がします。」と説明されている。

 そう、水仙は「ヒガンバナ科」の植物であり、学名は「Narcissus」という。

 上にも「ギリシア神話で,美少年ナルシッサスが水面に映る我が姿に見とれ,そのまま花になってしまったのが水仙」とあるが、さらに詳しくは、この神話は、「ナルシスの語源は、ギリシャ神話にあります。美少年ナルキッソスは、水に映る自らの姿に恋するように神から罰を与えられましたが、決して報われることのない恋にやつれ、森の湖のそばで力尽きて死んでしまいます。そして、可憐な白い水仙(ナルシス)の花に姿を変えたといわれています。 」というもの(「ナルシスの花の保護への挑戦 - スイスのエコライフ - 環境goo」より転記)。
 小生は、ナルシズムは、美少年ナルキッソスが水面に映る我が姿に見とれ…という説明には折々に接してきたのだ、ということはなるほど美貌の持ち主なのだろうけれど、自惚れが強いのか、などと勝手に(かなり安直に)思い込んでいたのだが、実は、「美少年ナルキッソスは、水に映る自らの姿に恋するように神から罰を与えられ」ていたのだ。

 しかしギリシャ神話に由来する話。奥がもっと深いはず。
石川の植物」の「スイセン(ヒガンバナ科)」なる頁を覗かせてもらうと、「属名の Narcissus は、ギリシャ神話のナルキッソスという若者の名からきています。ナルキッソスは、泉に映る自分の姿を目にして、泉に住むニンフ(註)と勘違いし、その自分の姿に恋してしまいました。抱き寄せようと両手を泉の中に入れると、姿が消え、ナルキッソスが体を起こすと、水面にはまたあの姿が映っているという状態のため、その場を離れることができなくなってしまいました。食事を取ることも、眠ることも忘れて、泉の周りを巡りながら、水面に映る恋しい人に向かって話し続けたのでした。」として、ナルキッソスの語りかける言葉が引用されている(ここには転記しないので、どうぞ、リンク先を覗いてみてほしい)。
 そして、「こうして自分の姿に恋をしたナルキッソスは、叶わぬ恋に身も心も焼き尽くし、だんだん衰えていき、とうとう死んでしまいました。ニンフ達がやってきて、亡骸を火葬するために運ぼうとすると、死体が無くなっており、代わりに、 Narcissus poeticus (クチベニズイセン) の白い花が咲いていた、ということです。以後、その花を ナルキッスス と呼ぶようになりました」というのである。
 さらに「花言葉は「自己愛」「自己主義」です。」とも記してある。
 
 しかし、さて、疑問を持たれる向きも多いだろう。何故に、「美少年ナルキッソスは、水に映る自らの姿に恋するように神から罰を与えられ」、「ナルキッソスは、泉に映る自分の姿を目にして、泉に住むニンフ(註)と勘違いし、その自分の姿に恋してしま」うような不毛な状態に追いやられのか…。
 実は、話には前段があって、「ギリシャ神話によると、美少年ナルキッソスは多くの娘に言い寄られたが、ことごとく拒絶した。そこで復讐の女神ネメシスがナルキッソスを、水に映った自分の姿に恋するよう仕向け、ついに彼は自分の姿に恋いこがれて水死してしまったという」のである。

 人は誰でもナルシストの気味が多少なりともあるという。古(いにしえ)はいざしらず、数知れぬ鏡やガラス面や写真(カメラ)やビデオなどが満ち溢れている現代にあっては、鏡面に映る自分の姿かたちを見ずには一日たりとも過ごせない。
 それは本人が望むかどうかに関わらず、である。
 さて、ギリシャ神話ではナルシストの傾向を神の罰として、つまり人にとっての所与、天与のものとして説明(物語化)されている。
 ここでは深入りする余地も、そもそも小生にはその能もないが、美がその人にとっての一番琴線に触れるものであり、他人が何と言おうとそれが美だと思えるとしたら、その美というのは、その人の生まれ、育ち、環境、資質、そういったその人の全ての象徴でもあるのだろう。
 美が普遍性があるかどうかは別にして、とにかく我にとってそのようにしか映らない、この至上の美に勝る美があるだろうかと思えるとしたら、その瞬間において、その人はある意味、その本人の中の、あるいはその本人を通じての天のある種の極限的ビジョンを見ているのに違いない。
 つまりは、人は根底において自らが描き自らが見る美しか見ることができないのではないか、ということだ。
 端的に言って、人はナルシストたるしかありえない、と小生には思えるのである。

 なお、ここには、「スイセンの群落」などの画像や「花びら」や「雄しべ」「雌しべ」などの画像が載っていて壮観である。
 さらには、「スイセンの畑。福井県丹生郡越廼村 越前水仙の里(平成14年1月14日)」の画像も載っている…。ここで小生、思い出した。そう、昨夜、仕事中、車中でラジオ(NHK)を聴いていたら、「水仙が開花した」という何処かの地方からの便りが伝えられたのだった。
(実を言うと、「そうだ、そういえば、一月の季語に「水仙」があるけど、気になりつつも敬遠していたんだっけ、でも、ラジオでこういう話を耳にした以上は、明日(つまり今日)の季語随筆のテーマは決まりだ…」、などと車を走らせながら思っていたのである。)
 ちなみに、越前岬には水仙の花にちなむ悲劇の伝説がある。「櫻灯路」の「厳冬に 香りたつ」なる頁を覗かせてもらうと、「荒々しい日本海の荒波の 直ぐ傍に あの越前の断崖があり 棚田があり そんな狭く偏狭で過酷な土地に 人々は営々として水仙を植え続けて来た 何故こんな場所を敢えて選ぶかのように 植えて来たのだろうか」として、一つの伝説について語ってくれている。

 最後に「水仙」という言葉、季語、それとも水仙のある風景や場面の織り込まれた句を幾つか、掲げておきたい。
花鳥風月【日本の伝統ミュージアム】」の「[ 花鳥風月 ] 睦月の季語」には、「水仙や白き障子のとも移り   芭蕉」が(「移り」とあるが「映り」が正しいのでは…?)、「 「e船団」は俳句グループ「船団の会」(代表:坪内稔典)のホームページです」 の「ikkubak 2002年1月16日」には、「水仙ののぞく手提げを膝の上   中原幸子」が載っている。
「水仙ののぞく手提げを膝の上」に寄せる坪内稔典氏の鑑賞がいい。

浮世占い」の「花の短歌集 水仙」なる頁には、ありがたいことに「水仙の俳句」を幾つか載せてくれている。
 上掲の「水仙や白き障子のとも映り」のほか、「初雪や水仙の葉のたわむまで  松尾芭蕉」「其(そ)のにほひ桃より白し水仙花  松尾芭蕉」「水仙の花の高さの日影かな  河合智月」「水仙の香やこぼれても雪の上  加賀千代女」「水仙や寒き都のここかしこ   与謝蕪村」の数々である。
 しかも、「花の短歌集 水仙」ということで、水仙の織り込まれた短歌が紹介されている。中でも「真ん中の小さき黄色のさかづきに 甘き香もれる水仙の花」は、いかにも木下利玄らしい。
「つめたきはわが天地(あめつち)と 庭の隅に 春をすねたる水仙の花」という金子薫園の歌には、温和な表情のうちに潜む芯の強さを感じる。


水仙の白と競うか雪の降る
障子紙透かして雪の仄(ほの)明かり
残り香を水仙散らす明けの空
白に黄の花の色香の夢の朝

水仙の仄白き花受けし盃 飲みつくさんと飽かず暮れ行く

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2006/01/19

まちづくり…景観…光害

季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」に並ぶ季語・季題を眺めながら、今日は何をネタにしたらいいか、ぼんやり考えていた。そのうち、そうだ、某サイトで「冬座敷」が採り上げられていたことだし、今日はこれをテーマに選ぼうかと思った。
年頭に当たって…あいも変わらず」で昨年の一月に俎上に乗せた話題でも扱っていないようだし。
 が、あれ、でも、既に採り上げたことがあるような気もする…。
 で、調べてみたら、「冬座敷に隙間風が吹く」で扱っている。しかも、12月の季語。
 小生の目が節穴だということ、記憶力があやふやだということが改めて露見してしまった。ま、分かっちゃいることだからショックは無いが。

 不思議なのはこのブログへのアクセスで今日は、「冬の星」へのアクセス回数が20回以上となっていること。書いたのは、「December 18, 2004」である。つまり、一昨年の12月ということ。
「冬の星」が検索のキーワードになっているようでもないので、何ゆえ、この記事へのアクセスが突然(今日に限って?)増えたのか、合点がいかない。

 ところで、小生、目下のところ車中では、田村 明氏が著した『まちづくりと景観』 (岩波新書)を読んでいる。
 レビューによると、「日本では,自然の風景の素晴らしさと裏腹に,街並みや都市の景観の多くは美しいとは到底いいがたい.それは,なぜなのか.住むに値し,訪れる魅力を備えた「まち」は,どうしたらつくれるのか.無秩序なビル建設,醜悪な広告塔などを排するだけでなく,潤いと安らぎのある,真に美しい都市の可能性を,内外の具体例を挙げながら考える」というもの。
 もっと詳しくは、「岩波新書 まちづくりと景観」なる頁が著者紹介や目次も載っていて参考になる。
 新書編集部の坂巻克巳氏が、「本書は、長野県の小布施(おぶせ)町からスペインのゲルニカまで、実に多くの国内外の「まち」を紹介しながら、それぞれの個性的な魅力を語り、そこから学ぶべき普遍的なヒントを提示する、という展開になっています。日本と世界の各地を旅する楽しみを味わえるとともに、暮らす「まち」、働く「まち」の良し悪しを根本から見直す「目」を養ってくれる、得難い本といえるでしょう」などと、丁寧に紹介してくれている。
 小生の的外れな感想文など出る幕も無い(まだ半分しか読んでいないし)。
 
 さて、本書『まちづくりと景観』 を引き合いに出したのは、「冬の星」の中で、「木曜日の仕事も終わりに近付いた金曜日の未明、六時半近くの東京の夜明け間近の空」の様子を表す画像を載せたり、以下のようなくだりがあるからである:

 

そうはいっても、厳然と電信柱からぶら下がる灯りが存在を主張しているのも事実。やがて、のぼり来る朝日に掻き消され、一定の明るさとなると、自然に消されていく。この写真の灯火の灯りは、消える瀬戸際の明るさということになるのか。
 さて、これが、例えば、昔ながらのオレンジ色の光を放つ白熱灯(白熱灯とは言いながら、光は橙色なのだが)だったら、もっと味わい深いのだが、今の街灯の多くは青白く光る水銀灯。
 小生、思うに、水銀灯の光は、何か寂しいし、冷たさをも感じさせる。コンビニの照明も今は、白。何か他人行儀な、よそよそしさの印象を強烈に放っているのでは。昔の照明がアナログなら、水銀灯はデジタル的。そんな印象を受けている人も多いのでは。
 前にもどこかで書いたのだが、街灯やコンビニの照明をもっとソフトに、できれば、昔ながらのオレンジ色の光に変えると、町の印象も随分と変わるのではないかと思う。

 実を言うと、昨日の季語随筆「雑煮…ぜんざいの話」でも、話のネタを戴いた方は、「お城とまちづくりを考える会」の石原幸雄氏(島根県松江市)なのである。
 偶然とはいえ、車中で読んでいる本の題名(テーマ)が『まちづくりと景観』であり、昨日の小文のネタ元が「お城とまちづくりを考える会」(太字は小生による)の方であり、理由(検索のキーワード)が不明ながら、なぜか突如、昨日のアクセス回数が増えている記事が(書いたのが一昨年末であるにも関わらず)、町の風景に無縁ではない記事内容を扱っている「冬の星」と、ここまで景観や「まちづくり」関連の情報が重なると、小生も何か改めて語らないといけないかのようだ。

 といって今の小生に特段の意見があるわけではない。後日、『まちづくりと景観』 を読了したら、何か感想文くらいは書くかもしれないが。
 その代わり、小生のこれまでの拙稿から景観に関係する記事を幾つか挙げておく:

景観のこと」(町や村の風景の変貌振りが早すぎる、などと説いている。つまり、平板で画一的な街作り、しかも性急な町の改変だと、人は浦島太郎状態になってしまう、気が付いたら自分が慣れ親しんだ風景が失われ、我が町のはずなのに、<ここはどこ私は誰>状態になりがちだと書いている)

K筆「街の緑」に寄せて」(建築物の屋上や壁面の緑化についてや、道路の舗装の色をコンクリートの灰色ではなく、茶色、つまり土の色に近いものにしたらどうか、などと説いている)

春の野…愛・地球博」(造園家で蔭横浜大学教授の涌井 雅之氏の「景観10年、風景百年、風土千年」という発想などについて触れている。特に「景観とは、今という時に正対している見えがかりであり、風景とはそこに暮らす人びとが生活のために自然とせめぎ合いつつ見いだした、記憶を込めた景観のありさまと考えたい。風土はさらに風景が歴史的に重なり、その地域の個性が特徴化され、他の地域の人びとに明らかに違いとしてわかる無意識下の記憶である」という観点は重要かも)

天の川…光害」(「生活が快適になっていく中、当然のように道は外灯で照らされています。家の中も当然のように電灯をつけて明るく夜を過ごせます。 一方、これらによって、天の川の見える場所が少なくなってきています。天の川は、昭和46年7月12日に東京23区の練馬区で観測されたのが最後だという報告もあります」といったコメントを紹介している)
(この記事の末尾に「光害のこと」という小文が付せられている。この中でも、「あなたは天の川を見たことがありますか?都会ではライトアップ等による光害のために 天の川は見られなくなってしまいました。ライトアップを無くし、正しい照明を行なえば 都会でも天の川が見えるようになってきます。」といったコメントを紹介している)

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2006/01/18

リベルダージの新年会画像!

 我がリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の新年会の様子を逸早く見ることができますよ。
 どの画像も見事なもの。
 Charlie K. さんの「Charlie K's Photo & Text」なるサイトです。
 表紙の右上の「G.R.E.S. LIBERDADE "FELIZ ANO NOVO 2006" 」というバーをクリックしてください。
 今は、表紙の画像もリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の新年会の某パシスタさんの雄姿。
 
 他にも「"Salome" Slide Show」や「 "SAMBA!!" Damiao Gomes de Souza 」など、どれも凄い!


(おまけ)

 以下は昨年の新年会の画像群。但し、撮影は小生の手になるもので、出来栄えは比較にならない(涙):
新年会
初化粧
冬籠(ふゆごもり)
冴ゆる

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雑煮…ぜんざいの話

 昨夜、仕事中、というかお客さんを求めての待機中、暇の徒然というわけではないが、ラジオに耳を傾けていたら、「ぜんざい」の話が聞こえてきた。
 もっとも、「ぜんざい」の話題はほんの一部で、松江(市)の正月などにちなむ風俗・習慣・風習をあれこれと語っておられたようである。
 さすがに仕事中なので待機中だと神経は常に左のバックミラーなどに集中している。お客さんが車のドアサイドに立って、万が一、ドライバーたる小生が気が付かなかったら、ドアをトントンと叩いたりするのだけれど、できるならばお客さんがドアに近付いたら、お客さんにドアを指などでコツコツされる前に、サッと開けたいのである。
 だから、本を読んだりしてもラジオ(大概が音楽、天気・交通情報)に聞き入っていても、神経は左サイドにあるわけだ。
 だから、ラジオではインタビュー番組は最初から選ばない。どうせ、聞きかじりに終わるのが目に見えているからだ。話を聞いていてつまらなければ困るし、さりとて面白いと感じて聞き入っても、そんな時に限ってお客さんがいらっしゃる。
 当然、ラジオはオフにするか、音楽などの無難な番組(局)に切り替えることになり、話が途切れてしまうことになる。だったら、初めから聞かないほうがましだ、となるわけだ。
 
 それに車中では他にやることがいろいろある。前のお客さんが煙草を吸われる方だったら、窓を半開にして空気を入れ替え、灰皿の吸殻を持参したビニール袋に移し変え、さらにコンソールボックスに仕舞って、とにかく匂いの元を消し去る。
 あるいは短距離のお客さんをコツコツ拾うタイプの営業をしている小生なので、手元の小銭入れ(容器)に10円玉、50円玉、100円玉と分類して収めてあるのだが、それらがドンドン減っていってしまうので、別の場所に準備してある小銭を取り出し、手元の容器に小銭の種類ごとに分け収める。
 時にはお八つを食べることもある、云々。
 結構、あれこれ忙しいわけである。仮眠まではいかなくとも、目を半開にして、視覚神経を休めることも時には必要だし、待機中に体をリラックスさせておくことも大切な車中での要件だ。

 さて、やっと本題だ。

 ネットで調べてみると、番組はNHKラジオの「深夜便」、さらにその中の「日本列島くらしのたより」であり、語り手(インタビューされている人)は、「お城とまちづくりを考える会」の石原幸雄氏(島根県松江市)、アンカー(インタビュアー)は須磨佳津江さんだった。
 テーマ名は何か分からない(聞き逃した)。まあ、上記したように松江(市)の正月などにちなむ風俗・習慣・風習のあれこれである。
 いろいろ興味深い話もあったが、ここでは「ぜんざい」に絡む部分だけ、ネットで情報を補強しつつメモしておく。

「ぜんざい」は、実は本来は松江辺りが発祥の地であり、しかも、本来は「神在」と表記するのだ、という話に少々驚いたのだった。
市報松江1月号」の「レポーターコラム 八百万の神集うお忌祭りとぜんざい発祥の地」を覗かせてもらう。
 この頁の冒頭に「出雲地方では、旧暦の10月を神在月(かみありづき)と呼び全国各地から八百万の神々がお集まりになるという事は皆さんご存知かと思いますが」云々とある。これはさすがに小生も知らないではない。
 以下、恐縮ながら中村安都子さんのレポートの途中は省略させていただく。せっかくのレポートなので全文を転記したいがそうもいかないだろう。長くは無いので、是非、サイトを覗いてみてほしい。レポーターの方も含めて、「神在祭の様子」などの画像もあるし。
 ここからが本題に関わる記述で、「私の住む鹿島町の佐陀宮内にある佐太神社では、古来より神等去出(からさで)の日にお供えされた小豆と雑煮餅を作り再び神前に供えていました。それを「神在餅(じんざいもち)」と云いこれが転化して「ぜんざい」になったと言われています」とある。
 さらに、「このことは江戸時代の松江藩の書物「雲陽誌(うんようし)」や「祇園(ぎおん)物語」などその他いくつかの古文献に記述があることから「佐太神社はぜんざい発祥の地である」ともいわれています」とも。

 あるいは、「MSN-Mainichi INTERACTIVE 毎日小学生新聞」など参照。

 但し、念のために書き添えておくと、「とてもおいしい善き哉餅だから善哉と書いて「ぜんざい」と言う説もあるよう」だが、こちらの説は小生も知っていた。そのように理解されている方も少なからずおられるだろう。また、そんなものかなと思って、鵜呑みにするばかりだった…。

 上で「松江藩の書物「雲陽誌(うんようし)」や「祇園(ぎおん)物語」」などの古文献が出てくる。
 これについては「彩・祭・歳時記の「神在祭とぜんざい!」」が詳しい。

 但し、「山陰中央新報 - (6)お雑煮」を覗くと、その末尾に、「ぜんざい」は「「神在」が関係か」という項目があって、「寛永年間(1624-1643)の「祇園物語」に「出雲国に神在もちひと申事あり」と書かれています。「赤豆をにて-餠(もち)を入まいらせ」との記述も。また、1717年の「雲陽誌」の佐太神社(島根県鹿島町)に関する記述にも「神在餠」が出てきます。」とした上で、「ただ、品川さんはくぎをさします。「正月というハレの日に『ぜんざい』という可能性はありますが、決定的なものではありません」。謎は深まるばかりです。」とされている(品川さんとは、品川知彦島根県古代文化センター主任研究員のこと)。
 まだまだ探求の余地はありそうである。

 ところで、昨夜の石原幸雄氏の話にもあったが、松江の「お雑煮」は通常、われわれが思い浮かべる雑煮とは、やや(随分?)違うもののようだ。
 同じく、「山陰中央新報 - (6)お雑煮」によると、正月に食べる雑煮「中で、主流を占めているのは、岩ノリ(かもじノリ)を入れた「澄まし雑煮」。そして「小豆雑煮」。いわゆる「ぜんざい」ですね。」というのだ。
 「ぜんざい」が雑煮?!

