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2005/12/23

読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー:承前)

読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)」と銘打っておきながら、前稿では肝心の(?)シェイクスピア・ミステリーに全く触れることが出来なかった。
 扱った小山慶太著の『消像画の中の科学者』(文春新書)が、物足りなさを覚えつつも、興味深いエピソードに満ちていて、なのに一つも紹介しないのも味気ないと、つい書き連ねているうちに紙面が足りなくなった(お腹も空いたし)のである。
 そうそう、前回、ネット検索していて残念だったのは、ラザフォードのレリーフのエピソードを扱いながらも、目当てのレリーフ画像を(ワニの画像共々)見つけられなかったこと。もっと時間をかけて探せば見つかると思うのだが。

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← 路肩に吹き寄せられた落ち葉。タイヤに踏まれ、次第に粉々に砕けていく。やがては粉塵に帰してしまうのか。

 『消像画の中の科学者』は読み止しで、他にも興味深い逸話があるのだが、後日、時間があったらまた採り上げてみるかもしれない。
 他の本に移る前にちょっとだけ。「ホジキンの捻れた手」という章がある。ホジキンとは、画家のハワード・ホジキンではなく、「X線回析法による生体物質の分子構造の研究」でノーベル化学賞を受けたドロシー・ホジキンのこと。
 彼女の肖像画は、一九八五年にマリー・ハンブリングが描いてる。元の絵は油絵なのか水彩画なのか、分からないが、章の表紙に載っている画は白黒で必ずしも鮮明とは言えない(ネット検索では、これまた目当ての画像が見つからない)。
 それでも、どこかフランシス・ベーコン(哲学者のベーコンではなく、彼の末裔でもある芸術家のベーコン)風な独特の画調が漂っている。それ以上に、まさに本章で小山氏が話題に採り上げているのだが、というか、指摘されなければ、小生の節穴だと間違いなく見過ごしたに違いないのだが、彼女の手元にこそこの肖像画の眼目がある。

 実は、この肖像画には腕が四本描かれているのだ。それは彼女の精力的な活躍ぶりを示唆するものであると同時に、それ以上に、ホジキンが若き日から苦しんできた病気を暗示しているのだ。
「ホジキンは二十代の半ば、突然、激しい痛みを伴う慢性関節リューマチという難病に襲われ、指が絵にあるとおり曲がってしまっていたのである。」「しかし、若いとき、病気が進行していても、彼女は研究を中断せず、その筆跡が乱れることすらなかったという。」
(一応は健康なのに、ゆっくり書いても金釘流の字しか書かない小生には耳の痛い話だ。)

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→ バックミラーに映る背後の空は真っ暗だけれど、それでも夜が次第に明けていく。そろそろ仕事も終わりだ…。
 
「(前略)捻れた手からは晩年のルノワールの姿が重なってくる。やはり、リューマチに冒されて曲がった指を包帯でしばった巨匠の写真が残されているが、それでもルノワールは絵筆を親指と人差指の間に挟んで制作活動をつづけていた。リューマチが悪化し、車椅子生活を余儀なくされたときですら、「私は歩けるようになるよりも、絵が描きたい」と語ったというのであるから、創作にかける巨匠の意気込みを感じる。」といった派生した逸話も本書は教えてくれる。

 ホジキンの手については、ヘンリー・ムーアもスケッチしていて王立協会に飾られているとか。

 さて、やっと表題の「シェイクスピア・ミステリー」に取り掛かれる。
 ジョーゼフ・ソブラン著の『シェイクスピア・ミステリー』(小田島恒志 /小田島則子訳、朝日新聞社)である。5年前の本。
 小田島則子氏は分からないが、小田島恒志の父はシェイクスピアを全訳された小田島雄志氏である。小生は、小田島雄志氏の著書である『駄ジャレの流儀』(講談社)を読んで(引き合いに出して…というか、出汁に使って)感想を綴ったこともある

 時間がないので手短に。本書は「『ハムレット』の真の作者は誰だったのか?文学史上最大の謎に斬新な視点から挑む知的興奮に満たち歴史ノンフィクション。 」というもの。
 ジョーゼフ・ソブラン著の『シェイクスピア・ミステリー』を本日読了したので感想を書こうと思ったけど、まあ、そういう話もあるかなということで、読了感が今ひとつ物足りない。

 ネット検索すると、小生より遥かに的確に本書を評しているサイトが見つかったので、そちらを紹介しておく。
wad's Book Review 読書メモ」の中の、「シェイクスピア・ミステリー」である。
 まず、「なお、シェイクスピア作者問題について簡単な紹介をしておく。いまシェイクスピアの作品として知られている数々の戯曲や詩が、ほんとうにストラットフォード=アポン=エイヴォンで生まれて死んだ、われわれがよく目にする肖像画に描かれているウィリアム・シェイクスピアの手によって書かれたものなのかどうか、という点についての論争が存在する。」以下の一文を読んで、何が問題なのかを理解しておきたい。
 本書を訳しておられる小田島恒志 (小田島則子)氏も、「ストラットフォード派」だが、まあ、中立派にスタンスを置いているみたい。
 その彼らが「あとがき」で言うには、本書で力説されている「オックスフォード派」、つまり、第一七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(1550~1604)こそがウィリアム・シェイクスピアなのでありシェイクスピア作品の作者なのだという説明に、あわや説得されそうになったとか。
 ただ、紹介したサイトにあるように、「本書を読んでオックスフォード派の意見に傾いた人のために注意を1つ。ストラットフォードのウィリアム・シェイクスピアについての記録がほとんど残っておらず、エドワード・ド・ヴィアについての記録がたくさん残っていること自体から、マッチングのバイアスが生じていることを忘れてはならない。本書では、ド・ヴィアがシェイクスピアを書いたという説を補強する証拠をたくさん列挙しているが、記録がたくさん残っているからこそ、それらしい証拠をたくさん選び出せるのである。」ということで、最後は、やはり誰が本当にシェイクスピア作品の作者なのかは、依然として不明なままなのである。

 シェイクスピア・ミステリーというには、本書は歯がゆい。まあ、当然ながら作品に魅了されればそれでいいのだけれど、つい、俗物根性を出して、作品より作者の人物像に関心を持ってしまう。仕方がない?

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