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2005/04/30

暗号・季語

 俳句・和歌・短歌関連で暗号というと、柿本人麻呂好きの小生としては、藤村由加著『人麻呂の暗号』(新潮社)を連想したりするが、今回は扱うのをやめておく。
 我が季語随筆日記は、一応は、俳句や川柳(あわよくば短歌や詩)を念頭に置いている。なかなか肝腎の焦点に狙いが絞れないのが悩みだが。
 その短歌や俳句の世界は、枕詞を筆頭に謎や暗号に満ちている。言葉遊びの次元から、かなり危うい世界までを示唆していると思われたりするのである。
言葉遊びと遊び心(About the parody and joyful mind)」を覗くと、枕詞、季語、謎かけ、回文、尻取りの楽しさを改めて気づかせてくれる。
 同時に、季語というのは、特に江戸時代以降に醸成されてきた伝統の結晶でもあるが、冷凍食品や空調機、地球温暖化を含め(更に含めるなら、句作あるいは句の鑑賞の地域的拡大。江戸や明治の世だと、京都か江戸を場所的な焦点として思い浮かべればよかったが、今は北海道から沖縄、小笠原諸島、果てはブラジルやアフリカに在って句作されることも当たり前の時代になっている)季節感に狂いの生じつつある現代にあっては、悲しいかな記号めいた色彩も帯びつつあるのではないかと思われたりする。
 暗号というと仰々しいが、言葉遊びと思えば、楽しいものである。短歌も俳句も川柳も詩も小説もと、欲張りすぎると虻蜂とらずになってしまいそうだが、別に小生は構わない。言葉に絡むあれこれを楽しみたいのである。
 
 と書いた舌の根も乾かぬうちに、以下は、ちょっと野暮な領域に渡るかもしれない。扱うのは、スティーブン・レビー著の『暗号化』なのである。
 タイトルを聞いただけで、拒否反応を起こされた方もいるかもしれない。
 でも、小生は、言葉、記号、表現の世界を可能な限り広く解したいのである。しばし、コンピュータの暗号の世界の暗闘のドラマを想ってみよう。

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2005/04/29

春の灸…青い鳥

「春の灸」は、春の季語で、「二日灸」という縁語があるようだ。
「蓬(よもぎ)」は、「餅草、艾草(がいさう)、さしも草、蓬生(よもぎう)、蓬摘む」という類語があり、「香気ある新しい葉を摘み、草餅、もぐさを作ったりする」という。春の季語。
 この「もぐさ」というのは、「大辞林 国語辞典 - infoseek マルチ辞書」によると、よもぎの別名で艾(もぐさ)と表記し、「灸(きゆう)に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」という。
 物臭(ものぐさ)な人間にお灸を据える草だから「もぐさ」というわけではなさそう。

 この度の尼崎脱線事故は、一体、誰に対してのお灸になったろうか。小生はタクシードライバーを生業(なりわい)としているので、事故は決して他人事ではない。会社の朝礼や同僚の雑談でも、事故の話が珍しくもなく飛び出してくる。あわや事故寸前という状況に遭遇しなかったといえば、ウソになる。自分にとっても、他山の石としてあれこれ考える契機になるだろう。
 ただ、事故の原因や責任を運転手など一部の人間に全てを押し付けるのは、必ずしも納得できない。過密すぎるダイヤ、私鉄や航空機との競争、厳しいノルマや日程下で、当人にひたすらプレッシャーが懸かるだけの状況。
 サービス残業やノルマの極端な増加。この数年の急激な貧富の差の拡大。自殺数の高止まり。今の<改革>って、人間不在なのではないのか。
 幸福の青い鳥は、どんな光景にあってこそ、見出されるのだろうか。