 というか小豆を赤に、御餅を白に見立てた紅白で正月らしく目出度いということ、その雑煮を正月に食べるのだが、松江は他の地域が神無月の時には神在月となるという特殊な地。
 なので、「雑煮」を「神在」と称し、当初は「じんざい」だったものが「ぜんざい」に転訛した、という理解が穏当のようだが、まあ、必ずしも論旨が流暢ではない。
 頭の中はすっきりしないのだとしても、ま、ぜんざいとしか思えない雑煮を食べて、お腹のほうを満たしておくのがいいようだ。

 最後に「雑煮」は、「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」のうちにある。

 ところで、「さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 雑煮(ぞうに)」に気になる記述を見つけた。
「「貞丈雑記」によると、雑煮の本名!は「ほうぞう」というらしい。臓腑(内臓のことですね)を保養するという意味だそうです」というのだ。本当だろうか。疑うわけじゃないが、今はもう疲れたので、この点については探求しない。将来の課題に残しておこう(誰か、調べてみてほしい)。
 ただ、しばしばお世話になっている「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています。 1月の季語 雑煮(ぞうに)
」なる頁(項目)を覗くと、「「貞丈雑記」に雑煮の本名をほうぞうといふとある。臓腑を保養する意である。三ヶ日毎朝餅を羹にして神佛に供へ、一家挙つてこれを食うべて年を祝う。海山さまざまのものを投じて食べるので雑煮といふ。」とある。
 ここには、「長病の今年も参る雑煮かな  子規」「一学系を率いて食う雑煮かな  虚子」などの句も載せてくれていて、ありがたい。


これからはぜんざい食って雑煮かな
年取って餅の数減るお椀かな

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2006/01/17

1月17日のこと

 11年前の1月17日という今日、阪神・淡路大震災が発生した。
「震災の直接の原因となった地震を、気象庁は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)」と命名した」のだった。
 ここに改めて当時の震災の詳細を書くことはしない。
「1995年(平成7年)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震による災害である」など詳細は「阪神・淡路大震災 - Wikipedia」などを参照願いたい。

 午前5時46分52秒の発生。当時、小生は前年の2月末、一ヶ月の入院から会社に戻った直後に首切りを宣告され、94年3月に13年勤めた会社を退社、次の仕事、つまりは今のタクシー稼業に携わることができたのは95年の9月だった(内定は数ヶ月前に得ていたが、健康問題で保留状態が続いていた)。
 要するに小生は当時、失業保険で食いつないでいたが、それも、既に95年の1月頃には切れる寸前だった。
 日に10枚の執筆作業を続け、週に二度プールへ通って壊れていた体をリハビリし、89年頃から書き溜めていた原稿の一部を纏め退職金を全額使って出版し、本など買える筈もないので、方々の図書館へ運動を兼ねて歩いて通い(一年半で300冊弱を借り出して、ほぼ全ての本を読了した)、とにかく長年のサラリーマン生活で心身に蓄積していた垢を流しストレスを懸命に発散させようとしていた。

 そして地震のあった朝、小生は明け方になって、ようやく寝入ろうとしていた。その矢先、揺れを感じた。あ! 地震だ。結構、揺れたから震度は2か3か。関東の何処の辺りだろうと、テレビのスイッチを入れた。
 すると驚くべき報道が。
 地震は阪神地方というではないか!
 小生は寝るのも忘れテレビに食い入るように見入っていた。
 95年の3月にはオウム(真理教)事件が発生(発覚)する。

 小生は、実はタクシードライバーになるかどうか、94年の後半から考え出していたが、迷いもあった。
 が、迷いを断ち切ったのが阪神・淡路大震災であり、さらに止めを刺したというか追い討ちを掛けられたというか、背中を押されたような気分にさせられたのがオウム事件だった。
 世の中には何でも起こりえる。人間の想像力など圧倒する出来事がありえる。
 決めた! オレは書くことに生活の焦点を置く。生活費はタクシードライバーという仕事で得る。
 人生は一度限りなのだ。何がどうなろうと構わない。好きなことに徹底するのだ。

 連日の震災報道、さらにオウム報道。日本の社会がバブル崩壊後、一変してしまったという直感があった。根拠を示せと言われても困っただろうから、まさに直感に過ぎなかった。戦後50年。戦争を直接は知らない世代の子どもたちが大人になりつつある時代。戦争を知らない人口が経験した人口に勝ってしまった時代。日本がアメリカと戦争したことも知らない世代が街中を闊歩する時代。日本が中国や朝鮮や東南アジアに侵略し住民を蹂躙したことを嘘だと思っている若者が増えてしまった時代。アメリカが日本に原爆を投下したことを夢物語と思っている連中がいる時代。
 日本が日本でありつつ社会や文化の根底から変質しつつあることが露見し始めた時代。
 自分に何が出来るものではないけれど、書くということで自分の生を表現することだけは断固、続けるのだと決心した。

 そして95年の3月末にはタクシードライバーになることを決断し、某タクシー会社に出向いたのだった。
 一年以上もリハビリに励んだのに、失業保険が切れて、プール通いも出来ず、食べるものも節約していたら、体がまた若干の異常を来たし、会社での健康チェックで入社が保留になったのは想定外だった。上記したように、実際に会社に正式採用になったのは4月に動き始めてから約半年後の9月となったのだった。

 小生は、これまで地震関連の記事を幾つか書いてきた:
「地震」は「なゐ」という
(2004年11月23日に新潟は中越地方を中心に大地震が発生したことに関連する記事)
飛越地震があったとか
(2002/11/09に書いたもので、1858年(安政5年)に北陸地方で起きた典型的な内陸直下型の地震で、その規模はM7.0~7.1と推定される大地震に関連する小文)
仮の宿
(「地震が多い国である日本。だから、家やマンションなどが地震に堪える構造になっているか、というと、現実はさにあらずということは、誰もが知っている。過去からの地震に学んできた知恵が多く伝えられてきたはずなのに、マンションも木造の家屋も、少なくとも戦後に建てられたものの多くは、呆気なく壊れてしまう」…さらに、「日本人は、過去に学べない、よほどの馬鹿なのか」とも書いている。2004/12/10に書いたもの。)

 阪神・淡路大震災では、倒壊したマンションやビル、高速道路などで多くの欠陥工事(手抜き工事)があったとも言われている。が、あまりに疑惑の物件が多かったことと、大急ぎでの復旧・復興が求められ、多くの問題点が見逃されてしまった。
 それどころか、復旧・復興を急ぐため、マンションの建築を促進させる必要もあり、「平成10年の第9次改正は、平成7年の阪神淡路大震災を契機に抜本的に構造規定を見直すとともに、性能規定の導入、建築手続きの合理化等を盛り込んだ改正がおこなわれた」のだった。
 さらに詳しくは、「平成7年1月17日5時46分に淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2の地震が発生しました。阪神淡路大震災です。それを契機に各規定の見直しが進み、建築物の安全性の一層の確保と合理的利用の推進、民間機関による建築確認・検査制度の創設、建築基準の性能規定の導入を始めとする単体規定の見直し、建築規制の適用の合理化等の措置を構ずる事を内容とした建築基準法の改正が行われ」たのだった。

 見直しや合理化の美名のもと、結果的には欠陥マンション・ビル群の建設につながってしまったわけだ(実際にはその以前からあったことのようだが)。

 耐震データ偽造問題などに発展していく端緒が実は、阪神淡路大震災だった…。
 阪神淡路大震災時の建物の被害状況をその気になって見直してみれば、いろんなことが分かったはずなのに。
 けれど、専門家を含め多くの人が目を背けてきた。
 その怠慢のツケが今、来ている。
 耐震データ偽造問題に関連して、ヒューザー社長の証人喚問が1月17日、つまり阪神・淡路大震災があった今日に予定されているのは、暗黙の計算があってのことか、ただの偶然か。

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2006/01/16

三井の晩鐘…三橋節子の最後の手紙

「魔の雪」…雪国」にて若干、紹介を試みた立川昭二著の『病いの人間学』(筑摩書房)を過日、読了した。当初は車中での気軽な読み物、ということで待機中に読んでいたが、内容の濃さに薄暗い、しかも慌しい車中で読むには勿体無いと、冒頭の数十頁を覗いては自宅で読んだ。
 この本で扱われている各章、そして各々の作家たちをそれぞれに採り上げたい気もあるが、さすがに難しい。ここでは最後の章「おわりに*病いの創るもの」で扱われている故・三橋節子(みつはしせつこ)さんを彼女の作である「三井の晩鐘」(みいのばん しょう)を焦点に少々、触れておきたい。
 有名な作品だし、「三井の晩鐘」と聞くと、あるいは三橋節子さんという名前を聞けば、ああ、あれかと思い当たる方も多いだろう。
 尤も、「三井の晩鐘」というと、まずは、広重(廣重)画の浮世絵「三井の晩鐘」(大津市歴史博物館収蔵)を思い浮かべられる方も少なからずいるかもしれない。
 ということは「三井の晩鐘」は風景として、あるいは名所として江戸の世から既に名高かったということであろう。
 まあ、近江八景の一つであり、「環境庁の「残したい日本の音風景100景」にも選ばれ」ているし、あるいは除夜の鐘ということでこの鐘を撞(つ)いた方もいるかもしれない。
「重厚な鐘の音色が琵琶湖一帯に響き渡る」というし、「琵琶湖を眼下に見下ろす長等山の静かで広大な境内」に立ち、「その音色のすばらしさは古くから知られ、形の平等院、銘の神護寺とともに、音の三井寺として日本三名鐘のひとつに数えられており、長い歴史が育んだ物語や伝説とともに、地域の人々に親しまれている」というのだから、実際に聞いてみたい、撞いてみたいものである。

近江八景のひとつとして有名な「三井の晩鐘」は、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)の金堂前の鐘楼につるされている」という。が、「この鐘は、慶長七年(1602)に、伝説で知られている「弁慶の引摺鐘」を摸して造られたものである」とか。

 さて、本題である。
 三橋節子さんの作品である「三井の晩鐘」については、本書『病いの人間学』での内容の凡そが「三井の晩鐘 - 三橋節子美術館を訪ねて」という頁に記してある(「近江の散策 歴史・史跡・風景・グルメなど」参照)。
(あるいは、「三井寺>連載>浪漫紀行・三井寺>三井の晩鐘」も参考になる。)
 画「三井の晩鐘」をまずは観ていただきたい。
 小生がどんな機会にだったか初めてこの画を一瞥した時、ちょっと暗い雰囲気が漂っていて、近寄りがたいものを感じた。
 が、彼女の生涯やこの作品を作る背景などを知ると、この薄暗さが実は極めて内省的であり、ひたすらに遺していかざるを得ない我が子へ愛情を注いでいる彼女の切なさが濃厚に篭っているのだと感じる。
 だから、作品が傑作なのか、あるいは背景事情に胸打たれていたのか、自分の中では久しく曖昧だったのも事実なのである。
 久しぶりに書籍の写真、あるいはネット上の画像を見る形で対面して、率直にいい作品だと感じた。遅まきながらではあるが。
 とにかく彼女の画業が奇蹟と称されるのは、多くの傑作が彼女が利き腕である右腕を失ってから亡くなるまでの二年間に描かれたものだという点にある。

 彼女の特に絵描きとしての人生とは、「三橋さんは二人の子供が幼い時期に右腕を失い、その後わずか2年で35歳の短い生涯を閉じました。三橋さんは右腕を失った後、左手で絵を描き続けました。左手で描いた絵は滋賀の民話にちなんだものです。「三井の晩鐘」は三橋さんが右腕を失った年(1973)に描かれています」というもの。
 読まれて分かるだろうが、右腕というのは彼女の利き腕だったのである。
 さらに本書にも載っているが、「その画題は、近江に伝わる昔話から」のものなのである。
 それは、「三井寺>連載>浪漫紀行・三井寺>三井の晩鐘」によると、以下のようなもの:

村の子どもらにイジメられる一匹の蛇を助けたことで、里の漁師は竜宮の王女をめとることになります。間もなく、二人の間には子どもが産まれますが、自分が竜女であることを知られた女は、琵琶湖底に呼び戻されてしまいます。残された子どもは母親を恋しがり、毎日、激しく泣き叫びます。でも母親にもらった目玉をなめると、不思議と、泣きやむのです。しかし、その目玉も、やがて小さくなり、ついに竜女の両方の目玉はなめ尽くされてしまいました。盲(めいし)になった竜女は、漁師に、三井寺の鐘をついて、二人が達者でいることを知らせてくれるように頼みます。鐘が湖に響くのを聴いて、竜女は心安らがせたといいます。
   上掲の「三井の晩鐘 - 三橋節子美術館を訪ねて」なる頁には、「近江むかし話(滋賀県老人クラブ連合会/滋賀県社会福祉協議会・編、洛樹出版社)からの原文が引用されている。 「近江むかし話」なる本は入手が可能かどうか不明だが、それだけに上記の原文は貴重だろう。

 これらを読んだ上で再度、三橋節子さんの作品「三井の晩鐘」を見直してみると、「絵の女も竜も目がない!」ことに気づくだろう。
 
 ここには詳しくは書かないが、三橋節子さんの作品「花折峠」 も「湖の伝説」シリーズの一環として作られたものである。「花折峠の邂逅」や「花折峠」という民話の原作者である「中野隆夫の世界」なるサイトを覗いてみてほしい。

「三橋節子は1975(昭和50)年、絶筆「余呉の天女」を描いて静かに35年の生涯を閉じた」…。それから既に30年が過ぎ去った(「思文閣美術館 三橋節子回顧展」参照)。
 彼女の作品や生涯については、初めて知ったのはいつ何処でだったのか覚えていない。ただ、梅原猛氏の著作にはこれまで随分とお世話になってきたので、あるいは氏の『湖の伝説 三橋節子の愛と死』(新潮社)によってだったかもしれない(この本は絶版?)。
 梅原猛氏の著を原作の公演「三井の晩鐘」もあったらしい。

 小生は未読だが、彼女の一周忌に出来た追悼文集『吾木香-三橋(鈴木)節子を偲ぶ』(三橋時雄編、あらくさ印刷共働作業所)があるらしい。

 本書『病いの人間学』によると、「「三橋節子美術館」の一隅に、二枚の小さな紙片が展示されている」という。
「それは節子が死の前日に二人の子どもに書き残した手紙である。三歳三ヶ月になる娘なずなと五歳になるくさまおあての手紙」なのである。
 一見するとたどたどしい文字の手紙。けれど(死の直前の)病床にあって左腕でやっとの思いで書いた手紙。
 その内容は、「るる☆女を語ってみました。 三橋節子(画家)」で読むことが出来る。
 敢えて転記はしない。
 是非、このサイトの中に載っている手紙を読んで欲しい。
 できるなら、手書きの手紙をここに掲げたいものである(ただ、息子であるくさまお君への手紙で「さようなら△またきてね□」とあるが、正しくは「さよなら△またきて□」であると老婆心ながら付記しておく。これが最後の手紙。子ども相手の悲しいユーモア…)。

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新作句アップ!

 今年も元気に恥を怖れず句作してますよ。臭くしているんじゃないよ!
 笑っちゃうつもりで覗いてね。できれば、コメントや句を寄せて!
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 
無精庵方丈記 落句拾遺1-1

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2006/01/15

元朝と大和ドジ二題

 新年早々でもないが、小生の浅はかさが如実に出たドジをしてしまった。
 あるサイトで、「元朝や鼠顔出すものの愛」という句を英訳するのに、なかなかこの句の理解が及ばず苦労しているとあった。太祇の句である。
 小生、「元朝」という語がまるでピンと来ないのでネット検索。
 すると、あるサイトで「元朝祭」とか「元朝参り」という言葉を見つけた。
 なので、小生、早とちりして、「元朝」と句にはあるけれど、「元朝祭」か「元朝参り」の意味なのかもしれないとコメントしてしまった。
 が、さきほど、「元朝」で検索してみると、季語が「元朝」の俳句として以下の7件が検索されましたとある。
 その7件とは、「ひたすらに風が吹くなり大旦  中川宋淵」「ぼろ屑のように眠りて大旦  前田吐実男」「元日や暮れてしまひし家の中  池内たけし」「元旦や暗き空より風が吹く  青木月斗」「元旦や暗き空より風が吹く  青木月斗」「旧景が闇を脱ぎゆく大旦  中村草田男」「歳旦や虚構す文字の冴えやすし  松澤昭」である。
 あれ、「元朝」という語が織り込まれていないじゃない?!
 もしかして、「元朝」って「大旦 元旦 歳旦」などと類義語?!

 改めて、いつもお世話になっている、「季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」を覗いてみると、その冒頭、一行目に「元朝」が掲げられてある。
 ああ、一体、小生は何を見てたんだろう。これまで今月に入ってだけでも(昨年だって)幾度、この表を眺めたことか!

