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2005/12/24

三宅島はるか

 過日、ラジオで三宅島の話題を聞くことが出来た。
 が、例によって仕事中ということもあり、三宅島の観光について、万全の体制をとっていて、「三宅島島内では、ガスマスクの常時携帯 が義務付けられてい」る云々という話などがあったように覚えているだけである。
東京都公式ホームページへようこそ!」の中の「観光産業の概要 三宅島の観光産業 御蔵島の観光産業」なる頁を覗くと、三宅島の観光産業のおおよそを知ることが出来る。
「平成12年6月から始まった火山活動と7,8月の噴火、そして9月の全島民島外避難指示を受け、その後4年半は関係者以外は上陸できない島となっていました。しかし平成17年2月に避難指示解除となり、同年5月からは観光客の受入れを再開しています」という実情は、テレビ・ラジオその他で折々、見聞きしている。
 苦しい中でも頑張っていることを思うばかりである。

 たまたま、我がブログサイトでも、三宅島の名が(ついでの形ではあるが)出てきた
 そんなこんなを思うと、これは何かしら書き連ねて、三宅島への関心を改めて抱いてもらう一助になれたらと思う。 
 そうはいっても、小生、島という島へ行ったことは、夢の島くらいのものである。
 なので、ネット情報などを参考に、三宅島の周辺をネット上でということになるが、少々散策してみたい。

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掌編を書いたよ

 たまにはいいかなって、掌編を書いてみた。
 ある方が書いた「ロングシュート」という物語の影響を受けて。冒頭部分をちょっと借用させてもらいました:
勘違い

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2005/12/23

大カトーの台詞 (ジョーンズの練習日記・番外編 ②)

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読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー:承前)

読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)」と銘打っておきながら、前稿では肝心の(?)シェイクスピア・ミステリーに全く触れることが出来なかった。
 扱った小山慶太著の『消像画の中の科学者』(文春新書)が、物足りなさを覚えつつも、興味深いエピソードに満ちていて、なのに一つも紹介しないのも味気ないと、つい書き連ねているうちに紙面が足りなくなった(お腹も空いたし)のである。
 そうそう、前回、ネット検索していて残念だったのは、ラザフォードのレリーフのエピソードを扱いながらも、目当てのレリーフ画像を(ワニの画像共々)見つけられなかったこと。もっと時間をかけて探せば見つかると思うのだが。

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← 路肩に吹き寄せられた落ち葉。タイヤに踏まれ、次第に粉々に砕けていく。やがては粉塵に帰してしまうのか。

 『消像画の中の科学者』は読み止しで、他にも興味深い逸話があるのだが、後日、時間があったらまた採り上げてみるかもしれない。
 他の本に移る前にちょっとだけ。「ホジキンの捻れた手」という章がある。ホジキンとは、画家のハワード・ホジキンではなく、「X線回析法による生体物質の分子構造の研究」でノーベル化学賞を受けたドロシー・ホジキンのこと。
 彼女の肖像画は、一九八五年にマリー・ハンブリングが描いてる。元の絵は油絵なのか水彩画なのか、分からないが、章の表紙に載っている画は白黒で必ずしも鮮明とは言えない(ネット検索では、これまた目当ての画像が見つからない)。
 それでも、どこかフランシス・ベーコン(哲学者のベーコンではなく、彼の末裔でもある芸術家のベーコン)風な独特の画調が漂っている。それ以上に、まさに本章で小山氏が話題に採り上げているのだが、というか、指摘されなければ、小生の節穴だと間違いなく見過ごしたに違いないのだが、彼女の手元にこそこの肖像画の眼目がある。

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読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)

 表題を「読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー) 」と大仰なものにしてしまったが、まあ、相も変らぬ雑読メモである。
 車中では、小山 慶太著の『肖像画の中の科学者』(文春新書)を読んでいる。
(実際には、この年末は、タクシー業務に関しては恐らくは96年末以来の忙しさを味わっているので、今月初めまでのようには、何処かに客待ちのために車をつけて、待機している間に読むという時間がほとんど取れていない。仕事に関しては、嬉しい悲鳴だが、車中読書に関しては困る…。ああ、不謹慎!)

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← 昨夜の休憩時、お月さんを見た。月と街灯が明るさを競っている?!

