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2005/04/02

春宵花影・春宵十話

 春というと、「春風駘蕩」とか「春宵一刻値千金」、「春眠 暁を覚えず」といった表現を連想したりする。冬の寒さ厳しさに耐えた後だけに、春の日というと、日中だろうと、宵の口だろうと、夜半を過ぎた頃合いだろうと、さらには明け方にしても、それぞれの風情があり、しかも、その風情を家の中に、あるいは身を縮めながらではなく、じっくり、ゆったり、のんびりと愛で楽しむことができる。
「春の宵」というのは、「春宵(しゅんしょう) 宵の春」といった類似する表現があり、「春宵一刻値千金の詩句から出た」のだという。
「春の宵」は、四月または三春の季語である(三春とは、春季の三ヶ月をさす。陰暦の一月~三月)(「言葉の泉」の「春宵(しゅんしょう)の頁より)。

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→ 松林桂月 「紅梅小禽」 (画像は、「Yahoo!オークション - ≪真作保証≫ 松林桂月 「紅梅小禽」 二重箱-象牙-山口-掛軸」より)

「言葉の泉」では、 「春宵(しゅんしょう)」とは、「春の日が暮れて間もない宵のほどで、のどかで艶冶(えんや)な感じのひととき」であり、「通い婚の時代では、男が妻通いする時刻である」などと書いてあった。
 さらに、「現在では、「春の宵」というと、ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」として、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」といった歌が掲げられている。
「ライトアップされ幽玄な光を放つ夜桜が想い浮かぶ」という文言に刺激されたわけではないが、小生がメルマガにて公表した拙稿に、「春宵花影あれこれ」があることを思い出した。
 以下、この小文をブログに載せさせてもらう:

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2005/04/01

万愚節(ばんぐせつ)

「万愚節」とは、つまりは、「四月馬鹿」であり、いまや「エイプリル・フール」という言い方のほうが一般的のようである。謹厳実直をもってなる小生には縁の薄い行事であり季語の一つである。
 今日、4月1日からは、個人情報保護法案が施行されるし、銀行でのペイオフも関係者も昨年から慌しく動いていたようだし、高速道路での二輪車(オートバイやスクーター)の二人乗りが原則解禁となるし、新潟県の山古志村が新潟市と市町村合併ということで合併となるが、我が富山市も大きくなる。その一方、山古志村(の名)が消えるように大沢野町・大山町・八尾町・婦中町・山田村・細入村などの名称が消えてしまう。
 なんだかウソのような、ウソであって欲しいような、けれどホントの話だ。
 目出度いのか、不幸なのか、よく分からない話でもある。

「万愚節」は外来語の感が強い。英語からの訳なのだろうか。が、「万愚節」を英訳すると、「All Fools Day」となる。
 一方、「四月馬鹿」を英訳すると、「April Fool」となる。決して、「エイプリル・フール」だからって、四月の雨というわけじゃない。
 一体、「エイプリル・フール」は、何処の国の風習が導入されたのだろうか。
 あるサイトを覗いたら、もとはフランスだともいうが、本当だろうか。また、『日本国語大辞典』には、昭和三十一年の『母郷行』という句集からとして中村草田男の「銅像の片手の巻物万愚節」という句が載っていたというのだが、信じていいのだろうか。
 どうも、テーマが「エイプリル・フール」だけに、何を読んでも眉唾モノに思えてならない。これでは、真剣に書いている方も辛いだろうが、読むほうも疑心暗鬼なのだから、どっちもどっちなのである。
 というのも、「「銅像の片手の…」の句をネット検索しても、上掲のサイトしかヒットしないのだ。ということは、このサイトだけの情報なのか、それとも全くのデッチアゲなのか、判断が付けかねるわけである。

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2005/03/31

野蒜(のびる)