 気を取り直して「秋桜歳時記」の中の「秋桜歳時記・季語・新年」を覗いてみると、「元朝(がんちょう)【元旦 歳旦】」として、「元朝の一献阿弥陀如来にも   尼子凡女」「元旦の真たゞ中にわれひとり   川村千英」の二つの句が例示されている。
 この頁には「大旦」が載っていないが、「大旦(おおあした)」と読み、「大旦蛇口ひねれば水溢れ  中林明美」なる句が「日刊:この一句 バックナンバー 2004年1月1日」にて見つかった。
 坪内稔典氏の鑑賞にあるように、「蛇口をひねれば水が溢れることは、とりあえずはとても幸せなこと」であり、また、新年の朝、蛇口をひねると溢れ出た水に、寒い朝かもしれないけれど、命の息吹や鮮烈感が眩しくて、他の多くの句に比して、元旦に相応しい句だと感じ入る、なんて「元朝」を季語と気づかない小生が感想を述べても誰も喜んではくれないだろう。

 ドジというのではないが、これも昨日のことだが、車中でこの辺りに美術館はあるかと訊かれた。走っていたのは、その時は港区の三田である。
 小生、今は控えているけれど、一時期は方々の美術館通いや画廊巡りをしたことがある。
 が、三田(港区)近辺となると、俄かには思い浮かばない。近くでは東京都庭園美術館、青山には根津美術館、目黒まで行けば目黒美術館などと思いつくままに口にしてみたが、思えば港区には美術館って少ない?
 お客さんが口にしたのは、目黒寄生虫館だが、これって美術館じゃないしね。気になるサイトではあるが(目黒区にある美術館などの情報は別の機会に)。
 思えばある年代以上の人には寄生虫は馴染みである。小学校などで検便をやったものだった。最近はピロリ菌が話題になっているけれど。

 さて、では、本当に港区には美術館の類が少ないのか、ネットで調べてみた。すると、「港区の美術館・博物館一覧 eHills Playguide/eHills」なるサイトがあって、あるわあるわである。
 小生自身の勉強のためにメモしておくと:

 アド・ミュージアム東京
 NHK放送博物館
 大倉集古館
 岡本太郎記念館
  菊池寛実記念 智美術館
 サントリー美術館 (2007年開館予定)
 泉屋博古館 分館(せんおくはくこかん ぶんかん)
 東京都庭園美術館
 虎屋文庫
 根津美術館
  畠山記念館
 松岡美術館
  松下電工 汐留ミュージアム
 森美術館

 まずいなー。これでもタクシードライバーなのか?! である。幾つかを除けば、美術館の名も所在も知らないわけじゃないのに、咄嗟に訊かれると、名前が浮かんでこない。
 以前は港区に居住していたし、結構、美術館通いもしたはずなのに、足を運んでいないサイトが多いこと(新しいサイトも増えているけれど)。

 さて、頭の中は、港区にはどんな美術館や博物館があるかなと、お客さんを下ろしてからも気になっていた。
 すると、偶然だろうか、それとも気掛かりだったからこそ、その広告が目に飛び込んできたのか、「大和ミュージアム」のバス広告が。
 都内の都営バスでは今や当たり前の光景になってきた、ラッピングバス広告である。
 当初は、都会の景観を壊すと毀誉褒貶いろいろあったようだが、賛否はともかくすっかり定着してしまっている。
 
 その「大和ミュージアム」という文字を見て、あれ、港区かどうかはともかく都内にこんな美術館(乃至は博物館)が出来たんだ、どんなサイトなんだろうと、車を走らせつつ思い巡らしていたら、どこかの街角で「大和ハウス」の広告を目にした。
 そっか! なーんだ、「大和ハウス」が作った、何か建物の博物館か、あるいは社の所蔵する美術品を展示するサイトなのかと、直感。

 が、その直感は完全に的外れだった。
 調べると「大和ミュージアム」であり、「大和」は「やまと」と読むのだった。
 それにしても、「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)は、広島県呉市(宝町)に所在すると言うのに、なぜわざわざ東京でバス広告を打つのか。
 やはり、昨年末から公開になっている映画「男たちの大和/YAMATO」に直接かどうかは別にして無縁ではないのか。映画とタイアップしての広告なのか。
 ちなみに、この映画の「原作は、新田次郎文学賞を受賞した辺見じゅんの「男たちの大和」」である。

 原作者の辺見じゅん氏については、小冊子の「富山県人」を愛読している小生、この映画の原作者だという話題に限らず作家・歌人だということで名前だけはかねてより知ってはいた(但し、全く未読。氏の略歴は以下でも紹介する「私と島根」を参照願いたい)。

 なんたって、数少ない富山県出身の作家(歌人)なのである。
 他には、久世光彦(富山市出身)、木村剛(経済評論家・作家)、直木賞受賞(1951年)の源氏鶏太(富山市出身)、芥川賞受賞(1951年)の堀田善衛(高岡市出身)、同じく芥川賞受賞(1967年) の柏原兵三(入善町出身)などの各氏。
 漫画家には、藤子・F・不二雄(高岡市出身) 、藤子不二雄A(氷見市出身) 、花咲アキラ(射水市-旧新湊市-出身)などなどの各氏。
 俳人に角川源義氏。美術評論家・美術作家の滝口修造氏(富山市出身)などなど。

 ネット検索したら、「私と島根」と題された辺見じゅん氏の短いエッセイが見つかった。
「シベリアの収容所で亡くなった隠岐出身の山本幡男(はたお)」氏のことが紹介されている。
 彼は、「山本さんは、収容所の中で万葉集の会や句会を開き、たくさんの収容された日本人に日本の文化の美しさを訴え続ける。そして遺書の中にも、日本人としてどう生きるかを伝えているのであ」り、なんと、「山本さんの遺書は、同じ収容所の仲間たちが分担し「記憶」という比類ない方法によって昭和32年以降、遺族の元へと次々に届けられた。最後の一人が届けたのは、昭和62年の夏であった」という。

 さて、表題の「元朝」に戻ると、小生は元朝をどのように迎えたかというと、「小生は、何もしない。夜明かしというか年越しも、例によってロッキングチェアーに腰を埋めていて、読書している間に寝入ってしまって、幾度かは夜中や未明に目覚めたが、寝るのが楽しみとばかりに、今日の元旦が休日なのを幸いに、ひたすらのんびりだらりと過ごしてしまった」のだった。
 こんな小生では、今年もドジを重ねるばかりのようだ。

元朝を椅子で迎えて日の目見ず


(以下、追記)
 書き忘れたが、冒頭に示した、「元朝や鼠顔出すものの愛」なる句の意、すっきりしない。いずれにしても、「元朝」は「大旦 元旦 歳旦」の意のほうが合っているよう。
 敢えて以下のように鑑賞してみた:

 元日の朝、わび住まいに嫁が君(ネズミ)が顔を出した。ああ、お前はオレを慰めるために今日という日に顔を出してくれたのか…。思い入れに過ぎないかもしれないけれど、普段は毛嫌いしているネズミも、こうしてみると愛らしいし、鼠が顔出すってのも慈愛あることなのかもしれない。

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2006/01/14

嫁が君…招かれざる友

季題【季語】紹介 【1月の季題(季語)一例】」を眺めていて、前から気になっていた季語がある。表題の「嫁が君」である。「新年のねずみの事」というが、一体、なんのこっちゃやら。
「冬・新年の季語」の「嫁が君」なる項を参照させてもらうと(「こっとんの部屋」より)、「これは「新年」の季語です。いかにも初々しい嫁の様子などが浮かびますが、その実体は「ねずみ」です。いつもは追い回される存在が、正月の三が日に限っては新年を寿ぐところから、このように呼ばれるのだそうです」とあり、「あくる夜のほのかにうれし嫁が君   其角」なる句が添えてある。

 この句「あくる夜のほのかにうれし嫁が君」については、野暮ながら若干の鑑賞を紹介しておく。
 「続猿蓑下巻春の部脚注」によると、「正月に合わせて嫁に来た花嫁。改めて正月に披露され、嫁といわれる白々と明ける初夜のあかりのうれしさ、という艶っぽい意味も裏に隠されているらしい」とか。

[ 花鳥風月 ](「花鳥風月【日本の伝統ミュージアム】」参照)の冒頭にある「嫁が君(よめがきみ)【正月の季語】」によると、「新年には祝う心で、忌み言葉として使わないものがあり、呼び名を変えて使っていました。例えば、雨や雪を「御降(おさがり)」、寝るを「稲積む」としていました」ということで、さらに、「ネズミは、日常生活でもっとも身近な存在として、嫌われてもいたし、親しい動物でもあったのは、様々な民話にも表れています。大黒さまの使いとされ、正月にもてなす習慣がありました」という。
 ここには、「餅花やかざしにさせる嫁が君   松尾芭蕉」なる句を載せてくれている。

 大黒さまの使いとされるネズミについては、干支との関係で以下のサイトの「子(ねずみ)」の項が詳しい:
講演会「十二支と日本人」

 ネット検索してみると、小生には珍しいばかりの季語「嫁が君」であるが、それでも「ぬば玉の寝屋かいまみぬ嫁が君   芝不器男」や「嫁が君家中を緑が走る   堀之内長一」、「築三十年うぐいす張りと嫁が君   野分」などが見つかる。
 いずれの句も正月の句だからということもあるのだろうけれど、敢えて苦手な鑑賞などしないけれど、鼠をさしていう忌み詞である「嫁が君」なる言葉を使っているだけに、何かユーモラスだったり正月らしく華やいで浮き立つような雰囲気が漂っているような。

 金子兜太の「自由の語の頼もし恐ろし嫁が君」に寄せた田中空音氏の鑑賞も楽しい。

三省堂 「新歳時記」 虚子編から 季語の資料として引用しています。 1月の季語」(「よっちのページ」より)を覗かせてもらうと、「嫁が君出て貧厨のめでたさよ   孤峰」「内陣を御馬駆けして嫁が君   月尚」「連なりてがてんがてんや嫁が君   駒吉」「三寶に登りて追はれ嫁が君   虚子」「嫁の君天井裏でデートかな   よっち」などを見つけることができた。
 この季語は結構好まれ使われているようだ。

 小生がガキの頃、土間などの隅っこに小さな穴が開いていて、不審に思っていたら、父が「それはネズミの作った穴だ」などと教えてくれた。
 なるほど、そうだったのかとそれから注意して土壁の角などを見るようになった。
 すると、あるはあるは! である。
 もっとも、ある日、中にはヘビの作った穴もあると言われて、それからは穴が不気味に思えて目線に入りそうになると、慌てて目を逸らすようになった。

 思えば、我が家に昔いた愛犬も、ネズミ要らずを誤って食べて死んでしまったのだとか。小生が物心付いたかどうかの頃の事件だったようである。犬がいたのを小生は覚えているような覚えていないような。
 なんとなく秋田犬っぽかったという記憶というか印象があるが、後日、そんなふうな犬だったと誰かに説明されて、逆に脳裏にそうした<映像>が刻み込まれたような気もする。
 我が家はその事件に懲りて、犬も猫も飼わなくなった。
 ただ、ネズミを捕らえる金網を土間で幾度となく見たのだけは鮮明に覚えている。ネズミが捕まった様子は見ていないはずなのだけど、その網がやけにおどろおどろしいように思えたのだから、小生、余程の臆病者だったに違いない。


嫁が君見たはずなれど夜目が君
嫁が君かく呼ばれても君は君
嫁が君居れば邪魔だしなきゃ寂し
嫁が君招かれざるを知って出る?

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2006/01/13

たばこの日 たばこの火

 昨夜、滑稽な、でもどこか哀れでもある場面を仕事中に見た。
 時間は夜中である。とある場末に近い駅前。
 ある酔漢が自動販売機で煙草を買おうとしている。ところが、よろつきながらも、彼なりに気合を入れ神経を集中させて千円札を入れ口に押し入れようとするのだが、機械は一向に受け入れてくれない。
 酔っ払いは手にしている札をすぐ近くのコンビニの明かりで照らして間違いなく千円札であることを確認。また、販売機へも顔を間近に寄せて札の投入口であることを確認。
 そして千円札を入れようとするが、やはり弾かれる。
 仕方なく、その札を仕舞い、他の千円札を取り出し再チャレンジ。

 昨日は幾分、寒気が緩んだとはいえ、真冬である。その酔漢は背広姿でコートを羽織っていない。他人事ながら寒そうだ。
 本人は酔っ払っていて寒さに鈍感になっているのかもしれないが。

 言っておくが、缶ジュースなどの自動販売ではない。ちゃんと煙草の自動販売機なのである。
 ただ、上記したように深夜11時どころか夜中の2時頃だったのだ。
 そう、夜中は煙草の自動販売機は使えないようになっているのだ。
 そもそも自動販売機の明かりも消えている。それは顔を寄せてみなくたって遠目にも分かる。
 夜中だってことが酔漢には分からないのか。あるいは時間の感覚が飛んでしまったのか。
 大体、自動販売機はコンビニの脇にある。そのコンビニは煙草も酒も売っている。
 小生、余程、車を降りて教えてやろうかと思ったが、困っているといっても、酔漢である。煙草を買う手伝いをするのも心苦しい。
 ただただ、背広を着た男の懸命な後姿を見て、ああ、煙草を吸いたい人は、何が何でも煙草が欲しいんだろうな、と思っていた。

 車中でラジオを聴いていて教えられたのだが、今日、1月13日は「たばこの日」だそうな。

 なんでも、「1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売された。当時、10本入りで7円で、日曜・祝日に1人1箱だけに限られていた。」とのこと(「1月13日 今日は何の日~毎日が記念日~」より)。
 なので、別名「ピース記念日」。
「ピース記念日」とあるのを読むと、平和(ピース)を祈念する日であるかのようだけど、あくまで煙草の「ピース」が発売された日を記念しているわけである。
 小生がガキの頃は父が吸っている煙草は、その時期によって決まっていて、 「しんせい」だったり「わかば」だったりしたようだけど、「ピース」の時期もあったように記憶する(小生のガキの頃のことで、断定はしかねる)。
 多分、一箱に10本入りの「ショートピース」を愛用していたような。ただ、50本入りの缶入りのピースも奥の座敷の座卓の周辺にあったような記憶(これも曖昧)もある。
 たばこにいつからフィルター装着が当たり前となったのかは分からないが、少なくとも数十年の昔は、たばこというと「両切」で、吸っていると、煙草の葉っぱが口中や唇に零れだして来る。

 誰の吸う様子を眺めたのか、これも定かではないのだが、箱や缶から煙草を取り出すと、まずは煙草をテーブルや煙草の箱に向かってトントンとやって、煙草を吸う前に(口に持っていく前に)こぼれそうな煙草の葉っぱを予め落としてしまっていた、そのようすが別に恰好がいいわけではないのだが、妙に気になる仕草であり、いつかは自分でもやってみたいとガキながら思っていた。
 煙草はドンドンと新製品が出されていったが、小生が高校生の頃はハイライトが目立っていた。
 実を言うと、小生が初めて吸ったのもハイライトだった(但し、ガキの頃に悪戯でこっそり吸う真似をしてみたが、そのあまりの苦さやきつさに辟易してしまった!)。大学に合格しホッとしてしまって、腕時計や万年筆などを入学祝に貰い、ちょっぴり大人の気分になってみた。
 そうして、さすがに高校卒業直後の春休みには自宅では吸えなかったが、友人らと繁華街の喫茶店に集まった時など、珈琲を注文し、その際、煙草はなくてはならないものになった。
 燻らす煙草の紫煙が目に痛かったり、口に苦かったりして、珈琲の味だって慣れない煙草の苦味で微妙に不快なものに成り代わったはずだけれど、その苦さと渋みとが相俟っていよいよ自分も大人の仲間入りだと生意気ながら感懐深く感じていたのだった。
 吸い出した最初の頃はハイライトだったが、ちょっときつすぎて、すぐに当時、出始めていたマイルドセブンに切り替えた。

 当時は、煙草の有害さもさほど知られていないし、そもそも研究も(海外は知らないが)日本ではそれほど盛んではなかった。まして肺ガンその他のガンとの関連、受胎した子供への影響、受動喫煙や、主流煙よりもむしろ副流煙のほうが有害だといった問題など話題にもならなかった。
 それよりも、テレビにしろ映画にしろ、ヒーローが煙草を吸うのは当たり前だった。
明治時代、その名も「ヒーロー」という煙草が売り出されたことも。)
 というより、映画スターなどのヒーローになるには煙草をいかに格好良く吸うかに大きく関わっていたとさえ言えた。

 煙草を小道具に使っていた(というイメージの濃さの点での)日本での典型はなんと言っても石原裕次郎だろう。
 暗黒街にあって、敵と孤独な戦いをするのに煙草は不可欠だった。否、主役だけではなく、敵役、暗殺者だって、電柱の陰に潜んでターゲットの到来を待つ。その際、神経の苛立ちを押さえるためか、次々と煙草に火をつけ吸い半端に吸っては投げ捨て革靴で踏み潰す。
 ヒーローにしろ悪漢にしろ、燻らしていた煙草を投げ捨てるのが行動開始の合図乃至は切っ掛けのようになっている。情や未練やしがらみを断ち切り、あるいは俗世間との離間を自らに踏み切らせるためにも、口に銜えていた煙草を路上へ無造作に投げ捨て、それだけではなく、靴の裏で踏み潰して紙で巻いた煙草の中身をも、つまりは腸(はらわた)すらもグジャグジャに崩してしまう。
 
 そういえば、ガキの頃、好きで読んだり観たりしていた漫画の「エイトマン」は、なんと煙草を吸う!
 但し、実際は、「エイトマンは電子頭脳のオーバーヒートを抑えるために、ベルトのバックルに収めてあるタバコ型強化剤を定期的に服用しなければならず、時には服用できずに危機に陥ることがあった」のであって、本当に煙草を吸っていたわけではないのだが、子供にしてみたら、大人が燻らす煙草も、つまりは電子頭脳ならぬ頭を沈静化させる特殊で有効な何かに映っていた、そのことと相関させざるをえない。

 煙草と言うと、池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』も逸するわけにはいかない。毎回のドラマに必ず登場する長谷川平蔵の奥方の手料理などの「おしながき」、平蔵愛用の湯呑み茶碗、そして父の形見の銀煙管(キセル)!
 平蔵は思案に暮れる時、寝床でさえも煙管を燻らす…。

 煙草を気兼ねなく吸えた時代、一家の大黒柱だけが堂々と吸って周囲を文字通り煙に巻いていた時代。親父というと、ガキの頃、怖かった父の傍に何かの折に近づくと、着ている背広や和服には、それどころか手など体にさえ煙草の匂いが染み込んでいて、煙草イコール親父、だったりする、そんな時代。

 ドラマのシーンを演出するには恰好の小道具である煙草
 そんな煙草を格好良く小道具に使うヒーロー像は様変わりした…と思いたいが、最近は格好良く煙草を手にするヒロインがドラマに登場する場面を目にすることが多くなってきたような。
 女性進出の象徴として、男もすなる(吸うなる)煙草を女もすなる(吸うなる)ということか。ちょっと安易な女性像の描き方のような気がする。

 小生は約6年間、喫煙していたが、一時、煙草の趣味が昂じて葉巻きに手を出してしまったりして、本代にも事欠くのにどうして煙草を買っちゃうんだろうと我ながら情けなく思ったりした。
 といってもヘビースモーカーでもチェーンスモーカーでもなく、一日に吸う本数はせいぜい30本だったと思う。
 その小生が煙草をやめたのは大学生活も最後の年の春。前年に虚構作品を卒論として提出して撥ねられ、留年し無理やり拵えた論文モドキの卒論がお情けで受理されて卒業見込みとなり、いよいよ仙台の地から東京へ出て行こうとしていた。
 それには引越しのカネが要る。
 恐らく一月の終わりか二月の初めだったろうか。時間も出来たので、長期のアルバイトに携わることにした。頭脳労働は苦手の小生、アルバイトというと必ず肉体労働である。ちょうど一ヶ月という期間のアルバイトを(学校で)見つけた。
 ところが、アルバイト口が見つかったはいいが、体を壊してしまった。
 風邪…。

 しかし、それまでだってこの小生も風邪くらいは引いたことがあるが、あれほどひどい風邪は経験したことのない性質(たち)の悪いものだった。
 学生時代の最後の数年は下宿ではなくアパート暮らしだったのだが、栄養が偏っていたのか、風邪が一向に治らないし、ちょっと快方に向かったかと、歩いて十数分の商店に行き、即席ラーメンなどを買うのだが、その往復の間に真冬ということもあってか、一気に風邪をこじらせてしまい、アパートに帰り着く頃には息も絶え絶えになっているのだった。
 冷たい風がまるで障子紙に水の染み透るように体に染み込む。気持ちでは身構えていて寒さに立ち向かおうとするのだが、まるで抵抗力が失われていて、とうとう一ヶ月ほども寝込んだ。
 寝込みつつも、上京する資金が要る。無理を押して建設現場でのネコ車を使っての坂道でのセメント運びなどをやったが、まるで体に力が入らない。
 咳は止まらない。鼻水が出る。ひょろひょろの体でこしらえた即席ラーメンがまるでロウで作った見本みたいに不味い。
 体力が空っぽだった。
 そんな状態が一ヶ月ほど続いたのだ。
 アルバイトを予定の期間、遣り通したかどうか覚えていない。

 予定のカネが得られず、学生時代に買い集めた本をダンボールに二箱ほど古書店に売り払った。当時は、新しい本だったら低価の4割ほどで売れたので、なんとか軍資金は集められた。
 さて、二月の終わりだったか三月の初めだったか、アルバイト(期間)も終わり、同時に(だったかどうか分からない)体も癒えて来て、いよいよ上京の期日が近づいた。
 とはいっても、まだ昼間も養生していて用事を果たす時以外は寝床を離れられなかった。
 小生はその臥す寝床で最後の一服を手にしていた。天井へ舞い上がる紫煙。手元の煙草の小さな火。