 そんなことを思ったりもする…が、ま、気分を変えて、以下、多少は風流のことで眼福の一時を。

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2005/04/28

逢う魔が時…花は橘

maco-lilac
 あるブログサイトを覗いていたら、日記の中で久しぶりに、「逢魔ヶ時」という言葉に出会った。実に久しぶりのような気がする。決して死語ではないが、かといって頻繁に使われるわけでもない。
「逢魔 時」をキーワードにネットで調べてみると、日本語に限定しても28000件をヒットする。ざっと見たかぎりでは、妖怪談義、怪談モノ、魔界モノで使われることが多いようだ。
 あるいは、「[藤田あけ烏の世界] 名田西の鴉」によると、夕暮時は「魑魅魍魎や物の化の現れる時でもある」のかもしれない。
 また、「夕暮時」から想像されるように、交通事故は日中の眩しい日差しが和らぎ、やや暮れなずんで来た、でも、宵の口にも早いような時間帯での、ちょっと冷っとするような体験、具体的な状況を表現する際に使われることが多いようである。
逢魔ヶ時 同盟」の「逢魔ヶ時とは」によると、「逢魔ヶ時とは、夕方・黄昏の頃のこと。日が沈み、周囲が闇に浸かる時刻。この時間帯は一般的に、奇妙な感覚を覚えたり幻覚を見たりしやすいと言われています。その為なのか、事故などが多い時間帯でもあります。 あらぬものを見る、事故を起こす… 一番 “魔”に遭遇しやすい時刻。 魔に出逢う刻…それが逢魔ヶ時」などと説明してある。
 あらぬものを見るかどうかは別として、日没時は、目がまだ明るさに慣れた状態だけに、僅かに暮れ始めているだけでも、その薄闇が視界を遮ること、想像以上のものがある。黄昏時に事故が多いのも、無理はないのだ。
 
[冒頭に掲げたライラックの画像は、マコロンさんから戴いたものです。]

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2005/04/27

狐の牡丹…雑草のこと

 もうすぐ連休である。休めるかどうか分からないが、休みを取って帰省したいとは思っている。五月の連休というと、いつもは田植えの手伝いの為に帰省するのが恒例になっていたし、オートバイを駆って東京から富山へと高速道路を使って往復する。
 が、既にどこかで書いたように、田舎では一昨年で田植えを止めてしまった。さすがに昨年は、一昨年までの習慣みたいになっていたので、連休には帰省したが、することもないし、ということで手持ち無沙汰になり、まあ、拍子抜けの状態だった。
 今は手の加わることのない田圃が荒れ果ててしまっていることも、今更、語るのも寂しい。
「去年(こぞ)の田は夢かとばかりに舞うトンボ」なんて、句を昨年の夏だったかに、捻ったりして見たけれど、雑草の生い茂る田圃…空き地を家の居間から眺めると、まさに、あれあれ去年の今頃は稲穂が青々としていたじゃないか、なのに、この有様はなんだ、去年までのことは夢だったのか、それとも場所を間違えたのか、と、おろおろするばかりなのである。
 休みが取れたら(取るのは簡単だ、ただ、一回でも営業を休むと、その後の祟りというか、皺寄せがきついのだ)、まあ、僅かに残る畑や庭で草むしりをすることになるのかもしれない。
 その連想というほどでもないが、草むしりで毟られるのは雑草と決まっていることだし、今日の季語随筆の表題は「雑草」で決まり、というわけである。
「雑草 季語」でネット検索してみたら、「何処でも見かける丈の低い雑草」だという「酢漿の花(かたばみのはな)」など(「夏の季語(動・植物-種類順)」より)、雑草はどちらかというと、正式にという訳ではないが、夏の季語扱い(気味)のようである。
 それでも、物色してみると、狐の牡丹という雑草が春の季語扱いとなっている、といった情報を得ることができた。

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2005/04/26

指パッチン

 4月の22日の金曜日、そろそろ仕事のため外出の時間が迫っているなと思っていたら、テレビのワイドショー的番組の中で、タレントのポール牧さんが自殺されたようです、という一報がキャスターの口から飛び出した。
 話題は忘れたが楽しげな話で盛り上がっている最中に、その報せを書いたメモがキャスターの手元に回ってきたようで、それまでのにこやかな表情を曇らせなければならない、でも、人間だもの、そんなに簡単に表情をコロコロ変えられるはずもない、そんな戸惑い気味の顔が印象的である。
 というより、その一報を伝えた後、すぐに楽しい話題の続きに戻っていってしまったことのほうが記憶に鮮明なのか。
 それからほどなくして仕事へ出かけ、続報などは車中、ラジオで断片的に窺い知るだけだった。
 翌日、ポール牧さんの自殺のことは、テレビでも採り上げられていたが、遺書が残っておらず、自殺の本当の理由は分からないままのようだ。
スポニチ Sponichi Annex 速報 2005年04月22日」によると、「22日午前4時50分ごろ、東京都新宿区のマンション敷地内で、9階に住むタレントのポール牧(本名榛沢一道)さん(63)が血を流して倒れているのを、タクシー運転手が発見した。ポール牧さんは全身を強く打っており、病院に運ばれたが間もなく死亡した」と冒頭にある。
 タクシー運転手が発見した。我が同業者である。だからといって、彼の自殺が自分に意味を持ったというわけではない。
 非常につまらない理由だが、小生、今でこそ手(指)の圧力などが弱まっていて、とてもじゃないけれど、その気にはなれないが、実は指パッチンが得意だったのである。

