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2005/04/23

蛤 浅蜊 桜貝 鮑 飯蛸 海雲 海胆…

 春四月の季語例を幾つか並べてみた。これらの季語の共通点は、などと訊くのは野暮だろう。みんな海の生き物で、且つ、魚ではないが食べ物としても馴染み深いものばかりであろう。
 馴染み深いというのは、漢字表記しても大概の言葉(名前)が読めることからも言えそうだ。
 以下、野暮の上塗りになってしまうが、いつも勝手にお世話になっている「風香」さんサイトの「季語集・春」を参照させてもらいつつ、一通り、季語例を見渡しておこう。
「蛤(はまぐり)」は、「蛤汁 蛤吸 蛤つゆ 焼蛤」などの類義語があり、「二枚貝、肉は美味で吸物に良く鍋物や焼蛤は絶品」
「浅蜊(あさり)」は、「ハマグリ科の二枚貝、浅海の砂浜、砂泥地、河口で取れる」
「桜貝(さくらがい)」は、「花貝 紅貝」という類義語があり、「桜色の透きとおった殻をもつ二枚貝」
「飯蛸(いいだこ)」は、「望潮魚」という類語があり、「タコ科に属する小型の蛸で、頭が親指大と小さく主に煮付で食す」
「海雲(もずく)」は「水雲 海雲採 海雲売 海雲桶」などの類義語があり、「細くもつれた糸状をした紫褐色の海藻、三杯酢や汁の実に使う」
「海胆(うに)」は「海栗 粒雲丹 海胆の棘」といった類義語があり、「海底の岩礁に付着して生息する棘皮動物で種類も多い」
 他にも、「海髪(うご)」なんかがあって、「おごのり」という類語があり、「暗紅色の紐状の海藻、熱湯をかけると緑色になり刺身のつまにする」というのだが、小生、恥ずかしながら、この生き物というのか食べ物は初耳。
「蜆(しじみ)」は「真蜆 紫蜆 瀬田蜆 業平蜆」などの類義語があり、「淡水または帰水産の小粒の二枚貝」
「鹿尾菜(ひじき)」は「ひじき刈 ひじき干す ひじき藻」などの類義語があり、「海中の岩石に付着成長する食用藻、総菜としてなじみ深い」
「磯巾着(いそぎんちゃく)」は、「磯の割れ目などにくっついている腔腸動物」というが食べ物ではないのか。
「若布(わかめ)」は「和布 新若布 若布刈 若布売」などの類語を持ち、「一般的に太平洋の若布は肉厚で日本海のそれは薄い」
「海苔(のり)」は「岩海苔 海苔舟 海苔掻く 海苔干」などの類義語を持ち、「食用の海藻」

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2005/04/22

ツツジの宇宙

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 今日は「八重桜」を表題にして季語随筆を綴るつもりだった。
 ソメイヨシノという種の桜は呆気なく散り果ててしまったけれど、八重桜や江戸彼岸などはまだこれからで、特に江戸時代などは江戸彼岸(エドヒガン)が主な桜だったという(「江戸東京物語|池袋15'」参照)。
 同上サイトによると、「小川和佑著『桜と日本人』(新潮選書)によると、エドヒガンは樹齢が長く、盛岡の石割桜など伝統的な古い桜はこの種に属するという。「江戸府内の桜も、このエドヒガンが多かったに違いない。例えば八代将軍徳川吉宗植樹の向島、玉川上水、飛鳥山の桜もこのエドヒガンを中心にヤマザクラやシダレザクラなどの多様な桜だった」というのである。
 ネットで八重桜など、桜のあれこれを調べると、ちょって手に余るほどの情報が溢れている。纏めきれないので、せめて、今日は、「サクラは跡見学園女子大学のシンボルであり、構内全域にわたって多くの種類が植栽されています」ということで、「跡見学園女子大学の構内サクラガイド」を覗かせていただくに留める。
 勿論、実際に覗き見に行くわけではない。誘っていただけたら、飛んで行くけれど。「本学のサクラの特徴はヤマザクラが最も多いことで、50mにも及ぶ並木道は他に例が少なく、ソメイヨシノの華やかさとは違う楚々とした野趣に満ちた美しさで愉しませてくれます」となると、小生、垂涎の穴場所ではないか。
 このサイトで八重桜を調べると、「しかし、「八重桜」という品種は存在しません」と、いきなりピシャッと叩かれた感じである。「一般に「八重桜」といった場合‘カンザン’や‘フゲンゾウ’等のサトザクラの特定の園芸品種を指すことや、サトザクラ類の総称として使われることが多いようです」とのこと。
 鬱金(ウコン)、嵐山、普賢象、松月、手弱女、江戸、御衣黄、仙台枝垂…。これら、八重の種類を眺め愛でるだけで、眩暈がしそう。しかも、他に、「ソメイヨシノが登場する以前は最も日本人に親しまれてきたサクラ」である、山桜など、数々の種類の桜が居並ぶ。
 山桜というと、つい、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(宣長)なんて歌を思い起こしてしまったり。小生の発想法も紋切り型だなと、つくづく感じてしまうが。
 で、準備が間に合わないので、今日の題材は、表題の如く、「躑躅(つつじ)」である。
 といっても、躑躅の世界も桜に負けず劣らず奥が深い。とりあえず、ちょうど昨年の今頃、書いた文章を以下、掲げる。
 念のために書き添えておくと、ツツジは春の季語である。

