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2005/06/25

北条義時法華堂跡

 車中でラジオを聴いていたら、北条義時の法華堂なんとかという話題が飛び出してきた。
 北条義時?! 名前くらいは知っている。でも、歴史にも疎い小生のこと、うろ覚えだったり曖昧だったり。
 ここはネットの利便性を実感させてもらうことにしよう。
 北条義時とはどんな人物か。「1163~1224(長寛1~元仁1)鎌倉幕府の執権。時政の嫡子」。「1219年(承久1),源実朝暗殺によって源氏の血統が3代で滅びた後は姉政子とともに幕政を握り,京都から九条道家の子三寅(頼経)を将軍に迎えて北条氏専制の基礎を築き上げるのに成功」。「1221年,後鳥羽上皇の討幕計画をキャッチし,先手をうってこれを京都に攻め京都を占領して上皇方に打撃を与えた。後鳥羽上皇を隠岐に流し,六波羅探題を設置し,さらに朝廷方の所領を没収して新補地頭を置き,幕府権力をゆるぎないものにした」という点などを読むと、いかに重要な人物かが分かる。
 源氏が打ち立てた幕府の政権基盤は危ういものだった。それを磐石にしたのが義時だったと思っていいのだろう。朝廷を権威の座に置き、実権を武士の手中にしっかりと収めたのだ。

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2005/06/24

茅花流し…茅花の語源は

 気になるので、在宅の時は日に二度三度と覗くサイトがある。そんなあるサイト(夢音の木α)で、表題の「茅花流し」という言葉を知った。小生には全くの初耳の言葉。
 例によって勝手ながら転記させてもらうと、「春先に出る褐色の花穂(かすい)をツバナといって、なめると甘い味がします。江戸時代には、チガヤの花穂を、おやつとして売り歩いたそうです! 茅花が咲くころの、湿気を含んだ南風を「茅花流し」と言うそうです。季節・体感・響き・風景をふくんだ、とても感性豊かな言葉ですね。。。4文字しか無いのに。。。」とある。
 何事も長話にしてしまう小生のこと、こんな簡潔にはとても話を収められない。
 ネットなどで調べられる限りのことを書き連ねてみようと、上掲のサイトの文や素敵な画像を眺めている間に、思い立っていた。

 いつもこれまた勝手にお世話になっている、「俳句歳時記」の中の、「夏の季語(自然編-50音順)」によると、「茅花流し (つばなながし)」は、「湿気の多い雨混じりの南風が吹く」とある。
 別の「俳句歳時記」の中の、「季語集・夏」では、「初夏、茅花のわたのほぐれる頃に吹く南風で雨を伴うものをいう」と説明されている。

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2005/06/23

すいません…すみません

 以前、「「すみません、海まで」のこと」なる駄文を書いたことがある。
 詳しくは(といっても、通り一遍の拙稿なのだが)その拙文を読んでもらいたい。この「すみません、海まで」というのは、某たばこ会社のコピーの文句で、小生の朧な記憶では、その大きな看板広告には、真っ青な海と空という風景が示されていて、その脇か下にこのコピーが白い活字が添えられていた。
 この看板を見た瞬間、小生は、このたばこ会社が、「すみません、海まで」じゃなく、「すいません、海まで」というコピーを謳っていたなら、おお、たばこ会社もさばけてきたな、煙草の会社なのに、「吸いません、海まで」と謳い、広い海の只中へ、日頃吸っている煙草を指から離し、雲も煙もない空の下、爽やかな一日を過ごせたらいい…、とは言いながら、暗に心地良く吹き寄せる潮風に煙草の煙を徒(いたずら)に流して、のんびり過ごす自分の姿がいる。
 つまり、この広告に目が行くほどの奴には煙草を手放すことなど、できやしないさ、煙草のない爽やかさではなく、煙草のある爽やかさしか望めないのさ、だから、さあ、このライトな煙草をどうぞ、という魂胆がみえみえなのではある、でも、それでも、敢えて、「すいません、海まで」としたなら、そんな煙草に魅せられ中毒に成っているのだが、自分は魅力を知っているから能動的に煙草を吸う自分という生き方を選んでいるのだと、かるい諧謔の精神も篭めて(いるかのように見せて)いるようで、大人だな、成熟したな、と思えなくもなかったのだ。

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2005/06/22

釣りしのぶ

 今日の表題を何にするかで、随分と迷った。6月の季語例を眺めていて、夏の蝶にするか、夏草がいいんじゃないか、・ゲジゲジ・や油虫は嫌だ、蝿だって大嫌い、蟻を考えない訳じゃないが、気が進まない、蛆はウジウジしていてやっぱり没。翡翠は、どうか。カワセミ。風情があるし、話題に採り上げている人も多そう。でも、検索の網に引っ掛かる情報が多すぎる気がして、またの機会に譲る。
 蛇、蝮、百足虫などが季語ってのが理解できない。世の中には、これらが好きな方もいるのだろうか。風情を覚える人がいるってことなのか。
 そのうちに、我が部屋のベランダに向かう窓には網戸があることに思いが至った。そうだ、網戸にしよう。網戸だけでは心許ないから、蚊帳(かや)と組み合わせたら、鬱陶しい暑さに参っている中、風通しも良くなるし…とネット検索をしていたら、ふと、風鈴もいいなと風鈴をネット検索、すると、これは6月ではなく7月の扱い。でも、風鈴を調べていて、偶然、嬉しいことに今日の表題に選んだ「釣りしのぶ」という言葉に行き当たった。
 どうやら、「釣りしのぶ」の下に、場合によっては風鈴をぶら下げることもあるという。「吊りしのぶ」と表記する場合もあるようだ。