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2005/04/25

躑躅(つつじ)と髑髏と

 過日、「ツツジの宇宙」と題した季語随筆に、「躑躅(つつじ)」の語源やツツジに纏わる逸話などについてメッセージを戴いた。表題にあるように、「躑躅と髑髏」とは、ちょっと見ると印象が似ていたりして、また、それぞれの言葉や漢字表記そのものが興味深くもある。
 そこで、小生自身、疑問を放置したままで来たこともあり、ここで若干、触れておきたい。
 小生自身のツツジについての拙稿は、ホームページにもあるのだが、末尾に転記しておく。
植木花観賞シリーズ」の「樹木の名の由来記」の頁中にある、「ツツジ」の項によると、「ツツジの当て字の躑躅は、羊がこれを食べて足踏みして死んだところからの命名といい、本来の漢名は羊躑躅(ヨウテキチョク)だったという」とある。さらには、「韓国の単語で躑躅をtchyok-tchyok、またはtchol-tchukと発音し、これが日本でツツジとなったのではという推定説がある」という説も紹介してくれている。
 
「羊がこれ(躑躅?)を食べて足踏みして死んだところから」とあるからには、躑躅には毒が含まれているということなのか。
 実際、「花よりのメッセージ」の「3月の花」には、「躑躅の語源は中国にあって、この躑躅の花や葉に毒が含まれているので、羊が食べると足蹴りして動かなくなるからだといわれています」などと書かれている。
北信州の道草図鑑」の「レンゲツツジ(蓮華躑躅)」の頁には、「れんげつつじ【蓮華躑躅】:ツツジ科の落葉低木。山地や湿原に生え高さ約1.5メートル。6月頃に、大形で橙赤・黄または赤色の合弁花を蓮華状に付ける。有毒。 広辞苑」といった説明が付されているが、同時に、薬効の項には、「山のツツジはたいがい食べられますが、レンゲツツジは毒があって食べられません。レンゲツツジから採れる蜂蜜にも毒があるようです」とある。
 中国にある羊が食べたという躑躅の種類(羊躑躅?)は、毒の含まれるものだったということか。
 でも、そもそも羊って、躑躅を食べるのかどうかが分からない。草を食べるのは、テレビ等で時折、目にすることはあったけれど、木々の葉っぱも食べることがあるということか。この辺りは更に調べる余地がありそう。

静岡県花の見どころ案内「花の歳時記 ツツジ」」にある「ツツジの語源」という項によると、「「躑躅(ツツジ)」とは中国語で「躊躇する」を意味する。
平安時代に、中国自生のシナレンゲツツジ「羊躑躅」Rhododendron molle var.molleが記載された本草書の渡来により、日本のツツジにあてた事に由来する」などと説明されている。
 やはり中国にある羊躑躅は、蓮華躑躅の一種なのだろう(か)。

四季のいきもの前線調査-つつじ開花前線-」なるサイトを覗くと、レンゲツツジの分布図と共に、「中国で「羊躑躅」と呼ばれるものはレンゲツツジとは変種の関係にあたりますが、キレンゲツツジよりさらに鮮やかな黄色の花をつけます」などといった説明を得ることができた。
 羊が羊躑躅を食べるのかどうかは別として、とにかく、羊躑躅はレンゲツツジの変種で、毒を含むと思っていいらしいということか。

 ネット検索していたら、ツツジを巡る味わい深いエッセイが見つかった。部分的に引用するに忍びないので、サイトを紹介するに留める。「忘れられた花      野崎 茂太郎 著」の「躑躅(つつじ)」の頁である。是非、一読を! それだけでも、小生の拙稿に付き合われた甲斐があるというものである。
 この「忘れられた花」というサイトを発見したのは小生にとっても収穫だった。