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2005/04/21

苔の話…ひかりごけ

 秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めたということで、前日の季語随筆・番外編「苔の話あれこれ」では、「苔」の周辺を主に季語との関連で若干、探ってみた。本書については、読みかけだったこともあり、「はしがき」の一部を紹介するのみに留め、中身には触れないでおいた。
 本書から「苔」の生態その他についてあれこれ説明するのも小生の手に余る。
 それよりも、「苔」というと連想する文学作品の筆頭の「ひかりごけ」に焦点を合わせて見たい。言うまでもなく、武田泰淳の小説(戯曲)である。
 本作品は、所謂「「ひかりごけ」事件」に話の糸口を得ている。その事件の詳細は:
「ひかりごけ」事件
ひかりごけ事件

 見られるように、「「ひかりごけ」事件」は本当にあった事件なのである。
 武田泰淳は、この実際にあった事件を知床半島・羅臼の地元中学校の校長に聞くことから小説を書き出している。
 小説(戯曲)「ひかりごけ」の粗筋は、例えば、「ひかりごけ - goo 映画」などで読める。
 また、例によって当然ながら、「松岡正剛の千夜千冊『ひかりごけ』」も採り上げている(「ひかりごけ」新潮文庫)。
 この小説はメタフィクション的な構造を有していて、小説の中の登場人物が突然、書き手になってしまったりする。「ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である」
 そう、とても奇妙な構造の小説なのだ。

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2005/04/20

苔の話あれこれ

 昨日から秋山 弘之著『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(中公新書)を読み始めている。図書館で書棚をざっと眺めて回っていて、パッと目に飛び込んできたので、即、手に取った。
 それほどだから、小生は苔に興味がある…のかどうか分からないが、既に手には借りられる冊数の本を抱えていたのに、一冊を棚に戻して本書を代わりに借りることにしたほどだから、その行動からすると、興味がないとは言えないはずなのである。
 読み始めているといっても、車中での待機中の齧り読みなので、まだ冒頭の辺りをうろついているだけだが、でも、楽しみつつ読めている。自宅では、スティーブン・レビー著『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)を読み出してしまったので、『苔の話』は車中で読みとおすことになりそうである。
 ちなみに『暗号化』は、「ハッカーに関する本などで有名なサイエンスライターのスティーブン・レビーが、インターネット時代の暗号技術を取り上げて、一般の読者向けに解説した、全体で500ページ近い大部な本である」ということで、エシュロンも出てきたりして、ひたすら好奇心で読んでいる。

 苔というのは、一般的にはそれほど人気のある対象ではないのだろう(と思われる。確かめたことはないので、断言はできない。もしかしたら、日本人だと密かに愛着して方が案外と多いのかもしれない)。
 苔など、下手すると、黴(かび)や錆(さび)の仲間扱いされかねない(掌編「黴と錆」参照)。
 が、日本のような湿気の多い、山も木々も多い土地柄だと、ともすると花や木々以上に馴染みのある生き物と言えるかもしれない。
 そもそも、「苔」という漢字自体が、苔の性質を表しているような気がする。小さくて目立たず、その存在を花を咲かせたりして大袈裟に自己主張するわけではない…そう、植物としては雑草と比べてさえも、とても無口な存在なのだ。クサ冠(カンムリ)にムクチと書いて「苔」と、名は体を現しているわけである(無論、これは小生の戯言なのだ。読んで、コケた方もいたりして)。

