連句を巻く?
何人かの方が小生のブログサイトをブックマークしてくれている。それはとてもありがたいことである。無論、小生も何人どころではない方のサイトをお気に入りに入れさせてもらっている。ほとんどが片道というか一方的で、まあ要するに片思いのようなものだ。小生にお似合いのパターンである。
さて、そんな奇特な方の中のブックマークのコメントに、連句を巻いてほしい、とあった。
連句を巻く? そう、聞いたことはあるし、そんな文面も随所で見かけている。が、小生自身が連句を巻くなんてことはなかったし、関わったこともなければ、その場に臨席も見物すらしたことがない。
そもそも、読書する本の中に俳句(や短歌、詩)関係の本もあるが、手遊びにすら、自分で俳句(あるいは川柳)を作ったこともない。
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この季語随筆日記というブログサイトを運営し始めたのは昨年の秋口というには早すぎる夏の終わり頃だったが、ほんの気まぐれで俳句(か川柳か標語かその他かの区別も分からないまま)を作ってみたのは、その二ヶ月前、つまり昨年の七夕前日(時間的には七夕の日になっていたかも)だったのである。
以後、この季語随筆を綴りつつ、少しずつ俳句に関連するあれこれを我が侭勝手に、気分次第で、徒然なるままに、勉強の真似事をしてきたのである。
誰かについて学んでいるわけでもなければ、俳句の入門書を片手に、よちよちながらでも基礎から学んでいるわけでもない。
このところの話題に事寄せて表現すると、基礎というか土台がなっていないのだ。柱もないし、壁すらないのかもしれない。壁紙で化粧する知恵もない。
まあ、風流を気取るなら、吹き曝しの陋屋で我流の俳諧の道を夢見ているということになる…かどうか。
一応、芭蕉の本を読んだりしているし、芭蕉と弟子のやり取りを仄聞するように読み齧ったこともあるが、さて、改めて「連句を巻く」って、どういうこと。似たような印象を受ける語に「歌仙」もあるし。連句と歌仙の異同は?
困った時のネット検索で、「連句 巻く」をキーワードに検索してみたら、その筆頭に「連句入門/座の仕組みと連句のすすめかた」という頁が上ってきてくれた(ホームページは、リンク先に飛ぶのに時間が掛かることもあり、確認できなかった)。
この頁を参考にさせてもらうと、まず、「●座の仕組み●」なる項目がある。
つまり、「連句は、人と人とが集って行なうのが「基本」です。人数は、何人でも構いませんが、最低、3~4人は欲しいところです」という。
ああ、ここでもう、限界を感じてしまう。小生にはそんな仲間など一人もいない。一人で連句を巻くなんて、管(くだ)を巻いていると勘違いされそうだ。
でもまあ、勉強だけはしておこう。以下、次のような次第:
「連句では、集った人たちを「連衆」と言い、その場を「座」と言います。そして、連衆が座で連句をつくっていくのを「巻く」と言います。
「巻く」にあたっては、一人、進行役となる人を置きます。その人を「捌き(さばき)手」と呼びます。「捌き手」とは、鍋を囲んで美味しい鍋料理を堪能する時に存在する「鍋奉行」のようなものです。
鍋奉行が、鍋料理を一応、仕切るのと同じで、捌き手が、座を一応、仕切ります。」
ついで、「●連句のすすめかた●」という項目が続く。
「連句は、最初に五・七・五(長句)をつくり、次は、七・七(短句)をつくり、その次は五・七・五の句をつくり、そのまた次は七・七の句をつくり、と、これを連々と続けていきます。
とはいえ、一度、連句を始めたら、「エンドレス状態で際限なく続けていく」というわけにはいきません。何事をするにしても区切りが必要です。」という説明が冒頭にある。
このあとに、「一応、最も基本になるのが「歌仙」と称され、三十六句で区切りをつけます。これを「歌仙を巻く」と言います。」と説明される。
ここで小生、「連句」と「歌仙」の別が分かったというわけだ。
「一応、最も基本になるのが「歌仙」と称され、三十六句で区切りをつけます。これを「歌仙を巻く」と言います。」という説明に続き、「どのように句をつけるのかというと、人と人との「会話」と同じです。」とあるが、これがまた小生には難しい。もともと会話が苦手な性分なのである。賑やかな場の雰囲気が嫌いではないが、会話の輪の中に仲間入りするのは、できないことと最初から諦めている。
これじゃ、まず、連句だろうと歌仙だろうと、舌だろうと、管だろうと、巻くなんて論外だと、早くもめげている。
「どのように句をつけるのかというと、人と人との「会話」と同じです。」以降の説明は、関心のある方は、是非、当該のサイトなどを覗いてみて欲しい。
思うに、小生ができることと言えば、その時の事情や雰囲気にも拠るが、人の尻馬に乗ることだけ。誰かに誘ってもらえたら、場合によっては乗るかも、なのだ。牛後となることはあっても、鶏口となることはない。
そう、「鶏口となるも牛後(ぎゆうご)となる勿(なか)れ」の逆を行く小生なのだ。
ただ、そうはいっても、「「俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり」と提唱し、この俳句観にもとづいて作品鑑賞をおこなった」山本健吉氏の『俳句とは何か』(角川文庫)などを読んで(今、三度目の購読中)、その深い意味も分からないままに、「滑稽、挨拶、即興」を墨守したいと思っている小生だ。
短歌のように、一人、歌い上げるのもいいけれど、相手が人なのか動物なのか、植物なのか自然や大地なのか、あるいは森羅万象の全てなのかは別にして、即興でその時に感じたままを滑稽味を加味しつつ挨拶したいとは思う。
今のところは、人を含めた森羅万象相手に連句でもなく歌仙でもなく、やはり管を巻いておくのがお似合いのようだ。
参考サイト:
「浮御堂」
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