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2005/05/14

風天居士…寅さん

 先の五月の連休中、帰省して久しぶりに家事などやっていたのだが、合間を縫って、読書にも勤しんでいた。読んでいたのは、図書館の新刊書コーナーに並んでいた(この一角には何故か映画関連の本が多い。それとも、映画関係の本が借りられることなく残っている…、ってことはないと思うが)、岡村直樹著『寅さん 人生の伝言』(生活人新書 112、日本放送出版協会)である。
 連休前、あるサイトで寅さんのことが話題になっていたこともあり、寅さんの本がこれ見よがしに並んでいるとなると、小生、借りるしかないわけである。
 まあ、寅さん(の映画やイメージなど)は、小生、身につまされるものがあり、感情移入せずに彼の映画を見ないわけには行かない。
 今、彼の映画と書いたが、山田洋次監督なのか、映画上の寅さんなのか、渥美清さんなのか、渥美清さんなのだとしても、役者としての渥美清さんなのか病気と闘いつづけた私人の渥美清さんなのか、曖昧である。が、曖昧なままに先に進む。
 ともかく、別に映画嫌いというわけではないが、映画館に足を運んで映画を見ることのめったにない、腰の重い小生を幾度となく動かすのだから、思い入れぶりが知れようというもの。最後に映画館で映画を観たのも(ポルノ映画を覗くと…馴染みのポルノ映画館が十年程前、潰れてしまった。行く場所がなくなった!)、寅さんの映画である。確か、映画が回想シーンで始まるのが寅さん映画の定番だが、その時はアンタッチャブルで、寅さんがネスか誰かの役になりきっていたような。

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2005/05/13

朱夏…夏の海

 昨日、車中でラジオを暇の徒然に聴いていたら、「朱夏」という言葉に注意を喚起された。
 この言葉、小生、知っていたのかどうか、分からない。ただ、意味を知らなかったことは間違いない。
大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」で「朱夏(しゅか)」を引くと、「〔五行思想で朱色を夏に配することから〕夏」と素っ気無い。
 まあ、「三夏 夏場 」と共に、「夏」の類義語(季語)であり、「立夏から立秋の前日まで、新暦5、6、7月をさす」くらいは、ネットで知ることができる。
 更に調べてみると、「青春 朱夏 白秋 玄冬」の四つがセットとなっており、それぞれが人生のある時期(ライフサイクル)を示すもののようである。中国の五行説によると、古代中国の世界観では、万物は五行(木・火・土・金・水)によって構成される。それを季節と色で表せば、木は春で青、火は夏で赤(朱)、金は秋で白、水は冬で黒(玄)となるらしい。
「青春」はさすがに、正しい意味合いを知っているかどうかは別として人口に膾炙している。青春は緑の時期であり(昔は「緑」という概念がなく、「青」で表現していた…「青葉」というが、「緑葉」という表現はなかったわけである)、未熟さを意味し、あるいはこれから熟していく、緑の色の勢いを増していく時期だというわけである。
 となると、「朱夏」は、人生の夏であり、人生の真っ盛りということか。
 ちなみに、「黄門サマ」も、五行説に関連していて、「黄」は、中心的な存在を意味するらしい。
新潮社 小駒勝美の漢字こぼれ話 vol.76 不思議な「五行説」 」などを参照のこと。

 さて、「夏の海」は、夏の季語であり、「夏の波」などの類義語があり、「光が強く、躍動感にあふれている」といった意味合いを持つ。
 人類は数百万年の昔、アフリカの何処かで生まれたらしいが、さらに、20万年の昔、我々の祖先である新人(ホモ・サピエンス)がやはりアフリカの何処かで生まれたという。
 生まれて青春の時代をアフリカで過ごしたのだろうが、やがて、夏の時期、アフリカはもとより広大なる太平洋を越えて世界各地へ進出する躍動の季節、朱夏の時を迎えたのだった。
 以下、例によって野暮な書評風雑学的エッセイとなります。

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2005/05/12

ツツジの季節の終焉…緑滴る

 ついこの間、この季語随筆で「ツツジの宇宙」という記事を綴ったり、「躑躅(つつじ)と髑髏と」などという一文をものしてツツジの世界をいよいよ楽しもうと書いていたのに、連休が過ぎ去ってみると、四月早々から咲いていたツツジの花が早くも萎れ始めている。
 尤も、日当たりなどの関係もあり、まだまだこれからしばらくも健気に咲き誇って楽しませてくれそうなツツジの街路樹や民家の軒先から顔を覗かせている木立もある。
 表題の「ツツジの季節の終焉」というのは、いかにも小生らしく、せっかちなのかもしれない。
 街中を車で流してみると、さすがにマスク姿の人を見かけることは少なくなった。花粉(症)の季節は、こちらはほぼ終息に近付いているということか。