 レビューによると、「コペルニクスから寺田寅彦、ホーキングまで、歴史に名を残す科学者二十五人の肖像画に眼をこらせば、そこには人間的な、余りにも人間的な素顔が炙り出されてくる。知らず知らずのうちに科学史を散歩できるミニ列伝。」というものだが、数年前に出版された本。
 科学の啓蒙書を読むのが好きで、科学者の伝記を読むのが読書などをするようになった端緒みたいな小生だし、しかも、そこに絵画や美術に関する話題が組み合わさっているとなると、食指が動くのは当然。
 本書にある肖像画の大半は、小生ならずとも馴染みの絵で、教科書やネットでもちょっとした年賦に付されている画像の形で大概、見知っているものである。
 肖像画ということで、画家が誰かということには、少なくとも小生はほとんど関心を寄せたことはなかった。本書の中で画家の名を初めて認識した人ばかりである。
 多分、本書を読了したら、まずは二度とその画家のほかの作品を目にする機会もないし、画家を意識することもないかも。
 なるほど、肖像画を描く立場になってみたら、仕事として相当程度に描かれる科学者の人物像を把握する必要があるし、描かれたモデルを納得させないといけないし、かといってモデルに迎合ばかりしていては、画家(肖像画家)としてのプライドにも響いてくるし、どのように描くかで悩むことが多いのだろうと察せられる。
 それどころか、描かれるモデル本人どころか、科学者を取り巻く関係者をも納得させないといけないのだとなると、厄介至極な仕事である。

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2005/12/22

牡蠣と森との関係?!

 タクシーを走らせていると、いろいろな情報が入ってくる。
 季節ごとの空気の移り変わり、空の眺め、匂いの微妙な変化。人の流れ…。

 街の風景の変化など、最たるものかもしれない。都内を走り回っているように思えて、実は案外と同じようなところをグルグル回っているだけだったりする。それでも、お客さんの指図で走ってみると、あれ、ここを走るのは久しぶりだなと感じることが結構ある。
 で、町並みを眺めることになるのだが、びっくりするほど街の景色が変貌を遂げていたりする。街角などに真新しい、大きなビルが建っていたり、道路が整備されて歩道が一新されていて、装いが一変してしまっているのだと気付く。
 都心を走っている小生には、そんな経験をすることがしばしばである。再開発がドンドン都心で進んでいる。品川、汐留、大崎、大井、丸の内、秋葉原、築地…。
 一方、やや郊外の商店街は、一部を除いて、寂れていく一方なのだが。
 情報というと、ラジオから摂取するものも多い。このブログでも、ラジオから仕入れた情報をネットや本で裏書しつつ、あれこれ書き綴ってきたものである。

 入手するルートというと、お客さんから戴くものもある。
 無論、プライバシーに属するものは、胸に仕舞いこむしかない。
 一方、必ずしもプライバシーの類ではないが、得られた情報にどの程度の確度があるのか、判然としない場合も結構ある。ただの噂話か、場合によっては笑止千万と聞き流すしかないものも。

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2005/12/21

「煤払」…末期の一服

「煤払」は、この季語随筆で昨年の12月、すでに採り上げている。その表題も「煤払い」と、そのまんまで分かりやすい。
 季語としての「煤払」については、大凡のことはその記事の中に書いてある。
 なのに、一年を経過して(未だ扱っていない12月の季語・季題は数多くあるというのに)再度「煤払」を話題に採り上げるのは、季語として記述しておくべき重大な事項が抜けているのに気付いたから、というわけではない。
 昨年の「煤払い」においても、話題は特に後半の部分は、季語としての「煤払」より、専ら煙草に焦点が合っていた。
 実は今日、このキーワードを糸口に扱うのも、煙草に関する話題である。
 昨年の当該の小文を読まれたら、煙草には人一倍関心がある小生なりの事情の一端も分かるだろう。

 昨日、営業中、ラジオから煙草に関するニュースが流れてきた。マンションなどの耐震データ偽造問題などの陰に隠れていて世間的な耳目を集めにくいはずだが、それでもNHKはさすがに漏らさず報道してくれるのでありがたい。
 そこでニュース記事が削除されてしまわないうちに、関連する記事NHKのサイトから一部を抜き出しておく。
 といっても、児童手当が従来の小学校3年生までだったものが、今度の税制改正で6年生までに拡充された、その際の財源として、煙草に課せられている税金が、1本当たり1円ほどアップされるというニュースではない。

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2005/12/20

葛湯から古代を想う

 以前、この季語随筆「風天居士…寅さん」でフーテンの寅さんを扱ったことがある。
 フーテンなんて言っても今時の人に通じるかどうか。風俗店の略称か、なんて誤解されるかもしれないが、(正しくは?)「風天」か「瘋癲(ふうてん)」のいずれかである。
 意味合いは、リンク先で説明してある。

 そのフーテンの寅さんは、東京は葛飾・柴又の生まれ育ちということになっている。
 葛飾・柴又というと、都心からだと結構、東京の外れのほうというイメージが濃い。映画でも、荒川沿いの、何処かキューポラのある町を連想させるような、昨今の東京では珍しいような人情味のある町という色彩を漂わせている。
 それでも東京は東京なのだが、その東京にしても、江戸以来、繁盛した町というイメージがある。豊臣秀吉が徳川家康に江戸の地を与えられた時は、辺境の地であり、その地を家康が苦労の果てに切り拓いたという<常識>がある。
 尤も、さすがにその前に大田道灌という大名がいて、もともとの江戸城というのは、大田道灌が築いたのだということは知られている。ただ、「道灌の死後、朽ち果てたままになっていた江戸城を本拠とし、立派な城とすべく修築に着手したのが徳川家康(1542~1616)」だったのだと強調されるのが常である:
江戸net 江戸謎物語 太田道灌VS徳川家康」などを参照のこと。

