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2005/12/15

読書拾遺(サビニの女たちの略奪)

 何か書き忘れているなと思ったら、ここしばらく読書雑記から遠ざかっていた。遡ってみたら、この前書いたのは、「読書拾遺(辻邦生と丸山健二の体つながり)」(November 26, 2005)で、日付から見られるように、今日、メモしておかないと、三週間も間が開いてしまう。
 読書感想文なんてものを書くつもりもないけれど、メモするだけでも、できれば読了した直後に綴っておくに越したことはない。
 この間、何も読まなかったわけではない。
 念のため、読んでいる最中のものを含め、書名だけ、並べてみる。この半月あまりの季語随筆の中で、書名に言及しているものもあるが、ダブりなど気にしない。
 今、読んでいる最中なのが(というか、上・下巻の上だけ読んだが、下巻のほうは相変わらず順番待ちなのが、ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』(越前 敏弥訳、早川書房)。読了しても感想を書くかどうか分からないが、本書を読むのを楽しくしている薀蓄めいた雑学的知識はあれこれあるので、その周辺を廻ってみるということで、若干、調べてみたい気がしている。
 田中史生著『倭国と渡来人』(吉川弘文館)も読みかけなのだが、他の本を借りる都合上、途中で返却。小生、古代史や考古学には日本のみならず海外のものも好きなのだが、この十年は日本の古代史関連の文献を漁るのがメインになっているみたい。
 この本を読んで、渡来人と帰化人の区別だけではなく、渡来人についても認識を新たにさせてもらった。
 学校の勉強は嫌いだったけれど、エジプトのピラミッド、インカ帝国、ムー大陸、遠足で海辺などの貝塚の痕などを見たりすると、日本でも文字の記録には残らない縄文の昔に茫漠たる想いを抱かされてしまう。
 縄文(あるいはそれ以前から)西や九州に限らず、北海道を含めた東の地にあっても、大陸との交流、日本列島各地との交流は盛んだったし、その拠点も随所にあったのである。

『倭国と渡来人』の関連で、今は、森浩一/網野善彦著の『日本史への挑戦―「関東学」の創造をめざして 』(大巧社)を読み始めている。共に故人となられたお二方の著作は小生の格好の読書の種。出るたびに、というと大風呂敷になってしまうけれど、書店で二人の名の冠せられた新刊を見ると、とにかく手が出てしまう。
 本書は対談の形で、関東が奈良・大阪・京都などの近畿に決して劣ることのない古代(あるいは縄文以前)からの分厚い人と文化の交流(それも国内のみならず大陸との)の積み重ねがあったのだと熱く語ってくれている。
 まだ、読み止しだが、先が楽しみ。

『正宗白鳥集』をちびりちびりとこの二ヶ月近く読み続けている。ロシア文学、とくにトルストイをつい連想させてしまう作家。
 というわけでもないが、図書館でついロシア文学のコーナーに足を向けてしまう。高校の終わり頃からロシア文学には結構、読み浸ってきた。
 といっても、メインはドストエフスキーで、小説作品については全てについて最低、三回は読んでいる。『罪と罰』は五回(英訳を入れると六回だが)、『白夜』は七回までは覚えているが後はわからない。
 他はトルストイやガルシンチェーホフ、プーシキン、ゴーゴリ(「ヴィイ」)、ツルゲーネフ、アクショーノフ、マクシム・ゴーリキイ、ゴンチャロフ(「オブローモフ」)、レールモントフ、トロツキイー、パステルナーク、ショーロホフなどを学生時代に読み浸った。
 ロシア文学に魅了されていた頃の自分が懐かしくて、藤沼 貴/小野 理子/安岡 治著の『新版  ロシア文学案内』 (岩波文庫)を読んでみた。個々の作家の作品や背景に解説などで触れたことはあっても、思えばロシア文学を系統だって追いかけてみたことはなかったなと、この案内を読みつつ気付かされた。
 日本の文学の歴史と比べると、そんなに長い積み重ねがあるわけではないが、十九世紀に至って、一気に世界の頂点に達する文学世界を築きあげた。二十世になってもそれなりの作家・作品は出ているのだろうが、さすがにドストエフスキーとトルストイという高峰はあまりに図抜けているので、誰の作品を呼んでも物足りなくなってしまう。