 花もいいが、風薫る五月であり、また、緑滴る五月でもある。
 この「緑滴る」という表現が小生はとても気に入っていて、桜の花が散り尽くし葉桜の頃となると、何かにつけ使ってみたくなる。
 ただ、「緑滴る」は季語ではなく、時候の挨拶(表現)の一つのようである。
 この緑(みどり)、カタカナや平仮名で記述されるより、やはり漢字表記がいい。「緑」以外に、「翠」や「碧」もあるようだが、それぞれに意味合いにおいて違いがあるのかどうか、調べてみると面白そうである。
 とにかく、「緑」という言葉も奥が深そう。
 せっかくなので、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」で「緑(みどり)」を調べてみると、「緑色の木や草。新緑をいうことが多い。[季]夏」といった意味と、「色の名。光の三原色の一。青色と黄色との中間の色。春・夏の木の葉や草の色。古くは、緑色から青色に至る広い範囲の色をさした。みどりいろ」とが示されている。
「緑児(嬰児)」(みどりご)という言葉も見つかった。最近はあまり使われないようだが。「〔「新芽のような子」の意から。古くは「みどりこ」〕生まれたばかりの子供。あかんぼう」の意である。
「緑のおばさん」は、今は懐かしい風景となった。「緑の糸」というのは、小生には目新しい。「柳の細い若枝」だという。小説か随筆に使いたくなる言葉だ。
「緑滴る」もいいが、最近の女性の髪にはとてもじゃないが使えない「緑の黒髪」という表現もある。「女性の髪をほめていう語。つやつやとした美しい黒髪」の意である。
「濡れ羽色の髪」は、これからの(日本の)女性にはますます無縁のことになっていくのか。シャンプーや着色剤の使いすぎなのか、いかにも脱色され、髪の毛の質も弱々しい…というより、痛々しいような気さえする。栄養が豊富なはずなのに…。「緑なす黒髪」は、死語になりそうだ。

 さて、以下、昨年の今頃、終わり行くツツジの季節を惜しんで書いた「ツツジの季節が終わる」という小文を掲げる。時が来れば、何事にも終わりがやってくるのだろうけれど、もう少し、ツツジさんたちには頑張ってほしいと願いつつ、小生も読み直してみたい。

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2005/05/11

風薫る…西鶴…近松

 どうも、この頃、湿っぽい文章が続いた。この辺で気分一新ということで、久しぶりに「季語の風景|風薫る」の画像と文章で心を洗ってみたい。
 画像は楠だが、「楠は、ちょうど今、若葉が一斉に萌(も)えあがり、鮮やかな命の輝きを見せている。平和な時代の風に軽やかにそよぎ、また時おり青嵐が吹くと、樹は枝を揺らし葉を騒がせ、狂ったように渦巻く。そんな若々しさとエネルギーがまぶしい」と描かれている。
 山崎しげ子(随筆家)氏による、「薫風(くんぷう)や影を濃くせる楠大樹(くすたいじゅ)」なる句も載っている。

「薫風(くんぷう)」や「風薫る」は「青葉の頃、青葉が匂うように吹き渡る南風」ということで、ちょうど五月、それも今頃、吹き渡る爽やかな風ということか。
 休憩のため、車を公園の脇などに止めて、小一時間も経っただろうか、車を走らせようとすると、フロントのウインドーなどに、小糠雨の細かな雨滴でも降りかかったかのような微細な雫の痕が一面に広がっていることに気づく。
 雨? こんないい天気なのに? と、ウオッシャーでウインドーを洗うが簡単には<雨滴>は落ちない。
 そう、雨の雫ではないのだ。青葉若葉の発散する樹液が公園の土にも、道路にも、そして車にも降りかかっていたのである。
 草いきれ。樹液。
 白樺の幹に小さな穴を開け、ビニールの管などを差し込み、管の先はポリタンクに。すると、白樺の樹液が結構、溜まるのだとか。その樹液をコップに移し、生で、あるいは濃縮して飲むと甘美なのだとか。小生は試したことがない(「シリーズ3 自然の中のクスリ (7) 期間限定、自然からの贈り物 白樺の樹液をどうぞ!」を参照のこと)。
 宮沢賢治のある作品(「真空溶媒(初版本)/『春と修羅 〔第一集〕』」)の中に「月光液」という言葉が出てくる:

   ことにもしろいマヂエラン星雲
   草はみな葉緑素を恢復し
   葡萄糖を含む月光液(げつくわうえき)は
   もうよろこびの脈さへうつ
   泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる


 この詩は厳しい冬を乗り越えた春先の草木の芽吹く頃の旺盛なる生命力を表現しているのだろうが、この「月光液」とは、「葉で生成されたでんぷんを運ぶ月光色の樹液のことだ」とか。
 その樹液がいよいよ深くなる緑の葉っぱから溢れ出す今頃は、ついには樹液が飛散さえしてしまうようである。
 そう、飛び散らす樹液は、「もうよろこびの脈さへうつ」その証拠なのだ。

 とここまで、なんとか爽やか路線できたが、やはり小生の地は隠せないようで、樹液は樹液でも言の葉から横溢する樹液をということで、以下、野暮な書評風エッセイに移る。

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2005/05/10

五月闇…回り道

 表題の「五月闇」は、「梅雨闇」という類義語があり、「五月雨の頃、どんよりと暗い昼や月の出ない闇夜」の意だという。
「梅雨闇」という類義語があるのだとすると、今の時期というより、梅雨入りしてからのちょっとした雨の中休みの情景を描く際に使うべき言葉なのだろうか。
 ただ、「shuuibak 2001年6月28日 梅雨闇(つゆやみ、tsuyuyami)」という頁を覗くと、「五月闇(さつきやみ)」「五月雨(さみだれ)」「梅雨闇」「梅雨晴れ」という四つの季語のそれぞれの意味合いの関係は、結構、入り組んでいるし、それ以上に季節感の違い、語感の違いが時代の変化もあり、微妙に生じているようでもある。
 その上で、「もっともサツキのサは稲の霊をさすという説があり、サツキは田植えをする稲の月であった。五月闇は稲の育つ深い闇であったのだが、そんな伝統にこだわることももはやないだろう。むしろ、明に対する暗として、梅雨闇を生活空間に取り込んでみたい。暗(闇)が一方にあるとき生活空間は深みを増す」という指摘(坪内稔典氏)は玩味したいものである。
 
 ネット検索していると、「書かれたものたち/『句と歩く「テ-マ・舌」』 樋口由紀子」というサイトに遭遇した。
 ここでは「「五月闇」は夏の季語であり、「梅雨時は暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇である」と俳句歳時記に説明されている」という情報はさておき、「五月闇またまちがって動く舌  なかはられいこ」という句を俎上に載せ、俳句と川柳の境界や、さらには川柳の特質を考察している。
 そう、この句は「五月闇」という季語を織り込んでいるにも関わらず、川柳なのである。
 ここまで来ると、小生如きには川柳と俳句の区別は分からない。
「川柳人は季語を日常語と同じレベルで使用するが、あるいは同じようにしか使用できないが、俳人は季語に特別な美意識を持っていて、見事に一句の中で生き返らせる。どちらかというと、俳人の季語の使い方はメンタルであり、川柳人はフィジカルなような気がする。だから、れいこの「五月闇」は季語のように過剰な比重がかかった言葉としては使用されていない」という評釈をただ、押し頂くだけである。
 この考えを、たとえば、俳人は生活実感にできるだけ根差すように心掛け、川柳人は生活実感に即しつつも、やや反省的(抽象的)に根差さんとしてしまう傾向にあると言い換えていいものだろうか。
 ともかく、今日は、「書かれたものたち」というサイトを見つけただけでも季語随筆日記を綴った甲斐があったと思う。
 いつか機会を設けて、改めてこのサイトを覗いてみたい。

 さて、表題に「五月闇」を選んだのは、以下に示す一文「回り道」への導入のつもりだったのである。最初は「緑陰」にするかと思ったが、時期的に早すぎるし、ちょっと爽やか過ぎる。もっと、「暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇」、あるいは、「どんよりと暗い昼や月の出ない闇夜」の雰囲気を引き出したかったのだ。
五月雨…一期一会」や「梅雨の話じゃないけれど」ではないが、カメママさん事件の余波を引き摺っていた頃、こんなことを思っていたという、「回り道」は、そうした例文の一つなのである。

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2005/05/09

若葉雨…桜若葉

立夏…幻想の未来」(2005.05.06)の記述で葉桜が好きだ、などと呑気なことを書いていたが、肝心なことが抜け落ちていた。当該の頁にも追記しておいたが、「葉桜」というのは夏の季語なのであり、別の呼称に「桜若葉」があり「花が散った後の桜の若葉」を意味するのだというのである。
 ここに改めて補筆しておく。