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2005/04/19

磯遊(いそあそび)…混沌の海

 表題の「磯遊(いそあそび)」は、春四月の季語のようである。
春の季語(行事・暮らし編-種類順)」によると、「春の大潮の頃、磯部で遊ぶこと」だという(磯部って、磯辺と表記するのでは?)。「磯祭」という類義語があるらしい。
閑話抄」の<磯遊(いそあそび)>によると、「「磯遊」というのは春の磯に出かけて貝などを捕って楽しむ行事です。 それは「汐干狩」じゃないの?と思われる方もいらっしゃいますよね。「汐干狩」という季語は別 にあります。ただ「汐干狩」のほうは、時には小舟を出して魚なども捕るのに対し、「磯遊」の方は浜辺で時には炊事道具を持参し、捕った獲物をその場で煮炊きして楽しむというような面 で分けているようです」とのこと。
 このサイトによると、「「磯遊」と同義の言葉に「磯菜摘」というものがあ」り、「狭義では、浜辺に打ち上げられた海藻を採る事をさしている」とか。
 21世紀が、こんなにも困難で多難な世紀になるとは、誰が予想しただろう。しかも、幕開きが9・11の同時多発テロだったというのが象徴的だったりする。
 冷戦が終わってベルリンの壁が壊され始めたとき、何か雪解けの時が到来したかのような印象さえ、マスコミは伝えていたような。今となっては夢のような話であり、冷戦構造が崩壊して、パンドラの箱の蓋が開いて、とんでもない混沌の世界が現実のものとなった。
 磯遊も潮干狩りも楽しい戯れなのだろう。海の水がせいぜい膝元を浸している間、漕ぎ出した小舟に穴が開いていることに気付かなかった間は。
 けれど、今は、海の水は腰の辺りまで、やがては咽喉もとの辺りまで寄せてきている。
 遠い昔、かのニュートンは、「私は、浜辺で貝がらを拾って遊ぶ子供のようなものだ。真理の大海は眼前に広がっている」と言っていたとか。偉大なるニュートンの一見すると謙虚なような言葉。
 でも、ニュートンは本気で自らを浜辺で戯れる子供に過ぎないと思っていたのだろうと、小生は思う。海岸線は、つまりは足元にある。が、その足元が常に揺らいでいるし、浸食されてもいる。
 浸食されない幸運なる場合でさえも、つまり、海岸線をほんの僅か広げたり護岸することができた場合であってさえも、その目の先には広大なる海が広がる。海の先には崖はさすがにないだろうけれど、宇宙が広がっている。地球は宇宙の中の塵ほどの存在。揺れて定まらないのも、無理はないのだろう。真空はありえない、のだから。
 
 以下は、ウルトラマンの話である。夢があるって? 児戯に堕しているって? さて、どうだろう。

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2005/04/18

人丸忌…言の葉

 表題の「人丸忌」ということで本日の季語随筆をほぼ書き終えていたのだが、「Windows」の例外何とかで、画面がダウンしてしまった。二時間以上もかけて書いた文書が消滅してしまった。ショックである。
 ちょっと、やり直す気力も時間もないので、以下、過日、アップさせると告げていた拙稿を掲げる。
「人丸忌」を採り上げたからといって、文書まで「忌」とは実に実にショックである。どうして、「Windows」はこういうトラブルが多いのだろう。
「人丸忌」は、春四月の季語だが、柿本人麻呂の生没年などは不明のはずである。なのに、どうして「人麿忌」は「旧暦三月十八日」ということになっているのだろうか。
山邊赤人とならんで歌聖と崇められる柿本人麿の忌である。その没年については諸説があつて確とはわからないのであるが、陰暦三月十八日とせられ、播州明石の柿本神社(俗に人丸神社といふ)では、四月十八日に人丸祭を行つてゐる。神輿の渡御などあつて相当に賑はふ」という(「三省堂 「新歳時記」 虚子編」から)。
 柿本人麻呂にはあれこれ謎が多い。その辺りのことを書き綴ったのだが、全て雲散霧消してしまった。
柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首 注釈無し」で人麻呂の歌の全貌を伺うことができる。このサイトには、「略伝」も付されている。
 あるいは、小生が勝手に贔屓にしている「たのしい万葉集」の中の「万葉集 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」という頁を覗いてみるのも楽しいかも。