 というわけで(もないが)、ロシア文学評論のコーナーに『トルストイかドストエフスキーか』という書名を見つけたときは食指が動きそうになった。
 が、大概は、今までの経験からしてドストエフスキー論で感心したものは内外を含めて一冊もないので、まあ、やり過ごしてしまうはずだが、しかし、著者名がジョージ・スタイナーということになると、話は別である。
 小生は、数年前、ジョージ・スタイナー著の『言葉への情熱 (叢書・ウニベルシタス)』(伊藤 誓訳、法政大学出版局)を読んで、その該博な知識ぶりに慨嘆したことがあった。
 本書は、レビューに「古典古代から現代までの文学・哲学・芸術・科学の該博な知識を基盤に、独自の世界像を提出する「脱領域の知性」の評論集。危機に瀕したヨーロッパ文化をユダヤ人の眼で異化しつつ、現代の病理を「言葉」の根源から抉る」とあるが、看板に偽りなしを感じたのは、実に珍しいのである。ついには、「ジョージ・スタイナー著『言葉への情熱』、あるいは、電子の雲を抱く」といった大仰な題名の感想文を綴ってしまったのだった。

 というわけで、ジョージ・スタイナー著の『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)は、原書は1959に出ていて、訳書が出たのもかなり古いのだが、2000/06に訳書の新装復刊版が出されたのも納得で、これは掘り出し物と、急いで脇に抱え込んだ。
 翻訳がなんとなく、窮屈なような気がしたが、それでも中身が小生の手を離させない。さすがにスタイナーは評論家として別格だと改めて感じさせた。
 本書の中でスタイナーは、トルストイの作品の中に登場する駅のプラットホームへのトルストイの固執に注意を喚起している。この点に焦点を合わせて論考をものしたら、さぞかし興味深い成果が得られるのではと書いている。
 その後、誰か研究者は試みた人がいるのだろうか。
 ちなみに、トルストイが最期を遂げたのも、駅のホームでのことだった(凍死だけれど)。
 小生には、トルストイ論を書く力はないが、それでも感想文は恥を怖れず書いている。

 この二週間あまりの読書の中で意外な発見があった。まだ、途中までしか読んでいないのだが、冒頭から、ああ、これは傑作だと感じさせる本だった。
 それは、J.M. クッツェー著の『恥辱』(鴻巣 友季子訳、早川書房)である。まあ、文学通の方なら何を今更、発見だというところだろうが、小生、クッツェーについては、『夷狄を待ちながら』(土岐 恒二訳、集英社文庫)を読んだことがあって、2003年度ノーベル賞受賞作家ということもあり、多少の期待を持っていたのが、痛く裏切られたという苦い思い出があるのだ。

 なのに性懲りもなくクッツェーの本に手を出したのは、過日、読了し感想文も書いた「読書拾遺『カトリーヌ・Mの正直な告白』」(高橋利絵子訳、早川書房)なる本の裏表紙に本書『恥辱』の宣伝が載っていたこと、『正直な告白』を返却してその足で図書館の外国文学のコーナーをうろついていたら、まさに『恥辱』が棚に、これを手に取って! とばかりに目に飛び込んできたからだった。
 まあ、とにかくパラパラと捲ってみるだけのつもりだったが、ちょっと齧り読みして、あ! という訴えを感じた。
 で、早速、読み始めたのだが、これがあの『夷狄を待ちながら』の作家なのかと不審に思えるほど、読ませるのである。
 本書についての感想文は読了後、気が向いたら、書くかもしれない。
 ここでは、本書の中で登場した、ちょっとした絵(のテーマ)についてだけ、メモしておく。
 そのテーマは、西欧ではしばしば扱われたというテーマのようで、絵画に造詣のある方なら知っているだろうし、絵の好きな人なら、ああ、あの絵がそうなのかと思われるだろう。
 それは、「サビニの女たちの略奪」というテーマである。
 ピエトロ・ダ・コルトーナの手になる「サビニの女たちの略奪」をまず、見てもらいたい。
「本作の主題は、ローマ市建設時、女性が少なかった市の建設者ロムルスの発案により、サビニなど近隣の村人をローマの祭りへ誘い、未婚の女性を略奪したとされる伝説上の逸話≪サビニの女たちの略奪≫を描いたものである」という。

 これには後日談があって、「 ローマ市民により略奪されるサビニの女たち。本作の主題≪サビニの女たちの略奪≫は、後の話として女を略奪されたサビニの男たちは奪回のためにローマへ攻め入り凄惨な戦いが続くも、既にローマ市男性の妻となっていたサビニの女たちの仲裁により休戦したとされている」というが、なんとなく後の世のローマ人の誰かによる弥縫(びほう)めいた話に小生には映るが、あるいは、案外と現実の世界の曰く言いがたい奥深さを物語っているのかもしれないと思ったりもする。
 この絵、ピーテル・パウル・ルーベンスの「レウキッポスの娘たちの略奪」を思わせるというが、なるほど、何処か似ている。
 ニコラ・プッサンにも、「サビニの女たちの略奪」というテーマを扱った絵があるようだ。