 平蔵とはまるで違う状況ではあるが、寝床で煙草を燻らせながら、卒業そして上京の時を記念に煙草を止めようと決断したのだった。
 そんな時でもないと煙草はなかなか止められなかったと思う。
(他にも煙草をやめた切っ掛けはあるが、ここでは略す。確か、何かのエッセイで書いたはずだし。)

 幸いにして、それ以来、四半世紀以上は経過しているが、煙草と縁を切ってからは1本は覚えているが2本を吸ったかどうかは覚えていない(多分、吸っていない)。
 尤も、受動喫煙副流煙は、仕事柄、嫌というほど吸わされている! なかなか、煙草とはきっぱり絶縁とは行かないようだ。


(注)煙草の有害性については、「「煤払」…末期の一服」などを参照のこと。

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2006/01/12

ペチカ…サモワール…ドストエフスキー

 ひょんなことからドストエフスキーの『罪と罰』を読むことになった。昨年の後半は、正宗白鳥の短編集を週に一つか二つずつ読み進め、ジョージ・スタイナー著の『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)を読んだこともあり、久々にトルストイの大作に挑戦したくなった。
 ところが、図書館で探しても、『アンナ・カレーニナ』が単独で一冊(分冊でもいいのだが)になっている本が見当たらない。
 仕方なく、集英社ギャラリー版の『ロシア Ⅱ』を借りることした。この本には『アンナ・カレーニナ』が収められている。ただ、一緒にドストエフスキーの『罪と罰』も収まっていて、一冊で二度おいしいのはいいけど、解説も含めるとなんと1400頁!
 読書の速さの遅い小生のこと、両者を読了できるのは早くて来月の後半になるのは歴然。ま、今の小生は物語としての文学モードに入っているので、これもよきかなである。
 
 ということで、本書の前半には『罪と罰』が鎮座しているので、少々予定外ではあるが、久しぶりにルイ‐フェルディナン セリーヌ著の『夜の果てへの旅』と共に我が青春の書でもある『罪と罰』を読むことになったのである。

 つい先日、村上春樹著の『海辺のカフカ』を読了したばかりである。その余韻も去来する中、今、『罪と罰』を読み始めてみると、やはり比べるのは意味がないとしても、その圧倒的な叙述力や表現力の違いを痛いほど感じさせられる。
 今度が少なくとも六度目の挑戦となる小生にとっても(この前、読了してから十年以上が経過しているせいもあろうけれど)、読む文章が新鮮であり、冒頭からその文章力に圧倒され引き込まれていく。若い頃のように体力も気力もないし仕事が控えていることもあって、合間合間に読み進めるしかない現状が情けないけれど、それでも、読んでいる最中はドストエフスキーワールドに耽溺できてしまう。
 美は細部に宿る、ではないけれど、主人公のラスコーリニコフが殺人を犯すに至る心理的経緯にしてもじっくり描きこんである(殺人を犯して以降はもっと徹底して描かれてあるのは言うまでもない)。

 村上春樹氏の『海辺のカフカ』は、モチーフも手法も違うから上述したように比較は無理としても、時代が違うと言えば安易過ぎるが、しかしあまりにあっさりと殺人が描かれる。

 時代。そう、殺人事件が頻繁にマスコミを賑わす。意味があるのか、精神的分析に堪えるのか、愉快犯なのか、実は深い背景があるが、そこまで捜査が及ばないままに有り触れた殺人事件で処理されていくのか、いずれにしても、本来、人の命が奪われる深甚な事件であるはずなのに、隔靴掻痒のままに次から次へと新しい事件が起きて、どの事件も有耶無耶のうちに忘却の彼方へ消え去っていく。
 恐らくは誰もがもどかしい思いをしている違いない。

 でも、分からない以上は、とにかく犯罪者が捕まればとりあえず一件落着であり当面は安心する。あまりに事件が多いから、逐一の事件に拘泥など論外。
 だけど、じっくりと人が人に向き合いたいという思いも誰しもの胸にもあるのではなかろうか。
 それを可能にするのは、やはり本格的な文学(作品)にしかないようだ。心理学の本、脳科学の本、物理の本、人類学の本と少しは読み漁っても、科学を銘打っている限りは、まさに科学の俎上からは肝心の何かが漏れ零れる。
 科学が科学である限りは、興味深い情報をドンドン提供してくれるし、宇宙論にしても、過去のどんな哲学者や宗教家のビジョンよりも遥かに凄まじい奇想天外のビジョンが示される。
 が、ここにいるのは一人の人間に過ぎない。宇宙の広大無辺さと向き合いつつも、同時にその広大無辺さは実は心の中にこそさらに遥かに茫漠とそして混沌として伸び広がっているのだということを痛感させられる。
 しかも、その広大さの中には認知症や介護や死の病やといった、徹底して個が向き合うしかない極小の中の底なしの泥沼があったりする。

 一人の人間が一人の人間に徹底して向き合うこと。その覚悟のほどが文学作品では歴然と立ち現れてくる。その希薄のようなものが一番、明白となるのは、ストーリー展開や文学手法や登場人物のキャラクター云々より何より、個々の叙述にあるのだ。
 つまり、小説の紹介では、あるいはストーリーの紹介では端折られる部分だ。美は細部にあり。神は細部に宿る。細部とは瑣末のことではなく、今、ここ、であり、現に向き合っている表現のその都度の本気度だ。

 さて、小生は学生の頃からロシア文学に惹かれてきた。アメリカ文学もヨーロッパの文学や哲学も読み齧ってきたけれど、戻るところは日本の文学は別格としてロシア文学のようである。
 小生にロシア文学について語る能力は残念ながらないので、表題にあるような19世紀から20世紀の前半のロシア文学作品を読むと登場するウオッカやペチカやサモワールという無言の、だけど欠くべからざる脇役たちを一瞥してみたい。
 ペチカは、これはたまたま10日の仕事中、車中で久しぶりに北原白秋が作詞し山田 耕筰が作曲した「詞は北原白秋氏が満州旅行で見た自然風景を思い浮かべ作ったものだそうです。1925年の曲」だという「ペチカ」を聴いたので、懐かしいのでついでに採り上げる(同じ日に「かあさんのうた」(作詞・作曲:窪田 聡)もラジオから流れてきた。季節柄というものか。この曲の中では「いろり」が出てくる)。
ペチカの歴史」というサイトが見つかった(「Architecture jardin~建築散歩~」参照)。
 冒頭に「ペチカはロシアの暖房として有名ですが、元々は北欧地方の暖炉(囲炉裏)から発達したと言われています。
北欧では、17世紀に煉瓦造りのペチカを造る技術が確立し、ロシアへ輸出したことが、ロシアで普及したきっかっけです。 ロシア式ペチカというのは、この後ロシアで改良され、技術が発達したものです」とある。
 小生などは勝手にペチカというとロシアという印象を抱いていたけど、必ずしもそうではないわけだ。
 旧満州はもとより北海道で一部では普及したようだが、徐々に廃れていった。
 それがまた、「ペチカは煙突に逃れる廃熱を利用して複数の部屋を暖める「セントラルヒーティング」。実に省エネ性に富んだ先進的な暖房システム」だということで、見直されつつあるとか。

 さて、作家ドストエフスキーもペチカとは無縁ではない。
ドゥニャンのどたばたモスクワ劇場」の「ドストエフスキーの生家」なる頁を覗かせてもらう。
「ドストエフスキーの生家は今はその名もドストエフスキー通りと名づけられている一画にあ」り、「1983年、ここはドストエフスキーを記念してドストエフスキー博物館とされ、今、文豪の生家として公開されている」という。
「ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間」に尽きるとか。
 以下、丁寧な説明が続く:

 

 ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間。この小さな玄関の間は板仕切りで仕切られていて、窓からの光がほとんど入ってこない。当時をしのばせるかのようにろうそくを摸した小さな明かりがつけてある。
玄関の窓は小さなもので中庭からの採光がとても悪い。夏の昼間でも薄暗いのだから、長い冬の暗い時期には終日夜のような暗さだった違いない。ましてや、仕切りで仕切られた小部屋は窓もなくほとんど光りは入り込まない。その小さな信じられないほど暗くしきられた部屋が、作家その人フォードルと兄のミハエルの寝室兼勉強部屋であった。二人はここで話をしたり、一緒に本を読んだり、後の終生変わりない深い兄弟愛を培った場所でもあった。
 その奥は乳母の住んでいた部屋がカーテンで仕切られていた。その横には大掛かりなタイル張りのペチカが据えられ、モスクワの寒い冬を容易に乗り越えられるようにしてある。
 このペチカを中心に作家の家である3部屋が囲まれるように配置されている。

 さらに、「その玄関を抜けると20畳くらいの居間がある。その居間ではテーブルや長椅子がしつらえられ、子どもの遊び道具や本などが床に散らばっている。木馬もペチカの側に置かれている」という。

 ドストエフスキーに限らないだろうが、ペチカの傍で生活が営まれ父母の語る話を聞き、あるいは物語が織り成されていったのだろう。

 一方、ロシアでは一昔前までは「サモワールが家族の団欒の象徴」だった。
 まずは、「Humorous cartoons and drawings by the Sugai family」の「サモワール」なる頁を参照させていただく。
「サモワールという言葉は、「サモ」と「ワール」から成り、それぞれ「自分で」と「沸かす」という意味が合体している。この言葉は広辞苑にも載っている。「ロシア特有の湯沸し器。中央の上下に通ずる管の中で木炭を焚いて周囲の湯を沸かす装置。今は多く電熱を用いる。」という。
 また、「昔使われた木炭式のサモワールは、中央の上下に通ずる管に空気が通るようになっていて、水を入れておく周囲の空間とは完全に仕切られた構造になっていた。中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという発想は、水中で火を焚くようなものだから、熱効率がとても良くなったはずである。凍てつくロシアの冬に、僅かな燃料でもお湯が沸かせるサモワールは、当時のハイテク商品と言える」とも。

 昔のサモワールは、「中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという」ものだったが、昨今のものは、「中心部には上下に電熱線が走っていて、電気の力で水を熱する」方式に変わっているらしい。

 さて、「ロシアにおける喫茶の歴史は西欧諸国よりも古く、はやくも1638年にモンゴルの汗から贈答されたお茶をツァーリの宮廷でのんだという記録がある。17世紀70年代にはモスクワへの輸入品として市場に出回っていた。喫茶は付随した茶器を生み出し、サモワールが登場する。 第二次世界大戦では金属の供出が強制されて、ロシアでもサモワールが姿を消していき、喫茶の習慣が以前ほどではなくなった。それまでは、サモワールが家族の団欒の象徴であった。」というのだ(1月25日開催・第156回例会  (「ニュースレターNO.58」より転載)  ドストエフスキイの喫茶  佐々木照央(埼玉大学)」より)。
 「『罪と罰』では対話の場に置かれたサモワールが逆に人々の心の対立を浮き立たせる役目を果たしている。ラスコーリニコフ、その母、ドゥーニャ、そしてルージンがお茶を飲む場面では、ルージンと対話がなりたたない様子がサモワールの存在によって逆に強調されている。さらに、マルメラードフの法要の場ではサモワールを中心に人々が喧嘩を始めるのである。人々を結合させる装置のまわりで人々がいがみあう、という反作用効果をお茶が果たすこととなる」のだ。
 さらに上掲のサイトでは、『地下室の手記』、『悪霊』、『死の家の記録』などでのサモワールの果たす役割を教えてくれる。
 本稿での「ドストエフスキイのお茶の場面は、バフチンが説く「モノローグ・ディアローグ」論を深めるための材料を提供する。対話のお茶、孤独のお茶、お茶の飲み方にいろいろあるが、孤独といっても「自分の中でもう一人の自分と対話」するのである。お茶を通じて描かれる場面はきわめて深い多層的な意識の働きと対話のあり方を教えてくれるといえよう」という結語はとても味わい深いものがある。

 もう十分すぎるほど長くなったので、ウオッカについては触れる余地がない。
 小生は18の時、初めて『罪と罰』を読んだし、その後も繰り返し読む機会を得たが、その都度、惹かれる登場人物はマルメラードフという酒で身を持ち崩した男であった(酒には絡まないし、酒に溺れたりもしないのだが、スヴィドリガイロフの名を逸するわけにはいかない)。
 呑むのは酒。呑めるものは何でも呑んだのだろうが、ロシアの酒といとウオッカがまず浮かんでくる。
 ここでは深入りしないが、「ウオッカ」なる言葉を聴いて最初に感じるのは、その語感から素人的な勝手な想像(連想)に過ぎないのかもしれないが、「ウォーター」つまり「水」である。ロシアの人は酒を水のように呑む(という先入観がある)。
 調べてみると、勝手な憶測も満更ではないようで、「NIKKA ウイスキーの仲間 極寒の風土が生んだ火の酒 ウオッカ」によると、「ウオッカの名の起こりは、ロシア語のジーズナヤ・ヴァダー(「生命の水」)のウォーターにあたる「ヴァダー」が、ウォトカに変化した。」という。
 まあ、ウオッカが水に当たるというのなら、浴びるように呑むのも無理はないのかもしれない。
 ところで、『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは酒に弱い。
 これから本当に自分が殺人を犯すのか自分でも信じられないでいる冒頭付近で、ラスコーリニコフは酒場でウオッカを一杯だけ飲んで、それで道端でぶっ倒れてしまう。そして「気絶したラスコーリニコフは、このとき有名な「痩せ馬の夢」、つまりは村人が痩せ馬を斧で惨殺する幼年時代の思い出を夢に見る」のである。

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2006/01/11

掌編アップのお知らせ

 元旦に書いた「兄ちゃんの姫始め」以来、十日ぶりに掌編を書きました:
ずる休み

 ということで、本日の季語随筆は、休みます。これってずる休み?

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2006/01/10

読書拾遺…作家の資質

 年末から年始にかけて、ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード(上・下)』(越前 敏弥訳、角川書店)や村上春樹著の『海辺のカフカ(上・下)』(新潮社)などをメインに読書してきた。
「ダ・ヴィンチ・コード」については特段、書くこともない。キリスト教について多くの謎めいた、あるいは謎そのものの事象が盛り込まれていて、小説としてより雑学的知識を登場人物たちと一緒に渉猟するような楽しさがあった。
 たまたま同時に借り出したジャン‐ピエール・モエン著の『巨石文化の謎』 (蔵持不三也/監修 後藤淳一/訳 南条郁子/訳 、創元社、「知の再発見」双書 91、2000年7月)と相俟って、欧米の思想や宗教、文学、文化一般について瞑想・妄想を逞しくする楽しみも味わえた。
 通俗的な小説に共通するのかもしれないが、人間という謎へは決して迫ることはなく、あくまで文化の周縁を経巡る旅に終始する。結末に至ってさえも。
 まあ、その旅の道程が楽しければ文句はないのである。
 この小説に盛られた意匠や情報の豊富さは、「ダ・ヴィンチ・コード関連情報の探索中心。非日常の象牙の塔でいにしえの叡智への探求を目指す日々。 by alice-room」を標榜される「叡智の禁書図書館」なるサイトに任せるのがいい。
 近々映画が公開されるようだし、ネタばれ的なことは書かないのが無難だろう。

 一方、村上春樹著の『海辺のカフカ』は、当然ながら『ダ・ヴィンチ・コード』とは違って、語り口のうまさで小生を小説の最後まで飽きさせずに引っ張ってくれた。近年の小説では小生には珍しい体験だった。
 ここでは本書について忖度しないが、ただ、ちょっと残念なのは、きっと村上氏は現代文学についても日本に限らず広く読まれ研究されているのだろうけれど、その成果がなんとなく衣の下の鎧(よろい)のように透けて見える気がしたこと。
 そう、『ダ・ヴィンチ・コード』とは違った意味で文学的意匠や西欧的伝統に由来するイコンなどの意匠が少々露過ぎること。そのことがあるいは日本はともかくギリシャ・ローマ文化に淵源する欧米などのキリスト教文化圏の方たちには馴染みの問題(ギリシャ悲劇オイディプス王の物語、シューベルトのソナタやベートーヴェンの『大公』を引き合いに出す…などのメタファーの数々)があって、この作品に普遍性を感じさせたりする可能性は感じる。

 主人公の少年・田村カフカが15歳のはずなのに、あまりに大人びていることも気になってならなかった。
 無論、世の中、小生のような凡庸な少年ばかりではないのだろう。村上春樹氏もその頃にはこの小説の主人公ほどに多感であり感性鋭敏であり読書量豊富であり女性(年上)に好かれ、他の凡百の少年とは違った独自の人生を既に歩み始めてもいたのだろうけれど。
 尤も、この少年の設定自体が文学的メタファーであり現実性を期待すること自体が的外れなのかもしれない。
 むしろ、文学者村上春樹が15歳の少年という意匠を獲て、心と体のメタモルフォーゼの時期を生き直しているのだと思ったほうがいいのかもしれない。

 それはともかく、村上春樹氏は物語を読む楽しみを知り尽くしていると感じた。日常使うような言葉で淡々と叙述し語っているようでいて、実は読み手がすぐに同感し共感してしまうような語り口を知っているし、自ら駆使することができる稀有な作家なのだろう。
 語り口のうまさは、主人公の少年・田村カフカについてよりも、ナカタさんという特異な存在に存分に現れている。彼が登場すると物語の奥行きが一気に広がる。
 小生など、ナカタさんが小説の最後で直接少年・田村カフカと相交える場面があるのだろうと勝手に期待していたのだが…。
 実を言うと、村上春樹作品は、「神の子どもたちはみな踊る」や「村上朝日堂」などは読んできたが、小説作品は初めて。もっと系統立てて読むと、印象はまるで違うものになるのかもしれない。読んで後悔しない作家なので機会を設けて他の作品も読んでみたいものだ。

『海辺のカフカ』についても、「サロン・ド・カフカ  「海辺のカフカ」めぐり」というファンサイトがあって、なかなか興味深かった。

 ちょっと脱線気味なことを書くと(以前、他の雑文でも書いたが)、この『海辺のカフカ』を読みながら、小生は、「村上春樹氏に例の酒鬼薔薇聖斗を扱った小説を書いてもらったなら、彼なら凄いものを書けるのではと思ったりした。酒鬼薔薇も知的に異常なほどに発達している。感受性も並ではない。あの公表された<詩>にはただならぬもの、鬼気迫るものを覚えたものだった。」

 酒鬼薔薇聖斗とは、かの「神戸須磨児童連続殺傷事件」の主役である。
「しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ=ルビ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」と語る少年。
 小生は今日から、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み始めた。もう、少なくともかれこれ六度目となるだろう。この19世紀の大作が今はロマンに感じられる。陰惨な思想性を帯びているかのような殺人事件。が、『罪と罰』では主人公は殺人を犯す前から自分の行いが信じられないし、ある意味、結末に至っても殺人を犯したことの心底からの反省が成されたのかは必ずしも明らかではない。
 それでも、人の営為や人の人への思い(思いやり)が濃厚に漂っている。苦悩するわけである。

 さて、では、酒鬼薔薇聖斗は、「人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである」と書いているけれど、本当なのだろうか。人の痛みが自分の痛みを和らげることができると心底確信できるのなら、そもそも人の痛みは想像の中で思うだけで十分なはずだ。
 それが敢えて人に痛みを自らの手で与え、その痛みぶりを眺めてようやくにして痛みを覚えるというのなら、きっとそこには嘘があって、実は、その他人の痛みぶりと手を下した感触に束の間、そうほんの一瞬だけ和らいだような錯覚を覚えただけであって、和らいでなどいないし、もっと言うと、自分の痛み自体が存在しているか判然としないのである。
 現代において21世紀版の『罪と罰』を書くとしたら、それも主人公は酒鬼薔薇聖斗なのだとして、それを描けるのは村上春樹ではないかと思ったのだが、さて、どうだろう。
 尤も、知的には際立つ酒鬼薔薇聖斗なのだから、シベリアへの流刑から戻ってきて、いつの日か自分で描き示すのかもしれないけれど。
 