 消滅してしまった文書で扱ったのは、過日読了した岡野 弘彦著『折口信夫伝―その思想と学問』(中央公論新社)のほぼ冒頭に柿本人麻呂の歌について、折口信夫の評価・鑑賞が見出されたのだが、その内容にショックを受けたこと、そして折口信夫がどのような理解を示しているかに触れたのだった。
 後日、図書館から借り出して、再度、触れておきたいものである。

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2005/04/17

はなにあらしの…春愁

 春四月も中旬である。そろそろ新しい環境に慣れてきた頃だろうか。四月末から五月初めには、五月病、なんてことになったりする人も出てくるだろうか。
 三月、そして四月は出会いと別れの季節でもある。小生はタクシードライバーとして働いているが、やはり2月3月には、長年、タクシードライバーとして働いてきた人たちが、何人か、静かに、あるいは賑やかに、見送られて、あるいは寂しく、会社を、そしてタクシー稼業から離れていった。
 尤も、タクシー業界の場合、人の異動は激しい。事故やトラブルを起こすと、退社を迫られることもあるし、有能な方は他社に引き抜かれることもある(らしい)。あるいは、法人から個人のタクシードライバーと立場が変わる場合もある。
 タクシー稼業という神経を擦り減らす仕事で体を壊しての退社という方も、実は多い。
(そういえば、高田渡さんも亡くなられてしまった。高田渡のドキュメント映画「タカダワタル的」があったとか…)
 その意味で、今の時期だけが異動の時期とは限らないのがタクシー業界の特徴かもしれない。それでも、気がつくと、会社で見かける人の顔ぶれが、結構、変わるし、不況を反映して、営業所に在籍する人の数も、相当に減っている。
 別れの歌というと、今も新しく作られ歌われている。が、ここは、長く親しまれてきた歌を紹介しておこう。先日の風と冷たい雨で桜も一気に散ったことだし。というか、その光景を見ていて、ふと、「はなにあらしの…」を連想したのだった。
 有名だから紹介というのは当たらず、まあ、今の時期だから、改めて噛み締めてみる、ということだろうか。

 勧君金屈巵
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 于武陵 (晩 唐)の『 勧 酒 』という漢詩である。この詩だけからすぐに意味を感得できたかたは、すばらしい。
 小生は、井伏鱒二による有名な訳を参照する。付して再度、載せる:

  勧君金屈巵    このさかずきをうけてくれ
 
  満酌不須辞    どうぞなみなみつがせておくれ
 
  花発多風雨    はなにあらしのたとえもあるぞ
 
  人生足別離    さよならだけがじんせいだ

 今の時期を表現したような漢詩が幾つか紹介しているサイトがあった:
Kuribouのホームページ」の「さよならだけが人生か」という頁である。
 若さの証明とは、別れよりも出会いの機会に恵まれているということだろうか。
 でも、気持ちの上での若さの証明とは、この両者への感動の深さにあるのかもしれない。日々が出会い、一期一会、今日という日は今日限りのもの。この感覚を有しているかどうかだけで、人生は相当に違ったものになりそうだ。もっと抽象的に云うと、センス・オブ・ワンダーということになろうか。驚異の念。何事をも新鮮な感動を以って受け止めること。

 …そうはいっても、何故か春というのは憂鬱な感じがあって、訳もなく重苦しかったりする。しかも、この感じ、年々、きつくなる。木々が芽吹き、女性の服装も華やいで、街は生気に溢れていく…だけど、だからこそなのか、まるであてつけのように生命の横溢を感じてしまう自分が居たりする。体力が草いきれのムンムンする濃密なる命の爆発を受け止めきれない、のか。
 桜の花も散って、路肩などにはツツジが咲き揃ってきつつある。散り果てた桜の余韻が消え去ったら、もう少し、気分も落ち着くのだろうか。緑の滴るような街に成り代わったら、気散じの風も吹いてくれるだろうか。
 でも、やっぱり、今は、春愁(しゅんしゅう)という言葉を持ち出したくなる気分だ。「春の何んとはなしにもの憂い感じ」という意味合いを持つ、この言葉。
 うーん、分からない。この気鬱な感じのわけが。ま、いっか、こんな気分に浸るのも乙なものなのかも。
  
 さて、以下は、例によって今、読んでいる本からの、野暮に渡る書評…というより抜書き集である。
 云うまでもないが(言ったほうがいいのか)、「はなにあらしの…」は、扱う本からの連想でもあるようだ。

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