「野蒜(のびる)」は春三月の季語。その三月も今日で終わり。今日で今年も四分の一が終わってしまう。
 早い! ちょっと待ってくれよ、と嘆きたくなるほど、年月の過ぎるのは早い。鈍足の小生には到底、追い着けないほど…。ホント、春の心はのどけからまし、である。
 なのに、気が付いてみると、せっかちな小生も悠然と構える人も、若い人も老いた人も同じだけの歳月が過ぎ去っている。ゆっくり…というか、ダラダラと生きている小生のような人間の場合は、時間がゆっくり過ぎていくってことは、決してない。「野蒜(のびる)」を表題に選んだからといって、命が延びるようなことはまるでない。
 自然のいいところは、そんな誰にもどんな物にも平等なところなのかもしれない。
 花鳥風月。花というと、俳句の世界に限らず「桜」ということになるが、桜だけではなく、それぞれの季節に咲く花や目立つ鳥、虫、光景というのは、なんとなく罪なものだという気がする。
 真冬には梅が待ち遠しく、いよいよ寒椿が赤紫の花を雪の白の合間に見せ、梅などほころび始めたかと思うと、次は桜の開花を待つ。今年など、寒気が日本の上空に入り込んだりして、今か今かと待つ人の待ちわびる心を甚振るかのように、開花の日が先延ばしにされる。
 それにしたって、やがては咲くのだろうけれど、となると、花見で気忙しい日々を送る。満開の時期、散り始めた頃を見逃してはならない、場所取りだ、などとやっているうちに花見フィーバーは終わる。と、次は躑躅(ツツジ)などが町中、至る所に寒椿の赤紫よりやや淡いが、しかしコンクリートやアスファルトの灰色の世界、緑の葉っぱなどとの対比で目に鮮やかなことでは決して引けを取らない花の色の帯を延々と延ばしていく。
 そのツツジが散り始める頃には梅雨で、早く鬱陶しい梅雨など終わって欲しいと思っているうち、もっと気だるく暑い夏が生を囃し立て煽り、弱き者を攻め立てる。気息も絶え絶えになってやっとサバイバルすると、九月の後半で、秋の夜長をどう過ごすかで頭を悩ます。
 かと思うと、ゴマフアザラシ(?)の「かもちゃん」が現れたり、二足歩行(?)するタコがテレビやラジオで話題になったりする。
 とにかく、気が休まる時など、花も鳥も虫も風景も与えてはくれない。日本人のせっかちな気性、物事を短期的に目先の現象で捉えてしまう性分というのは、こうした移ろいやすい風物に恵まれすぎていることに起因するのだろうか。
 ま、そんな愚痴なのか、嬉しい悲鳴なのか分からない独り言はともかく、表題の「野蒜(のびる)」に取り掛かろう。

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2005/03/30

母子草…シャネル

s-DSC01412「母子草(ははこぐさ)」は、「御行 ほうこぐさ」といった類義語・関連語があり、「春の七草の一つ、茎の先端に黄色い小さな花を密集させて咲く」という。
北信州の道草図鑑 ハハコグサ」などでその可憐な姿を見ることができる。「キク科の越年草。路傍に普通で、高さ10~30センチメートル。茎と葉には白い綿毛を密生。春・夏に、黄色の小頭花を密につける。春の七草にいう「ごぎょう」で、若い茎葉は食用。ほうこぐさ。漢名、蓬蒿・鼠麹草(広辞苑)」とか。
「絵手紙 母子草(ははこぐさ)」を久しぶりに覗くと、「(前略)けれど、暖かくなり枯野だった空き地や庭の片隅に小さな緑が萌え出す。淡い黄色の小さな花、柔らかいうす緑色の葉、母子草の名がやさしいこの草に春の慈愛に満ちたやさしさがまるで母そのもののように思えた。
 名もない路傍の雑草は、心を止めてみなければ気づかないで通り過ぎてしまうだろう。あらゆる緑が萌え出すこの季節だからこそ、路傍の草花にも、美しさが見出せるのだと思い春の季語として読んでみた」と、いつもながらの詩文と共に、「その名にはやさしき響き母子草」という句と絵とが載せられている。