 最後に上掲のサイトにも載っているが、「懲役13年」と題された一文を掲げておこう(「朝日新聞 1997年9月26日付夕刊より」)。

1.いつの世も・・・、同じことの繰り返しである。
  止めようのないものは止められぬし、
  殺せようのないものは殺せない。
  時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・
  「魔物」である。
  仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして
  深い腐臭漂う心の独房の中・・・
  死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、
  “何”が見えているのであろうか。
  俺には、おおよそ予測することすらままならない。
  「理解」に苦しまざるを得ないのである。

2.魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、
  あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りを
  させているかのように俺を操る。
  それには、自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」
  を感じさせるのである。 
  とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。
  こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に…
  しかし、敗北するわけではない。
  行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。

3.大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物だと
  思いがちであるが、事実は全くそれに反している。
  通常、現実の魔物は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち
  以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。
  彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているか
  の如く人に思わせてしまう…
  ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃
  の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはよ
  り完璧に見え、
  バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと
  俺たちが思い込んでしまうように。

4.今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のよう
  に思える。
  良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうに
  なった敵。
  しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存
  在であることに気づいた。
  そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
  「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

5.魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になるこ
  とがないよう、
  気をつけねばならない。
  深淵をのぞき込むとき、
  その深淵もこちらを見つめているものである。

        「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、
            俺は真っ直ぐな道を見失い、
            暗い森の中に迷い込んでいた。


「魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである」…。脳内宇宙、無限、虚空、死霊、独房、深淵…。このいかにも埴谷雄高的メタファーに満ち満ちた一文。

 酒鬼薔薇聖斗の場合、自らが魔物になり深淵に魅入られ落ちていってしまったのだろう。その意味で作家たるには資質が欠けるのかもしれない。
 作家たるには体験も経験も知識も技術(表現力を含めた)も何もかもが必要だ。
 が、一番、必要なのは自分が経験していない事柄であってさえも、あたかもしていると人には思えてならないように思わせる、そんな現実感たっぷりの想像力なのだと小生は考えるからである。殺人を描くのに殺人を犯すようでは作家にはなれないのだ。
 死ぬほどの経験が必要だが死んではならないし殺してはいけない。死ぬほどの病や恋が必要だが恋に溺れて病に屈して沈んだままでは困る。
 死んだ真似をしてでも最後までペンは握っていないといけない。ナイフではなくて。
 となると、酒鬼薔薇聖斗的存在を描くのも、やはり村上春樹氏に頼むしかないわけだ。うーん、堂々巡りだ。

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2006/01/09

当日参加型アーラを論ず (副題・ジョーンズの練習日記 新春1/9の巻)

タイトル : 当日参加型アーラを論ず。(副題・ジョーンズの練習日記 新春1/9の巻)
投稿日 : 2006/01/09(Mon) 20:52
投稿者 : ジョーンズ博士。


新年。

あらためて、明けましておめでとうございます。

サンバを始めたおかげで、昨年の今頃と比較して、あたしの生活も劇的に変わったと思う。

え、 どれくらい変わったって?

アメリカのノーベル賞作家W・フォークナーの代表作「八月の光」で、主人公のリーナが言うラストの台詞
「あら、まあ、人ってほんとにあちこち行けるものなのねえ。アラバマを出てから、二ヶ月もたたないのに、もうテネシー州にいるなんてねえ。」
くらいに変わったのだ。
(アメリカの光と影の錯綜するこの作品は、間違いなく二十世紀アメリカ文学の最高傑作だと思うが、それにしても、ここはサンバのページである!)

今年、浅草サンバカーニバルに出場して、「優勝の美酒」を味わいたいと思っている。

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← クリックしてね。あっと。クリックするのはここだよ ここ!! パーティの詳細はここ! 出演者はここ! 

おそらく多くの方にとって、浅草カーニバルに出ることがリベジに所属している目標であろう。
あたしにとっても、浅草カーニバルは今年の目玉イベントである。
浅草には魔物が住む。いや、「棲む。」

あたしも、その魔物にみせられ、夜叉のようになった人間だ。
サンバに「オール・イン」しちゃってるのだ。

優勝するという目標を別にして、浅草に出るという目標を満たしたいというならば、手っ取り早く「当日参加型アーラ」に参加するのが1番だろう。

これは、浅草カーニバルの当日に集まって、あらかじめ用意されていた衣装に身を包んで、その場で簡単な振りつけをレクチャーしてもらってパレードに出るというものである。

はっきり言えば、アーラで一生懸命に練習してきたベテランダンサーよりも、衣装が豪華という例も多々あり、当日参加アーラのダンサーが注目を浴びることだってありうる。

多くのエスコーラでは、カーニバルの時期が近くなると、ネット上からこの「当日参加型アーラ」を募集している。

実は、リベジに入る前は、あたしもそれでもいいと思っていた。
たとえ「日帰りサンバ」だろうと、「浅草に出る」という目標は達成されるわけだし、もちろん打ち上げに出れるし、エスコーラでの決して楽ではない数々の練習を経ないでもいられるからだ。

実際、あたしは、1997年に、ある二部リーグのチームの当日アーラに出場を打診したことがある。
その時、新人担当が言った言葉。
「衣装、何でもいいんで用意してくれますかね?」

この言葉を聞いた途端、「えー!」と思い、深刻に思い悩んでいるうちに当日の朝が来てしまい、ついドタキャンしてしまった。

実は、そういうトラウマな過去があったので、昨年までサンバ参加をためらってきたのである。

そして今、結局はエンサイオに明け暮れる「茨の道」を選んでしまった。

ここではその理由を書かないが、ここで、この「当日参加型アーラ」の長所と短所について触れていこう。

まず長所。

①決して楽とはいえないダンス練習を経ることなくカーニバルに出れる。
②衣装によっては、パシスタよりも写真に撮られるだろう。

短所

①もちろんサンバについての体系的な知識は得られない。
②まあ、サンバ友達はなかなかできないやろなあ。

うーん、いつも前置きが長くなってしまう。
さあ、練習風景の描写行くで。
いつものとおり、ダンスパート専門や。

場所。

練習場所については特筆すべきであろう。いつもの十条R会館と違って、大田区は大森の「大田文化の森ホール」である。
大森駅から徒歩で15分くらい。
実は、あたしの母が大森高校出身なので、満更、大森はあたしに無縁の土地ではない。

基本的に、バテリアの練習は、ホールで、ダンスの練習は、地下の楽屋前の通路(!)にて行った。
ちなみに、通路は、英語では、『aisle』や。
愛する、なんて読まずに、アイルって読むんやで。

講師。Kなおさん。

説明不要とはまさにこのことを言うのだろう。あたしにとっては、この方こそリベジ最重要人物である。

しかしながら、先日、衣装のことで、少しあたしは感情的になって、Kなおさんにちょっと我が儘な内容のメールをしたあげく、携帯に横暴な電話したことがある。
そんな時でも、「ジョーンズさん、大丈夫だよ。心配いらないよ。」ときちんと説明してくれた。

ああ、あらためて言うまでもなく、この方がリベジのダンスリーダーであることに、感謝したい。

また、あたしのこの苛烈な性格は、今後、リベジ内で必ず波紋を引き起こしかねないと思う。
あたかも『三国志演義』に出てくる魏延のように。
充分に反省をしておく。

午前。10:30-12:00

①自主ストレッチ。

 年末年始の食い過ぎ人生が祟って、体が氷のように固まっている。
 カチーン。

② 飲ん兵衛の練習。もとい、それは夜のことでしょ!ノペの練習。

  皆で輪になってバソを踏む。

③ 二人ずつで、相手を見ながら、歩行の練習。

  ま、そこそこのできやな。

  途中で、〇ンクさんが参加した。この方は、昨年の人足アーラのリーダーだった方で、この方なしに、あたしの浅草デビューはなかったと言える。
  頭を向けて寝れない方である。

  この方に、農耕ダンスの振りを見ていただいて、指摘をしていただく。
  「いや~、ジョーンズさん、腕じゃなくて、胸を上げて踊るんですよ。」といった具合。

【今日の講師の一言】

 これは、〇ンクさんのひと言である。
 「農耕ダンス踊ってると、人足ダンスが楽に感じられるでしょ!」
  確かに。

 それだけハードなんですよ、農耕アーラダンスは。

昼休み。12:00-13:00

 バテリア陣とともに、新年会ダンスの音合わせ。

 もう振りはバッチシ(^O^)gだい。
 あたしの唯一の財産である「笑顔」を炸裂させて踊った。

 どなたか女性のバテリの方が、あたしのダンスを「かっこいい。」
 と、あたしに直接声をかけてくれた。
 瞬間的に涙が吹き出るほど、非常にうれしかった。

午後。13:00-16:30

 ① 引き続き新年会のダンス練習。

  詳細はともかく、正直、割にダラダラした練習になった。

  時々〇ンクさんがやってきて、ノペの稽古をしてくれる。
  本当に、親切な方である。
  こまめに声をかけてくれるのが、うれしい。

 ② 後は思い出したように、農耕ダンスの練習に励む。

   もーー、バッチリだ。
   農耕アーラダンスで、一番うまいのは、Kなおさんじゃなくて
   このあたしだよ~ ( 非常に過激な発言か、、、? )

 ③ バテリア陣とともに、新年会のフィナーレの練習、
   そしてバツカーダ。

   浅草の再現ということで、人足アーラを踊った。
   他の「文明開化アーラ」や「牛アーラ」ダンスの真似もして
   踊った。
   すげ~、感激。

   実は、今日のバツカーダでは、あたしが自前で考えたステッ
   プを試すことにした。
   漫然と習った振りばかり使っていたって単調だ。
   あたしもサンバを習い始めて半年になる。
   そろそろ「国産」を作っていかなければならない節目である。
   ま、そのうちに「プロジェクトX」みたいに「見よ、新人の独創
   サンバ!
   浅草カーニバルまでの愛と涙の日」なんて出るかもねー!
   以下、その例。

  (1) 蹴りのステップを繰り返し、最後は回りこんで、また蹴りを
  するステップ。
  名付けて、『ケリー・チャン』。

(2)前後の足を交差させながらも、自分の体をも表裏に動かす
 『忍法サンバ』。

 (3)左右の拳を目の前にかざしながら、後しさりをしてそれから
 四ステップずつ左右を回る『コリアン・ファイヤー』。

  さあ、みんなも考えようね!
  これら創作の振りに加え、これまで教わった「ボックス」や「カ
  リオカ」ステップを付け加えることで、バツカーダでのレパート
  リーは格段に増えた。

  なんて言うか、見た目はかっこ悪いけど、ベテランにも引けと
  らないじゃん!
  あたしは、本当にダンスが好きなんだ。

  ただし、今日はバツカーダと言えるよう自由出場の時間は限
  られていて、あまり試せず、試そうと思っても、全くリズムがあ
  わずに、自滅。
  惨め。

④ 新年会のダンスを通しで練習。

  詳細は、まーいいでしょ! 新年会のネタばれになるしね。

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「魔の雪」…雪国

 車中で立川昭二著の『病いの人間学』(筑摩書房)を読み始めた。「人間学」とあるが、中身は濃くとも堅苦しい本ではない。なんといっても小生が学生時代からファンになって折々に読んできた立川昭二氏の手になるものなのだ。
 レビューには、「宮沢賢治から安部公房まで、病いや死をテーマにした作品をとりあげ、誰もが直面する自分や家族の病いから、私たちは何を学び得るかを探る」とある。
(関連する本に、『病いの人間史―明治・大正・昭和』(文春文庫)があるようだ。
 拙稿では、「立川昭二から翁草へ」や「立川昭二著『江戸病草紙』」などを参照願いたい。)

 宮沢賢治の絶唱とも言えるような詩が紹介されていたり、教えられることが多そう。
 文中、「魔の雪」や「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」で触れた川端康成の『雪国』に関連する記述があったので、ここに若干、示しておきたい。
「死に触れて輝く」という章では結核に冒された堀辰雄が扱われれている。堀辰雄というとすぐに思い浮かぶのは『風立ちぬ』だろう。本書は許婚が肺結核のため入院した「山のサナトリウム」に付き添い彼女が亡くなるまでを看取った、その体験をもとにして書かれている。
 健康な肉体を失い死に向き合う中で逆に「禁断の木の実の味」さえする「生の幸福」に出会う堀辰雄…。本書(本章)の中で立川昭二氏が引用している部分をここに転記する;

 

 小さな月のある晩だった。それは雲のかかった山だの、丘だの、森などの輪廓をかすかにそれと見分けさせているきりだった。そして他の部分は殆どすべて鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。しかし私の見ていたものはそれ等のものではなかった。私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇らせていたのだった。そして私達自身までがその一部になり切ってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のものもいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしえもはや季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時とすると私達には殆ど見えないものになってしまう位であった。……

 さて、ここではこの章に登場する堀辰雄や芥川龍之介、竹久夢二、リルケらのことには深入りしない。
 実は「魔の雪」に関連する記述と言うのは、以下である:
 
 

 じつは、この『風立ちぬ』が世に出た昭和十二年は、日中戦争の始まった年である。そしてこの年、昭和文学の名作といわれる作品が集中して発表・完結・刊行されたのである。川端康成『雪国』、永井荷風『墨(さんずい)東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』という昭和文学の代表作、山本有三『路傍の石』、石坂洋次郎『若い人』のような話題作、横光利一『旅愁』、和田伝(でん)『沃土』のような問題作、また青少年図書の古典といわれる吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、豊田正子『綴方教室』などなど、いずれも名高い作品であり、今日でも文庫本として繰り返し刊行され、多くの日本人に愛され読みつがれている。まさに奇蹟の年といえる。
 しかも、これらのいずれの作品にも戦争や国家の話題はひとかけらも出てこない。むしろ、これらの作品に出てくるのは一人ひとりの人生であり、恋であり、そしてふつうの人びとの生老病死である。どの作品にも病気のことが出てくるが、それらを読むと、当時の日本人はいかに病いとこまやかにつき合っていたかがうかがえる。

 この引用の中にようやく川端康成の『雪国』が登場する。
(何ゆえに昭和十二年が日本の文学史の中で奇蹟の年となったのか、それは盧溝橋事件や第2次上海事変などを端緒に日中戦争が始まったということ、言論の封殺が行き着くところまで行っていたのか、政治的発言や行動は時流に乗るものでない限りは許されず、文学においても心ある人は徹底して内向するしかなかったその結果なのか、あれこれ想像は膨らむがこれもここでは探求を頓挫させておく。)

 本書『病いの人間学』らしく、川端康成の『雪国』を病気をキーワードに読み返している。
『雪国』冒頭の名高い場面。死の病に冒された青年を(青年の許婚である駒子とは別の)恋人が東京から連れ戻す列車に語り手(観察者)である島村が乗り合わせ、青年と恋人とのやりとりを盗み見する。「二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。実際また自分より年上の男をいたわる女の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われ」たのである。
 以下、まさに川端康成の叙述の技の冴える一節が本書の中で引用されている。島村はその二人の様子を夜を背景に鏡となった列車の窓に映して盗み見ている:

 

 このようにして距離というのものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。

 島村は雪国の芸者・駒子にも惹かれつつもあくまで観察者であり客観的な目と心を保ったままである。この、ある意味死の道行きにあるとも言える二人のことも、夢のからくりを眺めているように思えるばかりなのである。
 なるほど、青年の恋人はかいがいしく振舞っている。が、青年には許婚がいることを恋人である若い女は知らないはずがないだろう。かりに青年が生き延びることがあったら、女は青年と添い遂げることは叶わない。むしろ青年が死の病にあるからこそ、故郷へ死にに帰る行程に付き添うという形で短い<夫婦>の時を夢よりも夢のような気分で末期の思いで過ごしているのだろう、そんな二人からは、そして駒子からも遥かに遠い島村。
 それはまた川端の孤独の反映でもあろうか。どこまでも世間や人間に対し他者であり観察者であり、当事者にはなりえないという、物心付く頃には身に(心に)染み付いていた宿痾(しゅくあ)の自覚。
明治32年(1899年)6月14日、大阪で生まれる。2歳の時、父死去。3歳の時、母死去。7歳の時、祖母死去。10歳の時、姉死去。15歳の時、祖父死去し、天涯孤独となる。また、青年期にも知人らの死に多く出会う。)

『雪国』は日本の中での豪雪地帯を舞台にしている。雪の深さと白さが小説を幻想の域にまで高めている。が、雪掻きや雪下ろしに倒れ臥す人の数多いる越後湯沢といった地域も、都会人である人間には、鏡に映る夢のからくりを越えることはありえない(この点では川端康成に限る必要はないだろう)。

 雪の魔、魔の雪。 雪国のことを思うなら、松岡正剛ではないが、「田中角栄や真紀子以来というもの、世の中は新潟の人や動向をどうも片寄って見過ぎているけれど、それはおかしなことなのだ。もし片寄るのなら、『北越雪譜』まで戻って片寄るべきだった」のであり、是非ともせめて「雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。…豪雪地帯で暮らす人々の哀歓を綴り、習俗を記録し、奇談を集めた。出版には馬琴、京伝らが関係し、天下の奇書として圧倒的な人気を博したという随筆集」なる鈴木牧之著の『北越雪譜』を一読してほしいものだ。
鈴木牧之記念館

(『北越雪譜』の中で、鈴木牧之は雪の結晶を観察し細々と記述していて、「虫めがねで「雪の形をつまびらかに見た図」として、何と35種もの雪の結晶の絵を載せているので」ある。
 この頁を読んで思い出したのだが、小生の哲学への関心を決定付けたかのデカルトが、「雪の結晶のスケッチを描いてい」る。『気象学』という著作があるくらいなのである。)

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2006/01/08

魔の雪

 温泉地などで宿の中から窓越しに、あるいは湯に浸かりながら雪山を眺めたり、ちょっと舞い散ってくる雪の一片(ひとひら)を手に取っている分には、雪はひたすらに美しいしロマンチックでもある。
 小生も、そんな優しい雪については、「真冬の明け初めの小さな旅」などで若干のロマン風なエッセイを綴ってみたものだ。
 雪の科学というと、なんといっても中谷宇吉郎の『雪』(岩波新書、岩波文庫)であろう。本書は高校生の時愛惜した何冊かの本のうちの一冊だった。
 松岡正剛氏は、初めて読んだ時は、「中谷宇吉郎は師匠の寺田寅彦にくらべると名文家でもないし、関心も多様ではないし、文章に機知を飛ばせない」と感じたらしい(その後、見解が変わっている。何ゆえに何を契機に変わったか、リンク先を覗いてみて欲しい)。
 小生は中谷宇吉郎の文章や発想法に即座に魅了された。あるいは、『科学の方法』(岩波新書)と共に読んだからでもあろうか。
 手元に本書がないのであやふやな記憶で書くが、随分と「かたち」に拘っていたような気がする。レビューでは、「著者は,自然科学の本質と方法を分析し,今日の科学によって解ける問題と解けない問題とを明らかにし,自然の深さと科学の限界を知ってこそ次の新しい分野を開拓できると説く」とあるが、茶碗の割れ方とか、一旦、壊れたら二度と再現できないようなものは科学が扱うには馴染まないというのである。
 幸いにして「流木のWebサイト」の中「科学の限界」なる頁に『科学の方法』からの中谷宇吉郎の言葉が幾つか引用されている。
 つまり、「もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである」と説くのだ。