 さて、大雑把ながら躑躅(ツツジ)の語源などについては見渡してみた。
 次は、髑髏という言葉の周辺を巡っておかないと、表題を「躑躅(つつじ)と髑髏と」にした意味がない。
 が、この髑髏も、一筋縄ではいかない言葉でありイメージであり、歴史を担っており、現物も無言の迫力で迫ってくる(といっても、座右に髑髏があるわけではない。小生は朝倉義景・淺井久政・淺井長政の髑髏を肴に酒宴を催す織田信長のような座興のできるほどの者ではないのだし)。
 ここでは、ネット検索で見つけた、「髑髏について」というエッセイを示しておくに留めたい。
 その上で、以下に掲げるエッセイを眺めていただければと思ったりするのである。
 またまた季語随筆とは名ばかりの雑文になったけれど、まあ、俳句の世界を広く深く味わいたい一心なのだと理解願えればと思う。
 尚、戴いたメッセージには、「十三塚とツツジの毒」という民話があることも教えてくれている。さすがに、そこまでは時間的にも調べきれないので、これまた話を覗くだけに留めておく。
 では、 「つつじのことなど」へどうぞ。

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2005/04/24

荒れ野の40年

 あるブログサイト(Wein, Weib und Gesang)を覗いていたら、「嘗て覗き込んだ中で最も印象的な目は、連邦共和国大統領を務めたリヒァルト・フォン・ヴァイゼッカー博士のものである」といった書き出しで、「IDの危機と確立の好機」と題された印象的な文章に出会った。
 その全文についてはリンク先を覗いて欲しい。
 この一文を読みながら、小生は、早、読んでから十年以上も経ってしまったマルティン・ヴァイン著『ヴァイツゼッカー家』(鈴木直・山本尤・鈴木洋子訳、平凡社)を読んだ当時の印象を思い出していた。
(言うまでもないが、本稿の内容は文責については全て小生にあり、書く契機を戴いた上掲のサイトさんとは内容は基本的に関係がない)
 といっても、記憶力の覚束ない小生のこと、本書の内容の大半は忘れている。ただ、本書で扱われているヴァイツゼッカーの最後の一人、つまり、嘗て大統領だったリヒァルト・フォン・ヴァイツゼッカーについての記述を読んで、大統領とは、国家の指導者とは斯くも厳しい認識と省察とに裏打ちされているものなのかと感じたことが今も、本書を座右の書たらしめているのである。
 なのに、ネットで調べてみたら、この本は品切れになっており、重版の可能性も今のところないらしい。何故?と問い掛けたい気分だ。

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風光る…杉菜…こきりこ

 サイト巡りをしていて、あるブログサイトの写真に目が止まった。
 小生、自分では、やたらと長い文章を書いておきながら、妙な話だが、そこは素敵な画像と簡潔なコメントで、訪れるのも楽しみなサイト。
 自分でデジカメを使い始めて分かるけれど、撮れば光景は写し出せるけれど、逆に対象の生命感とか、今だからこそ撮ったという感じを画像で示すのは案外と、いや、結構、難しい。撮るだけならカメラがあれば撮れる、多くの人が撮っている、つまり、画像はライバルが多いし、誰もが見慣れているのだし。
 目が止まったサイトというのは、「武蔵野だより」というサイトの「風光る。」なる画像。
 画像もいいが、小生だと、こういう光景に目が止まるかどうか、怪しいものである。まして、朝露に濡れる杉菜の目に鮮やかな<いのち>は、文章はもちろんだが、写真でも表現はできないなと感じさせられる。
 ところで、その画像の表題は「風光る。」とある。「「風光る」は3月ごろの季感3月ごろの季感」だというが、小生、季語例の表をほぼ毎日のように見ていながら、「風光る」がいつ頃の季語例として示されていたのか、気づいていない。
 調べてみると、サイトに依っては四月の季語例に挙げられていたりする。
 しかも、画像に付せられたコメントには、「写真は〈杉菜光る〉(^v^)です。」ともある。
 あれ、杉菜っていつの頃の季語なの、と、これも季語例を探ってみると、同様に四月の季語例表に載せてあった。ホント、我が目は節穴だと、つくづく自覚させられるのだった。
 三月なのか四月なのかは、歳時記上は厳密に決まっているのか、あるいは伝統的に一定の範囲に収まってきてのものなのか、地域による若干の季節感の相違を容れる余地が俳句を実作する上で許されているのか、小生にはトンと分からない。

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