「母子草」は春の七草、だから春の季語。が、不思議なのは、「御行」といえば新年の季語だということ。
 小生、「母子草」と「御行」の関係が今一つ、理解できていない。
 さて、今日の表題に無理を承知で「母子草」を選んだのは、以下に採り上げる人物が、「母と娘の二世代にわたって時代に合う新しいファッションを提供した」稀有な女性だからということ、けれど、その出自においては、孤児院出身だったということ、親は行商で身を立てていたこと、また、愛人となって身を浮かび上がらせる切っ掛けを得るまでは、ひたすらに日陰の身だったし、時代に恵まれなければ、才能があったとしても、一生、浮かばれることがなかっただろう人物だったことを思ってのことである。

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2005/03/29

春の野…愛・地球博

「春の野」とは、春3月の季語であり、〔春野〕〔春郊〕〔弥生野〕といった関連する語がある。意味合いは、字義から予想される通りのようで、「草萌えの始まった野、野焼きを終えた野、すみれやれんげの咲く野、ひばりの声高く鳴く野、いろんな春の野が想像できます」とあるのも、素直に受け止められる(「季節のことのは・季語」より)。
草萌(くさもえ)」や「青き踏む(踏青)」もニュアンス的に近いようだ。
 ついでながら、「青き踏む(踏青)」の項では触れることができなかったが、「★俳句レロレロ★ AAKO 's lasy days」の中の、「今日の俳句 2005.3.24」によると、「陰暦三月三日に野宴を催し、青々とした草を踏む中国の行事が元なのだけどその日に限らず、春の野を散策することを言う」のだとか。
 この頁では、「難転ずる石有り薩摩の青き踏む」という句が掲げられていて、「難転ずる石」はこれ、という画像も見ることができる。

「春の野に」と来ると、万葉集の中の有名な歌をすぐに思い浮かべられる方もいるだろう。そう、山部赤人の歌である:

 春の野にすみれ摘みにと来し我そ
       野をなつかしみ一夜寝にける   山部赤人 巻八 1424

 小生の語源探索癖で、「スミレの語源は大工道具の墨入れ(墨壺)の形に似ていることに由来するそうだ」などと注釈を加えておくのは、野暮だろうか。
 
 あるいは、「春の野」というと、百人一首にも加えられている光孝天皇の歌を思い起こさずにはいられない方もいるのだろう:

 君がため春の野に出でて若菜摘む
         我が衣手に雪は降りつつ    『古今集』春・21

 前にも紹介したが、「季語の風景|草萌」の写真は、草萌えの光景であり、「春の野 新たな命の営み」の画像でもあったのである。

 いずれにしても、「春の野」を句に織り込むには、こうした伝統を踏まえておくのは当然として、あからさまにではなくとも、どこかしら滲ませるうように句を吟じるほうがいいのだろう。
 こう考えると、なかなかに難儀である。

 さて、小生が「春の野」を表題に選んだのは、春の野の光景も素晴らしかっただろう、愛知県瀬戸市にある「海上の森」(かいしょのもり)で今、まさに、「愛・地球博」が開催されているからである。
 その会場を、どんな気分で散策したらいいのだろう。

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2005/03/28

薔薇の芽それとも青いバラ

 表題の後半を「青いバラ」にしたけれど、別に小生が青いバラの現物を見たわけでも、まして、作ることに成功したわけでもない。
 単に、最相葉月著『青いバラ』(小学館刊)を読んだので、魅惑のタイトルを使ってみたかっただけである。
英語で「Blue rose(青いバラ)」は「ありえないもの」を意味」するとか。
 不可能という花言葉を持つ幻の青いバラ、ということか。
 バラは、「冬薔薇」だと、冬の季語である。「薔薇」だけだと、夏の季語。「薔薇の芽」だとだとか。
 この「薔薇の芽」という言葉については、「春の雨」の項で、「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」という正岡子規の歌を紹介した際にも登場していたことを覚えておられる方もいるだろう。
 
 桜は、ようやく堅い芽が解きほぐされつつあるようだ。都内だと、各地にチラホラと早咲きというのか、気の早い桜が咲き始めているのを、先週の金曜日だったかに見ることができた。
 薔薇の芽のほうは、小生、確かめてはいない。誰か、見かけた方がいたら、教えて欲しいものだ。
 さて、明日(既に本日だ)は、全国的に雨模様のようだ。この分だと、桜の開花は、幾分、遅れそう。
 月曜日の夜半になり、雨が上がった頃、開き始めた桜と月、という光景を愛でることができたらいい…。それを楽しみに、仕事に励もう!