 さて、では雪の結晶は科学の対象になりえるのか。似たような結晶ではあるが、同じ結晶の再現がなるのか。中谷宇吉郎は雪の結晶はギリギリ科学の研究対象になると考えたわけだ。
 確かに人工の雪さえも降らせることが既に可能になっているけれど、本当に同じ結晶が(同じ気象条件下にあったとして)実現されているのだろうか。
(中谷宇吉郎の本を一冊、読むのなら、『雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集』(池内 了編集、岩波少年文庫)が、珠玉の随筆が集められていて、抜群だ。)

「かたち」に拘る科学者というと、上にも出てきたが、中谷宇吉郎の師匠筋に当たる寺田寅彦の名を逸するわけにはいかない。日本の科学者の随筆というと、今に至るも小生には寺田寅彦が筆頭に上がるのである。
 寺田寅彦は科学者としても一級の方で、ノーベル物理学賞へあと一歩のところまで行っていた。恩賜賞を受賞した研究である、「結晶を構成する原子の配列をX線を用いて解析しようとする画期的な試みであった」(引用は、小山慶太著『肖像画の中の科学者』(文春新書)からである)。
 ところが、「イギリスの俊秀ローレンス・ブラッグが同じテーマの研究において寅彦よりも一歩先行していたのである。このことを知った寅彦はあっさりと、X線の結晶構造解析のという最前線の分野から手を引いてしまった」のだった。「我国の地理的不利や研究設備の相違」の故のノーベル賞獲得競争敗退だったのかもしれない。
 科学は、「やがて量子力学が確立され、物理学者の関心は原子核や素粒子といったミクロの世界へと向けられていく。しかし、寅彦はそうした潮流からは距離を置き、身近な現象を観察、分析する古典物理学の世界に一人、沈潜していくのである。」
 このように書くと、まるで科学研究における先駆け争いに負け倦んで、身近な現象の研究へと沈潜したかのようだが、実際には、寺田寅彦はもともと今で言う複雑系の科学に関心があったのではないかと思われる。ただ、従前からの要素還元主義的な伝統的研究方法から脱して時流から離れるには、相当程度の切っ掛けがないとできなかったとも考えられる。
 つまり、イギリスの俊秀ローレンス・ブラッグに一歩先を越されたことが逆に寺田寅彦が寺田寅彦らしい研究に打ち込める後押しになったとも考えられるというわけである。
 要素還元主義的な手法から現在では「複雑系の科学」の典型例とみなされる「気象や地震などの広く地球物理的な研究」への移行については、「教授 松下貢 「フラクタルの物理(Ⅱ)応用編」 コラムより 「寺田寅彦(1878-1935)と複雑系の物理」  2004年」が素人にも分かりやすく簡潔に説明してくれている。
「彼の興味の範囲は非常に広く、日常的な現象にかかわるものだけを取り上げても、線香花火、リヒテンベルク図形のような沿面放電、金平糖の角(つの)のでき方、雪などの樹枝状結晶の成長、椿など花弁の落ち方、藤の実など乾燥した種の散らばり方、砂の流れ、河川の分岐、固体の割れ目、貝の模様や動物の縞模様など、枚挙に暇がない」という。
 そして、「寺田寅彦が注目していたのはまさしく「複雑系」そのものであることがわかるであろう」し、「彼の思索の産物である随筆には、カオス・フラクタル・非線形物理やそれらの発展・延長線上にある「複雑系の物理」の視点からは、汲めども尽きない魅力が秘められている」というのだ。

 俳句と雪との関わりで言えば、「伊吹山の句について  寺田寅彦」が興味深い。千川亭(せんせんてい)の「おりおりに伊吹(いぶき)を見てや冬ごもり」について、自らの体験と観察を交え、分析している。
 さすが科学者ならではの観察眼がこの句の理解を深めてくれるようである。
(小山 慶太著の『消像画の中の科学者』(文春新書)については、季語随筆の「読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)」で既に多少のことを書いている。)

 美しいばかりのような雪。この世を一色に染めていく雪。穢れを知らない、それとも穢れを埋めていく雪。
 その雪も時には牙を剥くことがある。
 現に今、雪が北陸地方を中心に猛威を揮っている。
 そういえば、「天災は、わすれたころにやってくる。」ということわざは、寺田寅彦が作ったものと言われているらしい(実際は違っていて中谷宇吉郎が寺田寅彦の言として広めたらしいが。ちなみに、「返済は、忘れずにやってくる。」とは、小生の弁である)。

 トーマス・マンに『魔の山』という大作がある。数年前、二度目となる挑戦をして深い感銘を受けた。
 さて、この本の中に、あるいは短編小説として独立させたなら人気を呼ぶこと間違いないと思える箇所がある。 例によって松岡正剛氏によると、以下のようである
「これは「雪」と題された第7節にあたる場面で、3年目の冬を迎えたハンス・カストルプがバルコニーから永遠に連なるかに見える雪山を眺めているうちに、この巨大な厳冬の自然に包まれてしまいたいとおもう場面である。
 ハンスはそのまま病院側の忠告を無視して純白の雪山に入っていく。そこはあまりも美しく、そして底無しの沈黙で完成されている。自然は危険もあるが、責任もとらない。超絶の美があるものの、何も言葉にもしてくれない。それが自然というものである。ハンス・カストルプはそこに没入し、そんな冷徹な荘厳に一人立っている自分に感動をおぼえていく。
 かくしてハンス・カストルプは雪中にホワイト・アウトしてしまう(と、ぼくは読んだ)。」

 「マン『魔の山』雑感」の中で小生は、二度目の購読の際には、以下のように吹雪の箇所に圧倒されたと書いている:
「主人公であるカストルプが、無謀にもスキー板を履いて吹雪の山に向い、遭難しかけるのだ。その豪雪の中での主人公のカストルプの雪の無間地獄に溺れ込もうとする場面は凄まじい。また、美しい。死の誘惑。
 恐らくマンは意図的に美しく描いている。小説としての必然性があるのだ。
 が、読者たる小生は、一個の独立した何か象徴性に満ちた短編として読み浸ってしまったのである。そんな誘惑を仕掛けるマンは、罪な作家だ。ドイツ的な神秘性が骨の髄まで浸透しているということなのだろう。
 長い小説だが、分量的に中腹付近にあるその場面を楽しみに読むのもいいのではないか。そこを読み終えると、もう、あとは天辺も見えるかのようだから。」

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2006/01/07

初詣の代わりの巨石文化?

 年末の帰省の列車中で、あるいは仕事始めの車中でジャン‐ピエール・モエン著の『巨石文化の謎』 (蔵持不三也/監修 後藤淳一/訳 南条郁子/訳 、創元社、「知の再発見」双書 91、2000年7月)を読んでいた。同時に文中の豊富な画像群を眺めていた。
 出版社のレビューでは、「巨石建造物は大昔から伝説で彩られてきた。環状列席石で有名なストーンヘンジをはじめ、ヨーロッパ各地にはさまざまな巨石建造物が存在する。単なる謎解きにとどまらず、歴史に託されたメッセージを考察する。」とある。
「巨石建造物は大昔からさまざまな伝説で彩られてきた」…例えば、「とある地域の巨石建造物は荒地の真ん中で、踊る少女たちの行列がやってくると、身を起こして少女たちを通してやったという。」
 著者のジャン‐ピエール・モエンは、「フランス博物館研究所の所長。アンドレ・ルロワ=グーランの指導の下で、先史学の国家博士を取得。グラン・パレで“ケルト王の宝物展”(1987年)など数々の展覧会を開いてきた。主な著作に「巨石建造物の世界」「先史時代の冶金」などがある。’92年まで、サン=ジェルマン=アン=レー国立先史学博物館館長」だった人。

 巨石文化。古代において建造物を作るとするなら鉄や青銅などを精錬する技術が生まれる以前は、石(岩)を利用するか木を利用するかのどちらかとなる(そこに土を加えたかかぶせただろうけれど)。
 巨石文化というと、ガキの頃に夢中になったムー大陸の話やアトランティスの話を想ってしまう。ギリシャ・ローマ文化からの連想か、そうした古代の(想像上の?)文明と言うと、石の柱であり屋根であり廊下であり壁というわえけで、石(岩)とは切っても切れない関係と(連想の上では)なっている。

 小生は学生時代にカスパー・ダヴィッド・フリードリッヒというドイツ・ロマン主義の風景画家の存在を知った。書籍の中の小さな画像だったけれど、一目見てその世界に魅了された
 そのフリードリッヒに巨石の墓の前に佇む絵がある。

 フリードリッヒの絵の幾つかをネットでも楽しむことが出来る。例えば、「TomoTomo World Museum」の中の「魂の風景画 Casper David Friedrich - A Lone Romantic」がいい。ここでは彼の絵の厳粛で静謐なるロマンの世界に浸るゆとりはないが、それでもしばし瞑目のときを過ごすのもいいだろう。
 そのダヴィッド・フリードリッヒに巨石墓を前に首をうなだれ遠い過去に思いをめぐらす男の姿を描いた作品があるのだ。
 小生はフリードリッヒの一連の作品群の一つとして学生の頃などは観ていただけだったが、この作品に関しては主人公というか焦点が自然の中に忘れ去られ風化さえし始めている巨石墓だったことに気づくには相当程度に時間が掛かったかもしれない。
 学生の頃は、絵の中の巨大な石(岩)は、墓として使われて数百年ほどのものかと勝手に思っていた。
 しかし、ジャン‐ピエール・モエン著の『巨石文化の謎』 を読めば分かるように、こうした巨石文化(墓)というのは、紀元前数千年の歴史がある。
 同時に、有名なストーンヘンジでのドルイドの礼拝は現代でも厳かに行われている(観光化の波に呑まれている面もあるようだが)。

 ところで、フリードリッヒの他にヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールにも巨石墓を描いた作品がある。題名は、「冬の巨人塚(ドルメン)」という。
 このドルメンとは何か。ジャン-ピエール・モエン「用語説明」『巨石文化の謎』によると、「このウェールズ語は、巨石建造物の墓室の中でも最も頻繁に見られる「石のテーブル」を表す。」という。
 元は墳丘で覆われていて複数の遺体を収納していたが、歳月と共に土がなくなり巨石建造物が剥き出しになって、巨大な石のテーブルなどが残ったわけである。
 これに対し、巨石文化にはメンヒル(Menhir)と呼ばれる形態もしばしば登場する。「メンヒルという名称(もともとは「長い石」(menhir)の意)は、18世紀末のケルト至上主義者たちが書いた文書によって知られるようになった。(pp.180)」もので(ジャン-ピエール・モエン「用語説明」『巨石文化の謎』 )、「メンヒルは1本だけ孤立して立っているか、まっすぐに1列に並んでいるか、あるいはストーンサークルを形作っている。」という。
 また、「さまざまなメンヒルの中でも、ストーンヘンジの「ヒールストーン」は、夏至の日の日の出の方角を示す、特に重要な役割を持った意思である。」というわけで、ドルメンが墳墓の中の巨石部分の廃墟なのに対し、宗教的天文学的役割や意義を有するようである。
 が、「メンヒルの中にも巨石墓と関係するものがある。立石の下に人骨が埋葬されていたことで、神聖視されるようになったメンヒルや、サン=ジュストのアリニュマンのように、崩れてしまった後、墓室の内壁として再利用されたメンヒルもある。(pp.68-69)」というから、ややこしい。
 残った巨石を移動させたり倒したりして再活用することもあったわけである。

 ところで、小生は見逃したのだが、昨年、「150以上の神殿跡、欧州最古の文明か…英紙報道 [YOMIURI ON-LINE]」といったニュース報道があったらしい。
 つまり、「11日付の英紙インデペンデントは、ドイツ、オーストリア、スロバキアなどの欧州大陸中央部の広い地域で、紀元前4600年から4800年にかけて建てられた150以上の神殿跡が発掘されたと報じた。事実なら、巨石文化を示す英国のストーンヘンジよりも2500年以上も前になり、同紙は「欧州最古の文明の発見であり、欧州の先史時代研究を書き換える意義を持つ」としている。同紙によると、発掘を担当したのは、ドイツ・ザクセン州文化遺産部局。神殿は円形で土と木を材料にして建てられ、周囲にはヒツジ、ヤギ、ブタなどを家畜として飼っていた集落があったという。この文明は約200年間で消滅しており、その原因はわかっていない。」というのである。
 英国のストーンヘンジについては、日本人女性(木村ジュリ氏)による比較的近年の撮影を付した紹介がいいかも。
 英紙インデペンデントによる欧州最古の文明か、という報道については小生は続報情報を得ていない。ただ、巨石文化は有史以前数千年のものだとは理解してよさそうである。

 さて、日本にも巨石文化がある、というと紛らわしい言い方になるが、古墳時代そのものは近年、卑弥呼の時代に遡ると考えられてきている。
 つまり、「従来、上記の箸墓古墳の築造年代は3世紀末から4世紀初頭であり、卑弥呼の時代と合わないとする説が有力であった。しかし最近、年輪年代法による年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっており、上記の箸墓古墳の築造年代は卑弥呼の没年(248年 頃)と一致する3世紀中頃であるとする説も唱えられている。」のである(「卑弥呼 - Wikipedia」参照)。
 その古墳の墓室部分は石造りの場合が多い。日本の場合は、多くは盛られた土が剥がされたりすることは少なかった(あるいは欧州の巨石文化に比して数千年、新しいということもある。神聖視されたり、日本の風土性から巨大な墳墓がそのまま神社の鎮守の森になったりすることも多かったのだろう)。
 珍しく石室部分が剥き出しにされた事例が、被葬者が「古代にこの地で最大の勢力を誇っていた蘇我馬子というのが最も有力な説」の石舞台古墳である。
 日本の巨石文化については小生も若干のことを書いたことがある:
日本の巨石文化そして古代ロマン

 文学において巨石文化が登場するということはあまり考えられない。時代が違いすぎて、古代をテーマの小説でも既に巨石文化が欧州でも日本でも終わりを告げてしまっているわけだ。
 ただ、フリードリッヒではないが、背景として、あるいは人の過去への思い入れとして登場することはありえる。
 小生はすっかり忘れていたのだが、「Tagebuchliteratur」なるサイトの「Tagebuchliteratur 『夏の砦』」で、辻 邦生著の『夏の砦』(文春文庫)の中に、巨石文化への思い入れが背景として描かれていることを教えられた。
 いつかしら生命に満ちた営みを無視し、芸術の根源である人間の生命との亀裂に苦しみ自殺まで図る主人公の冬子は、「芸術の理想、すなわち人間の生命、生活がそのまま結びついている」と冬子には思えるエルスに触れることで「芸術の根本を甦らせてゆく」。
 そのエルスは、冬子には以下のように神秘的なまでに映っている:

 

 たしかに私もこうしたエルスと一緒に暮らしているうち、自分がどんなにかこの健康な、生命にみちた営みを無視していたか、よくわかってくる。エルスの目のくらむような自然への陶酔こそ、あの巨石文化を残していった北方の先住民の生き方だったのかもしれない。走ったり、泳いだり、投げたり、木にのぼったり、高い梢を渡ったり、飛鳥のようにとびおりたりする動きそのもののなかに、私は、古代的な不思議な純血を感じる。エルスが露台に休んで放心しているときの、日焼けした背にかげを落としているあのような古代的な憂いは、おそらくこの純潔さと無関係ではないのだ。
 わたしはエルスといると、自分がこの大自然の一部分に還元し、その中で甦り、新しい生命に目ざめでもしたように、裸足で地面や草を踏み、胸にじかに風を感じ、腕も脚も頭もこうした自然のなかに融けこんでゆくのだ。自分の身体の裏面がむきだしにされ、快楽が深い奥底から火のように激しくつきあげてくるのを感じる。

「巨石文化を残していった北方の先住民の生き方」がどのようなものだったのか、研究者の研鑽にも関わらず不明な点も多いという。自然を前にする感性など、もう想像の域を超えて遠くへ我々が来てしまったのかもしれない。

 ただ確かに古墳や、それどころか数世代に渡る墓の並ぶ墓地に佇むだけでも、過去への思いに囚われ、過去には確固たる生き方と現実と生命の躍動があったように思えてくる、ものであることは間違いないようだ。
 尤も、小生には、時の堆積を示す遺跡や廃墟を前にすると野暮な自分でさえ謙虚で厳粛な思いに駆られてしまうという心性が人間には(自分には)あると言えるだけなのであるが。

 小生は今年は初詣には行かなかった。その代わりに有史以前においては墓の代わりでもあったという巨石(ドルメン)などへ思いを馳せてみた。
 思えば、数十億を越える人の魂が地上世界に地中に空中にあの世に漂っていることだろう。何も墓地や神社に行かなくとも魂とはそこここで遭遇できるし、しているのかもしれない。
 ただ、そうはいっても、思いを形にし、行動で表したいというのも人間の習い。その伝を踏めなかった小生は、やはりここで古今の人々の魂に形ばかりの祈りを捧げておきたいのである。

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2006/01/06

初鏡…化粧とは鏡の心を持つこと?

「初鏡」などと、冬一月の季語の中でも無骨で野卑な小生には凡そ無縁な季語を選んだ。
 昨年の一月に採り上げた「初化粧」の時も、冒頭で「初化粧だなんて、これまた小生には一番、似つかわしくないような季語(季題)を表題に選んでしまった」などと書いて忸怩たるというか、一応は躊躇いがちに書いているのだという謙遜というより、以後の小文の中身の貧相さを弁解するような口ぶりを示していた。
 化粧は小生は記憶する限り自分では試みたことがない。
 遠い昔、悪戯でお袋の鏡台にあった口紅をちょっと差してみたことがあったような気がするが、何事にも臆病な小生のこと、その紅の先には赤い闇が口を開けて潜んでいそうで、深入りすることもなくさっさと逃げ去ってしまった。
 とはいっても、関心は少なからずあるようで、恐る恐る及び腰でとなるが先月も「鏡に向かいて化粧する」の中でも化粧を扱ったばかりである。

 さて、「初化粧」でも書いているが、「初化粧」と「初鏡」とは(もっと言うと、化粧と鏡とは)切っても切れない関係にある。余程慣れているか、急いでいる時でもない限りは、化粧は鏡を使わざるを得ないはずである。化粧は鏡に映る自分の顔姿を見ながら施されていく。美容院のように他人(専門家)の手に委ねる時でさえ、鏡は必需品のようだ(男の小生は推測・憶測するしかないのだが)。
 そのことを「初化粧」の中では、一言で、「化粧と鏡、鏡と女性、この三角関係の中にだけは男性は立入る術もない」と書いている。
 実際、俳句の世界でも、「初鏡」の類題・傍題が「初化粧」なのである。

 小生は「初化粧」でさらに、以下のようにも書いている:

 

 女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
 薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
 仮面の現象学。

 さらには、「スカートの裾の現象学」をデッサン風に書いた後、以下のようにも書いている:

 

 仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
(中略)
 化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
 きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。
 いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。

 そう、見られるように、化粧を表面的にデッサンしてみるだけでも既に鏡の現象学、それとも仮面の解釈学に足を踏み入れざるを得ないのである。
 化粧とは仮面に過ぎないと言い切るのは簡単だ。
 けれど、仮面舞踏会ではないが、仮面をかぶることによって素顔の自分、生の自分、覆い隠している欲望と野心とが剥き出しになることもある。違う自分を化粧することによって演出しているようでいて、実は案外と素の自分の一部、化粧しなかったならば可能性の海に漂流したままに終わるかもしれないエゴが露呈されているだけなのかもしれない。
 化粧を日々施すと言う営為を通じて、それこそメビウスの輪を辿るようにして、女性は知らず知らずのうちに表情ということ、表現ということ、演技ということ、装うということの秘密の領域に踏み入れてしまうのでもあろう。
 そこには男には窺い知れない深紅の闇の世界が果てしもなく広く広がっていて、男がうっかり覗き見ようものなら底なしの沼に溺れ行くばかりとなるに違いない。
 いずれにしても、化粧はもう一つの鏡なのだ。見る人の目線と偏見をそのままに映し返すものが鏡というのならば。他人の思惑など跳ね返すものが鏡に他ならないというのなら。
 だからこそ、化粧と鏡は一体なのであろう。

