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2005/09/17

お知らせ

 無精庵方丈記にて掌編をアップしました。
 タイトルは、「相合傘
 でも、艶っぽくはありません。
 例によって、「ボク」ものです。

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2005/09/16

ちょっと更新

無精庵明月記にて更新しました!
いずれも季語随筆(の下書き)です:

秋扇
秋の蝶
雨月


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誤変換とダジャレと

昨日、テレビで誤変換の話が話題に。例の一つが「規制中で渋滞」と「寄生虫で重体」。このような事例は携帯やパソコンを使うと頻繁に経験する。誤変換とダジャレとの異同は如何。それは誤変換が機械任せなのに対し、ダジャレが多少は意図的な点。さらに誤変換が杓子定規(入力したカナ通り)だが、ダジャレは音韻でも語感的にも融通無碍なこと。話の脈絡に絡むことがダジャレの場合望ましい。「安部さー、元気」と「雨さ、天気」とを話の流れの中でうまく案配させる能力がダジャレ人には必要なのだ!少し大袈裟だけどね。大らかさも大切だし

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2005/09/14

帰省中

画像は投句の部屋を見てね。  花は造花だけど花立ては手作り。不自由な手で、みんなに手伝ってもらいながら作ったとか。竹のように見えて実はチラシ。クルクル丸めたんだとか。   手作りのもどかしさも活けし花    手の皺も織り込まれての花立てか    料理すると経験のなさが露呈する。それでも少しはメニューを工夫。食卓を賑やかにする。今日の富山は雨混じりの曇天。風もやや強い。過ごしやすいのが助かる。    定番にひと品添えて愛込めて    傘差して自転車乗るまた楽し

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2005/09/13

帰省中

事情があり帰省中。今回は電車を利用。楽だ。居眠りできるし、本も読めるし、景色だってゆっくり眺めていられる。我が輩向きだ。    山々の緑の海の目に眩し    秋めくも夏の名残も居座れり    

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2005/09/12

花野にて…言葉という頚木

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を眺めている。漫然と。どの季語・季題にも俳句に関わってきた人の重みや思い入れがあるのだろう。
 ただ、そのことが本来は詠むだけではなく自作を試みるのも誰にも手出しが容易なはずが、下手に口出しや感想めいたことを書くのをためらわせてもいる。個々の季語に歴史的な背景があり、有名な句があって、知らないでは公の場では恥を掻く。
 もっと気軽に俳句の世界に馴染み親しんでいっていいじゃないか。知識などなくたっていいじゃないか。口を突いて出てきた5・7・5の短詩をその表現のままに楽しんでいいじゃないか。その言葉が俳句に造詣の深い人なら、季語だよ、しかも、季節外れな使い方になってしまっているよ、あるいは複数の季語が重なって使われていて、詠むだに不自然極まりないよ…。
 その意味で、「ひとりごとの夕べ.句日記」なるサイトの句の数々は、小生、好きである。俳句の専門家はどう思われ評価されるのか分からないけれど、「日常的風景から」「五・七・五のリズムでホロ。。と出てきた言葉」だという句の数々は、詠んで実に楽しい。

 伝統があることが俳句の世界に飛び込むのをためらわせる。窮屈にさせてしまう。誰もが知っているべきことを自分は知らないのじゃないか。こうした表現の仕方は、間違っているんじゃないか…。
 小生など、季語随筆と銘打って、こうして季語や俳句の周辺を勉強しているけれど、遅々たる歩みなのは最初から覚悟の上だけれど、もっと自由に奔放に表現したいという衝動に常に駆られてしまう。
 変に知識ばかりが増えると、規律と規格と因習に雁字搦めになってしまって、そこそこに素養を貯えた頃には、もう自作を試みるなんて気力が萎えてしまっているかもしれない。
 で、間違っても、他人様の目に触れる形では、句作を試みようなどとは思わなくなってしまうかもしれない。
 その点、造詣があって、且つ、新鮮で独自な句作活動を展開できる方というのは、素朴に凄いと感じる。
 まあ、自分がどのような境に至るかは、全く不明だ。適度に真面目に、適度に気楽に、俳句の道を、それこそ道草しつつ、時に迷子になりつつ、歩くこと自体を楽しみつつ歩いていければいいのだと思っている。
 また、俳句や川柳について自作を試みようと思い始めて一年余りに過ぎないのだ。先は長い。無精庵を自称する小生らしく、のんびり行こう。