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2005/03/27

お知らせ:TB企画「桜月夜の記憶」

131moonつきのくさぐさ」variousmoon様の企画です。
名前の示すとおり、お題は「月」と「花」。要領などは、下にもコピーしておきましたが、詳細は、「つきのくさぐさ」サイトを覗いてみてください。頁のトップに銘記してあります。期間は、「桜前線が日本列島を北上し終えるまで」だとのこと。作品は写真や文章などでもいいのだとか。

夢音の木」のhirononさんにお誘いいただきました。

[以下は、企画の主宰者である「つきのくさぐさ」さんからのテンプレート(コピー)です]:

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 お月さまはいつでも空にいらっしゃいますが、
 花は盛りのときがわずか。
 雪・月・花と並び称される日本の美。
 そのうちの2つを、春らしく味わおうではありませんか!

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卒業

「卒業」が春三月の季語だというのは、あまりに尤もすぎる。日本的というべきか。
 小生自身の卒業というのは、あまりいい思い出がない。小学校も中学校も、高校も、卒業式の日は、一人、学校をあとにした。
 大学も留年したこともあり卒業式を迎えることなく、青葉山のキャンパスを悔しい思いなどを胸にテクテクと降りていったものだ。
 卒業とは言うものの、一体、何から卒業したのか。ただ、心太(ところてん)式に後続する者たちもいるし、追い出されただけではないか…。
 それでも、開放感だけはたっぷりと味わったような気がする。
 
 この季語「卒業」の類義語には、「卒業生、卒業式、卒業期、卒業証書、卒業歌」などがあるようだ。
 卒業の意味(意義)についてはともかく、「卒業」という季語の意味は、説明を要しないだろう。

 さすがに、卒業は多くの人に馴染みの体験、光景であるようで、「卒業 季語」でネット検索すると、今まででは、一番多い検索結果の約 15,900件をヒットした。
 卒業の織り込まれた句も多いようだ。どれか掲げようと思ったが、あまりに多くて眩暈しそう。
 ここでは、「ikkubak」から一つだけ、載せさせてもらう。小生の苦い卒業の思い出に比べ、晴れ晴れしている、いや、眩しすぎる!:

 黒板をぬぐえばみどり卒業す  三宅やよい

 敢えて、小生の卒業時の気持ちを表すかなと思う句を挙げておくと、「卒業やそれぞれ風の中へ散り」だろうか。句の載っているサイトの評釈とは違う理解を小生はしているのだけど。
 
 さて、別窓は、昨日以上に野暮な内容。でも、卒業して社会に出た時、世間や社会、そして世界がいかに広いかに驚かれる人も多いのでは。逆に言うと、学校という世間の狭さ、その代わりの揺籃的雰囲気を後になって感じるのである。
 漫画を含めて本を小生は小学校の時から読み始めている。本に啓発され(人にも薫陶され)将来の道を選んだりもしたけれど、気がつくと学生時代よりはるかに多くの数の本を読んでいる。若い頃に世界に驚異の念を覚えたりもしたけれど、幸いというべきか、その頃にも増して、書物の世界(だけではないが)に親しみ、一層、世界の深さ広さ多彩さ際限のなさを思い知らされている。
 学校なるものは卒業したけれど、書物の世界に限ってさえも、世間や世界からの卒業は、末期の日までありえないのである。
 以下に示す本も、幸いにしてそうした一冊となってくれた。

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