 さて、「初鏡」についても、「初化粧」の中で既に説明を与えてあって、「新年に洗面を済ませてから初めて向かう鏡」だとのこと。

「初鏡」なる季語の織り込まれている句をネット検索して探してみると、「髪豊かなるも母似や初鏡    浅田伊賀子」が複数のサイトで引用されているのが分かる。
 他に、「紅させば生きる唇(くち)なり初鏡    金子せん女」が例によって「ikkubak 2004年1月3日」の中で見つかった。
 さらに、「初鏡右手衰えし左利き    山中蛍火」や「初鏡娘のあとに妻坐る    日野草城」など
「いつまでも女でゐたし初鏡」なる句をひねり出した「鈴木真砂女(すずき・まさじょ)」という女(ひと)がいたことも書き添えておきたい。


初鏡覗き見る我睨む君
初鏡見る見るうちの他人顔
化粧して初めて心寛(くつろ)げる
はがれない化粧を素顔と君の言う
初鏡想い描く人誰でしょか
目の奥の瞳さえもが鏡張り

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2006/01/05

聴初には何がいいだろう

 年末から昨日にかけて、モーツァルト作曲の「フィガロの結婚」をラジオであるいはテレビで繰り返し見聞きした。といっても、ラジオではさすがに序曲だけである。
 モーツァルトの序曲の中でも人気の上位に来る曲のようだけど、どうして年末年始に幾度も聞くことになったのか。友人の車に同乗した際に、自宅で画面の映らないテレビで、仕事中ラジオを聴いていてと、シチュエーションは違う。
 ベートーベンの第九(合唱)が年末になると、あちこちのイベントで聴かれる(というか歌われる、というべきか)のは恒例みたいになったけど(もしかして、第九は冬12月の季語になっている、もしくはなっていてもおかしくはない。詠み手がその気になって第九の合唱される風景などを句に織り込めば、間違いなく季語になる?!)。

 でも、「フィガロの結婚」は、一体、どうしたわけなのだろう。モーツァルトの生誕250周年の年に当たるからって、他にも名曲は一杯あるじゃないか(誰か何故、「フィガロの結婚」が今、頻繁に流れるのか、教えて欲しい。ただの偶然?)。

tumago-hironon

← hirononさんから拝借した画像です。「妻籠宿」だとか。島崎藤村を想ってしまう。冬の山は音をも雪に変えるのか…。

(先に進む前に、「フィガロの結婚」については、「フィガロの結婚 - Wikipedia」などでネット検索して調べてもほしい。情報はネット上でも豊富に満ち溢れている。ここでは、「フィガロの結婚(Le Nozze di Figaro)は、フランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732年 - 1799年)の書いた風刺的な戯曲、ならびに同戯曲を題材にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したオペラ作品である。(Le Nozze di Figaro, K.492)」だけ、転記しておく。それにしても、『セビリアの理髪師』(伊: Il Barbiere di Siviglia)は、1775年にフランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732年 - 1799年)の書いた風刺的な戯曲」などの原作を読んだ人はどれほどいるのだろうか。まあ、モーツァルトの音楽の世界とは別個の世界なのかもしれないが。)

 確かに、今年はサッカーであればワールドカップドイツ大会の年だが、音楽界では「モーツァルト生誕250周年」の年であることは今更口にするのも気恥ずかしいくらいだろう。
 音楽にも疎い小生でもモーツァルトの曲を聴くと何か人間業でないものを感じてしまう。そもそも曲を作るということ、メロディを着想するということが小生には驚異だ。

 正月には、「野老から倭健命を想う」でも書いたように、「初鶏、初鴉、初雀、初明かり、初日、初空、初富士、初凪、若水、初手水、乗初、初詣…」などのように、「年初ならではの季語が句に織り込まれてきた」。
 だったら、「聴き始め」とか「聴初」とは「初聴」といった季語が生まれていてもいいように思う。
 敢えて「聴初」とする以上は、何を聴くか、どのような状況で聴くのかが大事なのだろう。音楽好きで、たとえばロックのファンなら一番心酔するロッカーの特定の曲乃至はアルバム(古い? CDか)を好きな酒など傾けながら聴く、クラシックファンならやっと入手した復刻盤を誰も居ない部屋で一人、ワインなどテイスティングしながら聴くとか。
 故・武満徹(敢えて敬称は略す)に『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)と題されたがある。ここでは本書を扱わないが、内容については、「松岡正剛の千夜千冊『音、沈黙と測りあえるほどに』」などを参照願いたい。
(その後、武満の著の『樹の鏡、草原の鏡』(新潮社)、対談集『ひとつの音に世界を聴く』(晶文社)や、書簡集川田順造との『音・ことば・人間』(岩波書店)などを読んでいった。レコードを買った記憶はないが、FMラジオなどで武満の音に関わる仕事に注目していった。西欧の音楽とは違う、日本の音を音楽家はどう表現するのかが非常に興味があった。今、俳句に関心を持つ身になってみると、俳句の背景に流れる音は、鉦や尺八、三味線なのか、それとも、あくまで風の音、川の瀬音、草の葉の擦れる音、道を歩く足音、蛇口をひねって流れる水の音、鳥の鳴き声、子供の歓声といった人間の生活を含めた森羅万象の音、つまり計算しつくした論理的に構築的された人工の音ではない等身大の世界、日常の中に見出すことの出来る音、なのだろうか。この点は、機会を設けてもう少し触れてみたいものである。)

 小生は大学に入った年だったか、友人の書架でこの本を見つけた。まず、この題名に感じ入った。すぐに入手して読んだが、上掲した松岡正剛氏のサイトで「ぼくは吃りでした。吃りというのは言いたいことがいっぱいあるということで、想像力に発音が追いつかない。発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います。」とあるのは、身に抓まされるようで、自分なりに同感してしまう。
 小生自身は吃りではないが、言語障害がある。武満徹と比べられると気が引けるし、「言いたいことがいっぱいあるという」わけではないが、それでも、「想像力に発音が追いつかない」という体験についてはありあまるほどある。「発音が追いつかなくとも、でもぼくはしゃべっているのです。このとんでもない「ずれ」はいつまでもぼくのどこかを残響させ、それがそのまま作曲に流れこんでいったように思います」というのが武満徹ならば、小生は書くという表現に向かっていったという面は間違いなくある。
 議論をしても、あるいはしようと思っても、頭の回転が追いつかないし、同時に呂律が回らない。あるいは発音が自分で聴いてさえも覚束ない。
 そういう障害を持つと、たとえ小生のように貧相な想像力や知性しか有していなくとも、物言わざるは腹膨るる…モノ言えざるは脳みそがひたすら熱を内向させて発熱していくばかりなのである。
(この辺については、「駄洒落研究についての予備的観察」や「石橋睦美「朝の森」に寄せて」「誰もいない森の音」などを参照。)

 音、言葉、沈黙、自然。
 上掲の「石橋睦美「朝の森」に寄せて」から、一部を再引用しておきたい:

 

 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
 その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
 何も残らなくても構わないのかもしれない。
 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。
 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。

 音楽を音を楽しむと敷衍して考えていいのなら(あるいはそれならもう音楽ではないよというのなら、別に音楽に拘るつもりもないのだが)、音の不可思議を思わずにはいられない。小生などメカ音痴なので、携帯電話どころかラジオでさえ驚異の存在である。理屈は一応は分かっても不思議なのは不思議なのである。
 ラジオを通じて周波数さえ合えば一定の音(番組)が聴こえる。
 だとしたら、人の耳に自然や宇宙や、海の底や地の底、遠い遥かな森の中の木の枝を伝い落ちる雫の気配、冬眠する熊の寝息、際限もなく存在しているのだろう微生物の生命活動する蠢きとざわめきの反響を聴くような、そういった未知の周波数に合うような聴覚があってもいいような気がする。
 尤も、聴覚がそういった始原の域まで遡られるのなら、もう聴覚とも視覚とも嗅覚とも明確には分かつことのできない原始の感覚領域が脳みそにあると想うしかないのだろう。
 沈黙という時に耳に痛いほどの無音の叫び。
 音楽が好き。それは小生には音が好き、音を楽しむということを意味する。もっと言うと、音というのは、在るという不可思議からの賜物であるに違いない。停止する光子の塊としての物質、沈黙せる音の凝縮としての物質というのは、実は等価なものなのではないかと想ったりする。
 喋ることが困難であり聴くことも叶わず、動くことも許されないとして、そうして寝たきりになって一切の外界の刺激にも反応しなくなっても、むしろそうした状態の時にこそ、一層、宇宙や自然や生命の豊穣さをつくづくと感じているのではないか。
 モノを言えない人の想像力は、きっと、感じる想いが際限もなく膨らんで、宇宙大に伸び広がっているに違いないのだ。だからこそ、人は時に無口になるしかないのだ。
 今日も音を楽しむ。音を楽しむのに機械など要らない。機械にはそもそも馴染まない音の宇宙がそこにある。
 言葉とは、沈黙の音をまっさらな時空上で奏でるために人に与えられた武器なのではなかろうか。
 さて、では、「聴初」には何を聴いたらいいのか。
 小生は、とりあえずは今は人の心音を聴いてみたい。


生きている音の響きの懐かしき
音と音重ねる時の終わりなく

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2006/01/04

年賀状の代わりのメルマガ

 表題に1月の季語である「年賀」を選んだが、特にこの話題について言及しようというのではない。
 小生は、五年前の二月初め頃にホームページを開設した。文章しかない地味なサイトで、全くの手探りの状態から始めたのだが、お蔭様で既に72000ヒットを超えている。
 ありがたいことである。ひたすら感謝するしかない。
 当初はアクセスが日に一度か二度で、つまり自分しか覗かないサイトだったのが、あれこれ悪あがきなどもして、徐々にアクセス回数も増えていった。が、日に50前後で頭打ちとなっている。これが限界なのか…。

 ところで、ホームページを開設して五ヶ月も経たない同じく五年前の七月にメールマガジンの配信を始めている。
 それは、ホームページへのアクセス回数が伸びないことからの焦り(?)もあったが、当時を思い返してみると、その前の年だったか、田口ランディ氏がメールマガジンを配信していて、人気を呼び、ついには本を出版されてベストセラーになったという話を聞いて、小生、色気を出してしまったのである。
 そうだ、小生の地味なサイトも、メールマガジンとタイアップすれば、うまくいけば認知度も人気度もアップして、うまくいけば本だって出せるかもしれない、なんて。
 全くの誤算に終わったことは言うまでもない。
 思えば、実のところ、ホームページに文章などをアップするのが(自分には)結構、面倒だったことがメールマガジンに走った理由でもあったと告白しておかないといけない。
 そもそもホームページを開設したときは、文章などをネットにアップするには、そのための専用ソフトが必要だと言うこと自体、知らなかった。開設に際し、業者任せにしてしまったツケが回ってきたわけである。
 アップするたびに業者にお願いしていたのでは埒が明かないと、友人にアップの方法を学んだのは開設してから一ヶ月近く経った二月末のことだった。
 確かに方法は学んだが、やはり面倒なことに変わりはない。

 そこへ、メールマガジンという媒体の出現である。
 メールマガジンなら、書いた文章をそのままにネット上に載せることができるではないか!

 あまりに安易な考えだったが、毎日(原稿用紙換算で)10枚は書く小生、実際的にもメールマガジンというのはアップするという点では魅力的でありすぎた。
 メールマガジンの配信を始めてみると、やはり楽である。書いた文章がそのまま配信されるのだ。改行その他で苦労することもない。週に二度ほどホームページを更新し、週に二度ほどメルマガを配信する。これだと、毎日書いた文章を漏れなく、何らかの形でネット上に載せることができる勘定になるわけだ。

 このようにして一昨年まで来たが、そこへブログという媒体の登場である。
 ブログという存在そのものは、三年前の後半くらいから知ってはいたが、理解力の乏しい小生のこと、ブログとホームページの区別がよく分からない。
 ホームページの掲示板に文章を書くと、クリックしたらそのまま文章になるわけで、掲示板に日記を書いて、それをクリックして公開する、公開日記の発展系といった説明を何処かで読んだような記憶があるが、でも、いま一つブログとホームページの違いがピンと来ない。
 ここでは、ホームページとブログの異同について深入りしない。

 ただ、ブログは文章や(あるサンバチームのファンになってから写真を撮る機会が増えたこともあり、画像のアップ…画像の縮小や位置決め…に苦労していたのが)画像のアップが極めて簡単であるという利点には瞠目するしかなかった。
 最初に、一昨年の八月末、meimaで試みて、これは文章のアップが楽だし、自分でも続けられると感じ、小生にとってのプロヴァイダーであるniftyで始めてしまった。
 それが一昨年の九月初めのこと。 
 やり始めると、水は低きに流れるではないが、楽なアップ方法に依存しがちな小生にはブログ以外にアップする媒体など考えられなくなった。
 ブログで文章を公開できるのに、画像だってサイズも含めて自由に公開できるのに、何を今更ホームページに頼る必要がある! という気分である。
 爾来、ブログでの毎日更新(公開)の日々が続いた。ホームページを毎日、更新するなんて論外だったことを思うと、毎日簡単に更新できる、それどころか日に二度三度だってその気になれば可能なブログは、小生にはなくてはならない存在になってしまった。

 さて、そこで困ったのが、メールマガジンである。メールマガジンで小生のエッセイなどを配信すれば、かの田口ランディさんのように評判が評判を呼んで人気者になり、本だって出せるという欲目は、とっくに萎えていたものの、それでも週に二度の配信は続けていた。
 人気者になると言う夢は早々と儚く潰え去ったものの、文章をアップし公開しやすいという利点は消えないのだった。
 それが、ブログの登場で、まるで事情が変わってしまった。

 ホームページは、デザインの一新も含め文章や画像などのアップは依然として手間が掛かるが、ブログは極めて簡単安易なのである。
 だったら、メールマガジンなど何の意味がある? ということになってしまったのだ。
 そう、メールマガジンの配信が小生には厄介者になってしまった、お荷物になってしまったのである。

 そもそも、即興で書いた文章をその場でネットの上に載せることができればそれでいい、というのが本来の狙いなのである。
 だったら、ブログで十分じゃない。何をその上、メールマガジンの配信まで手を染める必要があるのか、という疑問が常に付きまとうようになった。

 大体、やり始めると凝り性の小生、ブログでは毎日更新できるという魅力に夢中になった。となると、本当に毎日、更新してしまう。書く内容も中身の濃さはともかく、文章の量も次第にエスカレートしていく。毎日更新というのは、他人が期待しているかどうかは別として、自分としては自分へのプレッシャーとなっている。
 実際的に、メールマガジンの配信作業に割けるような余力は全くなくなっていたのだった。

 また、ブログを始めてみると、アクセス回数が毎日、増えていく。当初は日に十数回だったものが、すぐにホームページのアクセス回数である五十回を越え、やがては百回に二百回にと増えた。
 上記したように、meimaとniftyでやっていたのだが、昨年の半ばには、両者合わせてのアクセス回数が日に千回を越えた(meimaだけでも千回を越えることがしばしばとなった)。
 これは、サイト主としては嬉しい。

 さすがに、アクセスの多さが読まれている頻度、つまり人気度と比例しないことは小生でも分かる。文章の量が多く、その中に含まれる語彙の量や数が多ければ(当然、その都度、話題になっている言葉や名前を入れればもっと増えるのは分かっていたが、その点は書く文章の題材は、頑固に自分の関心事の範囲内に留めていたが)それだけネット検索の網に掛かりやすいのである。
 ブログでは、一つの頁に何日分かの日記類を載せるようにしておけば、検索の網にそれだけ掛かりやすいという傾向もある(なので、小生は、敢えてその都度、表示される記事の数を減らして、リアルなアクセスを求めるように工夫したこともある)。

 さて、ブログを一昨年の夏の終わり(秋口)に始めてから、そろそろ一年と半年となる。
 その間、メールマガジンの配信は途切れがちだった…というより、実際上、休刊状態だった。
 配信はどうしたという反響と言うかお叱りの声も、時折、サイトを通じて、あるいはわざわざメールで問い合わせの形などで戴いたこともある。
 けれど、ブログで手一杯の中、何ゆえ、メールマガジンを配信するのか、その意味を問い続ける日々でもあった。
 仮に無理してメールマガジンを配信したとしても、ブログで書いている文章をそのままメルマガに転載するしかない。ミラーサイトをブログではなくメールマガジンという媒体で持つだけのことではないか…。
 なんといっても、小生の場合、ブログは毎日、更新しているのだ。何も更新の案内など必要ないはずではないか…。

 ここで、改めて、ブログやホームページとメールマガジンの異同を確認してみたい(ここでは、ブログとホームページを区別しないでおく)。
田舎暮らしdeパソコン生活塾・ホームページ作成・フリー素材・ブログ・メルマガ・スローライフなどの自由研究」を参照する。
「メールマガジン(メルマガ)というのは「まぐまぐ」などの発行システムを利用してメールで情報を発信する媒体です。発信も購読もともに無料で、登録もメールアドレスをいれて購読ボタンをおすだけという簡単さです」という。
 また、「購読はいつでも自由にやめることもできます。購読時に入力したメールアドレスをいれて解除ボタンを押せば、すぐに解除できます。だれもが購読者になったり、発行者になったりしながら、さまざまな情報を共有していくための有効なツールです」とも。
 だから、小生自身、発行者となっているし、幾つかのメルマガの購読者ともなっている。

 ここからが肝心で、「メールマガジンの役割」という項目に、以下の説明が見出される:

「ホームページはユーザーにアクセスしてもらう(アクションを起こしてもらう)必要がありますが、メールマガジンの情報はメールと同じように、何もしなくても自然に届くものですから、ユーザーにとっては楽な媒体です」

 以下、「内容が支持され、楽しみにされるようなメールマガジンを発行できれば、ホームページよりも気軽に情報を伝えることができるというわけです。そしてより詳しく伝えたい場合は、文中でホームページにリンクすることで、興味のあるページを見てもらうこともできます。
最新の話題や登録してもらった人だけへの特別情報を提供したり、ホームページへのアクセスアップをはかったり、読者とより親密なコミュニケーションを築くためのメディアとして大いに活用するとよいでしょう」とあるけれど、まさに、「メールマガジンの情報はメールと同じように、何もしなくても自然に届くものですから、ユーザーにとっては楽な媒体」であることが眼目(の一つ)なのである。

 さらに、ブログはデザインが施されている。従って、一つの記事だけを拾って(選んで)読むとしても、その情報量は数十キロバイトである。その点、シンプルなメルマガであれば、情報量は数キロバイトだ。
 ということは、携帯電話での受信も現在なら十分可能だということだ(実は、数年前にプチメルマガということで、携帯電話向きのメルマガも配信しようとしたが、当時は語数が極めて少なく、すぐに限界を感じ、頓挫してしまったことがある)。
 小生はともかく、世の多くの方は忙しいし、交際も多いし、外出の機会も多い。となると、ゆっくり自宅でパソコンに向かうというのは困難だという事情も考えられる。

 今年から、心も入れ替え(は今更無理だが)、改めてメールマガジンの配信に心がけるようにした。
 ブログ(やホームページなど)を自宅で空いた時間などに自由に閲覧できる人にはあまり意味がないかもしれないが、仕事そのほかでの外出など移動の多い方には、メールマガジンの購読を予約しておくことは大いに意味のあることと信じる。
 ということで、昨夜、早速、今年最初のメールマガジンを配信しました。年賀状を一枚も出さなかった小生の年賀状代わりというわけでもないけれど、まあ、ブログなどのサイトを覗く暇のない方には、年賀の挨拶にはなったかもしれない。
 メルマガの配信は、当面、以下のサイトで行います:
まぐまぐ