 後日談の中に、「既にローマ市男性の妻となっていたサビニの女たちの仲裁により休戦した」という話があるが、よくしたもので、ちゃんとそうした場面を描いた絵がある。しかも、巨匠の手になるものだ。
「旅の絵本」を旅しよう 2巻 P.29-30」なる頁を覗かせてもらうと、ニコラ・プッサンの「サビニの女たちの略奪」と共に、「ジャック・ルイ・ダヴィッド(ナポレオンの戴冠式の絵が有名ですね)が描いた「サビニの女たち」」の絵を紹介してくれている。
 アリストファネスの喜劇『女の平和』では、「アテネとスパルタとの間の戦争に明け暮れる男性達に対して戦争を止めさせようと女性達はセックス・ストライキを行い、最終的に戦争を終わらせる。その間にも男性恋しさに脱走する女性も現れ、双方の男性も我慢しきれず、不承不承ながらも和平に合意し、女性達の目的は達成されたのだった」というものだが、男たちの諍いの間に割って入って仲裁するよりは、アリストファネスの喜劇のほうがリアリティを感じる!

武蔵野航海記 - USAから父祖の・・・」というサイト(サイト主はジョージだとか)の中の、「サビニ族の女達の略奪」なる頁を覗いて興味深い記述を見つけたので、余談ついでに書いておくと、「アメリカでは、花婿が花嫁を抱き上げて新居の敷居をまたぐ習慣がありますが、これはこの事件以来ローマの習慣になっていたものが伝わったのです」という。
 本当なら、そうだったのか! ということになるが、典拠が見つからないので、今のところ真偽のほどは保留である。

 話は元に戻るが、ロシア文学関係の案内や評論を読んで刺激されたわけでもなかろうが、久しぶりにトルストイの『戦争と平和』か『アンナ・カレーニナ』のどちらかを読もうかと思い始めている。
 例年、年末年始は、マンの『魔の山』、マルケスの『百年の孤独』など、大作に挑戦することにしているのだ。
 トルストイも少しは若い頃から読んできたとはいえ、基本的にドストエフスキーに傾倒してきた小生がトルストイ作品を読み直したくなるというのは、年のせいなのか、それとも、少しは読書もだが、書くこと、表現することに自覚的になってきたからなのだろうか。
 後者だと思いたいが、ま、それはともかく、本物に触れたいという気持ちが一層、強まっていることだけは間違いない。

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コメント

ドストエフスキー、最低 3回だって、すげ~。
あたしは「カラマーゾフ」「罪と罰」「貧しき人々」「賭博者」「永遠の夫」
そして「死の家の記録」くらい。
カラマーゾフの3兄弟(正確には4兄弟というべきか。)、なんで、あんなに
正確が違うのか。オヤジは、あんなに支離滅裂なのに、あんな純真な三男が
生まれるわけねーじゃん。
「死の家の記録」のラストのセリフは、あたしの「日記シリーズ」の浅草当日のラストでも使いますので、乞うご期待です。
貴殿の読書量に、圧倒されております。これじゃ、何を言っても、書生扱いだな。。

サビニを読むなら、ぜひ『ローマ人の物語』の方もやっちゃってください。
(最新刊12/28に発売。待ちきれない~。)

投稿: ジョーンズ博士。 | 2005/12/15 17:08

来訪、ありがとう。
カラマーゾフの父は混沌そのものであり、矛盾に満ちている(と息子たちには見える)からこそ、父を反面教師としてそれぞれに独自な個性を持つ子供が生まれ育ったということなのでしょう。
島崎藤村の「夜明け前」も、父の存在が藤村に重く圧し掛かっている。その重石から逃げようとしても逃げられず、生涯をかけて担い、探求するしかなかったのでしょうね。

『ローマ人の物語』は、いつか読みたいですね。今は白鳥などに掛かりっきりです。

ジョーンズ博士、掌編の『銀箭(ぎんぜん)』の感想ありがとう。
ただ、全く違う読みが可能だと思うのだけど、ちょっと仕掛けが弱かったかな。他の人の感想も欲しいな。作者が内幕を晒すわけにもいかないし。


投稿: やいっち | 2005/12/16 08:28

父に比べて子供は赤ん坊から始まるしかない。赤子が無垢かどうかは別にして、幼い心が若い批判的な精神となり、個性に従ってドミトリーやイワンやアリョーシャなどのように際立ち光る。
が、そうした若者たちが沸騰する疾風怒濤の若き日を乗り切ったとして、彼らが<成熟>し、老成したなら、一体、どんな中年や大人になることか。
もしかしてフョードル以上に(子供たちには)不可解な大人に成り果ててしまうかもしれない。
そもそも、今は父のフョードルだって、若い頃はどんな清新で鮮烈な精神と批判力を持った若者だったかしれないのだ。

投稿: やいっち | 2005/12/16 19:29

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