 さて、五月の頃の季語というと、葉桜からの連想で探し求めたというわけではないが、表題にもあるように「若葉雨」という素敵な言葉がある。
 実は、この言葉を、「melma!blog [優嵐歳時記]May 6, 2005」の中で見出したのである。この頁には、「若葉雨傘差しかけて語りけり  優嵐」という句と共に青空の下の若葉の画像と簡潔なコメントが載っている。
「若葉」という言葉自体が、既に夏の季語、特に今頃の時期を表現する言葉のようだ。関連する季語に、「若葉雨」や「桜若葉」のほか、「山若葉 谷若葉 若葉風」などがあるとか。
 さらに若葉に関連する季語を探すと、「若楓 青楓 楓若葉」、「椎(しい)若葉 樟若葉 欅若葉」、「柿若葉」、「青蔦(あおづた) 蔦若葉 蔦繁る 蔦青し」と、実に多彩である。
 どの季語も、それぞれにその清々しい風景を呼び起こしてくれる。

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2005/05/08

梅雨の話じゃないけれど

 過日、「五月雨…一期一会」と題した一文を書いたせいでもなかろうが、我がホームページの掲示板で、ある才能豊かな作家、今は「故」と冠するしかないカメママさんとの掛け合いで書いた小説のことがちょっと話題になっていた。
 カメママさんのことは、知るひとぞ知るだが、一昨年知り合って、小生がいろいろ刺激を受けた方。彼女は何事にも前向きな方で、結構、小生のサイトのキリ番をゲットされ、そのたびに、キリ番作品を所望される。別に小生のサイトに対してばかりではなく、彼女のサイトでキリ番をゲットしたなら、彼女もちゃんと要望に応じてキリ番作品を書き下ろしてくれる。それも、希望者のテーマを伺い、希望者の名前を小説のタイトルに使ったりと、サービス精神たっぷりのもの。
 小説の中身にこそ、彼女の女性としてのまたご自身が主婦であることからの遊び心が生かされていて、女性ならではの主婦が内心は(妄想として)抱いている妖しい欲望を物語として描いてくれるのだった。
 そうした彼女の諸作品は、下記のサイトで読める:
カメモードな部屋
 この中には、小生が彼女のサイトでキリ番をゲットし、書いてもらった小説もある(掌編 『邦実』)。
 彼女との掌編の掛け合いの形で書いた作品群もある。彼女が亡くなられたことで、中断したままに終わっているけれど:
蝦夷梅雨の頃(1-4)」by 弥一
『梅雨空の女』」by カメママ
『梅雨空の女』2」by カメママ
『梅雨空の女』3」by カメママ

 見られるように、、『蝦夷梅雨の頃』に対し、『梅雨空の女』、『蝦夷梅雨の頃2』に対し「『梅雨空の女』2」という具合に来て、小生は、『蝦夷梅雨の頃4』を書いたところで途切れている。
 恐らくは彼女が健在だったなら、「『梅雨空の女』4」が続くはずだったのである。
 あるいは彼女の幻の「『梅雨空の女』4」が冥府を彷徨っている?
 彼女の「4」に応じて、小生は「5」を書くはずだった。しかも、小生の「4」は、いよいよネット上だけでの知り合いというか、仮想空間を通して心を寄せ合うだけの存在だけだったのが、いよいよ二人が出会うはずの、間際の場面で終わっているのだ。
 彼女は、「梅雨空の女」の主人公のためにも、ハッピーエンドを求めていたような記憶がある。幾つか貰った感想でも、そういった要望があった。煮え切らない「蝦夷梅雨の頃」の語り手であり主人公である男性に、女性の方は、文字通り「梅雨空の女」でありつづけたのだから、せめて物語の上では「梅雨空の女」にはハッピーな形で結末を迎えて欲しい、というのは、カメママさんならずとも願うところなのだろう。
 今となっては、続きを書くのも躊躇われる。
 後日談めくが、小生自身については、カメママさんが倒れた最中、彼女のエネルギーに後押しされる形で、初めてのオフ会を実現した。小生にしては思い切った決断だった。カメママさんには会えなかったけれど、カメママさんを通じて知り合った方たちとのオフ会の場を持ったのである。
 そのうちの何人かとは、今もほとんどネットを通じてだが交流を保っている。

 さて、以下に掲げる小文(「ある書き込みへの返事…」)は、小生にとっては悔いの残る文章であり、自分の考察の半端さに今更ながら忸怩たる思いが残っている。
 しかし、一度、書いて公表した以上は、文章の余波にも責任を負わないといけない。
 念のために断っておくと、小文の冒頭に「あるサイトの日記」とあるが、カメママさんの日記である。
 また、この小文は、カメママさんも読まれていた。彼女としては、文中に半端な形で引用されている一文についても、もっと書き込みたかったはずだ。が、それが果たせないうちに病に倒れられてしまった。
 彼女となら、あるいは彼女になら、もっと突っ込んだ遣り取りが期待できたはずなのである。
 勿論、掲げる文章は、メルマガで公表した当時のままである(今回のアップに際し、リンクを二箇所だけ貼らせて貰った)。

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