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2005/06/21

鏡と皮膚…思弁

 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊)を読了した。筆者自らが芸術を巡る思弁だと性格付けている書。雑誌などの論文などはともかく、書物の形で谷川 渥(あつし)氏(以下、敬称を略させていただきます)の論考を読むのは初めて。美学などの分野で高名な方だけに、一度は、著作に触れたいと思っていたが、ようやくその機会が巡ってきた。
 図書館で車中で読むに相応しいような内容の本をと物色していたら、このやや奇異なタイトルに目が向いた。注目してみると、著者は谷川 渥ではないか。名前だけは知っているが、さて、どんな仕事をする方なのか、ざっとでも眺めておこうか…。

 例によって勝手な印象文、感想文を綴ることになりそうなので、公平を期するため(?)、出版社側の謳い文句を示しておく:

深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである。オルフェウスがエウリディケーと見つめ合った瞳に、アテナの盾を飾ったメドゥーサの首に、マルシュアスの剥がされた皮に、キリストの血と汗を拭ったヴェロニカの布に―神話の根拠を古今の画家たちの作品からたどり、鏡と皮膚の織りなす華麗かつ官能的な物語を読み解く。美と醜、表層と深層、外面と内面、仮象と現実という二元論を失効させるまったく新しい芸術論。鷲田清一との対談「表層のエロス」収録

 正直なところ、谷川 渥という人物の仕事を知りたいということもあったが、実のところは、所収されている絵画が豊富で、それらの絵画を眺めているだけでも、決して飽きないという読みがあった。
 実際、本書を読んで、また、挿入される絵画を見て、クラナッハやミケランジェロ、ベルリーニについて、蒙を啓かれる思いをした(ミケランジェロの友に宛てた手紙など興味津々)。そのうち、機会があったら、それら巨匠たちの作品を鑑賞してみたい。

 それと、なんといっても、謳い文句にあるように、「鷲田清一との対談「表層のエロス」収録」ということで、最終的に選んだと言って過言ではない。
 申し訳ないが、冒頭の数行を読んで、これなら、バシュラールを再読した方がましかなと感じてしまった。生意気? バシュラールが肌に合うのだ。

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2005/06/20

夏袴…夏羽織…麦わら

 表題の「夏袴(なつばかま)」は、夏6月の季語である。しばしばお世話になっている「夏の季語(行事・暮らし-50音順)」によると、「単袴 麻袴 夏足袋 単足袋」といった類義語があり、「薄手の夏用の袴」だという。
 ついでに、同じく6月の季語である、「夏羽織(なつばおり)」は、「単羽織 絽羽織」などの類義語があり、「夏用の単衣の羽織」だという。
 まあ、まとめて言うと、やはり季語である「夏服」ということになるのか。この夏服は、「麻服 サマードレス 夏衣 夏衿」などの類義語があって、「暑さをしのぐ麻、木綿などの薄い布地の服」だという。
 ここまで書いてくれば(あるいは単に表題を見ただけで)、ああん、弥一の奴、クールビズの話題に乗っかってるなと分かってくるものと思われる。

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2005/06/19

てるてる坊主

 土曜日、図書館に行った帰り、ついふらふらと近くの食堂に立ち寄った。外食は事情もあって控えている。仕事中でも、蕎麦屋さんに寄らないように自制している。が、衝動というのか、その店の前を通ると、習慣のように入ってしまう。つい先日、入ったばかりのようだ。
 そういえば、近くの中華料理店も、少なくとも一年以上は足を向けていない。その店の前にはスーパーがあるので、店の傍を通らないわけにはいかない。だから、店の人と顔を合わせる機会もあったりする。足を運ばなくなって最初の頃は、それでも、主人も店員も挨拶してくれたが、この頃は、無視されている。愛想も何もない。こんなものなのか。相手にすれば、気に入らなくなって来ないのだと思っているやもしれぬ。
 こっちにしたら、手元が不如意で敷居が高いだけなのだが。悲しい現実である。
 
 立ち寄った食堂で夕食…久しぶりの御馳走である上カツ定食…を食べながらテレビを見ていた。テレビ…。我が家にテレビがなくなって数年。あるのは小さなモニターなので、画面がよく分からない。サッカーのボールなら、辛うじて識別できるが、野球のボール、ましてゴルフのボールなど、画面のちらつきに掻き消されて、音の感じや気配で見当を付けるばかりである。
 なので、外でテレビを見ると、画像の鮮明さに驚くばかりである。といっても、その食堂にあるテレビは、ごく普通のブラウン管形式のもので、既に数年は鎮座しているものなのだが。
 
 さて、その食堂でテレビを見ていたら、NHKだったようで、不意に童謡が流れてきた。どこか懐かしいような光景を映し出しながら。その童謡が表題の「てるてる坊主」(作詞者:浅原鐘村  作曲者:中山晋平)である。

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