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2005/09/11

蚯蚓(ミミズ)鳴く…はずないけど

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を覗くと、「くつわむし、蚯蚓鳴く、螻蛄鳴く、地虫鳴く、蓑虫、芋虫」といった季語が並んでいることに気付く。啓蟄でもないのに、どうして9月の今頃、虫に関連する季語が多いのか。
「蚯蚓鳴く(みみずなく)」は、不思議な季語だ。ミミズが鳴かないのは誰だって知っている。あるいは高周波とかで人間の耳には聞えない音が鳴らされているのかもしれないが、聞えないことに変わりはない。
インターネット俳句大賞・八木健選・9月の結果」を覗くと、「地に這ひて蚯蚓の声に耳澄ます    峯松實」なる句に寄せて、「「蚯蚓」は夏の季語 「蚯蚓鳴く」は秋の季語である。この句は、秋になりかけている頃だろう。季節の境界は厳密なものではない境目だってあるのだ。そろそろ秋だ。蚯蚓が鳴きはじめる。ということだろうが現実には蚯蚓は鳴かぬ。想像の世界である。それを承知の上の洒落た作品である」といった鑑賞が載っている。
 蚯蚓は鳴かないと分かっている…想像の世界と分かってもいる…「でも、それを承知の上の洒落た作品」を生み為す。それが俳句の醍醐味の一つなのか。

 上掲の虫に関する季語例で、「蚯蚓鳴く」に続き、「螻蛄鳴く」が掲げられている。どうやら、この季語に秘密があるような。
「螻蛄鳴く」は「(けら)なく」と読む。こちらは正真正銘、鳴く。最近は耳にしているのかどうか分からないが(耳にしていても、それが「ケラ」だとは気付いていないかもしれない)、結構、大きな鳴き声。
 昔は、この螻蛄(けら)の鳴き声を蚯蚓(みみず)の鳴き声だと思われていたらしい。
 が、一旦、「蚯蚓鳴く」が季語として自立すると、そこに想像力が作用し、上掲の「地に這ひて蚯蚓の声に耳澄ます」のような遊び心タップリの句が生まれてくるわけだ。
 子規は写生を唱えた。それも一つの方図なのだろうけど、想像の余地、遊び心がなくて、何の俳句かとも小生は思う。芭蕉だって、「荒海や佐渡に横たう天の川」などのように、かなり大胆に想像の翼を羽ばたかせていたじゃないか…。
 それでも、個々の事象や日々の生活から離れてなど、俳句が成立しないのも事実。最後の最後に句が句として認められ感じられ、何かの折につい口を突いて出てくるような人口に膾炙する作品となるかどうかの決め手は、事実の観察であれ想像の翼があってこそ届きえる月の裏側の世界であれ、表現する句に何かしらの(生活実感か、好奇心の賜物か、己を圧倒する自然の驚異の念か、人間の業に左右されてしまう己の愚かしさの自覚と、それでも我が身・我が心を睥睨し、あるいは哄笑する余裕の感じ)リアルなものが示されているかに掛かっているような気がする。
 尚、「蚯蚓出(きゅういんいず)」だと、「蚯蚓(みみず)が地上に這い出しはじめる季節」ということで、夏の季語(初夏)のようだ。

 さて、以下、先月、メルマガにて配信した記事を掲げる。題材は、「ミミズ」に関することもあって、ちょうどいい機会かな、と。

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