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2006/01/03

野老から倭健命を想う

 1月も12月ほどではないが、季語(季題)が多い。
 年末年始ということで年中行事もあれこれあるし、1月は、「門松、 飾、注連飾(しめかざり)、飾臼、鏡餅、蓬莢」といったいかにも正月らしい季語も多い
 が、なんと言っても「初鶏、初鴉、初雀、初明かり、初日、初空、初富士、初凪、若水、初手水、乗初、初詣」や、「初化粧、初諷経、新年会、初金毘羅、笑初、泣初、掃初、書初、読初、仕事始、山始、鍬始、織初、縫初、初商、売初、 買初、初荷、飾馬、初湯、梳き初、 結い初、初髪、初鏡、稽古始、謡初、弾初、舞初、初句会、初芝居、 宝船、初夢、御用始、帳綴、騎初、弓始、出初」などといった、年初ならではの季語が句に織り込まれてきたことが一月の季語を豊かにする上で大きいことが分かる。

 一月は、当然ながら何をやっても初物となる。季語にあるのかどうか確認が取れていないが(以前にも採り上げたことがあるが)、「姫始めとか、初屁の出とか、初小水とか、初喧嘩とか、初料理とか、嘘始め… 」なども、年の一発目であれば、初物であることは間違いない。
 これらが季語になるかどうかは、句をひねる人の力量次第だ。話題になってしまい、多くの人が同じキーワードで句をひねって作品を争うようになれば、一部に顰蹙を買う向きがあろうと、断固、季語の座の末席に連なるに違いない。

 俳句は仲間内の芸や遊び事になりがちな、やや閉鎖的傾向のある遊びである。あまりに豊富な句の例があるし、約束事も歴史の積み重ねと共にうんざりするほどあって、素人が個人的に楽しむ分にはともかく、一般に俳句だと公開するのは、なかなか難しい。目にしてもらうのも難しいが、句をひねる人に仲間・同士・会派があって、その内部では、互いにほんの一瞬、口ずさんでもらえても、それでお終いである。

 ネットが普及して、可能性の上では、素人が気まぐれで作った句であっても、季語(鍵となる語)さえ入っていたら、過去の名作などと共に、下位のほうであっても、検索の網に引っかかることは間違いない。
 特に人が扱わない季語を織り込んでいると、小生のような変わり者が誰か同じ季語で作っている人はいないかと、物色のためネット検索し、おお、ここに先人がいた! と感動の面持ちでとりあえずは詠むし、場合によっては事例として転記することもありえる。
 そうはいっても、初屁の出とか初小水、初雲古、初掃除…」などは雅味ある句にに織り込むには相当な力業が必要だろうとは容易に想像できる。やはりこれらの語群は川柳向きなのだろうか。
(但し、「初小水」については、「初手水(はつちょうず)」がやや微妙な季語として類語として思い浮かべる向きもあるかもしれない。「初手水」の意味は、「元旦に、若水(わかみず)で顔や手を洗い清めること。手水始め。」である。)

 そんな中、さて今日は何を採り上げようかと眺めていたら、「野老」という語が目を引いた。
 小生、勘が鈍いもので、「歯朶(しだ)、 楪(ゆづりは)、野老、穂俵、福寿草、福藁(ふくわら)」の語群の中に「野老」があるというのに、この言葉の意味を調べるまで、正月の縁起物の一つである「海老」と勘違いしていた。さすがに海老(えび)とは読まなかったが、何かそれに類する海(川)の生き物であり、食べ物なのだろうと決め付けていたのである。
(実際、「伊勢海老」という季語(新年)がある。今年は(も)食べ損ねた…。)
 調べてみると、「野老」とは「ところ」と読むのであり、「野老飾る」という傍題もある。「野老(ところ)掘る」だと、秋の季語となる。
 まずは画像を見ておくのがいいだろう。案外と実は目にしているが、名前の不明な雑草の一つくらいに思っているかもしれないし。
季節の花 300」の「野老 (トコロ)」を参照させていただこう。
「根の部分はふくらんで芋のようになる。食べられる。また、”ひげ根”が多数つく。」というが、残念ながら肝心のひげ根の画像が載っていない。
「根にかたまりができることから「凝(とこり)」、 これが「ところ」に変化したといわれる。また「”とろり”と凝った汁」ができることから、そこからいろいろ変化したとの説もある。 漢字の「野老」は、根の”ひげ根”を老人の ”ひげ”に見立てて、海の「海老」に対して山野の「野老」ということでこの名になった。」という説明がとても愉快であり、特に後段が面白い。
 小生などが「海老」に関連すると勘違いするも無理はないのであって、そのような縁起を念頭においた命名がされていたのだ。
「根茎の”ひげ根”を並べて干し、正月の蓬莱(ほうらい)飾りとする。 (老人に見立てて長寿を祈る)」というから、風習・風俗に疎い小生だが、もしかしたら…きっと…見たことがあるに違いない。
 別名、「オニドコロ(鬼野老)」だとか。
野老 (トコロ)」にも「すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む」が紹介されているが、小生が折々お世話になっている「たのしい万葉集」によると、「野老(ところ)」は、万葉集にも詠み込まれた歌が二首あるという。

 この「野老 (ところ)」については、「 『野老 ( ところ ) 考』 ゲストキュレーター 小熊 健」なる頁が一層、詳しい。
 オニドコロではなく、エドドコロだが、根茎の画像も載っている。

 オニドコロについては、古事記に関心のある方にも興味深いサイトが見つかった。
工房 西塔(さいとう)」の「雅楽と歴史 Ⅰ 」なる頁の冒頭に「1、誄歌(るいか)の解説に異議あり」という項目があって、その中で、「野老蔓(ところづら)は、野老(ところ)蔓(かずら)であり、別名おにどころ。」ということで、関連する話題が載っている。
 ここでは、「倭健命が亡くなったとき、后や御子たちが墓を作り、『田にはい廻って泣きながら』という解説に疑問を持ちました。墓を離れて『田にはい廻る』のはなぜだろうと。」という疑問が、「当時の貴人の埋葬風習は、一度土に埋め、後日白骨を掘り起こしてきれいに洗い、立派な御陵に埋葬し直したとのこと。だから、后や御子たちの作った墓は土饅頭であり、その廻りにとりついて泣く姿が、稲幹にまとわる蔓草(つるくさ)のようだ、となるのです。」と、解かれている。
 少なくとも小生は納得してしまった。

[拙稿「葬送のこと、祈りのこと 他」を参照してもらえたら幸いです。]

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2006/01/02

歌留多よりも読初

 今日の季語随筆の表題は1月の季語である「歌留多」にするつもりだった。
 ネットで検索すると、「猫がいて歌留多遊びの邪魔が好き   城山千夏」「恋歌に手の重なりし歌留多取り    析積」「座布団の下に逃げ込む歌留多かな    眠兎」「歌留多札人に取られてゆくばかり   草野玉葱」「歌留多していつしか日が傾きぬ   川原妙子」(以上、いずれも「インターネット俳句大賞・八木健選・12月の結果」より)とか、「歌留多の灯一途に老いし母のため   みづえ」(「游氣風信 No97「めでたい俳句」 三島治療室便り'98,1,1」より)などの句が見つかる。

sion-nenga

← 紫苑さんに戴いた年賀の画像です。今年もこの薔薇の花のように咲き誇りそう!

 最近ではトランプなどに押されてカードゲームとしても一つの風景として遠ざかってしまったように思えるけれど、それでも、ファミコンなどが流行る現代だからこそ、敢えて楽しむ方も一方では増えているのかもしれない。
 似たような正月ならではの遊びとしては、他に花札や双六などがある。ほんの数年前までは郷里の家でもお正月には欠かせぬ遊びとしてやったものだったが、両親が札遊びどころではなくなって、すっかり遠のいてしまった。
 こうなると、一層、「歌留多」を俎上に採り上げるべきだと思った矢先、「歌留多」を扱うこの上ないサイトが見つかってしまった。
 それは、「日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET  季節のことば  新年 其の一 歌留多」である。

 ここには、「お正月には人が集まることが多く、冬季でもあることから、羽子板などは例外として、室内での遊戯がさかんである。カルタ遊びは双六遊びとともに、お正月の室内遊戯の代表といってよいだろう。」から始まって、「歌カルタの中では小倉百人一首が最も広く用いられ、現在にも続いているが、それ以外にもいろはカルタをはじめとして、種々の歌カルタがあった。源氏物語や伊勢物語の歌をもとにしたもの、漢詩や俳句をもとにしたもの、あるいは格言、諺、教訓をもとにしたものなど、実に多様な歌カルタの世界が花開いていたのである。」まで、「歌留多」について調べたいと思いつくだろうおおよそのことが網羅されている。
 しかも、「歌留多」のある光景を織り込んだ句が列挙されている。
 小生としては困惑するばかりだが、この上付け足すことも思い浮かぶはずもなく、こうなったら潔く、このサイトを紹介することですごすごと撤退するしかない。

 では、何を今日のテーマとして採り上げるか。「書初」は習字なるものがガキの頃から苦手の小生(幾許かは達筆な父へのコンプレックスもあるような)、つい、敬遠してしまう。
 元旦に「兄ちゃんの姫始め」なる掌編作品をこしらえたことで、書初めの代わりだと嘯くしかない(表題に「姫始め」が思い浮かんだのも、書初めからの連想だった!)。
 物色を続けてみたら、「読初」という季語が見つかった。もしかして読書初め、ということか。
 調べてみると、「読初(よみぞめ) [新年-生活] 別名⇒読書始(どくしょはじめ)」とあるではないか(「YS2001のホームページ」より)。
 問題は何を読むかが限定されているかどうかである。本だったら何でもいいのか。ネット検索してみると、「ある本の海賊版や読初    山口青邨」や「読初に鯨の旅路たどりけり   林敬子」などが見つかり、何も古典や漢文、草紙の類でないとダメということではないらしい。
 さらに探すと、「読初や漫画といへど三国志   有馬朗人」(「ikkubak 2005年1月6日」より)や、「読初〈よみぞめ〉の突如大海原へ出づ   鷹羽狩行」(「日国.NET:よもやま句歌栞草 vol.24 海」より)などが見つかった。
 この季語「読初〈よみぞめ〉」が生まれた頃の経緯(いきさつ)はともかく、今では読む本は詠み手の裁量に任されているらしい。
 ただ、「読初〈よみぞめ〉の突如大海原へ出づ   鷹羽狩行」に付せられた評釈の末尾に、「読初は、現在でこそ、新年に入って初めて書物をひもとくことと意味が単純化されているが,昔はかなり儀式がかった行事だったようだ」という件(くだり)が見つかる。
 確かに、季語なのかどうかは分からないが、「講書初」という儀式があって、「御講書初ともいい、新年に宮中で、天皇が学者から進講を聞く儀式。今日では皇太子以下後続や首相、最高裁判所長官などが陪聴する。」のだから、あるいは「読初」も、これに準ずるものだったのかもしれない。
 いずれにしても、庶民たる小生、年初の一番最初にやったことというと、ロッキングチェアーでの居眠りか執筆か読書なのである。
 確認してみると、「年頭に当たって…あいも変わらず」は元日の昼前に書き上げている。「物語…虚構…世界…意味」は、大晦日の夜九時前は書き上げていた。
 年越しとなる夜半に何をやっていたか。残るは読書か居眠りか。微妙だ。大晦日にはダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード』の下巻を読了し、夜半前後に帰省からの帰京直後に読了した村上春樹の『海辺のカフカ(上)』の続きとして下巻に取り掛かったところまでは覚えているが、うーん、居眠りで年越ししたのか、読書でだったのかは、どう思い返してみても微妙としかいいようがない。
 小生らしいといえば、実に、らしい。
 そう、「歌留多」遊びという親しい仲間との遊びに興じるのではなく、居眠りにしろ読書にしろ(あるいは執筆にしろ)、いずれにしても一人きりの時を彷徨っていたことに違いはない。
 その一人きりで年越しをしたというのが小生らしいのである。
 今年も、きっと小生らしい年を送るのだろう、淡々と。


 花札に興じる声の今はなき
 歌留多して決まって最後は口げんか
 歌留多より花札よりも餅がいい
 読初と居眠りだけが生活だ
 読初のはずが気が付きゃはっと覚め

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2006/01/01

創作アップのお知らせ

物語…虚構…世界…意味」の中で書いたように、物語とか虚構作品を綴る意味を今年は一層、考えていきたいと思っています。
 一切が不透明である現代こそ、物語の重要性を痛感しているのです。

 ということで、早速、創作の館である「無精庵方丈記」にて、新作をアップしました。できたてのほやほやです。うっかり触ると火傷するかも。
 タイトルは、「兄ちゃんの姫始め」です。
 タイトルで連想されるほど、生易しい内容ではないかも。

 楽しげな(?)作品を好まれるなら、「姫 始 め」のほうがいいかもね。

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年頭に当たって…あいも変わらず

 12月は季語・季題が豊富にあり、その中から幾つか一昨年採り上げたものを「12月は季題が豊富にあります」の中で示し、昨年の12月にも幾つか採り上げた

nazuna-nensho

← なずなさんにいただいた年初の挨拶の画像です。共に歩める相棒が居るのは羨ましいね。小生は、どうなんだろう?!

 お世話になっているのはネットで覗くことができる、「俳句歳時記」や「俳句ステーション」「よっちのホームページ」などのサイトで、他に手元(電子ブック)の俳句歳時記(子規)などを参照している。
 さて、「俳句ステーション」を覗かせてもらうと、1月も負けず劣らずに多い
 参考に昨年の正月に採り上げたものを列挙してみる(表題を見て直ちに気づくのは、その頃はまだ表題が季語・季題だけで、実にシンプルだということ。中身はともかく、段々、表題が賑やかになっていく…)。


「蓬莱(ほうらい)と徐福」(January 04, 2005
「寝正月」(January 05, 2005
「鳥総松(とぶさまつ)」(January 06, 2005
「お屠蘇と雑煮」(January 07, 2005
「明珍火箸」(January 08, 2005
「寒稽古」(January 09, 2005
「新年会」(January 10, 2005
「初化粧」(January 11, 2005
「冬籠(ふゆごもり)」(January 12, 2005
「冴ゆる」(January 13, 2005
「冬薔薇(ふゆさうび)」(January 14, 2005
「氷柱」(January 15, 2005

macoron-nensho

← マコロンさんにいただいた年賀状の画像です。ああ、今年も一枚も年賀状を出さなかった。もらって喜ぶ人が居たらいいのだけど…。

「薮入り」(January 16, 2005
「雪女郎」(January 17, 2005
「青木の実」(January 18, 2005
「初金毘羅」(January 19, 2005
「初金毘羅(続)」(January 19, 2005
「風花」(January 20, 2005
「寒月」(January 21, 2005
「月冴ゆる」(January 22, 2005
「悴(かじか)む」(January 23, 2005
「侘助(わびすけ)」(January 24, 2005
「日脚伸ぶ」(January 25, 2005
「(雪)しまき」(January 26, 2005
「懸想文(売)」(January 27, 2005
「10円カレー」(January 28, 2005
「雑炊と粥とカレーと」(January 29, 2005
「春着(はるぎ)」(January 30, 2005
「淑気と春隣と」(January 31, 2005

tanu-nensho

← tanuさんにいただいた年初の画像です。なずなさん共々、小生がファンになって勝手にお邪魔しているサイト。他にもこっそり、でも日参しているサイトが幾つかある。和みと温みを戴く一方で何もかえすものがないのが情けない。

 継続は力なりと言うらしいが、こうして総覧してみると、少しはあれこれ勉強はしようとしていることを感じる。小生は既に三十年以上、日記をつけている。実際にはネットに参入したこの数年は特に(紙の)日記にはその日の天気や買い物の記録、読み始めたり読了した本の著者名と題名、外出先などの項目をメモしているだけになりがちだが、それでも、いずれは自分にとってのかけがえのない資料になることだろう。

 ただ、日記類は年が明けると、紐で括って何かの箱に収めてしまい、やがては部屋の中のダンボール箱の山に埋もれていき、今日の日記を書く際に、あるいは暇の徒然にでも覗いてみて、感懐に耽る、なんてことはまずない。
 つまりは宝(?)の持ち腐れとなっているのだ。
 その点、ネットだと、簡単に過去の記録に接することが出来る(簡便な三年日記などの複数年日記のようなものだ)。

 逆に言うと、自分で削除しない限り、自分で(あるいはそんなことはあまりないと思うけれど、他人様でも)何処かのサイトでデジタル情報として残り続けているということ、その気になれば閲覧できると言うこと、つまり、ネットとは(覗くのに鍵を設定する必要がない限りは)超巨大な一面記事なのである。
 ただ、大概は自分の書いた記事や関わった人たちの記事などにスポットライトが当たり、その記事がネットという巨大なバーチャルの海から浮上し、海面に束の間、顔を見せる、というわけだ。
 ある意味、新聞だって全ての頁が一面でありえる。実際には折りたたまれているし、表紙のいわゆる一面記事だって、展望しつつも、目は一面の何処かに焦点を合わせざるを得ない。
 参照するとは、スポットライトを照射することだし、転載は不可とあっても、閲覧という形で覗くのは自由なのだろうし、小生は鍵で閉ざされていて仲間内にしか見せないサイトは別として、開放されている記事は全て転載可能なのだと考えている。
 但し、言うまでもなく、転載元のアドレス(URL)を示すかリンクさせておくのは礼儀以前の最低限のマナーである。

 さて、一年の始めに当たって、人はそれぞれに何をしただろうか。小生は、何もしない。夜明かしというか年越しも、例によってロッキングチェアーに腰を埋めていて、読書している間に寝入ってしまって、幾度かは夜中や未明に目覚めたが、寝るのが楽しみとばかりに、今日の元旦が休日なのを幸いに、ひたすらのんびりだらりと過ごしてしまった。
 年が改まったからといって、今になって人間性が変わる筈もなく、この十数年続けてきたように、淡々と日々過ごしていく。
 仕事をしつつ、在宅の時には、居眠り(まとまった睡眠は取らないだろう)と読書と執筆の日々を送るに違いない。
 ただ、書くテーマや内容は少しずつ変わっていくのだろう。できれば単純に経年変化するのではなく、内容において熟成させることができればと思うが、こればかりは体験の蓄積を生かすことの極端に苦手な小生には難しい。
 季語随筆においてもそうだが、実際には日々、画面に向かってから何を書くか決めている。予めテーマや題材があると助かるし便利でもあると分かってはいるが、虚構作品を綴る際もそうなのだが、頭の中が真っ白で何を書いたらいいか、さっぱり分からず途方に暮れ、時に呆然自失さえしそうな茫漠感に眩暈しそうな自分を見出すのが嬉しい。
 何を書いたらいいのか、分からない。画面に向かってない知恵を絞る。過去に何を書いたかは、画面に向かっている最中、書いているその都度においては全てきれいさっぱり忘れ去る。
 そうすることでまっさらな自分を見出せるし、日々書くことを新鮮な気分で遂行することができる。
 今年一年も、画面に向かうたび、途方に暮れる自分を見つめ続けることになるのだろう。
 そうして今日までやってきたのだ、そんな自分のやり方を年が変わったからといって改める気には毛頭、なれないのであるし、その気もないのだ。

 変わるものなら世界が変貌を遂げていくように、自然に変わるし、自分という内海へ世界という外の宇宙がいつでも自由に勝手に気ままに浸透し流れ込み、押し流そうとさえする。激流を流れゆく木の葉のように玩ばれる心と体。
 その在りようを描き示すことができるなら、最高だと思う。
 ということで、年頭に当たっての所信など何もなく、あいもかわらぬ自分が居るばかりというわけである。

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