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2005/12/19

冬座敷に隙間風が吹く

「夏座敷」というと、「襖や障子を外し、簾や風鈴などで涼しく装った座敷」で、夏の季語。一方、表題の「冬座敷」は、「襖・障子を閉め炬燵を置いたりストーブ等で暖めたりした座敷」で、冬12月の季語

「珈琲とリスニングのバッハ,リスニング,隠れ家,スローライフ」という「Bach relaxation space  バッハ リラクゼーション スペース」の中の、「季節のことのは・冬」にて「冬座敷」の項を覗いてみると、いつもながら簡潔だけど味わい深いコメントを得ることができる:

「葦戸を入れ、風鈴を吊り、蚊遣りを焚き、夏座敷から一変し、襖を入れ、手焙りや火鉢が置かれ、そこにかけた鉄瓶から湯気が上がっている風情が冬座敷です。
 今ではほとんど見かけない風情かも知れません。」

 最後の「今ではほとんど見かけない風情かも知れません」には、気のせいか、二つの意味が読み取れるような。
 時代の変化の中で座敷の担ってきた役割や位置付けが薄らいできたという側面と、個々の家庭にあって、それなりに齢を重ねた自分を振り返ってみて、一昔前は、あの部屋に嘗ては元気だった(威厳があって怖くもあった)父がデンと腰を下ろしていて、普段は口数の少ない父が、自分を呼びつける時というのは、大概は叱られるものと相場が決まっていて、ああ、そうだった、あの日あの時も、自分が何か悪さを仕出かしてしまって、姉か妹に父さんが呼んでるよ、なんて言われて、ビクビクしながら奥の座敷に向かっていって、そうしたら案の定、閻魔様と成り代わった父が顔を真っ赤にしていて、そうして冬の稲妻が落ちるのを覚悟した…。
 冬ということもあってか、火鉢に掛けられた鉄瓶からは湯気がシュンシュン立ち上っていて、ふと、父の顔が真っ赤なのは、もしかして父がたった今まで顔を鉄瓶に宛がっていて、それで赤鬼みたいに真っ赤に膨れていただけなんじゃないか、なんて、余計なことを思いつつも、ひたすら叱責の怒鳴り声の鳴り止むのを待っていた…。

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2005/12/18

はるかなる南米( 副題・ジョーンズの練習日記 12/18の巻)

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黒曜石から古今東西を想う

 今年の年末は、ことタクシーに関しては不況が始まった97年(8月)年度以前に近い忙しさを経験している。お客さんを乗せて走って、目的地で下ろした先にお客さんが待っているという、息つく暇がないというと大袈裟だが、それくらいの繁忙である。
 但し、相変わらず長距離のお客さんはないので売り上げが目覚しく増えるというわけではないが、ただ、仕事を終えて帰宅の途に付いても、疲れの中に仕事をした(!)という充実感のようなものは味わえる。
 まあ、この数年が悲惨すぎたのだ。年末で忘年会などがあっても、夜半前に電車のあるうちに帰るか、そうでなかったら(若い人などは)何処かの終夜営業のレストランで朝まで過ごし、始発の電車で帰宅するらしく、夜半を回ると、めっきり人影が疎らになってしまっていたのだ。
 それが、この師走は人影が途絶えることがない。何処かしらに人の姿を見かけるし、交差点の信号待ちの間に前のお客さんの記録(下ろした時間と料金、地名)を付けていると、コンコンとドアを叩かれ、「乗っていいか」という仕草や表情を示して合図する。
 もう、信号は赤から青に変わる寸前だったりするし、後ろや脇からバイクが来るかもしれないと感じ、日報の記載も半端なままに、慌ててドアを開け、乗っていただく。

 そんな慌しさの中にあっても、本は手放せないし、ラジオには耳を傾ける。タクシー業務では、実車率が大切で一日の走行時間のうち50%を越える実車率だと、なかなか効率がいい営業をしたことになるし、売り上げもそこそこにはなる。
 まして、60%に近づいたりすると、上記したように息つく暇もないという感覚を味わってしまうのである。嬉しい悲鳴。トイレも、お客さんが途絶えた瞬間を狙って、あるいはそれほどトイレの用を覚えていなくても、公衆便所を見かけたら、とりあえず車を止めて済ませておく。
 食事も、今だ! と思ったら、道端に止めて、さっさと済ます(夜中は別だが)。
 そうしないと、いつ、どんなところでロングのお客さんに遭遇するかもしれないし、そうでなくとも、次々とお客さんが乗ってくると、いつになったらトイレへ行けるんだ、とか、腹が減って仕事どころじゃないよー、という文字通りの悲鳴を上げる羽目になってしまうからだ。

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